五月十五日(金)。

 アイズ・ラザフォードとマリィ・ビンセンスの二名は葛城ミサトと赤木リツコに呼ばれていた。
 日本のランクA適格者たちは歩行訓練を行っている。カズマ並とはいかなくても、せめてきちんと歩けて、電極プラグを差し替える程度のことができなければ、地上での訓練など危なっかしくてできやしない。
 だが、アメリカのランクA適格者たちにはまだ自分たちの機体がない。その意味で、全世界のランクA適格者の中でもっとも出だしが遅れている二人だということもできる。二人とも別にあせるようなタイプではないが、自分たちだけが取り残されたように思えても仕方のないことであった。
「あなたたちの機体は来週、アメリカから届きます」
 その言葉に二人の表情は変化しない。だが、言葉にはエヴァへの思いがはっきりと表れていた。
「そうか。ようやく俺たちもシンジたちと同じように訓練ができるな」
 アイズが嬉しそうにしているのは簡単なことだった。友人になったシンジがどんどん先に進んでいくのに、それに追いつけないのがもどかしいのだ。
 自分はシンジほどのシンクロ率を出すことはできない。自分がチルドレンになったのは、国同士の駆け引きの結果だというのもわかっている。
 だからせめて、シンジの役に立つことができるようになりたいとずっと思っていた。
「二十四日の日曜日、松代の実験場で二人の実験を行います。準備というほどの準備はないだろうけど、心しておいて」
「了解」
「わかりました」
 二人は素直に頷いて発令所を出る。
「ようやくだね」
「そうだな」
「お互い、初めての歩行訓練になるね」
「まあな」
「それじゃあ、どちらが早く歩行できるか、勝負よ」
 それを聞いて、アイズは苦笑する。そういえば日本に来てからというもの、そうした会話をマリィとしたことがなかった。マリィはこう見えてかなりの負けず嫌いだ。同時に、競争の中で自分を高めることができる才能の持ち主でもある。
「キャシィがいたら、何と言うかな」
「無謀とか、勝てない勝負とか、いろいろ言うに決まってる」
 マリィが少し悲しそうに答える。
「でも、それは言っても仕方ないことでしょ。キャシィは私たちを欺いていた。そしてシンジを暗殺しようとした。それは許されないことだわ」
「確かに。だが、俺はお前も、キャシィも、仲間だと思っていた」
 その仲間が、自分たちを裏切った。二人ともその衝撃は大きかった。アメリカから切り捨てられることを想定して共に亡命しようと話した相手が、アメリカ政府のスパイだった。
 だからこそもっと慎重にならなければならないとアイズは考えている。
「マリィ。アメリカがここにきてエヴァを手放した理由は何だと考える」
「罠でしょ」
「それは分かる。だが、何を狙っているのかが分からない」
「確かに分からないけど、勘繰っても分からないものはどうしようもないんじゃない? それならありがたくもらえるものはもらっておけばいいと思うけど」
「そうだな」
 だが、不安がぬぐえない。アイズはどうしてもアメリカという国を信じる気にはなれなかった。












