五月十一日(月)。

 何の成果もなく捜索隊が引き上げてくる。アスカたちは一足先に引き上げてきている。もはやアルトは国外に連れ去られているだろうという報告が加持リョウジの下に届いた。
(さて、本当に逃げられるものかね)
 自分の目で確かめないことは信じない性質である加持にとって、その報告は疑問符だらけだった。ネルフ諜報部の実力を過小評価するつもりはないが、それでも自分ほどの力を持っているかというとそういうわけでもない。
(実際に自分で行ってみるしかないな)
 加持はメールで、明日の予定についてキャンセルの連絡を入れることにした。












第佰参拾陸話



命、心、変わらぬままに












 五月十二日(火)。

 アスカが真希波マリに逃げられてから、二日が過ぎた。
 ドイツの秘密警察がライプリヒの全施設を捜索したが、アルトの姿はおろか桑古木リョウゴ、真希波マリの姿すら見当たらなかった。
 既に国外に逃げているというのが上の考えで、EU各国に既に二人の身柄を押さえるよう打診済みだ。
 だが、既に包囲網がしかれた段階で簡単にドイツから国外へ脱出などできるものだろうか。それに、真希波マリはあの場所からどうやっていなくなったのか。
 そうした疑問を抱えながら現場までやってきたのは、紀瀬木アルト『担当』でもある加持リョウジであった。
「ライプリヒに真希波マリちゃんがいるとはね」
 加持とマリとの間には少なからず因縁がある。真道カスミも含めてこの三人はとある島で使徒に関連する秘宝の争奪戦を繰り広げていた。
 どこの組織に属しているのか分からなかったが、まさか地元のライプリヒ製薬とは。
「俺の情報も、役立たずかね」
 加持はアスカたちがマリに出会ったという部屋までやってきた。あのマリのことだ。とんでもない脱出ルートがあるに違いない。あの島でジェットエンジンで窓から逃げた女の子だ。
 普通に考えるのなら床。そこから地下の隠し通路に抜けるルートがあると考える。だが、その辺りには何かガラスのようなものの残骸だけが大量にちらばっていて、地下へのルートなどはなかったらしい。
 秘密警察が調べてもないのなら、自分が何を探したところで同じだろう。ならば、違う方法を探すしかない。
(ガラス、か)
 マリが立っていたという位置に立つ。その辺りだけが何もなく、奥にまだ数台の手術台。
 地面から逃げられないというのなら、出入口はたった一つ。だが、四人は部屋の中に入ってきてしまった。だから出口を塞ぐものはいなかった。
 なら簡単な話、光が生じた瞬間に逃げられる方法があったのだろう。
(実験室は薄暗い。なら、アスカたちが見たのは『鏡に映った像』だな)
 ガラスのようなもの。細かくてよく分からないが、光が反射するようにできている。巨大な鏡がそこに置かれていたのではないだろうか。
 だから初めからマリはアスカたちの前ではなく、斜め前か、もしかしたらアスカたちのちょうど横くらいにいたのかもしれない。あとは鏡の反射角度だけを考えて、位置取りを決めればいい。
 部屋の中は薄暗かった。それくらいの細工をする余地は十分にある。
 最後は光と同時に鏡を壊すわけなので『マリとアスカの丁度中間くらいの位置』めがけて爆弾を投げればいい。
「とすると、目が眩んでいる間に後ろから逃げたんだろうな」
 ヴィリーでもメッツァでも、部屋の外に一人待機していればよかったのだ。四人いるのだから、全員で入る必要はなかった。後方待機要因はいつでも重要だ。
 まあ、素人にそれを言っても仕方がない。とにかく逃げ道はここではないと判断した加持はそのまま部屋を出る。
 マリが脱出しようとしたらどこから行くか。既に施設はネルフ保安部が捜索している。
(だいたい、彼女はどうしてここにいたんだ?)
