紀瀬木アルトという少女の人生に、始まりは存在しなかった。
 生まれたのがいつなのかというのも、あくまで戸籍上のこと。母親の名前も知ってはいるが、本当の母親なのか、遺伝子を受け継いでいるのかすら把握していない。それどころかあの研究所──ハイヴを抜け出してからというもの、生きているのか死んでいるのかすら知らない。おそらく死んだのだろうが、それを確かめるつもりも何もなかった。
 ただ、自分には常に双子の姉がいた。紀瀬木ノア。彼女のことは今でも忘れていないし、なぜかいつも近くに感じることができる。
 自分が適格者になれたのだから、同じDNAを持つ姉だって適格者になれたはずだ。もし姉なら、A.T.フィールドを展開することができるのだろうか。
 あの姉に限って、できないことは何もないような気がする。
 それくらい、自分にとって姉という存在は大きかった。大人より知識があり、行動力、決断力に満ち、自分など彼女の足元にすら及ばなかった。
 姉からみて、自分はどういう存在だったのだろう?
 今こうしてA.T.フィールドを展開できない妹を見て、姉なら何というだろうか。
 ののしったりすることはないだろう。だからといって、なぐさめることもない。
『自分で、なんとかなさい』
 きっと笑顔で、そう言うのだ。












第佰伍拾玖話



暗中模索のグランディオソ












 五月三十一日(日)。

 翌日、ドイツのランクA適格者たちに召集がかかり、午前十一時に五人はミーティングルームに集合していた。
 アルトはアスカと視線が合うと露骨にそらしてしまった。だが、あえてアスカは何も言わなかった。事情を知らないアスカにはどうすることもできないし、アルトから敬遠されているのでは何も手の出しようがない。
 メッツァとヴィリーの二人がそれを心配しているという様子だ。
「さて、今日から三日間、我々と一緒に訓練をするメンバーを紹介する」
 と、長官が紹介したのはご存知、イギリスのランクA適格者であるサラ・セイクリッドハート。そしてフランスのランクA適格者であるエリーヌ・シュレマンだった。
「久しぶりね、みんな」
「元気にやってるみたいじゃない、サラ」
「まあね。アスカも順調みたいで嬉しいわ」
 早速アスカとサラが握手をかわす。お互い好きな相手というわけではないが、互いに自分の『国』を背負っているという覚悟は分かっている。その精神には敬意を抱いている。もちろん、互いにそのような感情を認めたりはしないが。
「格闘訓練の相手が足りないのでお邪魔します。よろしくお願いします」
 エリーヌも笑顔で言う。こちらこそ、とアルトが答えた。
「サヤカは? 一緒ではないの?」
 エリーヌといつも一緒にいるガードの長谷部サヤカ。日本出身だし、マリーの友人だったこともあってよく話すこともあり、何かと気になる相手だったのだが。
「いえ、一緒に来ているわ。ただ、ここはランクAだけしか入らないことになっていたから」
「そう。それじゃ、あとで挨拶しないと」
 この異国の地で日本語を話す機会などそうそうない。それは相手としても同じことだろう。
「アルト。何か、悩み事ですか?」
「え?」
 突然言い当てられ、アルトがぎくりとする。
「もしA.T.フィールドのことなら大丈夫。私なんて実験すらできていないのだから」
「いや、エリーヌ」
「他に何かあるのでしたら、それこそサヤカに話してみるといいかもしれませんね。同じ国の出身同士で話すのは楽かもしれません」
 確かにその通りだ。今の自分は誰にも相談することができずにいる。サヤカなら口も堅いし、相談相手にふさわしい。
「ありがとう、エリーヌ。心配してくれて」
「久しぶりに会う友人に元気がなければ寂しいものですから」
 エリーヌが微笑む。
「でも、これだけは覚えておいてください。あなたは、あなたが思うよりもずっと周りの人たちに心配されている。自分が一人ではないのだということを忘れないで」
 言われて、ふと後ろを振り返る。
 アスカ、ヴィリー、メッツァ。それにクラインまでが自分の方を見ている。それでいて、何も言わないで見守っていてくれる。
(そうだ。私にはこんなに心強い仲間がいてくれる)
 自分がA.T.フィールドを展開できないことを心配してくれている。そして──
(私の命)
 自分が知ることで、自分の命が危険になる。
 それはいったいどういう意味なのか。
(確かめないと)
 自分のことを他人任せになどできない。分からないことは明らかにしなければいけない。