第佰参拾玖話



敵、味方、無風の空に












 五月十六日(土)。

 この日、アメリカ合衆国大統領ニコラス・J・ベネットが来日。すぐに第二東京の首相官邸に赴き、日米首脳会談が行われる。
 この来日は二ヶ月以上も前から予定されていたものだったが、それでも最近の事情が事情だ。緊張をはらんだ会見となるのは間違いのないことだった。
「ここ最近、ホットラインで話すことはあったが、直接会うのは久しぶりだな、ミスター御剣」
「本当に。今回の来日、国をあげて歓迎いたします」
 二人が会ったのは実に一年ぶりとなる。そのときは逆に御剣の方がアメリカに赴いていた。
「使徒が現れるのも近い。それに伴って、今年から世界各地でテロ活動が起こっている。御剣も先日は命を狙われたと聞くが」
「ええ。お互い、身の回りにだけは気をつけないといけませんね」
「まったく。我々は立場上狙われることも多いが、あっさりと殺されるわけにもいかないからな」
 そう。各国首脳が殺されるわけにはいかない。国の乱れは統一した動きを欠くことになる。たとえベネットがエヴァンゲリオンに対して反対的な立場であっても、アメリカが統一された動きが取れないよりはずっとマシだ。少なくとも使徒と戦うという点においては同志なのだから。
 今回のベネット来日の一番の目的は、来る使徒戦に向けての協力体制の確立である。アメリカとしてはいざ使徒が攻めてきたとき、アメリカ軍を中心として戦いを進めたいという考えがある。もちろん日本としてはアメリカが使徒と戦うことを拒否するつもりはない。問題はネルフの行動に制限がつけられるのかどうかという一点だけだ。
 ネルフは国連公開組織。アメリカといえども身勝手にその行動を束縛することはできない。はたして何を要求してくるつもりか。
 ベネットと御剣は本格的な会談に移る前に昼食を取り、その段階では特別何かを会話するというわけでもなく、きわめて和やかに話が進んだ。話題はアメリカの政治運営に関することが中心となった。
 特に今年は二〇一五年。来年はオリンピックイヤーにして、アメリカ大統領選挙年でもある。それも全ては使徒戦に勝ってからのことになるとはいえ、それを考えずにいられるわけでもない。いずれにしても使徒戦に勝利すればベネットの二期目獲得はほぼ間違いないだろう。既にベネットは来期も出馬することを正式に表明していた。
「それにしても、先日の事故は本当にまいった。ネルフに対する管理体制が甘いと国内で散々批判を浴びた。ミスター御剣はどうかね?」
「同様ですね。国連の運営とはいえ、事実上は各国の支部がそれぞれ独断専行を許している状態では組織だって動くことができないでしょう。国連がイニシアチブをもって監査組織を作った方がいいというのが世論ですね」
「うむ。実はその監査組織に関してはひとつ考えがあってね」
「といいますと?」
「アメリカはこのたびランクA適格者とエヴァンゲリオン二機を正式に日本へと譲渡することにしている。つまり、アメリカは現状、ネルフという枠組みから解き放たれている状態だ」
「なるほど。ネルフという組織の外側から、アメリカが監査役を引き受けようというのですな」
 それもアメリカの狙いの一つということか。もしそれが通ったなら、ネルフ本部から全支部までアメリカの監査が入り放題、それはつまりアメリカの誇る暗殺組織AOCが自由に出入りできる状態になることを意味する。
「ミスター御剣はどうお考えになるかな?」
「けっこうですね。アメリカが中心となって、その他何か国かと連携して動くのであれば、監査機構としては成立もするでしょう」
 するとベネットの顔が曇った。
「その他、何か国?」
