これで二回目となる歩行テスト。前回もそうだったし、起動実験のときもそうだったが、エヴァンゲリオンに乗るということは自分にとっては特別な意味を持つ。
 シンクロする寸前に見える、誰かの影。
 男なのか、女なのか、大人なのか、子供なのか、何も分からないが、ただ人影だけがそこに浮かび上がる。
(誰?)
 問いかけても何も反応はない。ただ、自分の方に向かってかすかに笑ったような気がした。
 自分はその笑顔を知っている。
 自分は絶対にその笑顔を知っている。
 それなのに、思い出せない。
 誰?
 誰?

「私は、誰──」

 神楽ヤヨイは、ぼんやりと虚空を見つめた。












第佰肆拾参話



水、波紋、沈んで消えて












 五月十九日(火)。歩行テスト二回目。

「今の神楽さんのシンクロ率、見ましたか」
 伊吹マヤから尋ねられた赤木リツコは小さく、はっきりと頷く。おそらく他のみんなは今の決定的な矛盾に気づかなかっただろう。だが、自分たち二人にだけはその数値の動きがはっきりと分かった。
 シンクロを開始すると、シンクロ率は〇%から上がり始める。だが、今のヤヨイのシンクロ率は違った。
「下がった、わね」
「はい。こんなことはありえません。シンクロ開始する前からシンクロしていたことになってしまいます」
 そして現在のシンクロ率は最大値で二九.九八%。三〇%まであとほんのコンマ〇二%だけ。
(でも、下がってこの数値ということは、シンクロ開始する前はシンクロ率がもっと高かったということね)
 現実にありえないことを考えるのは時間の無駄でしかない。だが、今、ヤヨイは確かにシンクロ率を下げた。では、最初はどうだったのか。
「神楽さん」
『……ふっ』
 モニタに映るヤヨイはかっこよくポーズをとる。
「今、シンクロ開始する直前、何を考えていたの?」
『何?』
「いえ、あなたが別のことを考えているようだったから」
『特には何も──いえ、そうね』
 妖しい笑みをもってヤヨイが応える。
『大好きな』
 一拍、間。
『カレーうどんのことを』
 そして、静寂。
「さ、さすがやな、神楽」
 トウジががっくりと力つきたように言う。
「あいつの言動に惑わされるな」
 カズマがモニタのヤヨイをじっと見つめる。
「なんや、朱童。神楽のこと気になっとるんか」
「ああ。あいつは、大事なことこそ何も言わない。平気な顔をしてな」
 守ることこそが自分の使命、と考えているカズマにとって、一番の対象は綾波レイと碇シンジなのだが、それ以外のメンバーだって忘れているわけではない。何かとなついてくるレミや、ミステリアスだが何かといわくつきな言葉を残していくヤヨイもまた彼の保護対象だ。
「でもこれで、ヤヨイさんも歩行クリアですね」
 ガードのマイが言う。前回と違い、軽々と歩いて三極プラグを交換したヤヨイは、ステップを踏むように歩いて残りの距離を踏破した。
「謎の逆走はもうなさそうだな」
 ケンスケが言う。その言葉がリツコの耳に届いた。
 そう。その逆走のときもそうだった。三極プラグを手に取ろうとして、イジェクトした瞬間、全員が目を疑った。突然反対方向を向いて歩き出したのだ。そのままタイムオーバー。
 その奇行ばかりが目についたので、適格者たちは誰も気づいていないのだろう。
 あの逆走していたときのシンクロ率最大値が二九.九六%。今回とほぼ同じシンクロ率。
「何を隠しているのかしらね」
 ぼそりとつぶやく。マヤは何を言いたいのかが分かったらしかったが、何も言ってこなかった。
 とにかくこれで、榎木タクヤ、舘風レミ、鈴原トウジ、野坂コウキ、神楽ヤヨイと、全員が歩行・プラグ交換テストにクリア。次回から自衛隊演習場を借りての遠距離走行テストだ。
「そういや、赤井はどないするんや?」
「あ、はい。私は明日、碇くんや朱童くんの前に遠距離走行テストです」
「一足お先ちゅうやつやな。くぅ〜、うらやましい」
「それもこれも、前回テストをクリアできなかったせいだな」
「お前もやろ、野坂」
「まあな。だが、俺はいつでも追いつけると思っているんでな」
 コウキとトウジの言い争いもそろそろ名物だ。もっともコウキはそれほど本気でトウジの相手をしているわけではないのだが。
 ヤヨイが戻ってきてただちにミーティングとなる。技術部のデータをもとに葛城ミサトが仕切るわけだが、今日はいつもと様子が違った。
「気にしてる子もいるみたいだから、他の国の情報も集めてもらったわよん」
 確かにそれは気になっているところだった。シンジはもう既にオーストラリアを除くすべての国のランクA適格者とは顔見知りになっている。その状況が分かるのはありがたいことだった。
