日本の適格者暗殺未遂事件。オーストラリアの大地震。そしてドイツの適格者誘拐事件。
いずれも適格者たちは無事に帰還した。無論、それは予定調和の結末。誰も適格者を死なせようなどとは思ってもいなかったこと。
果たして、次はどうか。
日本、オーストラリア、ドイツの三カ国については、理由は異なれどそれぞれに共通点があった。
ならば、次もまた同じことがいえよう。その共通項をくくれば、残っている最後の一カ国が浮き彫りになるはず。
五月の共通項。それは、チルドレンの存在だ。
第佰参拾捌話
窓、無色、深層心理
五月十四日(木)。
綾波レイはさすがにこれまで何度もテストを繰り返していただけに、初めての歩行訓練といえども戸惑うことはなかった。いや、むしろ戸惑う理由が彼女にはなかったというべきだろうか。
肉体的な苦痛は彼女にとっては他の適格者たちに比べて大きなビハインドにはならない。苦痛に耐え、エヴァを動かすことを最優先にするように長い時間をかけて教育されてきた経緯がある。
体力的に疲労をしても精神的に迷うところがないのは大きな武器だ。
彼女は初の歩行訓練でありながら、たったの一分で電極プラグの交換まで終了し、訓練終了までにかかった時間がわずか一分三十秒という記録的な速さをたたき出した。タイムだけならば碇シンジの一分五十七秒を大きく上回るタイムである。
もちろん、一回目より二回目の方がタイムが縮まるのは当然のことだ。この後に行われるカズマとシンジにとってはその程度のタイムは軽く超えなければならないことになる。もちろん、すでに歩行訓練が完了している二人にとって、タイムを縮めることが予定の行動にはならない。次は実戦的な動きが求められることになる。
二人はこの日、同時に訓練を行うことになった。場所は富士山麓の麓にある戦略自衛隊の広大な演習場。そこまでエヴァンゲリオンを移送して訓練が行われることになった。
訓練の概要はこうだ。
まず先週までの訓練と同じように、歩行後、電極プラグを交換。三十秒以内に行うことが求められる。続いて、電極プラグをはずし、制限時間三百秒以内に演習場の反対側までたどりつくこと。三百秒という制限は非常に簡単で、チャージせずにエヴァンゲリオンが活動できるのはそれが限界だということだ。
反対側にたどりつき、自分で電極プラグを差し込むことができればそれで試験終了となる。
「試験は同時か?」
プラグスーツに身を包んだカズマが尋ねる。カズマのプラグスーツは赤と黒のツートンカラーといっても上と下ではっきり別れているわけではなく、上の方が赤で、下になるにつれ徐々に黒みを帯びていくような色合いだ。普段は静かにしているが、感情的になると爆発するかのようなカズマには似合いのカラーリングだ。
「そうね。同時でもいいんだけど、技術部の方でデータをとるのが大変だと思うから、別々にやってもらえるとありがたいわね」
ミサトが言うと、カズマはシンジを見てから言った。
「では俺が先に行こう」
「いいわよん。リツコにもそう伝えておくわ」
仮設された本部にミサトと技術部メンバー、さらにはランクA適格者たちとガードが全員そろっている。エヴァンゲリオン初号機と漆号機が固定された状態で近くに立っている。
「なんやなんや、対抗心丸出しやのう。自分が一番でないと気がすまへんのか?」
トウジが軽口をたたく。それを見てカズマはため息をついた。
「野坂」
「あいよ」
「その馬鹿を黙らせておいてくれ」
「了解」
コウキはやけにうれしそうに答えた。へ? とトウジが意味不明な顔を見せる。
「お前、ちょっとこっち来い」
「え、いや、なんやねん、ちょっとおい、野坂! 何すんねん!」
そうしてトウジはコウキにどこかへと連れていかれてしまった。
「碇」
そしてカズマが尋ねる。
「え、なに」
「もし先にやりたいんならそうするが、どうする」
だが、順番など別にたいした違いはないと思っているシンジにとっては、当然答え方も決まっていた。
「別に僕はどっちでも」
「それなら俺が動かしているところを見て、しっかり研究しておけ」
カズマはそう言うとエヴァンゲリオンに乗り込んでいった。
「何すんねん!」
一方でトウジは強引に連れてこられたコウキに毒づいていた。
「何って言われても、俺はカズマに言われただけだからな。黙らせろって」
コウキはにやにやと笑っている。
「だからってこないなとこ連れてきてどうするつもりや」
「殴る」
コウキは宣言してから手を振りかぶる。
「いやいやいやいや! 何で殴られるのか分からへん!」
「お前が余計なことを言うからだ。あの鈍いシンジが気づいたらどうする」
「気づく?」
