五月二十六日(火)。

 平日の四時間目は格闘か射撃だが、この日はいつもとカリキュラムが異なった。ランクA適格者、およびガードは全員ミーティングルームに集められ、エヴァンゲリオンについての『説明』が行われることとなった。
 無論、単なる説明ではない。今までも繰り返し説明はされてきたのだが、今日をもって詳しい説明が最初となるのだが、使徒と戦うための最重要能力ともいえる技、A.T.フィールドについての説明だ。
 適格者にはA.T.フィールドと呼ばれるものについての説明は、実は適格者試験にパスした段階で伝えられている。その後も何かの折に触れては説明されてきたので、シンジといえどもまったく知らないというわけではない。
 まずA.T.フィールドは対物理攻撃を完全に断絶することができる『バリアー』のようなものである。A.T.フィールドを意図的に展開すると、使徒と通常兵器との間には何者も通すことができない壁が生まれる。
 これについては既に使徒研究家たちから指摘されていることだが、通常兵器ではまったく歯が立たない。物理的な攻撃、熱、電気などはまったく通過しない。A.T.フィールドは透明であるため、唯一光だけが通過することができるという。
 そのため、使徒に対して有効な攻撃は三つ。
 その一。A.T.フィールドを展開される前に倒してしまう。だが、これは確率論的にはまったく価値のない考え方だ。使徒の出現と同時にA.T.フィールドを展開されたらすべて終わりだ。
 その二。ゼロ距離射撃──わかりやすく言うと使徒体内から攻撃をすることでA.T.フィールドの内側から攻撃するという方法。だが、これには当然ながら大きな危険が伴うし、使徒の体内にもぐりこむ役目の人間は百パーセントに近い確率で死亡するだろう。
 その三。こちらからもA.T.フィールドを展開し、相手のフィールドを浸食することで無効化するという方法。すなわちこれがエヴァンゲリオンの原点となる。使徒の力を研究し、A.T.フィールドを展開できるようにした決戦兵器、それがエヴァンゲリオンだ。