「今日までにオーストラリアの霧生ゼロくんを除いた全員が二回のテストを行っているわ。結果、全員が歩行テストまでは無事に完了。ただ、ゼロくんについては一足飛びに歩行、走行どころかもっと別のことまでしているわね」
「もっと別?」
「オーストラリア大震災の復旧作業を、エヴァンゲリオンでやっているらしいわ。考えてみれば大型ロボットですもの、瓦礫の除去作業とかやってくれるとありがたいわよね」
 なるほど、エヴァンゲリオンにはそういう使い方もあるのかと納得する。
「走行テストまで終わっているのはアスカはもちろんとして、イギリスのサラ、ロシアのイリヤ、フランスのエリーヌ、ギリシャのルーカス、ドイツのクライン、以上五名」
「アルトは?」
 シンジが思わず尋ねていた。
「例の誘拐事件があったから、一回目のテストはお休み。一発勝負で歩行テストにクリアしてるわね」
 ミサトが予想していたとでもいうように結論を答える。
「じゃあ、大丈夫なんだ」
「モチのロン。だいたいにしてシンジくんはときどき紀瀬木さんとメールしているみたいだし、知ってるんじゃないの?」
 メールのやり取りをしているといっても、まだたったの二回だ。最初はシンクロ率についての相談、二回目は無事に見つかった後で大丈夫だったかの確認。それ以外でメール交換はしていなかった。
「シンジくん、女の子は大切にしないと駄目よん」
 そういうことはエンに言ってほしいと思ったが、あえて何も言わなかった。
「ドイツのクラインって、あのいけすかないやつか」
 トウジが思い出したように言う。
「あー、エンくんに勝負挑んで返り討ちにされた子ね。覚えてる覚えてる」
 リオナがうんうんと頷く。
「エンに勝負挑むなんて、身の程知らずなやつだな」
 カスミが言うが、エンは苦笑して首を振るだけだった。
「格闘ランクSとしての実力はあったよ。たいしたものだった」
「と言っているが、実際のところは?」
「瞬殺だったよ」
 ダイチに尋ねられて、レミが答えて、さらに続ける。
「ルーカスも走行テストまで終わってるんだね、よかった」
「愛しの恋人か?」
 コモモが尋ねる。
「うん。妹のエレニちゃんはまだみたいだけど」
「ギリシャ自慢の双子ランクAね。現地では『現代のアポロンとアルテミス』なんて言われてるみたいよ」
 ミサトが言う。だが、それを聞いたレミが顔をしかめた。
「ぜんっぜん違うと思うな☆ ルーカスはシスコンじゃないし、エレニも潔癖って感じじゃないし」
 それは褒めているのかどうか、いまいち判断に迷う台詞だ。
「それから、イギリスのサラも通過してるけど、ヨシノさんからのコメントは?」
 サナエが尋ねてくる。
「あの子なら当然でしょ」
 だがヨシノは一言で終わった。それ以上は話したくないという様子だ。
「フランスのエリーヌって、あの最近ランクAに上がったばっかりのやつやろ」
「綺麗な子だったよなー。マリーさんも綺麗だったけど」
「おい、ケンスケ!」
 だが、もう遅い。その名前はシンジの前ではほとんど禁句だった。
「大丈夫だよ」
 だが、シンジもこれまでの経験から、かなり落ち着くことができていた。
「エリーヌさんも、マリーの分までがんばってるんだね」
 自分も負けられない。もっとうまくエヴァンゲリオンを使いこなして、使徒からこの世界を守らなければ。そして言うのだ、自分の命を助けたのはマリー=ゲインズブールなのだと。
「さて、そうしたらそろそろ明日の話をしましょうか」
 本日のミーティングの内容は、それがメインだった。ミサトの言葉で全員が気をひきしめる。
「まずは赤井さんの走行テスト。全世界で紀瀬木さんとあなたが最後になるから、心して挑んでね」
「分かりました」
「その後でシンジくんと朱童くんのテスト」
 今度は何をするのか、と全員がミサトに注目する。
「いよいよ実戦よ。二人で格闘してもらうわ」
 おおっ、と声が上がる。
「基本的に格闘訓練はシミュレーションでやってもらうことが多くなると思うけど、一回実戦で動かしておくのはやっぱり違うわ。いざ本番というときにうまくできるように、みんなには一回でも多く実機で格闘訓練をしてもらう」
 使徒との戦いは目前だ。この時期に訓練を重ねなければ戦いに間に合わない。
「まず、シンジくんと朱童くんの格闘訓練結果を全部洗い出して、それを各国にまわします。そうして少しでも安全性を確認した上でやらないといけない。大切な役目なのでがんばってねん」
 もちろん否はない。というより、ようやくこのときが来たか、という感じだった。
「手加減はしないぞ」
「僕だって」
 今ではこうしてカズマとも対等の口がきけるようになっている。カズマはそうしたシンジの成長に笑顔で応える。
「それじゃ、解散!」
 そうしてその日のスケジュールがすべて終了した。






