五月八日(金)。
本日は碇シンジの歩行訓練日である。
碇シンジはこの訓練を開始するにあたって、作戦部の葛城ミサト、技術部の赤木リツコに一つお願いをしていた。
それは、起動後すぐに歩行訓練に入るのではなく、しばらく放置しておいてほしいというものだった。
二人はそれを追及しようとはしなかった。シンジの過去の成績をもってすれば、その場で起動し続けること自体になにも問題はないと判断したからだ。二人としては理由を尋ねたいところではあったが、シンジの考えを尊重してくれた。
もちろん、シンジがその時間でやりたかったことはたった一つだ。
美坂シオリと、ゆっくり話をしてみたかったのだ。
第佰参拾弐話
夢、未来、あなたとわたし
『エヴァンゲリオン初号機、起動!』
シンクロ率が表示される。六九.〇九一%。またしても数値を上げてきたエヴァンゲリオン初号機パイロット。まさにエヴァに乗るために生まれてきた子供、というべきだろうか。
『どう、シンジくん。調子の方は』
「いつも通りです」
『そう。じゃあ、こちらでもしばらく作業するから、五分くらいしたら歩行訓練を開始してもらえるかしら』
「分かりました」
そうして通信が切れる。さすがに五分以上も時間をもらうわけにはいかないのは分かっている。歩行訓練やプラグ差込練習も大事なことだ。
ただ、今の自分にはもっと大事なことがある。それをおろそかにするわけにはいかない。
(シオリさん)
目を閉じて、相手のことを思う。
すると、自分の意識がどこか遠くへ──眠って、夢を見るように──いざなわれていくのを感じる。これは前のときと同じ。美坂シオリに初めて会った、最初の起動実験のときと。
「こんにちは、シンジさん」
気づくと目の前に、笑顔のシオリがいた。
「やっと会えた。よかった」
シンジはほっとしたように言う。
「よかった?」
「シオリさんに会いたかったんだ。いろいろと話をしたかった」
「私もですよ。少なくとも今の私には、シンジさんしかいませんから」
にこにこと笑っている少女。ただ、その彼女にはどうしても聞いておきたいことがあった。
「僕のことを恨んでいないって言ったけど」
「ええ。もちろん、何も思わないことはないですけど、でも私、ここにいる限りだいたいのことは分かってます。お父さんもお母さんも苦しんでいたのを知っていますし、ネルフの人たちがどうして私を生贄にしたのかも。世界を救うために捧げられた少女。ちょっとかっこいいですよね」
「でも僕は」
慎重に言葉を選ぶ。
「生きているシオリさんに会ってみたかった」
「わ」
シオリは顔を赤らめた。
「そんなことを言ってくれるなんて嬉しいです。待っていた甲斐がありました」
「シオリさんと会ってから、ずっと思っていたんだ。僕はシオリさんのために何かをしてあげたいんだって。もし可能なら、このエヴァンゲリオンからまた元に戻れるようにしてあげたいけど」
「んー」
シオリは腕を組んで首をかしげる。
「それは難しいんじゃないでしょうか。もちろん、そうしてくだされば嬉しいです。お姉ちゃんにも会えますし」
「美坂さんにはいろいろ言われたよ」
「お姉ちゃんとどんな話をされたんですか?」
「いろいろ。最後は、エヴァンゲリオンに乗りたくないと思っていた僕を殴って、目を覚まさせてくれたよ」
「お姉ちゃん、私のために怒ってくれたんですよね」
「うん」
「嬉しいです。私、お姉ちゃんが大好きですから」
「分かるよ。美坂さん、シオリさんのことをすごくよく思っていたから。美坂さんが適格者になったのはシオリさんのためだって言ってた」
「はい。何度か私、お姉ちゃんの近くまで行ったんです。でも、やっぱり初号機に乗ってもらわないと、なかなか声が届かないんですよね」
「美坂さんのシンクロ率が高かったのは」
「はい。お姉ちゃん自身の問題じゃなくて、私の方の問題です。私がお姉ちゃんと話したかったから、お姉ちゃんのシンクロ率が勝手に上がっちゃいました」
「やっぱりそうだったんだ」
「お姉ちゃんも気づいていたみたいなんですけどね。でも、話ができないとどうにもなりませんでした」