「最初に実験をするやつは、いろいろとアクシデントが起こる可能性がある。だからカズマは一番手を務めることを志願した。今までは綾波レイがやってきたことだ。エヴァンゲリオンがここまで使い物になるようにしてきたのは、綾波レイがその身をささげて実験に協力してきたからだ。カズマは今度は自分がその役割を果たそうとしている。シンジやレイを守るためにな。それはシンクロ率がランクAの中でシンジやレイとまではいかなくても、それに匹敵するくらいのシンクロ率がなきゃいけねえ。カズマは現状、一番危険なところをかって出てるんだよ」
トウジの顔が一気にひきつる。
「そんな、危険って、なんで」
「エヴァンゲリオンの操縦者にまつわる事件なんていくらでもあるだろ。美坂シオリの件もそうなら、ランクA適格者になりかけた音羽ケイイチもそうだろ。そういう事件に二人が巻き込まれないようにカズマはできることをやってくれている」
「でも、それで朱童のやつが事故にあったら」
「俺やカズマなら代えがきく。でもシンジに代えはない」
断言したコウキにトウジは何も答えられなかった。
そもそも、命をかけてシンジを守ると決めたカズマはタクヤに対し、トウジはその選択をしなかった。しなかったのは、シンジと自分との間に役割分担のようなものを作りたくなかったからだが、結局自分が何をしたところで、役割は既に決まってしまっているということなのだろうか。
「ま、見ておくんだな。覚悟を決めた人間は強いぜ」
トウジは漆号機を見上げた。その目が光り、漆号機が動き出した。
(前回より軽いな)
やはり一度目と二度目とでは全然違う。既に一度経験したということが自分を楽にさせている。
一度目のときは何分もかかった歩行と電極プラグ交換だったが、今度はスムーズにいった。すべてをあわせて四十秒。八歩の歩行と電極プラグの交換だけで四十秒。もっとタイムは縮まるはず。人の体では七、八秒というところか。体積が大きい分だけ行動は遅くなるので、なんとか二十秒までは縮めたいところだ。
それが終わったら次は演習場の反対側まで行くという訓練。ただ歩くだけでも着かない距離ではないのだが、ちょうどぎりぎりくらいの距離だ。少し早足になるか、駆け足になるか。それくらいのスピードが必要とされる。
それは事前に説明を受けている。全力で走ろうとしてもまだそこまで慣れているわけではない。とにかく歩けるだけ歩く、走れるようならそうする。ミサトからの指示はそれだけだ。
(やってみるさ)
少しでも次に行う碇シンジの参考になればいい。それをふまえて、カズマはプラグをはずした。
「漆号機、出る!」
最初から、カズマは駆け出していた。最初に様子を見ていてもだめだ。進めるだけ進み、自分ができることを全力で行うのだ。
様子を見るなどというのは自分の役割ではない。自分は守るのが役目。他人を守るには、もっとも前にいなければいけない。
全力で走る。足がもつれる。だが転ばない。転んだら終わり。立て直せない。短い時間。少しでも先へ。大切なものを、守るために。
(姉さん)
見える。見える。景色が見える。
自分が駆け抜けるその向こうに。
やさしかった姉の姿が。
そして。
絶望に満ちた姉の顔が。
「うああああああああああああああああああっ!」
叫ぶ。だが、その声は耳に届かない。
自分の体が、頭が、細胞のすべてが拒否反応を起こす。
これが汚染? 精神汚染?
いや、違う。これは発作。いつも起こす発作。
これはもう克服しなければならない。
いつまでも過去にとらわれているわけにはいかない。
守るのだ。
今度こそ。
姉に似たあの少女を。
昔の自分によく似た、あの少年を。
「俺は、守る!」
到着する。すばやく手を伸ばす。電極プラグをつかんで、背中に差し込む。
『エネルギー充電!』
伊吹マヤの声が聞こえた。おお、と適格者たちから感嘆の声が上がる。
『お疲れ様、朱童くん。ミッションコンプリート!』
葛城ミサトが映像に出てきて親指を立てる。応える余裕はない。全身が疲労している。
『あら、お疲れ?』
「全身の筋肉が悲鳴を上げている」
『そうかもしれないわね。何しろ、いい数値、出たみたいだもの』
「数値?」
そういえば、シンクロ率がどうだったのか、まったく聞いていなかった。
「どうだったんだ?」
気だるい様子で尋ねた。
『シンクロ率最大三九.二二一%。大幅な記録更新よん。四〇%まであと少しね』
そしてまたどよめきが起こる。
「そうか。少しは役目を果たせたかな」
『役目?』
「一番手になった以上、いい見本でなければならないからな」
そう、自分はあくまでも見本だ。
本命は、この後にひかえている。
(うまくやれよ、碇シンジ)
映像の後ろにいるチルドレンに、心の中で呼びかけた。
無論『本命』であるシンジも決して油断などしていない。注意深くカズマの運転を見守り、時間と距離を冷静に確認していた。
そしていつものように時間をもらって、初号機の中で彼女に語りかける。
(シオリさん)
正直、シンジはシオリと話すのが楽しみだった。今日は何の話をしてくれるのか、するのか。もっともっと話したい。彼女を一人にしたくない。そうした思いが一週間のうちに強まっていた。
「こんにちは、シンジさん」
そして、気づくと風景が変わっていた。