 おそらく理由があるはずだ。護衛を近くに置いて、それでもなおこの部屋に来なければいけなかった理由が。
(データの削除か。確か、PCには何も残されていなかったという話だな)
 保安部が触ってみたところ、PCは綺麗に初期化されていたという。そして重要なデータだけはUSBか何かに移動して持ち運んだというところか。
(上に行っても捕まるだけだから、普通は下だな)
 問題は出入口がどこに存在するかということだけだ。
 頭の中でこの施設の地図を立体的に思い浮かべる。自分が歩いて回ったデータと地図を照らし合わせ、距離的に納得のいかない部分。
「ここだな」
 何でもない壁。ここに一メートルほどの空洞がある。壁を強く叩いても他のところと変わりない。だが、おそらくはここに秘密の抜け穴がある。
 電磁波を調べてみるが、それらしい反応はない。中が空洞かどうかすら反応を示さない。
「床も天井も反応なしか。ということは、別のところで稼動させる仕組みだな」
 ここには真希波マリのほか、桑古木リョウゴもいるはずだ。先にリョウゴがアルトを中に入れておき、マリはデータの削除を行う。マリが出てきたところで内側からここを開けたということだろう。
(やむをえないか)
 懐から小型のプラスチック爆弾を取り出しセットする。そして自分は先ほどの実験室に隠れる。
 爆発が起こり、音が鎮まったところでもう一度その場所に行くと、綺麗に穴があいていた。
(ま、相手にも気づかれたかもしれないが仕方ないな)
 ネルフに連絡できない理由は加持の方にある。本来なら人数を動因して一気に制圧するのがベストだ。だが、自分にはそれだけの権限も何もない。
 周りに気をつけながら、加持はゆっくりと通路に入る。途中から下り階段になっている。そこまでは予想済みだ。
 その奥はパスワード式の扉になっていた。おそらくは最後の時間稼ぎ。今ごろ中から別の場所に逃げる算段でもしているのだろうが。
「開かない扉はない、か」
 確かに時間をかければ扉は開く。だがそこに『制限時間内に』という条件が入ると途端に難しくなる。
 正攻法でパスワードを読み取るしかないか、と考えていると突然扉が開いた。
(おやおや)
 どうやらこの招かれざる客を歓迎してくれているらしい。遠慮なく加持は中に入ることにした。
「加持リョウジだな」
 中にいたのは一人の青年と一人の少女。そして手術台らしき場所に寝かされているアルト。
「そうだが、君は桑古木リョウゴかな。それに久しぶりだな、真希波マリさん」
「知り合いか?」
 リョウゴは隣に立つマリに尋ねる。
「島のタブレット探索のときに」
「加持が相手だったのか。ネルフでも随一の腕利きだぞ。お前、よく持って帰ってこられたな」
「運が良かったからね」
 にこり、とマリは笑う。
「ここには君たちだけなのか?」
「まあね。この施設は最初から僕とマリだけで使っていた。他にも職員はいたけど、この場所のことは知られていなかったよ」
 秘密警察が極秘に尋問という名の拷問を行ったが、確かに誰もこの場所のことを知らなかった。よほど厳重に管理していたのだろうが。
「アルトを誘拐した理由は?」
「あなたなら分かっているだろう、加持リョウジ。彼女は生きる奇跡だ。もちろん傷つけてなどいない。彼女の体を検査させてもらっただけだよ」
「彼女の意に沿わぬことなのにか」
「意に沿わない?」
 リョウゴは苦笑した。
「そう思っているのなら本人に聞いてみたらどうだ。彼女は自分の意思でここに来た」
「馬鹿な」
「もうすぐ麻酔が切れるころだ。実際に本人に確かめてみるといい」
「そうしよう。だが、君にはまだ聞きたいことがある。アルトを検査して何をするつもりだ?」
「その答では納得しないと?」
「当然だ。桑古木リョウゴ、君は三年前のビンセンス家の事件にも関わっているな。父母と長女を実験の末に殺害した」
「まあ、結果を見ればそうだな」
「科学者に心が痛まないのかと尋ねるのは無意味だろうが、それだけのことをして何をしようとしているんだ?」
「まず、誤解のないように言っておくが、三年前の被験者にビンセンス家を選んだのは僕じゃない。ライプリヒの上の人間たちが勝手に決めたことでね。僕はあんな資産家の家を狙うようなリスクは侵したくなかった」
「上のせいにして罪を逃れるつもりかい?」
「いいや。ただ、普通に幸せな家庭を自分の一存で壊したなどと勘違いされるのはやめてほしかっただけだ」
「君なら反対することもできたのでは?」
