目を開ける。
 しばらくはここがどこなのかよく分からなかった。自分の体に不調はない。それなのに体がやけに疲れて、指一本を動かすことすら億劫だ。
 いったい何があったのか。
 すぐに思い出せないのは、思い出したくないからだ。
 だが、自分はその恐怖から目を背けない。
 自分が気を失う前に起こったことを、必死に思い返す。
「あ……」
 吐息のようなかすれた声がもれる。
「私、生きてるんだ」

 マリィ・ビンセンスが目を覚ました。












第佰伍拾話



陽、霞、思いつづけて












 古城エンは正直、シンジに会うことを恐れていた。ドイツからの帰り、カナメが死んだことを聞いて取り乱したシンジを抑えたのはエンだった。あのときは自分がすぐ隣にいた。だが、今は誰もいない。事件発生から既に五時間近くがたっている。その間、誰もシンジのケアをしていなかったらどうなるのだろうか。
 だが、それは拍子抜けするほど杞憂だった。シンジは休憩室に一人でいたが、錯乱した様子はない。こういうときに一人でいると悪い方に考えがちになるが、取り乱していないところを見るとシンジも成長したということだろうか。
 到着したエンを見て、シンジはほっとしたような顔をした。
「大丈夫だったかい」
「うん。僕は何ともない。でも、アイズが」
「聞いてる。意識は──」
「まだ。今は集中治療室で処置を受けているところ」
「それにマリィさんも、だよね」
 その言葉にシンジはうつむく。
「マリィさんが意識を失ったのは僕のせいなんだ」
「何があったんだい?」
 たどたどしかったが、シンジは素直に事の経緯を説明した。その上でカズマに殴られたことも。
「朱童くんはそれ以上は何も?」
「うん」
「じゃあ、その件についてはこれで完了させよう。マリィさんの目が覚めてから謝って終わり。シンジくんだって万能じゃないし、今回は最悪の事態にはなっていないんだ。二度と同じミスをしないことが大事だ。朱童くんもそう言ったんだろう?」
「うん」
「シンジくんは他人に優しくて自分に厳しいから、うまく気持ちを切り替えることはできないかもしれないけれど、考えても仕方のないことを考え続けるのは時間とエネルギーの無駄使いだ。それはもっと悪いことだよ」
 そう言われてシンジもうなずいた。考えなくすることは難しいかもしれないが、整理ができればそれでいい。
「ずっとここにいたの?」
「うん」
「よくないよ。一人でいると、何もかも悪いことばかり考えてしまうから」
「そうだと思ったんだけど、でも今は他のみんなが忙しいから、自分が何かすることで煩わせるのも申し訳ないし」
「朱童くんは?」
「気づいたらいなかった。どこにいるかは分からないけど」
 連絡をすればつながるはずだ。特に今はダイチがカズマを探しに行っている。
「もしもし、ダイチくん?」
『どうした』
「朱童くんは見つかった?」
『ああ。ここにいる。代わるか?』
「いや、いるなら大丈夫。ありがとう」
 通話を切ると「出ようか」とシンジを促す。何かがあればエンが体をはってでもシンジを守る。
 二人はまず、治療室の方へと向かった。あいかわらず二人とも集中治療室での処置が続いていた。
「あら、二人とも」
 オペレーターの高橋シズカがちょうどその部屋から出てきた。
「すみません、勝手に出歩いて」
「いいのよ。二人のことが心配だったんでしょう?」
 シズカは優しく話しかけてくる。
「マリィさんはさっき意識が戻ったわ。それで私が確認で話に来たのよ」
「そうですか、良かった」
「ええ。それで、今は真道くんが中に入っているわ」
「カスミくんが?」
 シンジにとっては意外な名前が出てきた。カスミが到着したということを聞いていなかったのもあるし、人を見舞うような人物でもなかったはずだ。
「それで、もう少し待ってくれるかな。二人きりにしてくれって言われてるから」
「はい」
「五分くらいですむ話だって言ってたから、すぐに出てくると思うけど」
「じゃあ、少し待っていようか」
 エンが言うとシンジは頷いて、それからもう一つ尋ねた。
「アイズの様子はどうですか」
「多分命に別状はないわ」
 即答だったが、表情は暗い。
「ただ、精神にどれだけ影響が出ているかはまだ分からない。もしかしたらずっと目覚めないかもしれないし、目覚めても植物人間のようになってるかもしれない。一見普通に見えてもPTSDの疑いもある。いずれにしても今日、明日で何かが分かるということはないと思うわ」
「エヴァンゲリオンの精神汚染というのはそんなに激しいものなんですか?」
 エンが尋ねる。そんな恐ろしいものに自分たちは今まで乗っていたのか、と。
「ええ。ハーモニクスが高かったり、シンクログラフを長時間保てるようなら大丈夫なんだけど、やっぱり十五分を超えると侵食されてくるみたいね」
「いったい、何なんですか、エヴァって」
「分からないわ」
 シズカは暗い表情で言う。
「ただ、使徒を倒すためにはエヴァしかないっていうことくらい」
「でも、エヴァじゃなきゃいけない理由はないと思うんですけど」
「二人にはそう思うかもしれないわね。でも、順調にいけば来週からの実験で分かると思う」
「来週?」
「ええ。A.T.フィールド。説明は受けているわよね?」
 ランクAになってから、シンジはその説明を何度も受けている。小さく頷いた。
 A.T.フィールド。使徒が展開するすべてのものを拒絶する壁。熱量兵器でその壁を越えることはできないと赤木リツコらの専門家は考えている。使徒のA.T.フィールドを破ることができるのがエヴァンゲリオンだけなのだ、とも。
「詳しいことは来週の実験でないとまだ言えないんだけど」
 シズカもそれ以上は機密に触れるので話せないらしい。あまり困らせても申し訳ない。
「分かりました。とにかく、アイズをお願いします」
「ええ、任せて」
 そうしてシズカが立ち去っていく。残った二人は、カスミが部屋から出てくるのを待った。