「ここはどこ?」
列車の中のような感じがする。対面にシオリがいて微笑んでいる。前はただシオリの姿だけがあったが、今回はどうしてこんな風景の中にいるのだろう。
「シンジさんの深層心理というところです」
「僕の?」
「はい。さびしい風景ですね」
シオリは言って、笑顔のまま振り返る。その窓の向こうに何もない空間が広がっている。
「シンジさんはいつも、こんな風景を見ていたんですね」
「僕が? いや、そんなことはないけど」
「どんな場所にいても、シンジさんはきっとこんな感じで過ごしていたんだと思います。ただ流されるまま、一人でさびしく列車に揺られて進んでいるだけ。自分で進路は決められない。いつ到着するかもわからない。乗り込んでくる客は他にいない」
シオリは立ち上がる。そして、シンジの隣に腰掛けた。
「さびしい、ですよね?」
そして、そっと手を重ねた。暖かい。
「シオリさんは、一人でさびしくなかったの?」
「さびしいですよ、もちろん。だからシンジさんが私のことに気づいてくれて嬉しく思っています。もっともっと話したい。もっともっと触れ合いたい」
「うん」
「私はもう『一人』にはなりたくない。だから、シンジさん。ときどきでいいですから、私のことを忘れないでくださいね」
「どこかに行っちゃうようなこと、言うなよ」
「すみません。でも今の台詞、ちょっとかっこよかったですよね」
ぺろりと舌を出す。
「聞きたいことがあったんだ」
「はい」
「シオリさんは、僕のことをどれくらい知っているの?」
「ネルフに来てからのことなら、全部知っていますよ」
「たとえば?」
「八人で仲間になったことも、綾波レイさんが妹のような存在であることも、鈴原さんや相田さんと幼馴染であることも、二ノ宮セラさんのことや、美綴カナメさんのことや、マリー=ゲインズブールさんのこと」
「みんな知ってるんだ」
「はい。それから、お姉ちゃんとファーストキスをしたことも」
ぶっ、と吹き出す。
「お姉ちゃんばっかり、ずるいと思います」
「いや、あの、それは」
「わかってます。シンジさんが何かをしたわけじゃないのは。でも、お姉ちゃんはずっとシンジさんのことを見ていました。それが歪んだ愛情表現になってしまいましたけど、それでもお姉ちゃんはあれで喜んでいたと思います」
「いや、美坂さんに限ってそれはないと思うけど」
「シンジさんはお姉ちゃんが好きでもない人にキスするような人だと思っているんですか? ひどいです、最低です、見損ないました」
ああいえばこういう。いったいどう答えればいいのかと。
「お姉ちゃんはシンジさんのこと、本当に好きだったと思います」
「どうして分かるの?」
「私も、シンジさんのことが好きですから」
理由になっていないが、姉妹だから、とでも言いたいのだろう。
「でも僕は」
「シンジさんが自分をどう思っているにせよ、シンジさんのことが好きな人はたくさんいるということです」
反論させてくれない。強い少女だ。
「そろそろ時間ですね」
与えられた時間が五分だけ。
「もっと話すことはできないのかな」
「もう少しシンジさんが慣れてくれたら、いつだって話すことはできますよ。今はまだこうして心を落ち着けないと話せないと思いますけど」
そこで一度会話が途切れる。
「シオリさんは、僕の知りたいことを知っているのかな」
「いいえ」
「断言するんだ」
「だって、シンジさん、知りたいことなんてないじゃないですか」
言われてしまった。確かにそうだ。
アメリカのこと、使徒のこと、それ以外のこともすべて、今の自分にとってはどうでもいいことばかり。知っていた方がいいことは多いが、だからといって知りたいかというとそういうわけでもない。
「シンジさんは、そのままでいいんです」
「そのまま?」
「はい。世界のことなんか気にしなくてもいい。そんなのは、周りの人たちに任せてしまえばいいんです。シンジさんは世界でただ一人、エヴァンゲリオン初号機を動かせる人なんですから。シンジさんは、この世界を守ろうとしてくれているんですよね」
「うん」
「それなら、シンジさんが考えることは、このエヴァンゲリオンをどうすればうまく動かせるのか、それだけです。及ばずながら、私もお手伝いします」
「ありがとう」
「いいえ。私もたった一人でここにいるのは寂しいですから。シンジさんが来てくれなければ私はずっとひとりぼっちです。あ、でも、だからといってシンジさんの負担になるのでしたら遠慮しますけど」
「まさか。シオリさんがいてくれて、感謝してる」
「よかったです」
ほうっ、とシオリが息をつく。
「それじゃあ、シンジさん。しっかりと成果を出してくださいね」
そうして、シオリとの会話は終わった。
当然ながら、シンジの出したタイムはカズマのよりもはるかに上だった。
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