「大統領。日本で『木馬』が動き始めました」
 深夜、大統領の下に報告が入る。ベネットは「そうか」と返事をした。
「本当によろしかったのですか。アメリカのチルドレンを失う結果になっても」
「かまわんよ。もともとアメリカへの帰属意識のない少年だ」
 ベネットは不敵に笑う。
「アメリカに従わぬ者がどういう運命になるか、世界中に知らしめてやればいいのだ」












第佰肆拾陸話



感染、汚染、届かぬ祈り












「シズカは強制停止信号を打ち続けて。マヤはMAGIを使って原因の究明にあたって!」
『分かりました!』
 二人の声が重なる。その間にできることは何でもしておかなければならない。
「ごめんなさいね。すぐに止めるから」
『俺は問題ないが』
 ただ単にシンクロをし続けているだけのこと。それほど苦痛というほどではない。
「三極プラグ、はずせるかしら」
『了解』
 電源さえ行かなければ、エヴァンゲリオンは五分で停止する。この場合、それが一番手っ取り早い。
 だが。
『駄目だ。どこかでロックされているのか、まったく外れなくなっている』
「そのあたりに原因がありそうね。マヤ、三極プラグを集中的に調べて」
「了解」
「アイズくん。いざとなったら三極プラグを爆破して電源をカットするわ」
『了解。外れないものはどうしようもないからな』
 緊急事態警報が出ているわけではないが、仮設本部はそれに近い状況に陥っていた。全職員があわただしく動くので、そこで待機しているマリィも不安げな表情に変わる。
「マヤ。同時に本部に連絡。初号機と漆号機、それからシンジくんとカズマくんの出動準備をさせて。ジェット機で二人に来てもらうことになるかもしれない」
「了解しました」
「マリィさんは改めてスタンバイしていて頂戴。もしかすると、拾壱号機で拾号機を止めてもらうことになるかもしれないわ」
「どうやってですか」
「装甲を壊して、エントリープラグを引き抜くのよ」
 マリィの背筋に悪寒が走る。シンクロをカットしない状態でそんなことをしたらどうなるか。いくらシンクロ率が四〇%に達していないとはいえ、いわば自分の首筋からずぶりと手を差し込むようなものだ。死にたくなるほどの激痛が生じるに違いない。
「シンクロがカットできなかった場合の最後の手段よ。そんなことにはならないと思うわ」
 これがどういう嫌がらせなのかは分からないが、電力を供給しなければいいだけの話だ。最悪、根元の方から壊してしまえば電力は供給できなくなる。
『なかなかヘビィだな』
 アイズも聞こえていたのか、うんざりした様子で答える。
「大丈夫よ。すぐに電力を止めるから」
 だが、電力供給の方もまるで効果がない。エヴァンゲリオンの方から強制供給をさせているような感じだ。
「壊すしかないわね」
「もう少しでプラグの調査終了しますが」
「具体的に」
「二十秒」
 それが致命傷とならないだろうか。既にシンクロを開始してから八分が経過している。二十秒経過した後、電力供給がストップしてから三百秒はエヴァは稼動してしまう。できれば十分だが、十五分までならパイロットへの負担はかからない。
「いいわ。お願い」
「了解です」
 じわじわと時間が過ぎ去る。長い二十秒だった。
「出ました」
「見せて」
 映像に調査結果が出る。
「……トロイの木馬」
 それはコンピューターウイルスのようなものだった。歩行訓練のことをアメリカも知っていたのだろう。シンクロ状態から三極プラグを再接続することによってウイルスが起動する仕組みになっている。一度ウイルスが発症すると、エヴァンゲリオンのシンクロがカットできなくなるばかりか、電力供給を強制的に行わせるようになる仕組みのようだ。
 もちろん、それがどれほど恐ろしいことかは分かっている。かつて、シンクロ訓練中に嫌がらせによる事件が起こった。音羽ケイイチという少年。彼はランクAを目前にして同期メンバーから妬まれ、シンクロがカットできないように細工され、二時間もシンクロし続けていた。彼は完全に精神を汚染され、半年経った今でもベッドの上だ。
「直ちに電力をカット。破壊して」
「了解しました」
 マヤが複雑なパスワードをミスすることなく最速で入力する。そしてすぐに三極プラグから伸びるコードが爆破切断された。
 瞬間、緊急警報が鳴った。