 五月二十日(水)。

 そして、この日は赤井サナエの走行テストから始まる。
 一番遅くにランクAになった彼女はすべてのテストが一番最後になる。だからこそこうしてシンジ、カズマの直前に前のテストを一人だけ受けるという形になる。
 だが、その実力はみんなが認めている。シンジ、カズマ、レイに次ぐ不動の四番手。シンクロ率でもテストでも、サナエが他のランクA五人よりも上にいるのは数字が証明していた。
『サナエ、いきます!』
 オレンジの機体が疾走していく。前回の歩行テストよりも安定性があった。
「三倍速いって言われても違和感ないのう」
 トウジの感想通り、彼女はさらにスピードを上げてまっすぐに駆け抜ける。そして目的地、三極プラグのありかに到着──
『って、とーまーらーなーいいいいいいいいっ!』
 え、と思う間もなく玖号機は頭から地面に転げていく。
「……痛そう」
 効果音をつけるなら『びたーん』『ずざざざざーっ』というところか。正面から倒れて、そのまま何十メートルか滑っていった。自分の体で同じことをしたら、正面が擦り傷だらけになって、もしかしたら救急車で運ばれるかもしれない。
「大丈夫、赤井さん?」
 リツコがおそるおそる尋ねる。
『い、いたいですぅ』
 半べそをかいたサナエが無事であることを伝えてくる。
「大丈夫なら早く三極プラグをつけなさい。あと十秒しかないわよ」
『わかりましたぁ!』
 痛みをこらえて立ち上がり、三極プラグを手にしてはめこむ。これで終了。またもや残り二秒というぎりぎりの合格だった。
「いいわよ。じゃ、来週からは格闘テストになるから、覚悟しておいて」
『はいぃ』
「じゃ、シンクロカットするから」
 モニタの画面が消えてシンクロがとまる。これで痛みは消えたはずだ。
「いっつもぎりぎりやのう、あいつは」
 トウジの言葉に苦笑がもれる。だが、
「それでも、合格は合格だよ」
 真剣な表情で見ていたのはタクヤだった。
「二回連続でぎりぎりのクリア。もともとは順調出世でAランクまで来た子だよ。まだ底を見せてないって思った方がいいんじゃないかな」
「同感だ」
 カズマも頷いた。
「味方だと不安だが、敵にすると厄介なやつになりそうだな」
 それはどういう評価なのだろうか。だが、あまりに的確な評価に何も答がない。
「さて、と」
 座ってみていたカズマが立ち上がった。
「そろそろ行くぞ、碇」
「うん」
 いよいよ、二人の格闘訓練がスタートする。






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