「それで、私に相談してどうなるというのだ」
 そこまでの相談を受けた長谷部サヤカは何と言っていいのか分からなかった。
 ミーティングが終わって、アルトはエリーヌの許可を得てすぐにサヤカに相談することにした。サヤカにも自分の部屋があてがわれており、直接相手の部屋に出向いたのだ。
 長い黒髪をかきあげてから、どうしたものかとサヤカは腕を組む。
「どうにもならないかもしれないけど、自分一人だとどうにもならなくて」
 そして二人は日本に帰国したときぶりに日本語で話していた。アルトの基本言語は日本語とドイツ語、英語。サヤカは日本語とフランス語、英語。そしてお互い英語より日本語の方が使いやすいのだから、自然と選択する言語は限られてくる。
「命の危険というのがいったい何を意味しているのか分からないな。それにしても、A.T.フィールドを展開できない理由を知ることが命に関わるとは、まったくもって理由が分からない。それは本当のことなのか? 私には知識を得ることで命を失うことなどないと思うぞ」
「私もそう思うけど」
「もしあるとすれば、それは精神的なものだ。自分が絶対だと信じていたものが反対されたとき、人間は精神的に病み、結果死にいたる。そんなものにアルトは心当たりがあるのか?」
「心当たりはあるけど、でも何かを知ったからといって病気になるようなことじゃないと思う」
 唯一思い当たるのは姉とエンのことだ。だが、それが今さら何になろう。そこにも何か自分の知らない事実があることは確かなのだ。それがどんなに最悪のものであっても、たとえば姉やエンが自分を殺そうとしていた、などという結果があったとしても自分が精神的に病むとは思えない。
「そうなると、直接聞くしかないんじゃないのか? まあ、相手が本気で命に関わると思っているなら教えてくれないだろうが」
 サヤカの言う通りだ。だが、その問題が解決できなければ自分はA.T.フィールドを展開できない。
「脅迫してでも割り出す?」
「脅迫に屈する人じゃないと思うけど」
「だが、やってみる価値はあるかもしれない。少なくとも、教えられない理由の一端くらいは分かるかも。結局は、アルトがそれを望むか望まないかの問題だ」
 サヤカはどこまでも正論だ。マリーといい、エリーヌといい、この三人が友人であるというのがよく分かる。根が素直で、真っ直ぐで、優しいのだ。
「サヤカがいてくれてよかった」
「感謝するのはまだ早い。何も解決していないのだからな。行くぞ」
 アルトの覚悟が決まったとみてサヤカが立ち上がる。うん、とアルトも立ち上がった。
 部屋を出て、真っ直ぐに加持のいる場所へと向かう。オペレーターと連絡をとってみると、自分の部屋、監査室にいるらしいことが分かった。
 早足でやってくると、都合のいいことにそこには加持がたった一人でコンピューターと格闘していた。
「来たのか」
 加持は来客の二人を見て言った。アルトが来ることは予測済みだったのだが、フランスのガードが一緒についてきているというのは予想外のことだった。
「加持さんに聞きたいことがあります」
「想像はつくけどな」
「なら、教えてもらおうか」
 サヤカがアルトの前に乗り出す。
「理由もなく言った言葉なら取り消してほしい。アルトの命に関わる件、詳しく説明しろ」
「随分、乱暴な質問なんだな」
「これでも生ぬるいと思っている。加持リョウジ。貴様、その話、わざとアルトに聞かせるようにしたのだろう?」
 え、とアルトがサヤカを見る。
「どうしてそう思うんだ?」
「勘だ。だが、貴様の態度から、それが正しいのだと伝わる」
「そう、なんですか。加持さん」
 アルトが震える声で尋ねる。
「アスカは気づいちゃいなかったみたいだがね」
「なら、その話は本当なんですか。私が知ることで、命の危険があるという」
「本当だ」
 加持は嘘のない目で言う。
「その理由が分からない。何故知ることがいけないことなのだ」
「少なくとも、今、この場では言えないな」
「何故だ」
「君がいるからさ。長谷部サヤカちゃん。部外者に話せるようなことじゃないんでね」
「では、私がいなくなれば貴様はアルトにすべてを話すというのか」
「それは無理だ。命に関わる。だが、A.T.フィールドを展開できるようにすることは、可能かもしれない」
 しばらく二人の間でにらみ合いが続く。だが、やがてサヤカの方が息をつく。
「アルト。一人でも平気か?」
 サヤカがいる以上、加持は何も言わないだろうということが理解できた。おそらく加持が一人でこの部屋にいたのも、近いうちにそれも今日中にアルトが自分を訪ねてくると思っていたからなのだろう。
「大丈夫」
「分かった。外にいるから何かあったら大声を上げろ。加持リョウジ。もしもアルトに何かあったら、私は貴様を絶対に許さない」
「美人との約束はきちんと守るよ」
 加持が笑顔を見せて言った。そういう言い回しもサヤカは気に入らなかったが、仕方なく部屋を出た。
「さて」
