キャシィ・ハミルトンは口封じをされた。
牢屋の管理は無論保安部だ。となると、その元締めは冬月副司令、そしてその下で実行部隊を率いている剣崎キョウヤが責任者だ。
(念には念を入れるか。アメリカらしい手口だな)
銃で一撃した後、心臓と喉にさらに一撃ずつ。これで助かったら奇跡だろう。
キャシィはネルフに捕らえられた後、自殺をしないように厳重に管理されていた。ランクA、さらにその上にあたるチルドレンの暗殺を企てたのだ。国際法に照らして無期禁固になるのは避けられないところだ。
そしてキャシィはアメリカの手先。その口からアメリカが何をたくらんでいるのか、AOCの構成や暗殺対象者など、割り出せることはいくつもあった。
度重なる尋問、いやほとんど拷問に近い状況に、キャシィが耐え切れなくなってきたところだった。あと少しで口を割るところまできていた。それなのに。
(アメリカも口封じには余念がない、か)
キャシィがかたくなに証言を拒んでいたこと、さらには口封じのためにベネット自らが乗り込んできたこと。それだけでもキャシィが抱えていた秘密が重いことであることが分かる。
(AOCの構成か? 違うな、何かとんでもない秘密を持っていたに違いない)
だがそれは失われた。永久に戻ってくることはないのだ。
第佰肆拾壱話
音、旋律、ゆらぎゆらめく
五月十八日(月)。
中学校二年生の授業内容は単なる義務教育の一環でしかない。今年中に使徒が襲来するというのがわかっているのに、適格者たちがそのような授業を真剣にやるはずもない。
ネルフとしてもそんな暇があるのなら訓練をさせたいとは思うのだが、いかんせん設備と技術と費用と、いろいろな問題がからむので、結局午前中のうちは適格者たちにさせることは何もないというのが実情だ。それなら勉強でもしていてくれた方が、使徒戦が終わった後の彼らのためになる。
そうやって素直に勉強する碇シンジと、一緒の部屋で勉強をしているのは当然のように古城エン。ただこの日は珍しくアイズ・ラザフォードとマリィ・ビンセンスがやってきていて、勉強はほったらかしで、四人でずっと話し込んでいた。
当然、最初は昨夜口封じをされたキャシィ・ハミルトンのことが中心となったのだが、それだけでずっと話が続くはずもない。次第に話は使徒のことやアメリカのこと、使徒教のこと、それから音楽やさまざまなことに発展していく。
少なくともアイズとマリィは、表面上キャシィの件で動揺を見せるようなことはなかった。内心はいろいろと思うことがあったが、既に二人にとってキャシィはアメリカの手先だったということがわかっていた。ベネットがこうして口封じに来るというのはありえないことではなかったし、いざ起こってみると『やはり』という感情の方が先に出ていた。
「ところで、松代にはいつ到着するんですか」
エンが二人に尋ねる。アイズとマリィの機体はネルフ本部ではなく、国際線を使って第二東京へ輸送され、そのまま松代の実験場へ送られるということだった。そのため、二人とも歩行実験は本部ではなく松代で行うことになっていた。
「木曜には到着。すぐに整備に入って、金曜日の夜までに終了。土曜日には俺たちが現地入りして、日曜日にテストだ」
「見てなさいよ、アイズより上手に動かしてやるんだから」
ふふん、とマリィが笑う。だが、シンクロ率などを見てもエヴァの操縦に長けていそうなのはどう見てもアイズの方だ。
「ようやく歩行訓練ができる。それは嬉しいことだ」
アイズの顔がほころぶ。嬉しいというよりも、安心したという様子だった。
「どうして?」
「今年ももう半分が終わる。使徒がいつ来るかは分からないが、もう秒読み段階に入っているとみた方がいい」
「明日にでも来るかもしれないっていうこと?」
「使徒がいつ来るのか、だいたいのところは上もおさえているんだろう。少なくともエヴァの起動実験が四月に入ってからということは、一月から三月の間に来ることはまずないと判断した上でのことだ」
なるほど。ゲンドウやミサトたちは、それを分かっていてスケジュールを組んでいるということか。
「でも、そんなこと発表されてないよね」
「知ったとしても発表はできないんだろうな。今回のベネット訪日は、いよいよスケジュールが間近に迫った使徒戦についての最終打ち合わせ、そうとらえることもできる」
