『エヴァンゲリオン捌号機、いきます……ふっ』
 神楽ヤヨイは何故かポーズをとってからエヴァンゲリオンをゆっくりと動かし始める。足を上げて、下げる。逆の足を上げて、下げる。地道に、少しずつ、前に進む。じりじりとした動きが、発令所のメンバーを焦らせる。
『三極プラグ、イジェクト』
 プラグがイジェクトされ、落ちる。瞬間、捌号機が、ぐるん、と反対方向をむいた。
「は?」
 発令所メンバーの目が点になる。そして、捌号機は何故かそのまままっすぐ反対方向に戻ってきた。
 そしてそのままタイムオーバー。
「……何がしたかったのかしら」
 それは誰にも分からない。
 きっとヤヨイに聞いても分からないだろう。












第佰参拾漆話



旗、希望、誓いを胸に












 五月十三日(水)。

 紀瀬木アルトが発見されたという知らせは翌日になってからネルフ本部にも届いた。正直、昨夜はほとんど寝られなかったシンジとエンであったが、ようやく届いた知らせにほっと一安心だった。
 オーストラリア大地震、ドイツの適格者誘拐、日本でも首相が暗殺されかけたということで、世界情勢は非常に緊迫した空気であったが、このネルフ本部内だけはそうした空気とは無縁のところにいた。月曜日から水曜日まで、人を変えて毎日行われる歩行訓練。それを見ていた赤木リツコ女史は一言、
「無様ね」
 とのたまった。実際、ひどいものだった。朱童カズマと碇シンジがどれだけ優秀だったのかがわかる三日間だった。まず挑戦したのは榎木タクヤ。何とか真ん中の三極プラグにたどりついたものの、そこで力尽きて交換にはいたらず終了。続いて館風レミ。一歩目から盛大に転んで、そのまま立ち上がることすらできないまま時間切れ。
 火曜日は野坂コウキがチャレンジしたが、結局三極プラグの交換に手間取って最後までたどりつけず。さらには神楽ヤヨイ。こちらは三極プラグの手前まで来たというのに、そこからなぜか引き返していったという謎の行動を見せた。
 そして水曜日は鈴原トウジ。こちらもなんとか努力したものの、残念ながら三極プラグの交換に失敗。そして八人目。赤井サナエの順番となった。
「わっ、わわわわわっ、動くっ! 傾くっ!」
 大きくぐらりと傾いたが、そこは両サイドにある手すりに捕まってこらえる。最初から倒れたレミの二の舞かと周りはみんな思ったが、そこはサナエの根性が上回った。
「うーごーけーっ!」
 ぐいっ、とバランスを取り戻す玖号機。そのまま手すりを使いながら一歩一歩進んでいく。外からだとリハビリ患者でも見ているかのようだった。
「プラグイジェクト!」
 なんとか三極プラグまでたどりつくと、ボタンを押してプラグをはずす。すると機内に残り三百秒の表示が出る。これが内臓電源。三極プラグをつけなおすことができなければエネルギー切れで動けなくなる。
「よい、しょっ!」
 サナエは不恰好な体勢で必死にプラグを背中のプラグに差し込もうとするが、うまく向きが合わずに差し込めずにいる。
「赤井! 反対や反対!」
 トウジが叫ぶが相手には届いていない。残り一分を切った瞬間、手が妙な方向にねじれて、バランスを崩す。
「ああああああああっ!」
「無様ね」
 顔面から床に激突。完全でないとはいえ、その痛みは直接本人に戻ってくる。涙目になるサナエ。
「ううううう、痛いよう」
 だが、その機内を見てみるとなぜかエネルギーがフルチャージされていた。
「あれ?」
 サナエは何があったかわからないでいる。もちろん、外側から見ていたシンジたちには一目瞭然だった。
 転んだ拍子にうまくはまった。ただそれだけのことだ。
「運も実力のうちですわね」
 ヨシノが苦笑する。だが、運だけでは言い切れない何かをサナエが持っているのは間違いないことだった。ランクAまで順調出世。そして現在本部でもシンジ、レイ、カズマに告ぐ四番目のシンクロ率。サナエなら何かしてくれる、と期待するには十分だった。
「さあ、気合入れなさい、赤井さん!」
 マイクに向かって葛城ミサトが叫ぶ。
「がんばりますぅ!」
 サナエがなんとか手すりを使いながら立ち上がって、そのまま歩行を再開する。そしてコウキがあと一歩で届かなかったゴール地点に無事たどりついた。時間は九分三十八秒。現状でのシンクロ限界と思われる十分まであと少しだった。
「たいしたものだな。よくあそこまで持ちこたえた」
 朱童カズマから褒め言葉が出る。カメラに映ったサナエは満面の笑みでVサインを見せた。