第佰伍拾肆話



記憶喪失のプレスティシモ












 A.T.フィールドが実際に展開できるかどうかは未知数だ。何しろまだ一度も実験したことがないのだから、まずはやってみなければわからない。
 少なくとも碇シンジ、朱童カズマの二名は格闘訓練まですべて完了している。あとはこのA.T.フィールドさえ展開できれば、使徒と戦う準備が完了することになる。
 他の適格者についても格闘訓練の目処が立てばいつでもA.T.フィールド展開訓練に入ることになるので、ここで最初に説明してしまうということになる。
「まず、はっきりと言えるのは、なぜA.T.フィールドが展開できるのかという理屈が完全に解明されているというわけではないということです」
 赤木リツコの説明は適格者たちに不安を与える。わからないものを使って大丈夫なのか、それこそアイズのときのようなことになったりはしないのか、と。
「A.T.フィールドを展開するために必要なものは二つ。エヴァ内部に搭載されているコアと、そのコアに『フィールドを展開しろ』と命令する操縦者です。つまり、シンクロできる適格者でなければA.T.フィールドは展開できません」
 もっとも、シンクロできなければそもそもエヴァ自体動かすことができないわけで、操縦者がいるのはむしろ当然ともいえる。
「コアへの命令はボタン一つで可能です。ただ、どのように展開するかというのは、コアが操縦者の思念を読み取って自動的に形成します。したがって、頭の中でイメージする力が必要になります。もちろんシンクロ率が高いほど強いA.T.フィールドが展開できるし、浸食もしやすくなります」
 だが、実際にはどうやって展開するのか、浸食するのかということは分からない。それも全て実験をしてみなければ分からないということか。
「走行訓練までクリアしたメンバーは、来週月曜日に格闘訓練を行います。それから、既に格闘訓練が終わっている碇シンジ、朱童カズマ両名のA.T.フィールド実験は今週金曜日に行います。綾波レイ、赤井サナエ両名については今週の格闘訓練を見てから決めます」
 いよいよだ。格闘訓練も非常に大切ではあったが、そこまではいかにシンクロするか、操縦するかの問題。だが、これからは違う。どうやって使徒と戦うか、まさに実戦だ。
「あと、走行訓練まで終了していないのは四名。鈴原トウジ、野坂コウキ、館風レミ、神楽ヤヨイについては本日、明日中に走行訓練にクリアすること。いいわね」
 シンジ、カズマ、レイ、そして赤井サナエまでが先週までにクリアしていたが、昨日榎木タクヤもようやく合格することができたが、残りの四人はまだ合格できていない。本日昼食後に再テストだ。
「綾波レイ、赤井サナエには明日格闘訓練を行ってもらいます。そのつもりでいるように」
 レイのシンクロもここしばらくはずっと安定している。格闘になってそれでもうまく操縦できるかどうかはまた別の話になるが。
「何か質問は?」
 手を上げたのはカズマだった。
「何かしら」
「このペースで問題ないのかどうかが疑問だ。使徒が現れるのは時間の問題だ。それを悠長に間隔をあけながら実験していてかまわないのか?」
「急いでいるわよ、これでもね」
 リツコは心外という様子で答える。
「ただ、急ぎすぎてもいいことはないわ。歩行訓練の結果を走行訓練に生かし、走行訓練の結果を格闘訓練に生かしている。シンクロ結果を次の実験に生かしているからこそ、みんなのシンクロ率が上がっている。実験の間隔が一週間も空いているのは、こちらで情報を分析し、エヴァンゲリオンを調整しているからだと思ってくれていいわ。これ以上ペースをあげられると、技術部はまだしも整備の方が追いつかないのよ」
 なるほど、とカズマは頷く。何もパイロットだけが実験をしているというわけではない。技術部が総力をあげてこの実験に挑んでいるのだ。
「悪かった」
「分かってくれればいいわ。焦りは禁物よ。他には?」
「はい」
 マリィが手を上げて尋ねた。
「拾壱号機はどうなっていますか?」
「強引にエントリープラグを引き抜いたものだから、まだ稼動はできないわね。マリィさんは今週は見学。早くて来週の水曜日以降の仕上がりになるわ。伸びることはあっても早くなることはないと思って」
「分かりました」
 だがマリィは既に格闘訓練を済ませているようなものだ。走行訓練などを飛ばして、一気に拾号機との格闘訓練を行っている。わずかな時間だが。
「他に質問は? なければ解散していいわ」
 リツコからの説明が終わり、気づくと四時間目が終了していた。
 と、ここでムードメーカー桜井コモモからいつもの号令がかかった。
「はいはーい、ちょっとみんな食事に行く前に集合!」
 全員が足を止めてコモモに注目する。
「今月三十日はリオナさん、そして来月六日はシンジの誕生日。というわけで恒例の、誕生日パーティ開催!」
 おー、と女の子を中心に声が上がる。
「今回はシンジの誕生日にあわせて六月六日の土曜日でやりたいけど、みんなはどう? 異論ある人!」
 ありませーん、とはかったような返事。
「というわけで準備はまたこっちで進めておくので、時間のあるときにでも誕生日プレゼントの準備、忘れないでおいてくれよな! 以上、桜井コモモでした!」
 誕生日か、とシンジが改めて思い返す。去年もみんなから祝ってもらった。その前の年はまだここに来ていなかった。一人でさびしく過ごした記憶しかない。
「過去を振り返る少年の図」
 ぼそり、と耳元で声がして、うわっ、と声をあげる。
「か、か、か、神楽さん、驚かせるのなしっ!」
「油断大敵」
 ふっ、とかっこよくポーズをとる。
「今が充実しているのなら、過去は思い出さない方がいい」
 そう言ってヤヨイはシンジの胸に手をあてた。
「え?」
「過去が辛いなら考えなくてもいい。それは逃避ではなくて、防御。充実した今を繰り返せば、辛い過去は乗り越えることができるから」
 その言葉を、ヤヨイはいったいどういう気持ちで話しているのだろう。
 昔の記憶のない少女。
 普通に話していると、そんなことも忘れてしまいそうになるのだが。
「ありがとう、神楽さん」
「お礼は形のあるもので」
 そうしたところはいつものヤヨイだった。






 そうして走行訓練が始まった。
 さすがに回数を重ねてくると、誰もがうまく扱えるようになってくる。コウキとレミが無難にクリアしたが、トウジは最後で足がもつれて転んでしまい、明日水曜日の午後休みを利用しての再テストとなった。妹のお見舞いができなくなってしまい、大変落ち込んでいた。
 そして最後にヤヨイの番だった。
(初めて模擬シンクロしたときから感じていた)
 エントリープラグにLCLが注入される。肺に流れ込む、一瞬の苦痛。それが終わっていよいよシンクロ。
(シンクロした先に、過去の自分が見える)
 自分がエヴァに乗ったのは偶然の産物に過ぎない。だが、初めてランクBになって、シミュレートでエヴァに触れたとき、自分の記憶が一瞬よみがえりかけた。
 それから、何回も自分はエヴァに接しようとしている。
(私は誰?)
 ヤヨイはプラグの中でエヴァに問いかける。
(私は誰?)
(私は誰?)
(私は誰?)
 何度も繰り返す。そして繰り返したその先に──
(見える)
 幼い頃の自分。
 そう。
 初めてこの機体に乗ってシンクロしたときもそうだった。
 幼い頃の自分が、駆け出していく。自分から遠ざかっていく。
 それを追いかけようとして、手を伸ばした。
 だが、自分の姿はそれより遠く。
 伸ばしても、伸ばしても、届かない。
(私は誰?)
 子供の頃の話をいくらされても、まったく自分には実感がわかない。
 それは、自分という存在が、過去の上に存在していないから。
 ネルフに入ってからの、たった二年の時間だけが、自分の存在時間。
 遠ざかる子供の影は、自分が持たない十三年分の時間を持っていこうとしている。
(返して)
 ヤヨイは手を伸ばす。
(返して)
(私の記憶を、返して──)






