自分は、両親から嫌われていた。
 いや、違う。最初から言われ続けていた。
「お前は、私たちの子供ではない」
 だから、目の前にいる人たちは自分とは無関係な人たちだった。
 心を閉ざし、顔をそむけ、自分だけの世界を作り上げていった。
 虐待はなかったが、関心もなかった。
 自分は、ずっと、一人だった。

 ある日のこと。
 夕暮れの町にを一人で歩いていた。
 まだ年端もいかない子が、何時に帰って来ようと、いや帰って来なくとも、あの人たちは何も言わない。
 そのとき、聞こえた。

 それは、ピアノの旋律。

 何もない世界に『音』が入り込んできた。












第佰肆拾弐話



虚、孤独、叶わぬ願い












 二〇〇七年。この年アメリカに『神童』が生まれた。
 その子は楽譜を一度見ただけですらすらとピアノを弾きこなし、主旋律を二小節与えただけで協奏曲を作曲した。
 もちろん彼はピアノだけではない。弾くのはピアノだけだが、バイオリンもチェロも好む。交響曲はいつまで聴いていても飽きないし、自分でさまざまな楽器を弾く。
 現代に生まれたモーツァルト、と人々は彼を賞賛した。
 こうなると義理の父母も掌を返すように『あの子は自分たちが育てた』『才能があると思ってピアノを与えた』などと言う。さて、自分はいったいいつ彼らからピアノを買ってもらったのだろうか。
 彼は小学校の音楽室に入っては自分でピアノを弾き、そこにあったギターも弾いた。とにかく音楽だけが彼にとっては生きる上でなくてはならないものであり、それ以上のものはなかった。
 そういえば、義理の父母の家にはピアノがあった。自分は一度も触ったことはない。触っていたのは自分の従妹にあたる一つ年下の女の子。自分があまりにピアノが上手なので、必死に教育しているらしい。おかげで従妹の自分を見る目の厳しいことといったらなかった。
 二〇一〇年初頭。目の前の家が燃えたとき、自分は動けなかった。動かなかった。
 目の前で業火に包まれている家。その家の中には義理の父母も従妹もいるはずだった。それを自分は外から見ていた。
 自分が寝起きしていたのは、家の中ではなく、その外側。小さな、小さな掘っ立て小屋のようなところに住まわされていた。たった一人で。
 そこで火にまかれて死のうが、生き延びようが。
 どちらでもよかった。
 いてもいなくても自分に関係のない人など、好きにすればいい。
 目の前で、建物の一部が崩れ落ちた。
 後見人を失ったアイズであったが、孤児院に入ることはなかった。
『神童』にはこのとき既に、一人で生活していけるだけの稼ぎを生み出す価値があった。
 自分の境遇を哀れんでくれていた音楽会社の人に後見人になってもらい、今までの掘っ立て小屋よりも暮らしやすいアパートで暮らすようになった。
 彼のCDはよく売れた。十歳の子供が大人顔負けのピアノを弾くのだから、興味半分で買う人は後を絶たず、しかもそのピアノの音色に惹かれてさらに別のも、という正の連鎖が起こった。
 それから三年。二〇一三年八月。
 彼の前に、ネルフの人間が現れた。






