この暗い部屋の中は好きではない。空気もないのに呼吸ができるこの空間は例えるならば母親の胎内か。外に出たいのに閉じ込められているようで、それなのに自分を守ってくれる存在が心地よくて、吐き気がする。
誰かにすがりたい自分と、誰かを拒絶したい自分。
その二つがせめぎあうのが、この中にいるとよく分かる。そのどちらもが自分の意識であり、否定することはできない。
(姉さん)
母親のことなど覚えていない。覚えているのはずっと一緒に暮らしてきた姉だけ。
(俺はここで、随分弱くなってしまったらしい)
その感覚すら、自分にとってはわずらわしいだけのことだった。
第佰伍拾陸話
相互扶助のプレザントリー
五月二十八日(木)。
この日、日本の適格者たちは特別な訓練はなかった。単純に、技術部の方が翌日のA.T.フィールド実験や、全員の走行訓練結果、さらにはレイとサナエによる格闘訓練の結果を分析するという作業があったためだ。
だからといって世界的に訓練が行われないわけではない。特にエヴァンゲリオンの稼動回数がもっとも多いオーストラリアにおいては、実地で休みなく訓練を繰り返しているような状況だ。
エヴァンゲリオンによる災害救助活動。五月八日に発生した大地震によって壊滅的な被害を受けたオーストラリア東海岸。ゼロはここで休みなく救助活動を行っている。
瓦礫の撤去にエヴァンゲリオンほど適しているものはない。大型車両では移動できないところにいけるし、細かい作業も簡単にこなせる。唯一の問題は、一回の起動で動ける時間は十分以内。そして一回の起動のたびに必ず一時間以上の間隔を取らなければならない。そのためどのようにエヴァを使用するかは綿密に計画がなされ、一番必要なところ、効率の良いところを優先的に回された。
それこそ最初の一週間は寝る暇もなく二十四時間働いた。十分動いて休憩一時間、また十分動いて、ということを繰り返したためにゼロは適格者の中でもっともエヴァに慣れ親しむようになった。
もう一つ問題があるとすればそれは電力供給の問題だった。いくらエヴァンゲリオンが便利だったとしても、電力がなければただのガラクタだ。現在のオーストラリアはまだライフラインすら復旧できていない状態だ。
そのため、急遽日本のネルフ本部より電力供給車を大量に輸送してもらい、エヴァ専用として電力を供給させた。一台の供給車が備えているエネルギー量はエヴァンゲリオンの起動一時間分に等しい。十分ごとにストップさせても一日に三台から四台分は使用することになる。
だからこそライフラインの復旧も急いで行っていたのだが、それがなかなか稼動しない。各地の送電線もほとんどが壊れ、仮に発電できたとしても、それを被災地まで届ける方法がないのだ。
不幸中の幸いは、被災地の範囲が決して広くはなかったということだ。大都市は壊滅に近いが、都市から出てしまえば、既にそこは日常を取り戻していた。
「シンクロ開始」
ゼロが声に出すと、ただちに視界が開ける。
本日のゼロの仕事は、崩れたビルの瓦礫撤去だ。午前九時にして起動は既に三回目。七時台、八時台にそれぞれ一回ずつ起動して、既に大きな瓦礫は別の場所に撤去させている。次に行うのは道路に散らばった『やや小さめ』な瓦礫を少しでも多く片付けることだ。そうして災害救助車が入って来ることができるようになれば、もうこの地域にエヴァンゲリオンはいらない。また次の要救助地域に向かうだけだ。
今回は九分間働いた後で、残りの稼動時間一分で搬送車両のところまで自分から戻る。完全に起動を停止してからエヴァを運ぶより、自分から元の場所に戻った方が手間が省けるのだ。
『お疲れ様、錐生くん』
技術部の女性の声が響く。だが、ゼロにとってはそんなねぎらいの言葉などは不要だった。それよりは少し休みがほしいところだった。
『次の場所に移動するけど、一度エヴァから出る? それともそのまま?』
「一度出る」
『分かったわ。それじゃ、LCLを排水してプラグをイジェクトするわね』
このままプラグの中にいてもいいのだが、食事や排泄をこの中でするわけにもいかない。適度に降りて休憩を取る必要があった。
プラグから出てシャワーを浴びる。
すぐに移動になるのだが、体中にLCLをまとわりつかせたままでいるのは気持ちが悪い。LCLの匂いがなくなるまで浴び続ける。
二十分ほどしてから出て着替える。こんなことをしてもまたすぐにLCLに浸かるのかと思うとだんだん気分が落ち込んでくる。