「あー、もー、サナエちゃんすっごいなー。まさかあれを一回でクリアできるなんて」
 女子更衣室で適格者たちがプラグスーツからネルフの制服に着替え直す。
「もー、ボクなんか先輩のプライドズタズタだよー」
「……あったの?」
「ヤヨイちゃんひどっ! ひどすぎるよっ! ガラスのようなボクの心は粉々に砕かれたよっ!」
 そうしてみんなが笑って話をしながら着替える。
「でも、確かにすごいよな。カズマさんも褒めてたし」
 コモモが腕を組んで言う。
「いや、アタシはまだまだです。ネルフに入って日が浅いですし、わからないことも多いですから」
「つまり、私みたいにずっと長くいるだけでは価値がないということですわね」
 ヨシノがからかうように言う。
「もう、そんな意味じゃありません!」
「まあ、それを言うなら私以上に価値のない人間はいませんけどねー、あははー」
 リオナが完全ブルーになって言う。二〇一二年九月組。彼女は最古参のメンバーだ。
「リオナさんは私たちを引っ張ってくれる、頼もしいお姉さんですよ」
 マイがフォローするが、もともとランクAを目指していたメンバーにとってそのなぐさめも悲しいだけだ。
「そして、いよいよ明日が真打ち、レイさんだよな!」
 コモモは隣にいたレイに話しかける。こくり、とうなずくレイ。
「自信はあるのかなー? 頼もしいお姉さんでよければ不安とか恋の悩みとか聞いてあげるわよ?」
「恋の悩み……」
 ぽつり、とつぶやく。そしてとたんに顔が、ぼっ、と燃え上がった。
「お?」
「あれ?」
「おや?」
 全員がレイの様子に注目する。完全に動きが止まって、真っ赤な顔をしたレイ。
「これはもしかしてもしかしますか」
「普段感情を見せない綾波さんがこんな反応とはねー。お姉さん、ちょっと萌えちゃうぞ」
「レイさんかわいいー☆ 相手は誰かな? かな?」
「……ふっ」
「なんでそこでヤヨイさんがかっこつけるんですか?」
 と、そのときコモモの頭に電球が閃いた。
「それは面白そうだな」
 にやり、とコモモが笑う。
「どうしましたの?」
「新しい企画を思いついたんだ。ドキッ! 女の子だらけの恋愛告白大会!」
 コモモの発言に、半分からは「おー」、もう半分からは「えー」という声が出る。
「きっと楽しいぞ?」
「否定はしませんけど、先に申し上げるなら私は『おりません』ですわよ?」
「卑怯だ! 反則だ!」
「だって、いないものは仕方ないではありませんか」
「あ、アタシもそういうのはあまり、人に言うものじゃないと思うなー」
 サナエがヨシノを援護する。だが、その雰囲気がリオナ・ヤヨイ年上コンビの格好の的になった。
「おやあ? 赤井さんはもしかして、暴露するのが嫌なのかなあ?」
「……教えるまで逃がさない」
 危険な二人に囲まれては逃げようがない。
「ボクは参加してもいいよ。といってもみんなにバレちゃってるから何も問題ないし」
「私はパスかな。ヨシノさんと一緒で、実際誰かをってことはないし」
 レミとマイがそれぞれ言うが、企画・運営担当のコモモが一人たりとも逃がすはずがない。
「えっと、開催日時・場所はあとでこのメンバーにだけメールで送るからな。不参加は認めない!」
「そんなああああ」
「そしてさ」
 コモモが笑顔で言った。
「この使徒戦で生き残ったら、きちんとその相手に告白するって約束するのはどうだ?」
 その言葉は、突然全員から言葉を奪った。
 この戦いで生き残るかどうかなど誰もわからない。前の戦いでは四十億人が死んでいるのだ。最前線で戦う自分たちが生き残れる可能性は高くない。
「いやですわ」
 ヨシノがきっぱりと断った。
「使徒戦が終わるまで待っていたら、相手か自分のどちらかが死んでしまってるかもしれませんもの。使徒戦の前にした方がいいですわ」
「同感。私も、そんな後悔はしたくない」
「は、はい。アタシもヨシノさんと同じ意見です!」
 マイにサナエも食いついてきた。
「じゃ、みんなそれでOKってことで。じゃ、全員参加な。近いうちにやるからよろしく」
 気づけばすっかりコモモのペースだった。どうやら恋バナ大会は本当に実施されるらしい。しかも大会後は相手に告白しなければいけないという強制命令つきだ。これは覚悟して臨まなければいけないようだ。
「コモモ」
 と、みんなが着替え終わってから、ヨシノは誰も聞いていないのを確認してコモモに尋ねた。
「こんなことを言い始めたのは、綾波さんのため?」
「まあ、そうかな」
「馬鹿ね、あなた」
「そうか?」
「あなただって、碇くんのこと」
「んー、でも本気かどうかって言われたらまだそういうわけでもないし、もし本気になったとしたらきちんと綾波さんには断りを入れるよ」
 こういうところは律儀で、人を裏切らない性格だ。
「本当、あなたにはかなわないわね」
「ヨシノだって、もっと素直になればいいのになあ」
「……何のこと?」
「好きな人がいないなんて、どこの口が言うのかなあ」
 コモモがにやりと笑った。
「いないものはいないもの」
「へえー、ふーん」
「そのいやらしい顔をやめなさい、コモモ」
「いや、別にいいけどさ。でもな、ヨシノ」
 コモモは真剣な表情に戻って言う。
「お前の台詞だぜ。使徒戦が終わるまで待っていたら、相手か自分のどちらかが死んでしまっているかもしれない。後悔は先に立たないんだ」
「わかってるわよ」
 ふん、とヨシノはそっぽを向く。
「いないものはいないもの」
 そして、もう一度、つぶやくように言った。