「し、シンクロ率……四六.三一二%!?」
 気づけばヤヨイの走行はとっくに終わっていた。
 三極プラグに到着してからしばらく動こうとしなかったものの、残り時間ぎりぎりになってから電極を差し込んでいた。
 だが、今のリツコの驚愕の言葉から分かるように、今回のヤヨイの数値は『異常』だった。
 今まで三〇%すら超えたことのないヤヨイが、四〇どころか四五のシンクロ率を超えてきたという事実。
「ヤヨイ、聞こえる?」
『ええ』
「今、何をしたのか、分かる?」
『走った』
 その通りだ。だが、聞きたいのはそんなことではない。
「どうやって?」
『よく分からない。私はただ追いかけただけ』
「追いかけた?」
『逃げていくから、追いかけた。それだけ』
「何を追いかけたというの?」
『何かを』
 要領を得ない。おそらく話している本人もよく分かっていないのだろう。どう答えればいいのか迷っているような様子だ。
「いいわ。後で詳しく聞くから、まずは戻ってきなさい」
『了解』
 シンクロが途切れ、通信も切れる。
 まったく、シンジの件だけでも分からないことだらけだというのに、ここにきてもう一人、正体不明の存在が現れてきた。
(いえ、正体不明なのは最初からね)
 記憶喪失の少女。
(正体は分かっている。親も、何もかも。ただ──)
 小学校六年生になった後、五月から七月の三ヶ月間、彼女は行方不明になっている。
 そして彼女が発見された直後、綾波レイのシンクロ適性が発見された。
(偶然かしら)
 今まで考えたことはなかったが、二人はどこか似ているところがある。レイはヤヨイほど変ではないが、動じない性格や感情表現が豊かではないところなどは似ていると言っていいだろう。
(私の知らないところでも、何かが動いている)
 ネルフが、碇ゲンドウが何を考えているのか。それはリツコにはだいたい分かっている。だが、自分は結局まだ新参で、若造だ。エヴァンゲリオン開発の最重要機密は『あの四人』でほとんどが運営されていた。そして、その中の一人であるアイリスフィールはロシア支部立ち上げに際して帰国していったが、ちょうどヤヨイの失踪時期、すなわちレイのシンクロ適性が発見された頃にはまだ日本にいた。
(シンジくんのことも合わせて聞かないといけないけど)
 そんな最高機密を簡単に教えてもらえるはずがない。
(直接ロシアに出向くしか、方法はないかしらね)
 もちろんそんな時間があるはずがない。どうしたものかとリツコは頭を悩ませた。






 そのロシア第二の都市、サンクトペテルブルク。その北西に浮かぶ島、コトリン島、通称クロンシュタット。バルチック艦隊の本拠地の一つであるこの島に、ネルフ・ロシア支部が存在する。
 セカンドインパクト前は四百万人を誇る都市であったが、今では百万人を超える程度の都市だ。それでも百万人もいるのだからたいしたものだというべきか。近年、ネルフ・ロシア支部の設立もあって休息に人口が回復している。
 ネルフ支部をこの場所に選んだ一番の理由は立地の問題がある。バルチック艦隊が他の船の接近を拒んでいるので、自然とスパイの紛れ込む可能性が低くなるということだ。堤防によって大陸とつながってはいるのだが、当然ながら島に入るには検問をパスしなければならない。そこで大方はひっかかってしまう。
 逆に言うと、隔離された場所だけにイリヤのような少女にとっては刺激がなくてつまらない場所、ということにもなる。
「固形食糧おいしくなーい」
 今日もイリヤは不満そうにその食事を食べる。確かに栄養が偏ることはないし、時間もかからず摂取できるので、軍隊としては非常にありがたい食糧なのだが、いかんせん食の楽しみというものが全くない。
「お兄ちゃんの食事が食べたいなあ」
 はあ、とため息をつく。そこに母親、アイリスフィールからの連絡が届く。至急、発令所に来るように、とのことだ。
「ママ、また何かやらかしたのかしら」
 残りの食糧を無理やり飲み込み、急いで発令所へ向かう。
 行く途中、何人かの適格者とすれ違う。彼らは『階級』が上のイリヤが通ると、壁際に立って敬礼をする。イリヤも敬礼を返しながらその前を通り過ぎていく。
 イリヤにとってはこれが普通のことだった。それから考えると、他の国はどうしてあんなに緩いのか、理解ができない。特に日本はひどかった。ランクA適格者が敬われる文化だけは生き残っていたが、敬礼どころか気を使うことすらしないような地域だった。
 やはり軍組織の弱い国はそうなってしまうものなのだろうか。
 発令所に着いたイリヤを待っていたのは、母親アイリスフィールと見知らぬ男であった。
「イリヤ。あなたに紹介したい人がいるのよ」
 目の前の男が小さく頭を下げた。



「はじめまして。自分は桑古木リョウゴといいます」






次へ

もどる