使徒が来ると分かっているのに、世の中はそこまで大きな混乱が生じているわけでもない。人々は今の生活が普通に続くものと勝手に確信している。もしかしたら使徒など来ないと勝手に期待しているかもしれない。
「混乱が起こっていないのは、少なくとも日本ではネルフのおかげだね」
エンが言う。
「どうして?」
「使徒が来てもネルフが、エヴァンゲリオンが助けてくれるってみんな思ってるから。むしろ、シンジくんが、かな?」
「僕が?」
「インターネットではシンジくんの話題で盛り上がってるよ。よくも悪くも」
「悪くも?」
「この間のテレビ出演がきっかけみたいだけど、こういうのは好きに言われるものだから」
自分の知らないところで、勝手に自分のことで話をされている。なんだか気味が悪い。
「その点、俺たちはアメリカの報道規制でほとんど知られていないからな。もしかしたらエヴァを日本へ移動するのも国内では知られていないかもしれない」
「じゃあ、フォースチルドレンになったのも?」
「当然だな。そもそもチルドレンというものがそれほど浸透していないだろう。任命されてから十日がたつが、そもそも俺はまだ自分の機体を動かしてもいないしな」
「もうすぐだね」
「ああ」
そうして適格者たちの一日は過ぎていく。
この日はランクBのメンバーが、昇格試験後最初のトレーニングとなるため、名義上は各班に名前を置くガードのメンバーが全員いなくなるという状況だった。
碇シンジ、赤井サナエと二ヶ月連続でランクA適格者が出ていたが、さすがに今月はランクAへの昇進者はなく、全世界でも昇格者はゼロであった。シンクロ率二〇%というのがいかに高い壁かということがよく分かる。
エンのいない行動はシンジにとっては久しぶりのことで、いつも近くにいてくれる彼がいないと不安で仕方がなかった。いつのまにか自分はエンに頼り切ってしまっていたようだ。もっと自立した人間にならなければ、と思う。
「朱童くん」
シンジは積極的にカズマに話しかける。今日のランクA適格者たちはガードの問題もあって特別やることがない。格闘訓練の相手を頼もうと思って話しかけると、カズマは考えることもなく「わかった」と答えた。
「なんだか、ずいぶん真面目だな、シンジ」
コウキがからかうが、シンジは真剣に頷くだけだ。それは自覚が出てきた証拠だ。日本が、さらには世界が自分に期待をしている。それに応えられないのは嫌だ。
「シンジは基礎体力は十分にある」
それを見ていたアイズがアドバイスをする。
「あとはうまく自分の体を動かせるかどうかと、目をよく使うことだ」
「目?」
「相手をよく見る。相手がどう動こうとするかを考える。対処療法ではなく、相手の先手を打つ。シンジには苦手なところかもしれないが」
アイズの言葉は的確だ。確かに相手のことを考えるのはシンジにとっては苦手分野に入る。それに、相手にあわせるのではなく自分から動くことも。
「訓練ではなく本番だと思うといい。シンジは集中力が高い。必ずできる」
アイズから太鼓判を押される。アイズはいつでも本当のことしか言わない。だからこそシンジもその気になる。
するとシンジの動きが変わった。カズマから睨まれるのを正面から受け止める。人と目を合わせるのが怖い。だが、
(──来る)
そう、分かった。カズマが動こうとするのが分かった。
今度はカズマの攻撃を回避することができた。するとカズマが楽しそうに笑う。
「アドバイスがきいてるみたいだな」
すると今度はカズマがさらにスピードを上げた。え、と思う間もなくシンジは床に叩きつけられていた。
「じゃ、そろそろ俺も本気を出していいわけだ」
もちろん、今までが本気でやってもらっていたとは思わない。だが、シンジはいまだに自分が天井をどうしてみているのかが分からない。カズマがどう動いたのか、どうやって投げられたのか、まったくわからない。
これが格闘ランクSの実力。
「速いな。それに、強い」
見ていたアイズが感心したようにカズマを見る。
「エンの奴も強いぞ」
「そうだろうな。彼の動きには隙が全くない。あれは幼いころから相当訓練を受けている。だが、君は違うだろう。君の力は我流だ。それでこの力まで高められるのはたいしたものだ」
カズマは褒められるのに慣れていないのか、顔をしかめてアイズを睨む。
「そんなことはない。俺は、ただ──」
そう。
ただ、守りたいだけだった。
それなのに。
「……悪い。頭、冷やしてくる」
また暴走しそうになる。
カズマは一人、訓練場を出ていく。