「ゼロ!」
「ゼロさん!」
と、そこに妹分二人がやってきた。
「どうした、二人とも」
「えーと、移動までしばらく時間があるみたいだから、一緒に御飯でもと思って」
ローラがにへらっと笑って言う。
「あまりゼロのために協力できることも少ないから、せめて一緒にいるくらいはと思って」
真鶴は少しツンとした態度で言う。
「そうか。気を使わせて悪いな、二人とも」
「ゼロさんのためなら全然大丈夫です!」
「それに、私たちが何の役にも立ってないのは事実だから」
ローラも真鶴も、まだまだシンクロ率が低い。何とか十%を超えた程度では、エヴァンゲリオンに乗るなどまだまだ先の話になる。
「私も早くエヴァに乗りたい」
真鶴が悔しそうに言う。
「こればかりは適性の問題だからな。努力でどうこうできる問題じゃない」
「分かってるけど」
「それなら、お前はお前にできることをすればいい」
ぽん、とゼロは彼女の頭を撫でた。
「私に出来ること?」
「ああ。差し当たっては、俺と一緒に食事をすることだな」
すると、真鶴もようやく笑って「仕方ないなあ」と答えた。
「もー、ゼロさんって真鶴ちゃんには優しいですよね」
「そう? 私からしたらローラの方がずっとかまってもらってるように思うけど」
結局この二人はどちらもゼロのことが気に入っていて、ゼロのために何かをしてあげたいと思っているのだ。こういう妹分がいてくれるのはゼロとしても嬉しい。この誰も信じられないネルフの中で、唯一心を開ける相手。
「それじゃ、今日は何食べようっかなー。ね、ゼロさんは何食べる?」
「何でもいい」
「もー、ゼロさんはいつもそればっかり」
「でも、そうじゃないとゼロらしくないわよね」
そうして左右にローラと真鶴を連れて食堂に移動しようとしたときだった。
「──悪い。二人とも、先に行っていてくれ」
「え?」
「どうしたの?」
二人が足を止めてゼロを見る。
「どうやら俺に客らしい。すぐに行く」
客と言われても、近くには誰もいない。だが、邪魔をしてはいけないと思ったのか、二人は「わかった」と頷いて先に行く。
そして二人の姿が完全に見えなくなったところでゼロが振り向いた。
「誰だ?」
通路の影から姿を現したのは眼鏡をかけた、ゼロと同じくらいの歳の女の子だった。
「いやー、まさかバレるとは思わなかったわ。よく分かったわね」
女の子にしてはけっこう背が高い。理知的な顔立ちをしているが、油断のならない雰囲気を兼ね備えていた。
「今日、俺がエヴァンゲリオンに乗っているときから見ていたな」
「それも気づいてたか。バレないようにしたんだけどなあ」
この女は危険だ。
ゼロの警戒レベルはMAXまで引き上げられていた。何が目的で近づいてきたのか、いったい何者で、何を企んでいるのか。何も分からない。
「あ、少なくとも敵じゃないよ。安心して」
「だが、味方でもない」
「まあ、厳密には味方じゃないだろうけどね。でも、使徒と戦う側の立場だっていうことで、警戒を解いてくれないかなあ」
「名前と所属、目的を答えてからだ。それができないなら信用しないし、ただちに保安部に連絡する」
「やれやれ、融通きかないなあ」
頭をかきながら少女が言う。
「ま、いいか。私は真希波・マリ・イラストリアス。所属は、なし。今はとある人物に協力しているところで、私はどこにも所属してないんだ。それを言うわけにはいかないんだけど、たぶん言っても分からないだろうから、それは割愛。目的は、君に協力すること」
「俺に協力?」
「うん。今、この支部ではまったく訓練できてないんでしょ? 日本からも訓練をせっつかれてるのに、そんなの全然後回しで災害復旧に全力を注いでる。それじゃ困るっていうから、私が派遣されたの」
「日本の差し金か」
「ううん。私の雇い主。よく分からないんだけど『日本とドイツとオーストラリア』には戦力を集めておきたいんだって」
「戦力?」
「使徒と戦う戦力ってことでしょ? チルドレン認定されてるんだから」
だが、ゼロはため息をついて否定する。
「残念だが、俺は別に能力をかわれてチルドレンになったわけじゃない」
「にゃっ?」
「俺は政治的な駆け引きによって生み出された『おまけ』だ。別にチルドレンになっていようがいまいがどちらでもいい立場の人間だ」
「そうかなあ。シンクロ率六十%なんて全世界にたったの三人しかいないんだよ?」