「ビンセンス家の実態は、資産家とはほど遠かった」
 話を逸らしたわけではなさそうだ。ということは、そのときの事情を語るつもりか。
「彼らがライプリヒに接触してきたのは、自分たちの体を実験体として使ってかまわないかわりに、資金を無償援助してほしいということだった。要するに、彼らは自分たち自身の体と、自分たちの娘を我々に高額で売りつけたのだ」
「な」
「娘たちは知らないことだった。だが、父母とは合意の上だった。僕は実際に彼らと話をした。どれだけ危険なのか、死ぬ可能性もあるのにかまわないのか、そういった諸々のことをすべて承知の上で、あの父母はこちらの提案を呑んだ。繰り返して言うが強制なんかはしていない。父母が是非にと言ってきたんだ」
「……なるほど。被験者の身に気を使ってはくれていたということか」
「上はそんなこと少しも考えていないだろうけどね。上が求めているのは実験結果だけ。誰がどうなろうと全くおかまいなしだ」
「OK。そこまでは百歩譲って了承しよう。だが、君がそこまで『人格交代』にこだわるのはどういう理由だ?」
「僕の目的を聞いてどうするつもりだ?」
「どうも。ただ俺は何よりも事実を知りたいだけさ」
「ライプリヒのお偉方は人格交代が可能なら、自分の意識を別の体に移すことによって永遠の命を手に入れようとしている。まあ、ごくありふれた考えだな」
「なるほど。若く、健康な肉体を選んで人格交代を繰り返していけば、確かにいつまでも生きられるだろう。だが、君の目的はそこにないな?」
「ああ。僕は僕の目的で動いている。マリも協力者だ」
「それで?」
「ある人間を助けたい。そのためにはどうしても、人格交代という手段が必要なんだ」
 なるほど、人の命に関わることか。
 加持は納得した。誠実な人間とは言いがたいが、気概を感じるところがあるのは誰かを助けたいという信念が見せるものだということか。
「人格交代ができれば助けられるのか?」
「ああ」
「どうやって?」
「たとえ話をしよう。今、ここに密閉された部屋がある。鍵は外側からついていて、パスワード式だ。入力しなければ扉は開かない。だが、そのパスワードを知っているのは部屋の中にいる人間だ。内部と連絡を取り合うことは一切不可能」
「だが、人格交代ができれば、そのパスワードを知っている人間の意識を外に呼び出すことができるということか?」
「理屈ではそういうことだ」
「だが、人格交代はそんな離れていてもできるものなのか?」
「言っただろう、たとえ話だと。実際問題は似て非なる状態だ。だが、原理はそういうことだ。ある人間の知識がほしい。それがなければその人自身を救えない。そして人格交代をしなければその人間とコンタクトを取ることができない」
「それ以上は守秘義務か」
「義務ではない。だが、情報はどこから漏洩するかは分からない。これ以上は話せない」
「それでお前さんは自分を見逃してくれと言うつもりなのか?」
「頼む。俺はどうなったってかまわない。俺はたった一人を助けるためにたくさんの命を奪ってきた。俺が天国に行けるなどとは思っていない。だが、あと一歩のところまで来た。この実験データを使えば人格交代が可能になる。これ以上誰にも迷惑はかけない」
 たった一人を助けるためだけに、たくさんの命を奪ってきたと自分で口にしたリョウゴ。
 彼を見逃す理由はないが、だからといってアルトを取り返すことができれば無理に捕まえなければならない理由もない。
 ただ、もう少し情報は必要だった。
「いくつか教えてもらえるかな」
「答えられることならば」
「お前さんはいいとして、ライプリヒは何のために人格交代をしようと考えている?」
「さあ。理由はいくらでもあると思う。人格交代が永遠のものだとするなら、若い人間と交代を繰り返していけば、事実上永遠の命を手にすることができる。アメリカの大統領のSPと交代すれば隙を見て暗殺することも可能だ。いくらでもほしがる奴はいるだろうさ」
「あまり、いい使い方はされないようだな」
「だろうな。俺も自分の研究がそんなことのために使われるのはごめんだ。俺は最初から、人を助けるためだけにこの研究を続けてきたんだ。誰にも邪魔はさせない」
「そういうことなら、残念だがお前さんを見逃すわけにはいかないな。もしお前さんがライプリヒに捕まったら、その研究成果は悪用されるということだろう」
「それはできない」
「なぜ?」
「アルトの例を見ても明らかだ。人格交代には、条件がいる」
