オーストラリア大震災──実際にはニュージーランドで起きたものだが、被害が大きかったオーストラリアの名前を使って速報が各国で発信された。
 ニューカッスル、シドニー、そして首都でありネルフ第九支部のあるキャンベラ。このあたりは大津波によって多くの死者が出たということだった。現状で分かっているだけで三千人。だが、行方不明者はその十倍以上の四万人、被災者は二十万人以上にも及ぶとのことだった。
 日本政府はただちに救援物資と人材の派遣を決定。災害救助隊として物資を積み込んだ旅客機が飛び立った。
 今年は使徒が現れる年。それを前にして世界中が一気に緊張を高めた。
 もっとも、事件はまだ続く。オーストラリアのランクA適格者は助かった。だが、こちらはどうだろうか。
 場所はドイツ。ネルフ第三支部──












第佰参拾肆話



雲、彼方、はるかに遠く












 五月十日(日)。

 惣流・アスカ・ラングレーはいつものように朝五時半に起床した。朝に弱いイメージのある彼女だが、実際にはきちんとした生活リズムが整えられている。
 日本から歩行訓練結果が届いたのが昨日のこと。それを利用して十一日の月曜日から歩行訓練をこちらでも開始する。ネルフの判断によって最初にエヴァを動かすのはサードチルドレンに譲ったが(正確にはその前に一人いるが、アスカの眼中には入っていない)、どれだけうまく動かせるかで負けるつもりは全くない。
 朝起きたらまずシャワー。湯に打たれて自分の体を目覚めさせていく。同時にここは精神統一の場だ。上から降り続ける湯に最低十分は打たれている。そして気合が入ったところで準備開始。
 いつもなら六時半には自分の部屋にアルトがやってくる。それまでに全部の支度を済ませておくのが彼女の流儀だ。
 だが。
(遅いわね)
 その日は六時三五分になってもアルトが来ない。彼女が遅刻することからして珍しいのだが、五分以上遅刻することなどまずありえない。
(何かあったのかしらね)
 アスカは内線をアルトの部屋にかける。誰も出ない。
(部屋にいないなら、こっちに向かってるのかしら)
 念のため携帯を使って連絡を取ってみる。だが、それすら反応がない。
 昨夜、アルトと別れたのが午後八時。夕食をとってからそれぞれ部屋に戻った。今日も朝から自分の部屋に来るという話をしていた。日曜日だからといって時間を変えるような子ではない。
「もしもし、ミュラー長官?」
 アスカはただちにミュラーに連絡を取った。こういうときの彼女の勘はよく当たる。
「ええ、そう。すぐに調べて。アルトがどこにいるのか」
 内線を切ってから、アスカは改めて服を着替えなおした。外出もできるようなネルフの制服だ。もしかしたら内部だけの話ではなくなるかもしれない。
 着替え終わったところで連絡が来た。
「もしもし?」
『ビンゴだ、アスカ。アルトがロストした』
「ロスト?」
『そうだ。携帯電話は部屋に置きっぱなしで、館内のどこにも彼女の姿はない。ネルフから外に出ていると考えた方がいい』
「そう、やっぱりね。ハンブルク市内ですむと思う?」
『分からない。アスカが最後に出会ったのは?』
「昨日の夜八時」
『もう十時間以上過ぎている。その気になればとっくに国外どころか、ヨーロッパすら出ている可能性がある』
「足取りを追って。早く」
『もう始めている。何か分かり次第連絡を送る』
「ええ。私の方でも動いてみるわ」
『ヤー』
 通信が切れて、彼女はただちに部屋を出る。
「ああ、これはおはようございます、フロイラインアスカ」
 と、そこに現れたのはオーストリア出身のランクA適格者、クラインであった。
「クライン。早いわね」
「いえ、僕はいつもこの時間ですよ。それより、どうしたのですか。急いでいるみたいですが」
「アルトが行方不明なのよ。今、ミュラー長官に連絡して探してもらってる」
「アルトが?」
 クラインが顔をしかめた。
「緊急事態なのですね?」
「そうよ!」
 いらいらしてアスカが怒鳴りつける。だがクラインは「分かりました」と笑顔で応えてから携帯を使った。
「ああ、僕だ。今すぐ動かせるだけの人間を動かしてくれ。人探しだ。ランクA適格者の紀瀬木アルト。そう、顔写真はあるな? 何人動かせる? それでいい、僕もフロイラインアスカと一緒に行動する。それが一番情報が集中しそうだからな。連絡は携帯にくれ。まずはハンブルク市内。徹底的にやってくれ」
 クラインが通話を切る。それを見ていたアスカがため息をついた。
