この週、格闘訓練まで終わっているランクA適格者たちが、各地でA.T.フィールドの実験に入っていた。
 無論、格闘訓練を実質的に行えるのは二人以上のランクA適格者のいるドイツ、ギリシャくらいのもの。一人しか適格者が存在しないイギリス、フランス、ロシア、中国などは格闘訓練のかわりにサーキットトレーニングのような、飛んだり走ったりという行動をさせることにしていた。
 そしてこの二九日までにA.T.フィールドの展開が済んだのは日本の四人の他、ギリシャのルーカスとエレニ、イギリスのサラ、ロシアのイリヤ、そしてドイツのアスカ、クライン、メッツァ、ヴィリーの四人。
 まだ展開実験を行っていないのは日本の五人のほか、中国のムサシ、フランスのエリーヌ、アメリカのマリィ、オーストラリアのゼロ。
 展開実験を行ってもA.T.フィールドが展開できなかったのは、ドイツの木瀬紀アルトのみであった。












第佰伍拾捌話



五里霧中のエレジーアッコ












 五月三十日(土)。

 さすがに展開しようと思ってもできなかったのが世界でたった一人だけという事実は堪えた。確かにアルトはエヴァのシンクロ実験の際に行方不明になっていたというハンディはあったが、それはドイツ適格者の全員にとって同じハンディを与える結果になった。アルトが発見されるまで、実験はすべて延期になっていたのだから。
 つまり、ドイツの他の四人と同じ条件で実験をしているにもかかわらず、アルトはA.T.フィールド展開が初回で終わらなかった。しかも世界で同じように展開しようとした適格者たちは全員が一回で成功していたのに対し、アルトだけがうまくいかなかったのだ。
 まだチャンスは何度でもある。ここは前向きに考えるべきところだ。来週成功すればそれで充分なのだ。だが、アルトは自分だけが足並みをそろえることができなかったという負い目を感じ、完全に元気をなくしてしまっていた。
「気にするな、といってもお前の性格では難しいだろうが」
 メッツァがアルトの肩を叩く。
「次はうまくいく。そんなに気に病まなくてもいいだろう」
 ヴィリーも励ます。今までもアルトはこの二人に何度も助けてもらってきた。人種も国籍も違う自分のことをずっと見守り、仲間でいてくれた二人。その二人からも置いていかれたことがアルトにとっては重くのしかかる。
「とはいえ、A.T.フィールド実験を行って、展開できなかったのは世界でたった一人だけ。この事実を覆すことはできないな」
 追い討ちをかけにきたのは当然のことながらクラインだった。以前、アルトが行方不明だったときは率先して助けてくれていたのだが、それが過ぎるといつもの毒舌魔王に戻っていた。嫌味な少年ではあるが、格闘もSランクならシンクロ率もめでたく三〇パーセントを超えて、四人の中ではもっとも高い数値を出している。
「クライン。仲間に対してその言い方はないだろう」
「そうかな。僕からしてみると、君ら二人の励ましは逆に彼女を追い詰めるだけじゃないのかな」
 クラインは髪をかきあげて近づく。そして正面からアルトを睨むようにして言った。
「生死をかけた戦いの場で、足手まといはいらない。何があっても次でA.T.フィールドを展開するんだ。そうしなければ僕たちはエースの盾になることすらできないのだから」
 クラインはそれだけ言い残してミーティングルームを出ていく。
「あのヤロウ、言い方ってもんがあるだろうに」
 メッツァが毒づく。だが、クラインの言うことは正論だ。間違っているわけではない。
「で、そのうちのエースはどこに行ったんだ?」
 ヴィリーが尋ねるが、メッツァも「さあ」と手を上げる。
「私、探してくるね」
 アルトが二人の顔を見ないようにしてミーティングルームを出ていく。
「どう思う?」
 ヴィリーが尋ねる。
「重症だな。A.T.フィールドがアルトにだけ展開できなかった理由も分からない。理由が分からないうちは手の出しようが無い。二回目をやったところで結果は同じだろう」
「頼みはうちのエースか。少し気を楽にさせてくれるといいが」
 ふう、と二人が息をつく。
「まあ、俺たちが落ち込んでいても仕方が無い。俺たちは俺たちでできることをしていよう」
「そうだな」