 条件。確かに考えてみれば、必ず成功するというのなら今までも十分に成功例があるはずだった。
「それは?」
「言えば問題になる。だが、たとえでいいなら説明しよう。ここに一人の患者がいる。腎臓が悪くて、臓器移植をしなければ助からない。では、たまたまそこに通りがかった子供の腎臓を摘出して移植すれば、その患者は助かるか?」
 当然助からない。骨髄や腎臓というのは、ドナーとレシピエントの適合性が合わなければ機能せず、逆に死に至る。
「人格も、適合性が必要ということか?」
 アルトとノアの場合もそうだった。一卵性双生児でなければ人格交代は行われないというのが当時の条件だった。だが、もしそうでないのだとしたら。
「そのようだ。精神的なものだから誰でもいい、というわけではないらしい。それをビンセンス家の二件の例、そしてこのアルトの例でいろいろわかってきた」
「兄弟姉妹でなければならない、ということか?」
「必ずではないが、兄弟のときに適合性が高まるのは間違いない。だが、腎臓や骨髄にしても、まったく無関係な人間から提供を受けられる場合もあるだろう。その人物を探すことができるかどうかが問題だ」
「その条件はもうわかっているのか?」
 リョウゴは答えない。だが、その自信のある表情を見れば明らかだ。
「お前さんが自ら人格交代するというわけではなさそうだ」
「そんな偶然は百万分の一くらいの確率だろうな」
「その百万分の一の相手を見つけるつもりでいるのか?」
「見つけてみせるさ」
「ライプリヒはどうする? 実験結果をもって逃げるのか? ライプリヒから逃げ切ることは難しいと思うぞ?」
 リョウゴはとたんに言葉をなくした。当然だ。あの人の命を何とも思わない企業が、研究結果を持ち逃げする研究者の命など重く見るはずがない。
「ネルフに来ないか?」
 加持の口から出た言葉は、加持自身を驚かせた。
「なに?」
「ネルフも健全とは言いがたい組織だが、少なくともライプリヒよりはマシだろう。お前さんたちは安全と研究場所を手に入れることができる。ネルフはお前さんたちの研究でライプリヒが危険な行動をとるのをとめることができる。お互い、有意義な話だと思うんだが」
 リョウゴは目を閉じて考える。
「申し出はありがたい。だが」
「理由は?」
「私はあと一回、人道的に許されないことをしなければならない。これは私のわがままと言ってもいい。それなのに自分が誰かに協力を求めるなどということは許されないだろう」
「マリちゃんはいいのかい」
「マリとは同盟を結んでいるだけだ。分の悪い同盟なのはわかっているが、それでもマリはマリで別の目的がある」
「そゆこと。だから私のことは気にしなくていいわよ」
 サバサバと答える。ここはあくまで加持とリョウゴの会話だと割り切っているのだろう。
「その、人道的ではないということとは?」
「私は、人を助けるために、見ず知らずの誰か一人を犠牲にしなければいけない」
 なるほど、それはもっともなことだ。今、リョウゴが助けたい人間がいて、人格交代でなければそれを助けることができないとするならば、人格交代の結果、もう一人にはその境遇に甘んじてもらわなければならないということだ。
 そして、見ず知らずの誰かにその境遇に立ってもらうことを、リョウゴはもう既に決めている。
「わかった。邪魔はしない。そのかわり、ライプリヒに捕まるようなドジなことだけはしてくれるなよ」
「ありがたい」
「それでお前さん、これからどうするつもりだ?」
「すぐに移動する。もうこの国にいる必要はない。あとは人格交代にふさわしい人物を探すだけだ」
「どこに行くんだ?」
「足がついてもまずい。とりあえずは言わないでおく」
 このあたりが潮時だろう、と加持もあきらめた。そして二人が出口へ向かっていく。
「アルトさんに感謝の意を伝えておいてくれ」
 そうして桑古木リョウゴと真希波マリの二人が研究所から出ていく。見送ることもせず、加持は奥のアルトのところへやってきた。
「さて、大丈夫ですかお姫様」
 と、まだ気を失っているアルトに近づく。呼吸は安定している。確かに何もなかったように感じられる。
 いったいここで何があったのか。アルトが自分から出ていったというのは事実なのか。
 ひとまず、彼女を連れて帰る必要があった。加持はアルトを抱き上げると、隠し部屋を出ていった。






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