 加持は改めて両手を組んでアルトを見つめた。
「もし、可能なら、ここに出てきてほしいな」
 アルトはためらう。何を言われているのか、よく分からなかった。
「それがきっと、一番負担のかからない解決方法だろう。違うかい?」
 きっと相手は、この状況がよく分かっているはずだ。
「むしろ俺の方が『君』からいろいろと教えてほしいくらいだよ」
 アルトの目が。
 徐々に色を失っていくのが分かった。
「紀瀬木ノア、ちゃん」
 その言葉が最後のトリガーとなったか、アルトの体が一度大きく揺れた。
 そして、その目に色が戻ってくる。
「はじめまして、と言うべきかな」
「初めてなものか。私をあの研究施設から連れ出したのはお前だろうに」
 ふふ、と『彼女』は笑った。
「ノアちゃんで間違いないのかい?」
「ああ。私が『ノア』だ。長年捜し求めていた『私』に出会えて嬉しいか、加持リョウジ?」
 相手から言われるというのは面白いものだった。確かに自分は『アルト』と『ノア』のことを専門に調べていたが。
「俺が君のことを調べていることも知っているのか」
「知っているとも。基本的に『アルト』が見聞きしたものは全て『ノア』の知識に変わるのだ。表面上は『アルト』が活動していても、主人格はあくまで『ノア』なのだからな」
「ハイヴが行っていたプロジェクトのことについては、ぜひとも詳しく教えてもらいたいと思っていた」
「そうやすやすと教えると思うか? それに、あの研究所のことを思い出すのは私にとっても気分の良いものではないぞ」
「君がA.T.フィールドを展開できるようになることの交換条件に教えてくれたらありがたい」
「ほう」
 くすくすとノアは笑う。
「おおよそ、予想はついている。A.T.フィールドは全てのものを遮断する壁だ。アルトがA.T.フィールドを展開できないとすれば、それは間違いなく私の存在のせいだ。私がいるから、アルトは全ての存在を遮断することができない。私が知っていることならば交換条件にはならんぞ、加持リョウジ」
「やれやれ、どうにも」
 相手を十四歳の女の子と思っていると痛い目を見るのは加持の方になりそうだった。
「では、君はA.T.フィールドを展開できないアルトちゃんにどうしてやるつもりなんだ?」
「どうもせんよ」
 さらっと答える。
「A.T.フィールドを展開できないような適格者に用はない。使徒戦で出撃させるような頭の悪い司令部でもなかろう。私はのんびりと高見の見物でもしているさ」
「アルトちゃんが戦いを望んでもか?」
「アルトが望んだところで、私にはどうすることもできんさ。もっともたった一つだけ方法がある。分かっているのだろう、加持リョウジ?」
「アルトちゃんではなく、ノアちゃんが操縦するということだろう?」
「その通りだ。私なら展開はできる。私にとってアルトを切り離すことなど雑作もないことだ」
 なるほど、相手は自分の置かれている状況を正確に理解している。それではこちらから手を出すことは難しい。
「一つだけ確認してもいいかな」
「答えられることならば」
「この間、君が誘拐されたときのことだ」
 加持は以前から、この点だけはすっきりさせておきたかった。そうしなければ、喉の奥に何かがつまっている感じがして気持ち悪かった。
「どうしてノアちゃんは自分から出て行こうと思ったんだい?」
 これは賭けだ。相手がまだ子供であるということに対して。
「それはおかしな質問だ。どうして私が自分から出ていかなければならないのだ? 私は誘拐されたのだろう?」
 くすくすと笑う。やはり誘導尋問には引っかからないか。
「だが、監視カメラには君が自分から出ていく姿が映っていたよ」
「何かの間違いだろう」
 この切り返しもうまい。そんなはずはない、と言ってくれれば追求もできる。だが、知らぬ存ぜぬを通せばそれ以上尋ねることができなくなる。
「それから、桑古木リョウゴが言っていたよ。君は自分の意思で出てきた、とね」
「その桑古木リョウゴという男はどこの誰だ? 私を誘拐した男のことか?」
 徹底している。一度知らないと言ってみせてから、推測できる相手として名指しする。
「君は本当に賢いな」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「君がなぜそれを隠したがるかは分からないが、いつか教えてくれることを願うよ」
 意外にも相手は自分に対して用心していた。情報が明らかになるとどのような問題が生じるのか。それは今の自分には分からない。
 だが。
「最後に確認だ。君は、アルトちゃんにA.T.フィールドを使わせる気は」
「ない」
 にやり、と笑う。
「私も命が惜しいのでね。アルトに戦場に出てもらっては困る、ということさ」
 年に似合わぬ、老獪な笑みをノアは浮かべていた。






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