 その部屋の中では、にやにやと笑っているカスミがベッドのマリィを見下ろして言った。
「無事でよかったぜ、マリィ」
「心にもないことを」
 意識を取り戻したマリィは、少なくとも以前と何も変わらなかった。エントリープラグを引き抜く際の激痛で意識が飛んだだけなのだ。もっとも、そんな荒療治をすればショック死の可能性もあったし、トラウマになる可能性だってある。幸運だったのはシンクロ率がそこまで高くなかったことだろう。これがシンジくらいのシンクロ率だったらショック死は避けられなかったに違いない。
「本当にそう思ってるってーの。俺のトレジャーハンター歴でも、お前たち姉妹ほど俺と関係したやつは他にいないんだからな」
「宝の持ち主として、だろう?」
「厳しいなあ、おい」
 カスミは枕元に腰をおろすと、手でその髪をなでる。
「カスミ」
「聞いてたよ、全部」
「な、なにを」
「お前とアイズの会話。いや、違うな。暴走したアイズの独白を」
「どうして!」
 体を起こそうとしたマリィを強引に寝かしつける。
「悪いな。暴走事件が起きたときいて、ほったらかしにできる性分じゃないんだ」
「アイズは他の誰にも見られたくなかったんだ。それなのに!」
「だろうな。人間誰しも見られたくないことの一つや二つはある。だから俺が知っていることは誰にも言うなよ」
「カスミ!」
「でもな、俺は見ておいて正解だったと思ってるぜ。お前、アイズが暴走したのは自分のせいだと思ってるだろ」
「当然でしょう。私がアイズを追い詰めなければ!」
「客観的に、その考えが間違いだってお前を説得できるのが一番良かった点だ。それこそお前がアイズに何を言っていようが、恋人同士になっていて肉体関係があろうが、そんなことはまったく関係なしにエヴァの精神汚染はとまらなかっただろうぜ。そういうシステムだからな、アレは」
「知ったようなことを言わないで。あなたに何が分かるのよ!」
「少なくとも適格者の中じゃ一番よく分かってるぜ。MAGIに隠されているエヴァの秘密は残らず全部見させてもらった。エヴァに十五分乗っているだけで精神汚染開始。三十分が過ぎたころには立派な廃人の出来上がりだ。精神汚染は本人の一番弱いところから始まり、疑惑の芽を膨らませ、しまいにはその人間にとって信じられていたすべてのものが裏返る。そういう仕組みなんだとよ」
「そんなものに私たちは乗せられているの!?」
「精神汚染の危険性があるなんて、最初から説明があったはずだぞ。だから模擬ですら十分を超えるものは一度としてなかった。それを軽く考えていたのか、お前は」
「そんなことはないけど」
「甘いんだよ。エヴァンゲリオンの技術なんていうのは、元をたどれば使徒研究から来ているものがすべてだ。その危険性も考えないで乗っているっていうんなら、お前らはただの間抜けだ」
 マリィがその言葉にかっとなる。
「何よ、カスミだって乗ってるくせに!」
「ああ。シンクロは一度もしたことがないけどな」
 と、その言葉に違和感を覚える。
「一度もない? 演習は?」
「俺はシンクロなんかできねえよ。偽適格者さ。シンクロ率出したらゼロパーセントって出るぜ」
「で、でも、シンクロテストでは十パーセントくらい」
「俺の数値はMAGIに嘘の表示をさせているからな」
「どうしてそんなことを」
「俺はそういう能力をかわれて、ガードとして雇われてるのさ。適格者の振りをしてな」
「トゥエルフスナイトと同じ」
「そういうこと。同じ適格者の方がシンジや他のランクA適格者を守りやすいだろ? 最初から俺たちの数字は仕組まれたものなのさ」
 マリィは首を振った。一度に新しいことを言われ、混乱していた。
「俺に対する質問はまだあるかい?」
「……ないわ」