「俺が世界を救う英雄に?」
 最初に言われたときは何の冗談かと思った。それはまあ、突然そんな話をされればいくら中学生であったとしても疑問に思う。
「それも、かなり資質は高いものと思われます」
「他をあたってくれないか。適格者のことは当然一般常識として知っているが、全世界で千人以上もいるんだろう。俺がわざわざそこに入らなければいけない理由もない」
「いえ、ございます。たとえ千人がいたとしても、そのうち使徒と戦えるのはほんの十人か二十人程度でしかありません」
 子供相手だというのに、相手の態度は丁寧だった。
「詳しく話を聞こうか」
「はい。使徒と戦うための決戦兵器エヴァンゲリオン。この機体は運動能力なども必要ではありますが、それ以上に機械との親和性が非常に大切なのです」
「親和性?」
「我々は『シンクロ率』と呼んでいます。この率が高い者ほど上手に動かすことができる。現在の世界最高数値は四〇%をこえた程度だとか。少なくとも二〇%をこえなければ使徒と戦っても足手まといになるだけです」
「俺ならその率を高く出せるというのか?」
「おそらく。少なくとも二〇%をこすことはできると思います。使徒が現れるのは二〇一五年。そのときまでに全世界でなんとか三〇人の操縦者を出すことが目標です。あなたにはその一人になっていただきたい」
「興味がないな」
 だが、あっさりとアイズが答える。
「俺には音楽さえ、ピアノさえあればいい」
「あなたが音楽以外のものに興味がないことは存じています。あなたの境遇も。ですが、あなたはご存知だろうか」
「何をだ」
「あなたの出生の秘密を」
「死んだのが実の両親でないことは知っている」
「では、実の両親がどうなったかは?」
 それはまったく知らない。アメリカ人の父とドイツ人の母とのハーフだということくらいしか聞いたことはない。
「あなたは、あのミュンヘンの生き残りなのです」
 ミュンヘン──もちろんその意味は分かる。かの『石碑』の現れた場所。今でもミュンヘンは死の荒野で、近づく者を許さない。
「あなたのお母様は、使徒に殺されたも同然。これは事実としてお伝えしますが、使徒はあなたの実の母親の仇なのです」
「そうか。だが、俺は実の母は自分を産んだという事実以外のことを何も知らない。感慨を呼ぶというほどではないな」
「お母様は、まだ赤子のあなたを抱いて、事切れていたそうです」
 だが、ネルフの使者はなおも話し続ける。
「あなたを助けるために。感慨を抱かないのはけっこうですが、お母様があなたを思っていたことを否定するようなことは言わないでください」
「随分他人のことを詳しく知っているようだが、お前はいったい何者だ?」
「私は昔、お母様に助けられた者です。まだ、使徒とかそういうものが出てくる前。あの、東西ドイツが統一するときに、亡くなりかけた私の命をつなぎとめてくださったのが、あの方でした」
「俺の母親は、医者だったのか?」
「若いのに凄腕の医者でした。お母様が救った命の数は、十や二十ではありません」
「若いのに凄腕、か。そんなこともあるものなんだな」
「東ドイツには当時、決定的に医者が不足していましたから」
「若くても最前線で治療にあたったということか。随分と立派な人物だったらしい」
「そうです。あの方の血を、あなたは引いていらっしゃる」
「だが別人だ。産んでもらったとしてもその記憶は俺にはないし、当然育ててもらった記憶もない」
「ですが、あなたを産み、その命を助けたのはまぎれもなくお母様なのです」
 理屈は分かった。それが嘘であったとしても、自分の親がろくでなしよりは立派な人物の方がいくらかマシだったろう。
「だからといって、俺が人を助けなければいけない理由はない」
「あなたは、本当にあの方によく似ておいでだ」
 相手の男が顔をくずした。
「お母様もそうだった。あの方は、自分のやりたいことを貫き通す人だった」
「人助けはどうなる?」
「私も含めて、たくさんの人がお母様によって救われました。ですが、私はあの方が人助けをしていたとは一言も言っておりませんよ」
「だが、医療に携わったと」
「はい。それはあの方の趣味のようなもので」
「人助けが趣味?」
「いいえ。手術で、人を切ることが、です」
 ぞくり、と背筋が震えた。
「悪い趣味だな」
「そのことを知る人は多くありません。ほとんどの患者があの方のことを女神のように思っていたことでしょう。ですが私は違います。私は一番、あの方に近いところにいた。何故お金にならないことをするのかと尋ねたらこう答えましたよ。『人を上手に切れるようになるのがたまらなく面白い』と」
「なるほど」
 さすがにアイズは人を切ったこともなければ傷つけたこともない。
「危険人物だな」
「ですから私がお母様を誘ったとき、明確に拒否されました」
「誘う?」
「はい。私はドイツにあるライプリヒグループの系列会社にいました。今ではこうしてネルフに所属することになりましたが」
「ライプリヒといえば製薬会社を筆頭に、医療を中心としたグループだったな」
「はい。その総合病院の執刀医に招いたのですが、あの方は現場はここにあるから充分楽しい、と拒否されました。病院でもっと多くの人を救ってほしいといいましたが、聞き入れてはもらえませんでした」
「当然だろうな。そういうことなら母親の気持ちはよく分かる」
「分かる?」
「組織の中で自分のやりたいようにできなくなるのが嫌だったのだろう」
 自分もそうだ。孤児院のようなところにおさまるのが嫌だった。学校は今でもできれば通いたくなどない。ずっとピアノだけ弾いていられれば幸せだ。
「では、自分の自由が奪われるのが不満だ、と?」
「誰でもそうだろうが、俺の場合は特にな」
「では条件をつけましょう」
 男は切り替えして言った。
「あなたがランクA適格者となったら、ネルフの中で自由にしてくださってかまいません」
「ネルフの中で、自由に?」
「はい。こちらのカリキュラムの通りにする必要はありません。ネルフに来ていただければ給与も出ますし、一日中ピアノを弾いていてもとがめたりはいたしません。もちろん、ランクA適格者となるまではこちらにしたがっていただきますし、使徒と戦っていただくことが前提ということになりますが」
「お前たちにとっては当然の条件だろうが、俺にしてみれば魅力的ではないな。ランクAになるにはどうすればいい?」
「月に一度の昇格試験を受けていただきます」
「月に一度か。最初はどこから始まる?」
「だれでもEランクからスタートになります」
「最短で四ヶ月か」
「現在、それを達成しているのは世界で二名だけです」
「ランクを上げるのは難しいということか」
「シンクロ率をあげるのは簡単ではないようです」
 さて、条件がそろったところでどうするかを決めなければならない。とはいえ、この時点でもまだアイズはやろうという気になっているわけではなかった。
「父親は?」
 アイズはさらに尋ねる。
「俺の母親の話は聞いた。父親はどうなった? どうやって死んだ?」
「お父様は、使徒との戦いの中で起き上がれない体となりました。正確に言いますと、使徒の攻撃によって、体の機能が完全に麻痺した、運動神経が完全に破壊されたというべきでしょうか」
「生きているのか?」
「生きておられます。もう十三年も治療を続けてきましたが、一向に改善の目処はたっていません。使徒の攻撃によるものなので、どうして運動神経だけをきれいに麻痺させることができるのか、それすら分からない状態です」
「運動神経が麻痺しているということは、呼吸とかはどうなっている?」
「機械で行っています。心臓の鼓動もすべて。今生きていられるのは本当に奇跡だとしか言いようがありません」
「そこまでくると、呪いのようなものだな」
 だが、父親は生きている。ずっと死んだと思っていた。
「どこにいる?」
「それは言えません。事情がありますので」
「実の息子にもか?」
「はい」
「さきほど運動神経が麻痺していると言ったが、感覚神経はどうなっている?」
「機能しているようです。本人に確かめることができませんが、五感は正常に働いています」
「伝言を頼むことは?」
「可能です」
「ならば伝えてくれ。父親のせいで、子供まで苦労する、と」
 アイズはため息をついた。
「では」
「やむをえないな」
 覚悟を決めたというほどのものではない。だが、今まで無関係だと思っていた世界の終末に自分の両親がかかわっていたとなれば、自分もかかわるというのが筋というものだろう。
 それを人は、運命とでも呼ぶか。
「よろしく頼む」
「かしこまりました。すぐに手続きに入らせていただきます」
 こうして、アメリカの『神童』がネルフに入るというビッグニュースが全米をかけめぐることになった。






