その人物が心の内に抱いている世界の姿というのは一人ずつ全く異なる。それは、その人物が今までどのように生きてきたか、その結果として表れるものだ。
だからこそ人の深層心理には違和感がない。それは、その人物にとって正しく世界を現しているからに他ならない。それがどれだけ寂しいものでも、悲しいものでも、その人物にとってはそれこそがまさに『世界』なのだ。
第佰肆拾漆話
道、孤独、果てなく長く
アイズ・ラザフォードにとってキャシィ・ハミルトンという存在はただの仲間というわけではない。幼少期から誰も信じず、誰も頼らずに生きてきた少年にとって、マリィ、キャシィという二人の少女は初めて心を許せる存在だったのだ。
その裏切りは少年の心に重い楔となってのしかかる。マリィまでも疑うようなことを少年はしていない。だが、自分が信じたものでも裏切られることがあるというのは、それまで高まっていた人間不信をさらに強めることになっていた。
ここは、アイズ・ラザフォードの深層心理。
碇シンジにとって世界というのは、自分をどこかへと連れ去っていく列車のようなものだったが、アイズ・ラザフォードにとってはまったく異なる。彼は今まで自分の人生を誰かにたくしたことも、投げ出したこともない。ひたすら歩いていた。歩いて、歩いて、歩き続けてきた。
だから彼の深層心理は、ひたすら長く、果ての見えない道路。いや、果てのない道路。ただ道の上だけを歩いていく。延々と歩いていく。
道の両脇には延々と住宅が並んでいる。だが、すべての建物に入り口はなく、高い壁でさえぎられている。壁の向こうからは楽しげな声だけが聞こえてくる。すべての建物は自分を拒み、すべての存在は自分と別の世界で幸せに暮らしている。自分だけが孤独で、自分だけがさびしい。
後ろを振り向くことはなぜかできない。そういう世界観なのだろう。そして後ろからは赤い夕日が差し込み、自分の影を長く長く作る。道の果てまで長く伸びる自分の影。自分の影を追いかけるように、アイズはただ前へと進む。
どこまで進んでもアイズの世界に変化はなく、どこまで行っても歩んでいる道路に終わりはない。他のすべての存在に拒絶されて、ただ一人孤独な世界を歩む。それがアイズの世界の根源だ。
「キャシィ」
道の向こうに、誰かの姿があったような気がした。知っている人間だと思う。この長く、さびしい世界に見つけた人の影。自然とアイズの足取りは早まる。
こんな自分でも、誰かと一緒にいたいと思うものなのか。
苦笑する。そんな権利が自分にあるのだろうか。自分は愛されることを知らずに育った存在。廃墟のミュンヘンに生まれ、親の命を糧にして生きながらえた悪魔の子。
だから義父母も自分を疎んだ。義父母は彼に孤独と苦痛を望んだ。彼はそれを受け入れた。自分は彼らの子ではない。だから自分は疎まれても仕方がない。
だが、自分が彼らを愛する理由もない。彼らがどういうふうに生きようと関係ないし、どのような死に方をしても自分とは無関係だ。
そう。無関係なのだ。
『どうしてお前はあの×××のようにできないの!』
足を止めた。
隣の家の窓から、奇声が聞こえる。
『お前が私たちの子なのよ』
『あんな気味の悪い×××にできて、どうしてお前にできないの!』
ヒステリックな女性の声。かつて聞いたことのあるその叫びが聞こえたとき、彼の体は動かなくなった。その声の意味することが分かるから。自分がのろわれた存在だと分かるから。
『私、×××じゃない』
『私はあんな×××みたいな生き物じゃない!』
子供の声。
なまじ自分が優秀なだけに、義妹は大変な目にあうことになった。来る日も来る日も嫌いなピアノばかり弾かされて、快活だった子供は次第に笑わなくなった。
『お前のせいだ』
いつの間にか、うつむいた小さな少女が道の真ん中に立っていた。
『お前がいたから、私が苦しむ』
『お前がピアノさえ弾かなければ』
『お前が私をこんなにした』
『お前は見ていた』
『私が苦しむところを』
『私が泣き叫ぶところを』
『私が助けを求めていたところを!』
そう。
自分は知っている。あの離れにいたときに聞こえてきた泣き声と、助けを呼ぶ声と、それに伴って混じる義母のヒステリックなわめき声。
『お前は私を見捨てた!』
『私は助けを求めていたのに!』
「お前が?」
少年は妹を見捨てたことを後悔していない。
後悔していることがあったとしたら。
──自分がピアノを弾く前の義妹は、自分を慕っていたということだ。
『お前がピアノを弾かなければ私は苦しまなかったんだ!』
「そうかもしれないな」
『そしてお前は私を助けにも来てくれなかった! お前がピアノを弾けば弾くほど、お母さんは私をぶった。何回も蹴られて、何回も殴られて、私はただ泣いて許しを求めた。それなのに、それなのにお前は!』
そう。
アイズ・ラザフォードは決して後悔していない。妹を見捨てたことを後悔していない。
後悔していることがあったとしたら。
……たすけて、おにいちゃん……
──自分がピアノを弾く前の義妹は、自分を慕っていたということだ。
『お前は見捨てた! 私を! 一つ下の妹を! 私がどれほど泣いても、叫んでも、お前は助けるどころか見向きもしなかった! 私の泣き顔を見ても表情一つ変えなかった。この×××!』
「そうだな。俺はお前を見捨てた」
『お前に私を苦しめる権利があるの!? お前が好き勝手にやればやるほど私は苦しんでいた。お前さえいなければ私は幸せだった! お前さえいなければ! お前さえいなければ!』
そう。
少年は知っている。自分を苦しめたその言葉。
お前さえいなければ!