 紀瀬木アルトが目を覚ましたのはそれからその日の午後になってからだった。
 さすがに延期していた歩行訓練をこれ以上伸ばすわけにもいかず、アスカ、ヴィリー、メッツァ、クラインと四人続けてやったところで目を覚ましたアルトが訓練場へつれてこられたのだ。
「アルト!」
 歩行訓練後のミーティングにやってきたアルトを見て、アスカが立ち上がるとアルトの傍に近づく。そして強く抱きしめた。
「まったく、心配かけさせんじゃないわよ」
「ごめんなさい、アスカさん」
「でも、ずっと寝てたんだって? 何も覚えてないの?」
 アルトは頷いた。それこそ『ネルフにいたときから』彼女の記憶は完全になくなっているらしい。
 だが、カメラにはしっかりと映っているのだ。彼女が一人で歩いてこのドイツ支部から出ていくところが。つまり、アルトはそのときはしっかりと覚醒していたはずなのだ。
「まあ、覚えてないものはしょうがないわよね」
 アスカはそれを『しょうがない』の一言で片付けた。
「でも、誰かにいたずらされたりとか、傷つけられたとか、そういうことはない?」
「はい。何も」
「そう。でも、本当に異変があったら言ってよ」
「はい。異変、というわけじゃないんですけど」
 アルトは首をかしげた。本当に不思議な気持ちだった。
「何?」
「記憶を失っている間、ずっと──」
 アルトは言葉を一度区切った。
「死んだ姉が、一緒にいてくれたような気がしました」






 これらのやり取りから、加持はアルトがどうやってネルフを出ていったかは既に正確なところをつかんでいた。すべては姉、ノアの仕業だったのだ。
 MAGIを黙らせたのはノアの仕業か、それとも外側で待っていたリョウゴの仕業かはわからない。だが、おそらくは内外で示し合わせなければMAGIの目をくらませることはできなかったのだろう。そうでなければ他にネルフを出ていく方法などいくらでもあるはずだ。
 だが、なぜ『今』だったのか。リョウゴがアルトに接触したのが五月四日。行動に移したのは五月九日。たった五日とみるべきか、五日も間があいたとみるべきか。
 アルトとノアを研究していたハイヴ。二重人格と人格交代。これらのシステムをリョウゴが突き止めたからといって、すぐにアルトを誘拐しようということにはならない。綿密に準備をして、絶対確実なタイミングで誘拐すればいい。
 それこそ、使徒戦が終わってからでも──
(使徒戦の前に、桑古木リョウゴは決着をつけたかったということか)
 使徒戦が終わってしまったら彼が生き残れない可能性があるからか、それとも他に理由があるのか。
(考えてみれば、あの島のタブレットも、彼の協力者である真希波マリが持っていったんだったな)
 桑古木リョウゴは使徒に関係している。これはほぼ間違いのない事実だ。
 人を助けたいと言ったリョウゴの言葉は嘘か。それとも事実か。
(ま、ライプリヒに手渡るよりはずっといいだろ)
 加持がドイツで行っているのは単にアルトの監視だけではない。情報を司るものは、常に自分の知らない情報を追い続ける。その結果、人よりも多くの情報が積み重ねられていく。加持の行っているのはそういうものだ。
 ライプリヒについても調べている。今までは単なるネルフの出資企業というだけの扱いだったが、今後はそうは行かない。ライプリヒが何をたくらんでいるのかを突き止めておかなければ、今後ネルフの障害となりかねない。
 製薬会社からスタートし、瞬く間にさまざまな業種に拡大、発展していったライプリヒグループ。世界平和のためにネルフに出資してくれているスポンサーでもある。
 そのグループ会長がワルター・ミルケ。現在七一歳。かつて東ドイツで秘密警察長官を務めていた人物の甥にあたる。
(ライプリヒは旧東ドイツで国家とのつながりをもっていた。秘密裏に人体実験もやっていたという話だからな。キナくさいといえばそうだが)
 調べても分からないことというのはいくらでも出てくる。問題は、ライプリヒがいったい何を企んでいるのか。それを見誤らなければ、無駄な調査にはならない。
(さて、本腰を入れるとするか)






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