それどころか五十%まで下回っても他に誰もいない。四十%台がようやくここ最近で出始めたくらいだ。
「協力とは、具体的に何をすることを指す?」
「まずは、A.T.フィールドの使い方を教えてこいって言われた。後は臨機応変にやれってさ」
よく分からないが、随分とアバウトな指示だ。
「A.T.フィールドの概略は知っている」
「実際に使う機会もないんでしょ? だから教えてあげるって言ってるの」
「何故、お前がそれを知っている?」
「秘密」
「何故」
「秘密が多い方が、美少女の価値は高いから」
自分で言うか。
「変わった女だな」
「よく言われる」
少し残念そうに答える。
「よかったらつきあってみる?」
「丁重にお断りする」
「残念。ま、そんなちちくりあってる場合でもないしね。近いよ、来るの」
「何がだ」
「使徒」
ゼロは顔をしかめた。
「一般にはされていなかったはずだが、確か八月という話ではなかったか」
「早まるらしいよ。いつなのか、具体的には聞いてないけど、わざわざ私を派遣してA.T.フィールドの使い方を教えてこいって指示されたからには、けっこう近々じゃないのかな」
なるほど、それは確かに納得のいくことだが。
「所属は?」
「だから、どこにも所属してないんだってば」
「お前をここに派遣した男の所属だ」
ああ、とマリは頷く。
「賢いねー。私がどこにも所属してないって言えばごまかせるかと思ったんだけど」
「嘘をつけばよかっただろうに」
「嘘は嫌いだから。隠し事は大好きだけど」
ゼロの目から見れば、どちらも大差はない。
「あまり大きな声では言えないんだけどね。今、私の雇い主はロシアにいる。で、ロシアのMAGI主任からいろいろと教えてもらったらしいよ。具体的なことは私には分からないからパス」
「ネルフのロシア支部ということか?」
「Ja(ヤー)」
ドイツ語だった。いくら外国語が分からないといっても、有名な言語の『はい』や『いいえ』くらいならかろうじて分かる。
「お前はドイツ語圏の人間か?」
「育ちはドイツだけど、生まれは君と同じだよ」
「日本か」
「そゆこと」
「その男の名は?」
「ごめん、それは企業秘密」
「なら、お前自身がその男に協力しているのは何故だ? 恋人か、家族か?」
「どっちもハズレ」
にんまりとマリが笑った。
「おもしろそうだから」
「面白そう?」
「そ。命をかけてバトルするのが超快感。ぞくぞくするよ。君もその気持ち、分かるでしょ?」
分からない。分かりたくもない。
「お前、病気だな」
「それもよく言われる」
へへ、と笑ってマリが近づいてくる。
この女は危険だ。
だが、自分に直接害を及ぼすものではないらしい。
「A.T.フィールド。使い方、教えてあげるよ」
「どうすればいい?」
「今、君が感じているその気持ちを、そのまま形にすればいい」
「今の俺が?」
「そう。私を怖れ、拒絶しようとしている。その気持ちを『壁』にする。それがA.T.フィールド。何者をも退ける、光の壁」
マリは、最後の一歩を踏み出す。
そして、動こうとしなかったゼロの唇に自らの唇を重ねた。
「おいし」
「……変わった女だな」
「動揺しないね。慣れてるの?」
「いや、初めてだ」
「そっか。ならよかった」
「よかった?」
「うん。だって私も初めて」
意味が分からない。初めてでこんなことをするというのか。
「君のこと、気に入っちゃった。真面目で、冷静で、すごいしっかりしている。それなのに──」
マリの人差し指が、ゼロの左胸をついた。
「ココは、全然違うね。いいよ、君。すごく矛盾してる。面白いよ、君」
「お前の言っていることは意味不明だな」
「分かってるくせに。その矛盾の出所が私としては気になるな」
「悪いが、お前とは気が合わないようだ」
「そうかな。君は、今日のこのやり取りだけで、随分私に気が向いているようだけど?」
「何故そう思う」
「警戒レベル、下がってるよ」
くすくすとマリが笑った。
「それじゃ、またそのうちに。私はネルフの一員ってわけじゃないから、不審がられないうちに隠れることにするよ。じゃあね」
そう言ってマリがいなくなる。
(変わった女だ。だが、それ以上に)
不気味な女だった。
こちらの心を見透かすかのようなあの言動。
(あまり関わりたくないものだな)
もっとも、この先彼女が自分の近くに現れるのは間違いないことだった。
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