「そいつは良かった。そういうわけだから、お前がアイズのことをあれこれ思い煩う必要なんかねえよ。それより友人なら、友人のために何ができるかを考えてやれ」
「友人のために?」
「ああ。アメリカがアイズを狙ったのはほぼ間違いないようだ。お前はキャシィに続いてアイズもアメリカに奪われた形になっている。いや、最初にアメリカの消えた適格者二人もそうか。アメリカのランクAは五人いたが、三人は死亡、一人は重症。残ったのはお前だけだぜ」
「私にどうしろっていうのよ」
「今回の経験をふまえて、それでも使徒と戦うのか、それとも嫌になってここでやめるかってことだ」
 マリィの顔が歪む。
「私がやめるつもりになっているって言いたいの?」
「違うのか?」
「おあいにくさま。私はアイズのことを抜きにしても、やめるつもりなんかさらっさらないわよ。私は自分で望んで適格者になった。これしきのことでやめるつもりなんてないわ」
「痛かっただろ?」
 その言葉で、意識を失う直前の激痛がよみがえった。
「……ええ。死ぬかと思ったわ」
「使徒と戦ったら今度こそ本当に死ぬかもしれない。それでもやるのか?」
「やるわ」
「考えなしに答えるもんじゃねえよ」
「いいえ。私はたとえ何があっても適格者をやりぬくって決めているのよ。私が適格者になったのは、マリィ・ビンセンスという名前を後世に残すためよ。私の尊敬するマリィ・ビンセンスがいかに優秀だったか、本来なら何もなくても残ったはずの名前を、私のせいでそうならなくさせるわけにはいかないの!」
「でもそれはお前の人生じゃない」
「いいえ。私はもうマリィ以外の人間として生きることはできないわ。クレア・ビンセンスは死んだ。公的文書にそう記されている。私はマリィよ。そして同時にクレアでもある。私のこの生き方はマリィとクレア、二人が望んだものなのよ」
 堂々としたものだった。彼女のその意思は覆りそうになかった。カスミは肩をすくめて「わかった」と答えた。
「じゃあ聞くが、マリィにしてクレアであるお前にとって、俺という人間はどういう存在だ?」
「あなたはあなたよ。昔も、今も」
「言っている意味が分からないぜ」
「鈍い人ね。聞いていたんでしょう、私たちの会話を」
 マリィは笑顔を見せた。
「I mean that I love you」
「英語で言われても分からないぜ」
「九ヶ国語が話せる人が何を言ってるのよ」
「言われなれてないんでね」
「じゃあ何回でも言ってあげるわ。ティアモ、ジュテーム、ウォアイニー、イッヒリーベディッヒ、テキェロ」
「聞こえねえ」
「照れなくてもいいわよ。ごめんなさい」
 いきなり謝られてカスミは戸惑う。
「何が」
「励ましてくれてただけなのにね。女の子は弱っているときに近くにいる人を頼りにするって本当なのね。あなたは、私のことなんて、何とも思っていないのに」
 返答しにくい言葉だった。
「でも、私はずっとあなたが好きだった。I've loved you for a long long long long time」
「何回も言わなくても聞こえる」
「だから、ごめんなさい。必ず立ち直るから、今だけ少し、甘えさせて」
 そうしてマリィは、顔をカスミの太もものあたりにあてると嗚咽をもらした。
(やれやれ)
 カスミは手をのばして、その頭を撫でる。
(嫌いってわけじゃないんだぞ。ただ、弱ってるときに口説くのはルール違反っていうか。いつだってタイミング悪いんだよな、お前とは)
 だがそれは今言うべき時ではないだろう。アイズのことが片付いてからゆっくりと話せばいいことだ。






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