それが、自分の義理の妹の口から吐き出された呪いの言葉だということを。
「俺はお前を見捨てた。それを後悔したことはない。だが、俺がピアノを弾いたことでお前が慕ってくれなくなったのだとしたら、俺はピアノとお前と、どちらをとればよかったんだろうな」
他に誰も頼れる人がいない世界でピアノまで取り上げられたならば、自分にはもう何も残っていない。妹は自分を助けてくれるのか? そんなことがあるはずがない。
自分は、自分を救うために、妹を見捨てた。
そんなことは、たすけて、と言われたあの瞬間から分かっていたことだ。
『たすけて』
義妹が、一歩自分に近づく。
『たすけて、おにいちゃん』
うつむいていた顔が。
ゆっくりと、あがる。
火で焼けただれ、醜くゆがんだ顔。
この顔を自分は知っている。
あの日、廃墟の中で見つけた遺体の死に顔だ。
苦痛と絶望を表現した一つの芸術作品。
『たすけて、おにいちゃん』
炭化した腕が自分に伸びてくる。自分は動くことができない。ざらり、と炭で自分の肌がなでられていく。気色が悪い。吐き気もする。だが、その焼けた顔から目が放せない。
『たすけて、おにいちゃん』
「俺は……」
『それができないなら』
義妹が、自分に抱きつく。
『死んでわびろ、この×××』
義妹の体が崩れ落ちた。
少年の体は震えていた。目からは涙。
「俺は後悔していない」
自分に言い聞かせるように言う。
「妹を助けていたら、俺は助からなかった。俺は俺を助けるために妹を見殺しにした。そのことで俺は後悔なんかしないと決めた」
だが、声はかすれ、体は震え、目から涙は止まらなかった。
「だから謝らない。お前は無関係だと割り切った。お前がどんなに助けを求めても、お前がどんなに泣き叫んでも、俺は聞かないことにした。見ないことにした。それを俺は絶対に謝らない」
『そうしてまた、差し伸べる手を振り払うの?』
後ろから声。
この声を忘れることなどない。自分が信じた友人。
「キャシィ」
後ろを振り向くことはできない。その、自分の顔の両側から、手がゆっくりと伸びてくる。
『ほら、私の手、真っ赤』
血にまみれて。
『殺されたの、私。どうしてか分かる?』
「それは」
『あなたが亡命しようなんて言わなければ、アメリカにいてくれたなら、私も何もしなくてよかったのにね』
「俺のせいだと言うつもりか。アメリカの手先だったお前が」
『あなただってアメリカの人間でしょう。どうしてアメリカの人間が、アメリカの思う通りに動くことができないの?』
「それでお前は幸せなのか? 誰かの手先として生きることが本当に幸せだと言えるのか?」
『幸せよ? だって──』
血まみれの手が、ゆっくりと近づく。
『あなたと、マリィが、いたじゃない』
言葉に詰まる。
『私はあなたたちの監視。あなたたちがアメリカにいてくれたなら、私は大好きなあなたたちと一緒にずっといられた』
「嘘だ」
『本当よ。だって私、あなたたちのことを見てるの、好きだったもの』
血のにおい。
血のぬくもり。
後ろから、ゆっくりと彼女が抱きしめてくる。
『楽しかった。あなたたちと一緒にいられれば、私は余計なことをしなくてずっと生きていられた。あなたがアメリカを離れるというから、アメリカは計画を変えなければならなくなった。ほら、私が死んだのはあなたのせい』
「だが、お前はアメリカの手先だったのだろう。俺たちをずっと監視していた。それを」
『そう。だからあなたの行動はアメリカに全て知られていた。あなたがアメリカから日本に行く。だからアメリカは考えた。碇シンジを抹殺し、その後釜にあなたが座る。だから私に指示が来た。碇シンジを殺せる場所にいるのは私しかいなかったから』
「それなら、お前はその命令も含めて、亡命することができたはずだ」
『できると思ってるの?』
くすくすくすくす。笑い声が耳元で聞こえる。
『私もあなたの妹と同じ。あなたは自分のために私を犠牲にした。他の人を犠牲にすることで、あなたはどんどん幸せになる』
「違う」