「どうしたの!?」
「エヴァンゲリオン、作動停止!」
「作動停止? 電力供給停止直後に?」
「はい。シンクロ接続を維持したまま、生命維持モードに変更されています!」
 生命維持モード。【パイロットの命を守るために】他の機能をすべてカットして、エントリープラグ内部の生命維持にのみエネルギーを費やす状態だ。普通はシンクロも切断されるが、この場合はシンクロが切断されていない。
「停止までの時間は?」
「本来なら十七時間ですが、シンクロが切断されていないので十二時間くらいだと推測されます」
 もっとも十時間以上も生命維持モードで待機していれば、内部のLCLが浄化されなくなってきて、生命維持がかなわなくなる。だが、音羽ケイイチの例を見るように、シンクロが接続されている状態なら十時間もいらない。二時間あれば充分パイロットを廃人にできる。
「マヤ、トロイの木馬が潜んでいたのはどこ?」
「拾号機の三極プラグ差込口です」
「じゃあ、狙われたのは」
「拾号機とアイズくんです。拾壱号機には同じウイルスは感知できません」
 ならば拾壱号機で強制的にアイズを救出するしかない。エントリープラグの射出ができないなら、エントリープラグを引き抜くしかない。
「やってくれるわね」
 これがアメリカのやり方か。自分の国民を犠牲にしてまで、いったい何がしたいのか。エヴァンゲリオンの安全性を問題にして、エヴァンゲリオンを廃棄させるのが狙いか。
 いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
「初号機と漆号機の準備は?」
「ほぼ完了したとのことです。ただちに出発できます」
「すぐに向かわせて。二十分もかからないはずよ」
「了解しました」
「マリィ、拾壱号機、搭乗準備!」
「了解!」
 マリィもこれが緊急事態なのだということを既に理解している。アイズを救出するにはそれしか手がないのだということも。
「アイズくん、聞こえる?」
『感度良好』
 シンクロシステムだけではなく、通信設備もどうやらそのまま起動しているらしい。
「荒っぽいやり方になるわ。痛いけど我慢してくれるかしら」
『このまま乗り続けて廃人になるくらいならその方がいいだろう』
「ごめんなさい」
『気にするな。悪いのはアメリカだろう?』
「おそらくはね」
『なら俺たちの問題だ。俺たちもアメリカから亡命しようとしたくらいだからな。大統領にはとっくに目をつけられている』
 覚悟したようにため息をついたアイズ。
「できるだけ痛くならないようにするわ」
『そう願う』
「気を失っていた方が楽だと思うわよ」
『そちら側からLCL濃度を圧縮することは?』
「無理みたいね」
『なら、最初の衝撃で気を失うことができるように願っていよう』
 そうこうしている間に、白銀の拾壱号機が再起動する。そしてふらつく足取りで拾号機に近づく。
『大丈夫、アイズ?』
『今のところはな。精神汚染もまだ始まっていない』
『良かった。まったく、いくらタイムが速くても無事に帰ってこなかったら意味がないじゃない』
『そうだな』
 お互いの責任でないとはいえ、それくらいの憎まれ口をたたかなければ、この後の恐怖に耐え切れなくなる。
 死にたくなるほどの激痛。それを経験するのはアイズだけなのだ。
『行くわよ』
 マリィが動かない拾号機の後ろに回る。
『一気に頼む』
『了解』
 そして、その白銀の機体が、拾号機の首筋に触れた。
 直後、再び鳴り響く緊急警報。
「今度は何!?」
「トロイの木馬が、拾壱号機に感染しようとしています!」
「何ですって」
 コンピューターを見る。確かに指先から浸食が始まり、電気ケーブルを通って一気にエヴァ全体がウイルスに冒される。
「拾壱号機、シンクロカット!」
「強制終了します!」
 これは時間の勝負だ。もしも少しでも遅れたなら、拾壱号機も拾号機と同じようにシンクロカットができなくなる。
 だが、ここはうまくいった。完全にシンクロがカットされ、電源も落とされる。エントリープラグも外側からの着脱可能状態が維持できていた。
『赤木博士!』
 だが、当然ながら拾壱号機のマリィからはクレームが来る。
『アイズを救出するまで待ってくれたって!』
「その間にあなたも汚染されたらどうするの。アイズくんも救出できない、あなたも汚染されたとなったら手も足も出ないのよ」