 アルトは廊下を歩きながらため息をついた。
 何が原因なのかは全く分からない。ただ、A.T.フィールドを展開しようとしたとき、まったくその感触がなかった。ボタンを押して、イメージを思い描く。だが、思い描いたものが形になるような『手ごたえ』みたいなものが全くない。四人がどうやってA.T.フィールドを展開しているのか、全くの謎だった。
「どういうこと?」
 と、そのとき、通りがかった休憩所のところから声が聞こえてきた。アスカの声だ。
「どうもこうもないさ」
 相手は男。顔は知っている。加持リョウジ。特殊監査部の人間だ。何度か会話したこともある。そして誘拐された自分を助けてくれた人だとも聞いている。
「このままだとアルトちゃんはA.T.フィールドを展開できない。致命的ともいえる原因があるのさ」
 心臓が止まりそうになる。
 A.T.フィールドを展開できない原因。そんなものがあるのだとしたら。もしもその原因を解決できなかったとしたら。
 震える足取りで、壁際に近づく。二人の声が聞こえるところで、二人に自分がいることを気づかれないように。
「教えて。いったいどうして?」
「こればっかりは説明してもアスカには分からないことだからな」
「どういうことよ!」
「どうもこうもない。説明しても分からないことを説明するのは時間の無駄だ」
「アタシが大学まで出てるのは知ってるでしょ!」
「そういう問題じゃない。こればっかりは当事者じゃないと分からないものだからな」
「加持さんは当事者だっていうの?」
「当事者じゃないが、事情は全部知っている。そしてそれをアルトちゃんに教えることができないっていうこともね」
「なんで教えられないのよ」
 少しの間。
 息が苦しい。
 何か、嫌な事実を、つきつけられようとしている。
「それを知ること自体が、アルトちゃんの命に関わる。だから教えられない」
(私の、命)
 それはいったい、どういうことなのか。
 この間の誘拐のときに何かがあったのか。そうでなければ『加持』が自分の体をどうこう言えるはずがない。自分がずっと意識のなかった数日間。それが原因なのか。
「アルトの命?」
「そうだ。教えればアルトちゃん自身が危険だ。だが教えなければA.T.フィールドは展開できない。どうしたもんかな」
「何かいい方法はないの?」
「それを考えているところさ。日本の知り合いに連絡はしたんだが、向こうもなかなか手が回らないみたいで、今のところは回答待ちってとこかな」
(何なの)
 自分の知らないところで、勝手に自分の話が進んでいる。
 A.T.フィールドを展開できない理由。自分の命に関わること。
 いったい、何が、なにやら。
「そんなところでどうした、アルト」
 突然、クラインの声が響いた。
「えっ!?」
 中で声がする。バレた。
(いやだ)
 アルトは駆け出す。今の話を聞いていたことが、もう分かってしまった。
 だが、それでも足は止まらない。
 今は混乱して何も考えられない。
(どうすればいいの)
 突然の事態に、アルトは混乱した。
(助けて……助けて、エン)
 心の中で、愛しい相手の名前を呼ぶが、当然届くはずもなかった。