残念そうにうつむいてため息をつく。表情がころころと変わる子だった。
「それに、話を聞いたんだけど、佐々くんのこと」
すると、シオリは顔をゆがめた。
「ユキオさんが何をしていたのかは、知っています」
「そうなんだ」
「私、ユキオさんにそんなことしてほしくなかったです。でも、届かなかった。何回伝えようとしても届かなかった」
「佐々くんは──」
「もういません。ネルフの方に」
やはり。隠されていたことではあるが、佐々は殺されていたのだ。
「でも、仕方ないですね。ユキオさんはそれだけのことをしましたから」
「シオリさんは、佐々くんのことが」
「好きでした」
てへ、と小さく舌を出す。
「もう会えないんですね。本当に」
「シオリさんなら、もっと素敵な人が見つかると思うよ」
「そうですか?」
「うん。シオリさん可愛いし、シオリさんのことを好きになってくれる人はたくさんいると思う」
「それなら」
つつ、とシオリが近づいてきて、シンジの手を取る。
「シンジさんは私のこと、好きですか?」
「うん。一緒にいると落ち着くよ」
「それなら!」
「ごめん」
「そんなふうに謝るなら言わないでください」
うー、とシオリがうなる。
「僕、最近まで好きな人がいたんだ」
「知ってます」
「でも、もう会えない。今はまだ、僕自身がどうすればいいのか分からないけど、まずはその子のためにがんばろうって思うんだ」
「分かってます。私はずっとこの初号機から、シンジさんを見てきたんですから」
「それに、シオリさんと恋愛するんだったら、その前にシオリさんをこの初号機から元に戻してあげないといけないから」
「ですから、それは──」
「できないと思う?」
シオリはうーんと考える。
「分かりません」
「僕も分からない。でも、ここにシオリさんはいる」
シンジはシオリの手を取る。
「ここにいるんだから、元に戻ることだって不可能じゃないと思うんだ」
「……」
シオリはじっとシンジの目を見つめる。
シンジは嘘を言っていない。そんなことは分かっている。嘘をつけない人だというのはずっと見てきて分かっていることだ。
「ユキオさんの前に、シンジさんに会っていたら、私、どっちを好きになっていたんでしょう」
「僕が、少しでもちゃんとしているように見えるんだったら、それはつい最近のことだよ。少なくとも三ヶ月前までの僕は、何のとりえもない人間だった。シンクロ率以外で僕を見てくれる人なんてほとんどいなかったから」
「でも」
シオリが下から睨み上げる。
「お姉ちゃんは、シンジさんのこと、好きだったでしょう?」
「あれは冗談だと思うけど」
「お姉ちゃんは、言葉通りのことしか言わない人です」
少しツンとむくれる。
「私、いつシンジさんに出会っても、きっとシンジさんのことが好きになれたと思います」
「それなら僕の方だって、少しでも早くシオリさんに会いたかった。もし会えていたら、シオリさんじゃなくて僕の方が初号機に」
「それは駄目です」
シオリは笑顔で拒絶した。
「私は体が弱かったので、もしかしたらここでしか生きられなかったかもしれません。というより、この歳まで生きられないのは分かっていることでした。ご存知ですよね、セカンドインパクト症候群。私はけっこう、末期症状まで近づいていたんです。だから、これでよかったんですよ。私は肉体はなくても精神はこうして生きて、そしてシンジさんに会えているんですから」
「でも、他の誰もシオリさんのことは分かってくれない」
「そんなことはないですよ? 私の存在に気づいてくれている人はいますし、それに今、シンジさんは夢を見せてくれました」
「夢?」
「はい。いつかシンジさんが白馬に乗って、私をここから助けてくれる。そんな夢です」
「白馬はないと思うよ」
「そんなこと言う人、嫌いです」
シオリは人差し指を口にあてながら笑顔で言う。