「そういえばあんた、いいとこのお坊ちゃんだったわね」
「家の力というのはこういうときに限って使うものです。自分で解決できるものは自分でする。ただ、人の命がかかっているときは手段を選んでいられませんから」
「そうね。アルトと会ってから、あの子が何の連絡もなく姿を消すなんてことは一度もなかった。何か事件に巻き込まれたとかでなければいいけど」
「ヴィリーとメッツァにも連絡を取りましょう。アルトとは仲がいい。何か分かることがあるかもしれません」
 クラインは意外に協力的だった。普段、自分には近づいてくるものの、アルトやヴィリーたちとはあまり反りが合わないような感じだったのだが。
「意外ね。あんたがそんな風にアルトのために動いてくれるなんて」
「フロイライン。僕は好き嫌いと、人間としての尊厳を違えたりはしません」
「そうね。見直したわ」
 そしてアスカはすぐにヴィリーの携帯に連絡を入れる。メッツァにはクラインから電話をかけた。二人とも朝のサッカー練習をしていたらしく、すぐに駆けつけると連絡が帰ってきた。
「それで、フロイラインはどこへ行くつもりだったのですか?」
「アルトの部屋よ。それ以外何かある?」
「いいえ。捜査の基本ですね。現場百回というやつですね」
「あんた、探偵小説なんて読むの?」
「エドガーとコナンは読みましたよ。それらをもじった日本のアニメーションも見ました」
「……意外に“オタク”だったのね」
「面白いものには興味があるのです」
 アスカはヴィリーにアルトの部屋にいると伝えておいた。メッツァも一緒にいるのなら二人ともそこにやってくるだろう。
 先に到着していたのはミュラー長官であった。
「長官!」
「アスカにクラインか。やはりここに来たか」
「状況は?」
「見ての通りだ。別に何もあらされた様子はない」
 アスカはすぐに中に入って検分する。確かに何もおかしなところはない。クローゼットを見ると、ネルフの制服だけがない。外に出ていったのは間違いないだろう。それも、自分の意思で。
「さすがに暖炉とかがあるわけではないですね」
「不謹慎よ、クライン。オランウータンがいるわけでもあるまいし」
 それを聞いてクラインが笑顔になった。
「フロイラインも読んでいらっしゃるのですね」
「一般常識でしょ、そんなの!」
 むっとして怒鳴りつける。失礼しました、とクラインは優雅に一礼する。
「監視カメラには映ってなかったの?」
「今、MAGIに該当情報を上げさせているところだ。そろそろ連絡が来る」
 と言っている間に、先にヴィリーとメッツァが到着した。
「お前たちも来たか」
「長官」
「アルトは見つかったんですか」
 心配そうな二人の顔。長官が首を振ると、それが落胆に変わる。
「どうやら外に出ていったようだ。誰かこの中に心当たりがある者はいないか?」
「いたらとっくに名乗り出てるわよ」
「それもそうだな。それなら、昨夜はアスカ、君が夜八時に会ったのだったな」
「ええ」
「それ以後、アルトと会話をしたり、顔を見た者は」
 やはり手が上がらない。ヴィリーやメッツァも全く連絡は取り合っていなかったようだ。
「ふむ。それではMAGIの検索結果待ちだな」
 と、そこへミュラーの携帯が震えた。
「こちら、ミュラー。……了解。そうしてくれ」
 連絡を聞いて、ミュラーが顔をしかめる。
「やはり自分から出ていったようだ。時間は昨夜十時半ごろ。正確には十時二七分だ」
「その時間じゃ、適格者は外に出られないじゃない」
「ああ。正面玄関は当然完全封鎖されている。映っていたのは職員用通用口の監視カメラだ。最悪MAGIが動かない場合の緊急用カメラが設置されている。そこにアルトの姿があった」
 その言葉が、四人の体を震わせた。
「ちょっと待って。MAGIが動かない場合って言った?」
「そうだ。つまり、MAGIには記録が残っていなかった。MAGIとは全く関係のないカメラだったからこそ記録に残っていたということになる」
「その時間、MAGIは動いていなかったということか?」
 ヴィリーが尋ねる。だがミュラーは首を振った。
「いや、MAGIは動いていた。つまり、MAGIがアルトを認識できなかったということだ」
 全員の口が閉ざされる。その意味するところはつまり、
「MAGIが細工されたということか」
 クラインが結論を出した。
「その可能性が高い。技術部も気づいたらしい。MAGIの全検索と、外部アクセスを調べてみるということだった」
「誰がアルトを」