「つか、一人で勝手な行動はまずいだろ」
やれやれ、とコウキがその後を追い、タクヤもコウキとともにカズマのところへ向かう。
「どうしたんだ、彼は?」
「分からない。でも、前にもあんな風になったって」
「そうか。心に傷を負っているのだな」
アイズが息をつく。
「ランクA適格者というのは、みんな重い過去を持っているのだな」
「そうだね。何を隠そう、この館風レミちゃんも──」
「ギリシャに恋人がいる」
「──離れ離れになった相手に会うためにエヴァンゲリオンに……って会ってるし! 何その生き別れみたいな展開!?」
ヤヨイの言葉にきれいなノリツッコミ。
「わ、私は全然普通ですよ?」
サナエがわたわたと慌てながら言葉を返す。
「そういえば、サナエちゃんの話って全然知らないよねー」
「そうやな。ランクAまで順調出世ってだけであんまり話聞いとらんわ」
「……きりきりはけ」
レミ、トウジ、ヤヨイと三人に詰め寄られる。頼みの綱のヨシノもいない。四人の盛大なおいかけっこが始まった。
「日本の適格者は元気だな」
「そうね。アメリカじゃ考えられない」
それを見ていたアイズとマリィがため息をつく。
「そういえば、今日はファーストチルドレンがいないが、どうしたんだ?」
一人足りないことに気づいたアイズがシンジに尋ねる。
「綾波ならときどき別行動になるから。多分、父さんか冬月副司令のところだと思うけど」
だが、そのことを尋ねてもレイは何も答えない。だから何をしているのかはまったく分からない。
「アイズも、何か悩みとかあるの?」
「悩みというほどではないが」
アイズは少し考えた風にしてから「そうだな」と呟く。
「少し、時間をもらえるか」
「え、うん」
「俺と二人になったら古城が困るだろうから、今日の夜に。俺とマリィの二人でお前の部屋に行く」
「分かった」
「もっとも、マリィも隠していることが多そうだがな」
ちらりとマリィを見ると肩をすくめた。無論、彼女にも大きな秘密がある。それはこの場にいるものは誰も知らない。知っているのはカスミとクローゼの二人だけ。
「でも、私にも話していいの、アイズ?」
「かまわんさ。俺もそろそろ仲間に頼るということを覚えなければ駄目だろう」
「ずっと孤高の人だったからね、アイズは」
「どうして?」
シンジが尋ねると、マリィが少し困ったように首をひねる。
「アイズは人間不信だから」
アイズは肩をすくめた。
そして夜。
アイズとマリィの来訪を受けたシンジとエンは、四人掛けのテーブルについて話を始めることとなった。
「話といっても、それほど長くなるわけでもないが、他に聞かれて楽しい話でもないからな」
アイズが前置きする。シンジにエン、そしてマリィにならば聞かれてもいいということなのだろう。
「変わりに僕の話もしようか」
「対等交換ということか。それならマリィにも話してもらわなければな」
「え、う、あー、ちょっとそれは困るかな、ははは」
「真道カスミは知っているのだろう?」
マリィの顔が赤くなる。
「な、なんで知ってるの!?」
「お前と真道がよく何かを話しているのを見かけたから聞いてみただけだ。やっぱりそうだったか」
「ちょ、ちょっと勘違いしてるみたいだけど、私とカスミとは何でもないんだからね! ここに来た直後にナンパしてきて──」
「というのは建前で、いつからの知り合いなんだ?」
「あううううう」
マリィが頭を抱えてうずくまる。アイズはしれっとしてシンジの淹れてくれた紅茶を含んだ。
「本当にそういうことならあえて何も言わないが、俺に何も言わずにナンパ男に全てを話しているのだとしたら、俺はお前の評価を変えなければならないな」
「ごめん……それ以上話すと本当にボロが出るからやめて」
どうやらよほどマリィは話したくないらしい。それを追及するのはひとまずやめておいた。
「まあいい。今は俺の話だな」
アイズが腕を組む。
「どこから話せばいいのか分からないが、まずは俺の生まれから話さなければならないだろうな」
「生まれ?」
「ああ。俺はアメリカ人だが、母親はドイツ人だ。多分な」
最後についた一言が余計だった。
「俺は自分の正しい誕生日を知らない。おそらくは二千年の九月か十月だと思われる。生まれはミュンヘン。生後まもなく、あの石碑が現れた場所だ」
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