「まさか聞かれてたとはなあ」
 加持が頭をかく。アスカは怒り、クラインが「不用意でしたね」と話す。
 もちろん加持は誰かが──というよりはアルトがいることは分かっていたが、それでもあえて話を続けた。いや、むしろアルトがいたからこそ、アスカには話すつもりのなかったところまで話したのだ。
「どうするのよ、加持さん」
「ま、アルトちゃんは大丈夫だ。あの子には心強い味方がいるからな」
「日本の適格者のこと? でも、ここにいないのに」
「それもあるけどな」
 それよりも、彼女の一番の味方は彼女の心の中にいる。いや、もしかすると敵になる可能性もあるが、今の彼女ならきっと味方になってくれるだろう。
「問題はアルトちゃんにどうやってA.T.フィールドを展開させるかだ。その方法が見つからないことにはどうにもならない」
「アルトがA.T.フィールドを展開できない理由ですか」
 クラインが加持をじっと見つめる。
「もしかしてそれは、彼女の心の中に理由があるのではないですか」
「どうしてそう思うんだ?」
「エヴァンゲリオンは自分の心の中にあるものをイメージすることによって力を発揮します。心に障害があれば当然、イメージを展開することはできない」
「障害って」
 アスカが表情をくもらせる。
「違いますか、加持さん」
「いや、その通りだな。意外だったな、クライン。君は何を知っているんだ?」
「たいしたことは何も。ただ、あの誘拐事件のときにいろいろと考えたんですよ。アルトという存在について。彼女が記憶をなくしているのはどうやら事実らしい。それなのに、監視カメラにはしっかりと自分の足で彼女がネルフを出ていったところが記録されている。その矛盾について」
「それは、洗脳誘拐ということで話がついていたんじゃなかったか?」
「人間、そんなに簡単に洗脳などできません。長い時間をかけて、ゆっくりとその人間の精神を支配していかなければ。でも、少なくともあのときのアルトにそんな時間はなかった。それなら彼女の精神になんらかの障害があると考えた方が理論的でしょう」
 なるほど、賢い少年だ。いつも憎まれ口ばかりたたいているように見えたが、近視眼ではないらしい。
「そうなの、加持さん?」
「俺からは何も言えないな。ただ、的外れではないとだけ言っておこうか」
 そして加持はコーヒーカップを捨てると休憩室を出ていく。
「ちょっと、加持さん!」
「悪いな、アスカ。話はまた今度だ」
 そうして出ていく加持。もう、とアスカは両腕を組んだ。
「ご立腹ですね、フロイライン」
「そりゃ腹も立つわよ。アルトはあんなだし、加持さんは何も教えてくれないし。クライン、あんた、何を知ってるの?」
「さっき話したことで全てです。僕も与えられた情報の中でしか考えることはできませんから」
「アルトがA.T.フィールドを展開できない理由、想像つくの?」
「この状況では無理ですね。ただ、アルト本人の問題だということしか分かりません」
「どうしろっていうのよ」
「どうもする必要はないのでしょう。僕たちはそれぞれのやり方でアルトを応援するだけです」
 するとアスカはクラインを意外そうに見つめる。
「なんですか?」
「いや。アンタって本当に、優しいのかよく分からない奴よね」
「優しくなんかありません。自分にも他人にも厳しくしているだけです。クライン家を継ぐことになれば、甘えは許されませんからね」
 そのとき初めて、クラインの顔に表情が生まれた。あまり嬉しくなさそうだった。
「継ぎたくないの? オーストリアじゃ名門なんでしょ?」
「このご時勢に家柄なんて何の価値もないですよ。クライン家の嫡男だからってあれこれ言われるくらいなら家を出た方がいいとは思っています。適格者になったのもクライン家から出られる格好の口実ですからね」
「意外ね。アンタは家柄をもっと重んじていると思っていたけど」
「僕が家柄を一度でも盾にしたことがありましたか?」
 クラインは憮然として答える。
「僕は家柄なんていうもので判断されたくない。だから誰よりも優秀でありたい。エヴァの操縦ではフロイラインにかなわないかもしれませんが、格闘や射撃は別です。訓練次第で誰にも負けない力を手にすることができる。僕が何の努力もせずに格闘ランクSを手にしたなんて思われてはいないでしょうけど」
「もちろん努力しているのは知っているわよ」
「僕は僕自身を評価してほしい。クラインという名前で判断されるのはご免です」
 これだけ長く行動してきたというのに、意外に他人のことというのは理解できていないものだ、とアスカは感心した。確かにいつも自信満々なクラインだが、それを血筋や家柄で誇ったことは一度もない。ランクA適格者、格闘ランクS、こういった実績を誇り、自信としてきたのは間違いないことだ。
「少しだけアンタを見直したわ」
「ありがとうございます」
「ついでに、アンタがアタシをどう見ているかも分かったわ。つまり、アタシはアンタにとって超えるべき壁っていうところなわけね」
「否定はしません。ただ、それだけでもないのですが」
「じゃあ何よ」
「あなたに惹かれているということですよ、フロイライン・アスカ」
「だから、その冗談はもう」
「冗談ではありません」
 クラインは、アスカの肩をつかむと、壁際に押し付ける。
「なにすんのよ!」
「本気だということを知ってもらおうとしています。どうもフロイラインには僕の気持ちはうまく伝わらないらしい。僕はずっとあなたを見てきた。あなたの気高さ、たくましさ、そして困難に立ち向かう心の強さを。僕はそんなあなたを守りたいと思い、盾となり、剣となってあなたのために戦う。気持ちを受け止めてほしいなどというつもりはありません。ただ、僕の思いそのものを否定するのだけはやめてください。冗談なんかじゃ、ない」
 真剣な表情に、アスカが気圧される。
 だが、クラインもそれ以上迫るようなことはなかった。次第に力がぬけて、アスカから離れる。
「僕はあなたを守ります。どんなことがあっても」
 それだけ言い残してクラインが出ていくと、アスカはへなへなとその場にしりもちをついた。
 本気の告白。それも、セカンドチルドレンという名前にではない、努力し、高めてきた自分自身をほめてくれたということ。
 うれしい、と素直に感じた。
 だが。
「勝手なことばかり言ってんじゃないわよ」
 素直にそう言えないのが、アスカという人間だった。






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