 メッツァの握った手が震える。
「まだ危害を加えられたというわけではない。それに、アルトは自分から出ていったのだぞ」
「呼び出されたか何かされたということね。MAGIを止めておくから職員用玄関から出てこいと」
 だとしたら昨夜、ネルフに近づいてきた車を調べればいい。真夜中に女の子を連れて歩けばいくらなんでも警察が黙っていない。車で移動したに違いない。
「ハンブルクから外に出るのは難しいだろうな。すべての道路には警備がいる。抜け出せるルートはないぞ」
「人間の造ったものに完全なんてないわよ。どのみち朝になればアルトがいなくなってることはすぐに気づかれる。もしアルトをハンブルクの外に連れ出すなら、昨夜のうちの方が確実ね。相手はMAGIすら止められるのよ。脱出ルートがあるとみた方がいいわね」
「全ルートを確認させる。出市記録が残っているはずだ」
「それと昨夜のネルフ近辺の車情報ね」
 ただちに全ネルフが動き始めた。いや、全ハンブルクというべきか。
「それにしてもアルト、何も言わずに勝手なことして。見つけたら袋叩きにしてやるんだから!」
「厳罰は避けられないな」
 ヴィリーが言う。ミュラーも頷く。
「まあ、数日の謹慎処分というところかな。さすがにランクA適格者資格を簡単に剥奪するわけにもいかないし、事情を聞いてみないことには何とも言えないが」
「おそらく、それほど時間がかかるとは思っていなかったのだろう。制服以外の持ち物がない。それこそ携帯すら置いていっているということは、単に出入り口までしか行くつもりがなかったのかもしれない」
 メッツァが言う。ということは、つまり。
「……拉致された、っていうこと?」
「そう考えるのがいいだろう。アルトは馬鹿ではない。この時間になっても帰らないなら最悪連絡の一つくらいは入れるはずだ。それすらないということは、連絡の取りようがないということだ」
「ここから逃げるとしたら貴重品の一つや二つ持っていくだろうしね。事件だよ、これは」
 クラインがメッツァの意見を支持する。
「それなら容赦なく犯人をぶちのめす!」
 アスカが宣言した。
「アタシの仲間を勝手に拉致するなんて、いい度胸じゃないのよ!」
「断って拉致する奴はいないな」
「黙ってなさい、ヴィリー! 本気で怒ってるんだからね!」
「分かっている。仲間のことを大切に思うお前だから、俺たちはお前についていくと決めた」
 ヴィリーの冷静な声に、逆にアスカは顔を赤らめる。
「こ、こんなときに何を言っているのよ!」
「これが日本でいうところの“ツンデレ”という奴ですね、フロイライン」
「このオタクがあああああっ!」
 ぜはー、とアスカが息をつく。
「とにかくまずは情報よ。長官、そっちはお願いするわ」
「ヤー。というより、お前たちは明日に備えて休んでいろ。明日から歩行訓練が始まるんだぞ」
「何言ってるのよ。アルトが見つからなかったらそんなの延期よ延期。今からネルフドイツ支部は第一種戦闘配備よ。敵はアルトを拉致した奴!」
「その意見には同意する」
「賛成だ」
「フロイラインのおおせなら」
 ヴィリー、メッツァ、クラインと次々に賛成する。
「まったく、お前たちは本当に私の言うことなど聞きはしないな」
 やれやれ、とミュラーが手を上げる。
「まあいい。いずれにしても情報が分かるまでには時間がかかる。お前たちは先に腹ごしらえでもしておけ。いざというときにエネルギー不足では動けなくなるぞ」
 言われて、考えてみれば朝食がまだだったことに気がついた。
「今何時?」
「七時半になる。確かに食事が必要だな。今日は長くなるかもしれない」
「今日ですめばいいけどね」
 クラインが不必要な一言を言う。だから彼は他のメンバーに嫌われるわけだが。
「おい、クライン──」
 と、そのクラインの携帯電話に連絡が来る。
「もしもし、どうした──分かった」
 通話を切ったクラインが困った顔をして言った。
「どうしたの、クライン」
 アスカが尋ねる。
「アルトの足取りが確認できた」
「どこよ!?」
「アウトバーン料金所」
 アウトバーン=自動車高速道路。
「どこの!?」
「ルクセンブルクへ向かう料金所らしい。運転していたのは男だが夜なのにサングラスをかけていて顔認識は不可能。助手席に寝ている──寝かされていると言った方がいいのかもしれないけど、アルトの姿がカメラにかすかに映っていたそうだ」






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