「ええ。仮に、日本なりドイツなりが監査組織を立ち上げるとしましょう。ミスターベネットならその監査報告を信用できますか。一カ国だけの監査には価値がない。それは組織の常道」
「なるほど。だが、ネルフを有している国には監査役は務まるまい。ならばどの国がそれにふさわしいと考えるかな」
「インド、アルゼンチン、ニュージーランド、エジプト、イタリアといったところでしょうか。こういうのはさまざまな国、州から多くを選出するのがいい」
「なるほど。それも検討して国連に提出するとしよう」
 国連が舞台となると監査の話を通しやすい。何しろネルフがあることの恩恵をこうむることができるのは、ネルフがある国だけなのだ。他の国々が監査することによってそのおこぼれをいただこうとするのは当然のこと。
(もっとも、使徒戦が始まってしまえばそんなことは無意味になる。ネルフとエヴァはすべての人類の希望とならねばならない)
 それがベネットにはわからない。アメリカが一番で、アメリカ軍なら使徒を倒せると思っている者にはどんな説得も無意味だ。実際に使徒を目の前にしない限り、ベネットが変わることはないだろう。
 そうして、時折緊張をはらみながらも会食が終了し、いよいよ日米首脳会談が本格的に始まる。プレスに公開しながら、お互いに代表者五人ずつがテーブルにつく。
 来たる使徒に対して自分たちがどうしなければならないのか、それを綿密に打ち合わせる。もちろん公開できる部分だけだ。極秘の内容はこの後、別に席を設けて確認する。
 現状では南北アメリカ大陸にランクA適格者はいない。もしも使徒が現れ、アメリカ大陸に進行してきた場合はどうするのか。十五年前は使徒が二体現れたが、今回は十五体だと言われている。一斉に攻め込んできた場合にどう対処するのか。オーストラリア大地震の結果として現在オーストラリア支部はほぼ稼動できない状態にあるがこれをどうするのか、などなど。
 決まっていることについてはあらかじめ日米の間で確認を取っている。これはあくまでも外面だ。日本とアメリカが協力し、使徒襲来に対して準備が万全であることを全世界に見せるためのデモンストレーション。
 午後二時にスタートした会談は、午後六時ごろには予定通りに終了する見込みだった。
「こんなところかな」
 ベネットが言う。だが、その言葉の裏に棘を感じる。
(何を仕掛けてくるつもりだ、ベネット)
 表情は崩さず「そうですね」と相槌を打つ。
「ところでミスター御剣。使徒と戦うために毎日特訓している日本の適格者たちに、明日にでも表敬訪問したいと思っているのだが、都合をつけることはできるかな」
(そうきたか)
 アメリカ大統領が来るとなると、当然ながら警備も厳重にしなければならない。日本だけではなくアメリカからも多くの人間を配備しなければならない。
 そうしたら当然、アメリカの暗殺者がもぐりこむ隙も出てくるということになる。
「それはネルフ本部に問い合わせてみないとわかりませんが、どういう心変わりですか」
「いやなに、ただ単に見てみたくなったのだよ」
 ベネットが笑顔で言った。
「イカリシンジ、という優秀な適格者をね」
 敵を観察する。それがベネットの考えか。
「分かりました。いつがよろしいですか」
「明日、といっても可能かな」
「すぐに連絡を取りましょう。日曜日は適格者たちも休みのはずですからお会いしても問題ないと思います」
 果たしてこれがどういう結果になるのかということは御剣には分からない。だが、ベネット大統領と碇シンジが会うというのは、何故か悪いことではないように思えた。
(碇シンジくんの方こそ、敵の姿をはっきりと理解することができるな)。
 それが良い方向に転ぶか、悪い方向に転ぶかはわからない。ただ、何かのきっかけになることだけは間違いないことだった。