『それじゃあどうしろっていうんですか』
「今の感染経路からウイルスをMAGIに解析させてウイルス抗体を作るわ。初号機と漆号機の到着まであと──」
「十七分後予定です」
「ただちに抗体をインストールして救出作業を行います。アイズくん」
 もうシンクロを開始してから十五分になろうとしている。しかもアイズはまだシンクロを実験は二度目でしかない。負担は大きい。
「我慢、できる?」
『せざるを得ないだろう』
 だが、ここにきてアイズの表情は苦痛でゆがんでいる。
「話でもしていましょうか。少しでも気がまぎれるように」
『いや。無駄だ。精神汚染は自分の意識とは関係なく作動するようだからな』
 アイズは既に、自分の精神状況に異常が出始めていることに気づいていた。
『シンクロ切断まで、どれくらい時間がかかりそうだ?』
「少なくともあと三十分は見てもらわないといけないわ」
 このとき丁度、シンクロを開始してから十五分が経過した。
『長いな』
「ごめんなさい。すぐに抗体を作って、助け出してあげるから、堪えて」
『なんとかしてはみるが、自信はないな』
 涼しい声と表情で言われても、それがどこまで強がりで、どこからが本気なのかが分からない。
『すまないが、音声と画像は切ってくれないか』
「でも」
『耐えられる自信がないと言った。自分の醜態は見せたくない。できるだけ早くに助けてくれ』
 無論、MAGIのウイルス除去機能は現在フル回転で抗体を作成中だ。
『その抗体を拾壱号機にください』
「無理よ。今、拾壱号機は既にウイルスに侵されているもの。エントリープラグを抜いてあなたの安全を確保してからでないとウイルス抗体を注入できないわ。その時間の見積もりはおよそ五十分。初号機と漆号機が到着する方が早い」
「ウイルス除去プログラム、完成しました!」
 さすがにマヤの仕事だ。早い。リツコの目算では初号機の到着直前になると思っていたのだが。
「複製を作っておいて。できるだけ多く」
「分かりました!」
「とにかく、初号機と漆号機があなたたちを助けるまで、二人ともそこにいて」
『分かりました』
『了解』
 悔しそうな表情のマリィと、涼しい表情のアイズ。だが、
『すまない。そろそろ幻覚が見え始めた。通信を切ってくれ』
 平然とそんなことを言い始めたので、全員がぎょっとする。
「幻覚?」
『頼む。醜態は見せたくないと言った。その記録が残ったりしようものなら、助かった後に俺は全力でネルフと戦うぞ』
 それはある意味脅しに違いなかった。分かったわ、とリツコが答えて映像を切断する。
『アイズ』
『お前もだ、マリィ。通信を切れ』
『私』
 お互い、たった一人の同郷者。この外国の地で、唯一寄りかかることができる同胞。
 それを。
『見ていては、駄目なの?』
 マリィが尋ねる。アイズは目を閉じた。
『見ていられなくなったら、通信を切れ』
 それは、唯一の仲間だと認めてくれたということだろうか。
『分かった。ずっと見てるから、アイズのこと』
『自分の彼女から言われるのなら本望だったんだろうがな。お前も俺じゃなくて、カスミにでも言ってやれば喜ぶんじゃないのか?』
『あいつは喜ばないよ。確かに私はカスミが好き。ずっと好きだった。でも、アイズは違う。私にとってアイズは男も女もない。自分にとってたった一人の──』
 たった一人の、何というべきか。
 適切な言葉が思い浮かばない。だが、何かを伝えなくてはいけない。
『気にするな』
 アイズが目を閉じたまま答える。
『俺はお前たちすら信じてはいなかった。だが、お前もキャシィも、俺は信じていた。俺たち三人はそういう関係なんだと……』
 少しずつ声がかすれてくるのが分かった。
『アイズ?』
 マリィが拾号機に向かって語りかける。
『ねえ、アイズ、答えて!』
 返事はあった。
 だが、既にアイズの意識はここになかった。
『聞こえている──キャシィ』
 マリィは震えた。
『アイズ? ねえ、アイズ、冗談はやめて』
 マリィの声は届かない。アイズの口から流れてくるのはもう、まったく別のことだった。
『すまない、キャシィ』
 マリィの声は、届かない。






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