『違わないわよ。次は、誰を、犠牲にするの?』
「俺は」
『碇シンジ? それとも──』
「俺は誰も犠牲にしない」
『そう?』
抱きしめていた手が、道の先を指さす。
そこに。
「マリィ」
だが、キャシィの腕は自分を拘束して離さない。
『あの道の先に、二つの結果が待ってるわ』
「なに」
『一つは、マリィと一緒に地獄へ行くこと。もう一つは、マリィを見捨てて幸せになること』
体中が震える。
『さあ、あなたはどちらを選ぶの?』
「決まっている。マリィを助ける」
『本当に? マリィを助けてあなたに何かいいことがあるの? 確かにあなたたちは友達かもしれない。でも、マリィには他に好きな人がいて、あなたに隠し事をしてて、あなたにとっての一番じゃないのよ? あなたがどれほどマリィのことを大切にしてても、マリィはあなたのことを同じように思ってはくれない』
「親友だ」
『本当に?』
その、マリィの隣に。
真道、カスミ。
『あなたにとっての一番は誰なの?』
『あなたが一番と思っている相手は、あなたを一番と思ってくれているの?』
『あなたを思ってくれない相手のために、あなたは自分の幸せを捨ててしまうの?』
「やめろ」
拳を握り締める。だが、体は動かない。
「俺を惑わすな。そんなことは最初から了承していることだ。俺たちのことをかき乱すな!」
『動揺される程度の信頼関係なんでしょう? あなただってマリィに不審を抱いている。マリィはあなたに何を隠しているのかしら? もしかしたら──私と、同じ、かも』
「お前と?」
『マリィも私と同じ、アメリカのスパイかもしれないわよ?』
道の先で。
マリィが、歪んで、笑う。
「嘘だ!」
『でも否定しきれない。マリィがあなたを信頼していないから。マリィがあなたに隠し事をしているから』
「やめろ! マリィは仲間だ。俺はマリィを信じる!」
『そうして裏切られたら、あなたは不幸に、そしてマリィは幸せになる』
「やめろ……もう、言うな」
『いいのよ、見捨てても』
キャシィが笑う。
『だってあなたは今までも見捨ててきたのだから。あなたは自分のためになら他のすべてを切り捨てられる人なのだから。マリィや私に出会わなければ、本当にそうだったでしょう? あなたは勘違いをしているだけ。たまたま同じ境遇の人間を見つけて仲間意識を持とうとしているだけ。あなたに本当の仲間意識なんてない。そうあろうとしているだけ。そんな感情はあなたにはない。あなたには人の持つ優しさなんてない』
『あなたは人を愛することができない』
『あなたは人に優しくすることができない』
『あなたは人と関わりあっていくことができない』
『あなたは人から愛されることすらできない。なぜなら──』
目の前に、炭化した妹。
『あなたは、×××だから──』
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」
精神が壊れていく。汚染されていく。
拠所を壊されていく。自分の心がなくなっていく。
「俺は」
マリィの姿が見える。
(俺はマリィをどう思っている?)
仲間だと思っていたのか。
仲間だと思いこもうとしたのか。
分からない。
仲間としての意識など。
最初から持ち合わせがなかったのか。
(そうかもしれない)
本当に仲間だというのなら。
「お前の声を、聞かせてくれ」
道の先にいる彼女に尋ねる。
「お前は俺のことを、どう思っていたんだ……?」
すると。
その彼女の口が開いた。
(確かに私はカスミが好き)
知っている。そうだと思っていた。
(ずっと好きだった)
そうだ。日本で初めて会ったわけじゃない。それも気がついていた。
(でも、アイズは違う)
違う? 好きなのか、それとも好きでも何でもないというのか。
(私にとってアイズは男も女もない)
何でもないなら、いったい何だというのか。
(自分にとってたった一人の──)
たった一人の──
監視、対象。
「嘘だああああああああああああああああああああああっ!!!!」
次へ
もどる