「ライプリヒか」
 エンにしてみると因縁のある相手だ。アルトとノアの人格交代実験をしていたのがハイヴで、二〇〇八年の東京襲撃にあわせてハイヴを買収したのがライプリヒだった。
「ライプリヒって、悪い人ばかりじゃないんだね」
 そしてそれはマリィにとっても同じだ。姉妹での人格交代で、二度と自分の体に戻れなくなった現在、ライプリヒといえば使徒以上の敵といっても過言ではない。
「なんだ、マリィはライプリヒのことを知っているのか」
「わりと。自分たちの研究のために人攫いをする組織でしょ?」
 アイズの問いかけに答えるマリィ。まあ、過去の実績が実績なので、そう見られても仕方のないところだが。
「以上で俺の話は終わりだ。それほど深い話でもなかっただろうが」
「そんなことないよ」
 シンジが首を振る。
「僕ばっかり真実から遠いところにいて、周りのみんなばかりが傷ついて、苦しんで。もうそういうのは嫌なんだ」
 アイズから話を聞いたシンジは、さらに自覚を深める。
「僕が、もっとしっかりしないと」
「シンジくんは十分しっかりしてると思うけど」
「そうだな。使徒と戦うというだけでも大変なことだ。そこに正面から挑むのは自覚のある証拠だ」
「応援してるよ、がんばれ」
 三人から三様の激励を受ける。
「うん。僕にできることなら、何だってするよ」






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