「私はここから出る方法なんて分からないし、あるとも思いません。でも、シンジさんがおっしゃるから、夢を見て待っていようと思います。でも、使徒戦が終わってからにしてくださいね。そうじゃないと今度はシンジさんが取り込まれてしまうかもしれませんから」
もう二度とエヴァンゲリオンに乗らなくてもいい。そんな時代が来たら、シオリをここから救出する。
「分かった」
「はい。じゃあ、そろそろ時間ですので、今日はこの辺りにしておきましょうか」
「もう?」
「はい。大丈夫です。来週もまた会えますよ。それに、今日は私がシンジさんをサポートするんですから。任せてください」
むん、と両手を握ってみせる。なんとも頼りない。
「それではまた。シンジさん、浮気しないでくださいね」
そうして、意識がまたブラックアウトしていった。
目を開けたときには、エヴァンゲリオンのエントリープラグの中だった。どうやらほぼ五分が経過したところだったらしい。
『シンジくん? もういいかしら?』
リツコから声がかかる。大丈夫です、と答えた。
それから歩行訓練が始まった。最初からシンジは一分とかからずに最初の八歩をクリアし、十五秒で三極プラグを交換。そして最後は三十秒で八歩を歩いた。
これがシンクロ率約七〇%の実力者の動きだった。
その日の夜のことだった。
一日の公務を終えて、首相官邸で休んでいた御剣レイジは、何かいつもと違う気配を感じた。この官邸の中に、SP以外に別の人間が紛れ込んでいる。そんな感じがあった。
レイジが今まで自分の身を守り続けていられたのは、自らの危機管理能力が高いためだ。その危機管理の仕方のほとんどは野坂コウキから学んだものにすぎなかったが、暗殺から身を守るという点においては非常に有効な知識ばかりだった。
その知識が、現状が危険だということを知らせていた。
ただちにSPを呼ぶ。首相官邸内外を完全捜索させる。それでもこの気配は立ち去らない。
部屋にこもっているべきか、それとも別の場所に移動するべきか。
相手がもしも一人だけならば、それは完全にフィフティフィフティだ。こちらに攻撃を仕掛けてこようというのなら動いて撹乱した方がいい。だが、こちらが動くのを待っているのならば逆に動かない方がいい。
レイジは動いた。わざわざ首相官邸に殴り込みをかけるような相手だ。じっとしていたらいずれ逃げ道を失う。今のうちにさっさと動いてしまうのがいい。
SPに周りを護衛させながら、レイジは駐車場へと急いだ。
そのときだ。
「首相!」
SPの一人がレイジをかばう。そのSPの背に銃弾。一発ではない。二発、三発、四発。それで止まった。
「捕らえろ!」
レイジが指示を出す。そして自分をかばった男を見た。
「すぐに医者を呼ぶ。それまで持ちこたえろ」
SPはサングラスをかけたまま微笑む。だが、やがて血を吐いた。内臓をどこか損傷していた。
「首相をお守りできて、良かった。ここは危険です。早く」
それだけ言い残すと、SPは力尽きた。レイジは顔をしかめたが、この場は別の人間に任せ、自分は避難を続ける。自分がこの場に居続ける限り、被害は拡大する可能性が高い。
「まさか日本の首相官邸が襲われるとはな」
レイジは公用車に乗る。左右をガードマンが固める。
その窓がひび割れた。銃だ。防弾ガラスだったから止められたものの、もう少し車に乗り込むのが遅ければ撃たれていたかもしれない。
「何としてでも捕らえろ」
おそらく、いや間違いない。
自分を狙ってきたのは死徒、フィー・ベルドリンテ。
(ネルフではなく私を狙ってきたか。まあ、間違いではない)
かつてはネルフを支援した前ロシア大統領すら暗殺した人物だ。現在の国際情勢でもっともネルフに肩入れしている首脳は自分を置いて他にいまい。
車はすぐに発進する。
そして、レイジは見た。遠くに立つ女性の姿を。修道服を着て、二挺の拳銃を持った赤い目をした女性を。
(あれが、フィー・ベルドリンテか)
遠かったが、その顔はレイジの脳裏に焼きついた。
今後、彼をおびやかす存在になる。そう感じられた。
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