 というわけで、いきなりのベネット大統領の訪問が決定し、ネルフ本部と適格者たちの間には動揺が広がった。何しろ『敵』の総大将が乗り込んでくるのだ。あくまでも友好的な態度をとって。
「いっそのことここで暗殺した方がいいんじゃないか」
「暗殺だったらネルフが疑われるからなあ。いっそのこと来る途中に使徒教のなんとかいう暗殺者に襲われたらありがたいんだが」
「いっそ途中で事故に見せかけてやっちゃうとか」
「……私は八つ裂きでいい」
「控えめに過激な表現するんじゃねーよ」
 順番に、朱童カズマ、真道カスミ、清田リオナ、神楽ヤヨイ、野坂コウキの台詞である。このように本部適格者たちにとってベネット大統領の印象は最悪のさらに下をいっている。
「気をつけろ、シンジ」
 アイズが声をかけてくる。
「分かってる。でも、さすがにみんなの前で何かをしようっていうことはしないと思うけど」
「そうだろうな。ベネットの考えているのは単純に、お前という存在の確認だ。自分の敵をしっかりと見定めるためにやってくる」
 敵、と言われても実感がない。どうして自分が狙われるのか、その根拠となるシンクロ率自体がいまだにシンジにとっては何かの間違いではないのだろうかと思われてならない。
「率直に聞いてみたら駄目かな。どうして僕を暗殺しようとしているんですかって」
 そのシンジの台詞に、一瞬全員が凍りつき、五秒後に全員が爆笑した。
「な、なんだよ」
「いやー、お前の発想はすごいわ。それでこそ碇シンジだな、うん」
 ばんばんとカスミがシンジの背中を叩く。
「でも、間違ってもそんな質問はするなよ。一国の大統領に向かってそんなことを尋ねたら、侮辱されたっていうことでどんな報復されるか分かったもんじゃないからな」
 ジンが真剣な表情で言う。分かった、とシンジも答えた。
「だが、発想は間違いではないだろう」
 その肩を持ったのは意外にも朱童カズマであった。
「カズマせんせーには何か考えでもあるのか?」
「茶化すな、野坂。さすがに公式の場でそういった発言はまずいが、非公式の場ならば尋ねても問題にはならない。もっとも、ベネットならばシンジと二人きりになったところで、シンジから襲われそうになった、脅迫されたと言うだけで国際世論を味方にできる。公開の場でなければ話もできないというのが大変だが」
 結局聞くことはできない、ということか。
「それから、もう一つ忘れてたらいけないことがあるんじゃないかしら?」
 それまで話を黙って聞いていたヨシノが丁寧語で尋ねてくる。
「もう一つ?」
「ベネット大統領がシンジくんだけを見にくるのか、ということですわ。何しろアメリカから亡命しようとしたお二人がここにいらっしゃるのですから」
 ヨシノの言葉は、あえて全員が見ないようにしていたことをさらけ出すことになった。だが、それは避けては通れないこと。ヨシノはあえてその『見ないふり』をやめさせようとしたのだ。
「そうだね。確かにそれは避けては通れない。少なくとも大統領が、アメリカのランクA適格者に会いたいと言えば、それを否定することはネルフにはできない」
 タクヤが後を続ける。ではどうすればいいのか。アイズとマリィはベネットからシンジ以上に敵視されているだろう。何しろアメリカを裏切ろうとした二人だ。
「ネルフが必要ないのか、必要なのか。分からん男だ」
 アイズがため息をつきながら言う。個人的には不必要だが、アメリカ大統領という立場がそう言えなくしている。ベネットも難しい立場なのだろう。
「ベネットが来ることで、ネルフ側の警備に変更は?」
 コウキが尋ねるとカスミがコンピュータを動かす。
「トゥエルフスナイトは通常通り。内調が動いて警備にあたるみたいだな」
「ないちょう?」
「内閣情報調査室。今、使徒教がらみのことは全部内調の管轄で動いているらしい。やり手の女性副室長、三嶋ナルミがじきじきに警備担当をするようだな」
「副室長がじきじきに、ねえ」
 コウキが嫌そうな顔をする。
「いずれにしても、突然だが明日はある意味で『運命の日』ということになる」
 適格者たちのリーダーであるジンが締めくくった。
「全員が一つになって行動するようにしよう。決して離れ離れにならないように。アメリカの動きはすべて自衛隊と内調に任せることにして、俺たちは俺たち自身を守るようにしよう」
 そうして全員が情報を共有して、適格者たちの自発的なミーティングは終了した。
「とんでもないことになったな」
 解散していくメンバーを見ながらシンジが呟く。
「不安かい?」
 エンが尋ねてくる。うん、と頷く。
「僕を殺そうとしている相手と会うんだから、緊張するよ」
「大丈夫。万が一のときは、僕がシンジくんを守るから。絶対に」
 ぐ、とエンが拳を握り締める。最悪の場合、自分はシンジの盾となってでも守り抜く。既にその覚悟はできている。
「ありがとう、エンくん」
「あらららら、二人ともずいぶんラブラブじゃない」
 その二人のところにやってきたのはリオナとレミ、さらにはヤヨイにマイのかしまし四人組だった。
「ラブラブって、変な言い方しないでよ」
「何言ってるのよ。古城くんの今の台詞、まるで告白じゃない。やー、おねーさん萌えちゃうなー」
「……腐女子」
 ぼそっ、とヤヨイが呟く。何か言ったかなー、とリオナが笑顔でヤヨイを睨みつけた。
「いろいろと不安なことはあるかもしれませんけど、明日は何も起こらないと思います」
 そう言ってきたのはマイだった。
「どうして?」
「何となく、ですけど。碇くんは私の直感を信じてくれますか?」
 マイの直感には実績がある。ドイツで、彼女の悪い予感があたった。
 一人の少女の死、という。
「信じるよ」
「ありがとうございます。明日は本当に何もないと思います。ただ──」
 マイが顔をくもらせた。
「いつか、何かの事件にはつながると思います」






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