六月三日(水)。
本日は一斉格闘訓練の日。ここまで格闘訓練を行っていなかった榎木タクヤ、野坂コウキ、鈴原トウジ、舘風レミ、神楽ヤヨイの五人のための格闘訓練だ。
ただ、そうなると一対一の格闘一人余ってしまうので、訓練補佐として朱童カズマが担当になった。既に機体慣れしているカズマとの対戦は誰もが避けたいところだったが、厳正な抽選の結果、カズマの相手はヤヨイと決まった。
「名を上げるチャンス」
「逆に倒される可能性の方が高いと思うよ」
格好つけているヤヨイの後ろでレミがひきつった笑いを出す。
そんなレミの相手はタクヤ。そしてコウキの相手はトウジと決まった。
第佰陸拾弐話
前代未聞のカプリチョーソ
一回戦はコウキとトウジの勝負。九人の中で一番機体慣れしていないトウジはシンクロ開始直後からバランスをとるのも苦労するくらいだ。もちろん勝負になどならない。コウキがトウジを足払いし、倒れたところで三極プラグが抜かれ、あとは五分間のらりくらりとかわしつづけ、タイムオーバー。何とも見ごたえのない戦いだった。
二回戦はタクヤとレミ。レミもトウジと同じ程度の操縦力だ。その点、タクヤはつたないながらも基本はしっかりとできている。今までテストに合格できなかったのも、あと少しというものが多い。力量差がはっきりと出た形になった。終始レミを圧倒したタクヤの圧勝だった。
そしていよいよ三回戦。カズマとヤヨイの対決だった。
「これは見ごたえがありますね」
リオナが両手に力を入れる。
「ランクA随一の格闘少年と、ランクA最強の不思議少女の対決か」
カスミが冷静に言う。
「カズマに分がありそうだが、この間のシンクロ率を出せたとしたらヤヨイにも勝ち目が出るかもしれねえな」
コウキが他人事のように言う。
無論、そのカズマとしては負けるつもりなどまったくない。とはいえ、ランクAの中でもシンジについて戦いにくい相手だというのは意識していた。
ランクAのほとんどは自分よりシンクロ率が低い。自分より高いのは現状でシンジのみ。だが、この間ヤヨイはその自分以上のシンクロ率を出した。四六パーセント。自分より六パーセントも高い。
「緊張しているか?」
カズマのガードをしているダイチが尋ねる。するとモニターに映っているカズマの口が動いて『いや』と答えた。
『ただ、やりにくい相手なのは間違いない』
『ふっ』
ヤヨイがLCLの中で髪をかきあげる。
『不思議少女には不思議少女なりのやり方がある』
「聞いてたのかよ。つか自覚あったのか」
『真道カスミは後で月に変わっておしおき』
うひゃあ、とカスミが苦笑する。
「でもさすがに相手が朱童じゃ相手にならへんのやないか」
トウジが呟く。が、
「そうでもないと思うよ」
ぽつり、とレミが言った。
「舘風?」
「私、ヤヨイさんとランクEのときに一度だけ一緒になったことがあるんだけど、そのときのヤヨイさんはこんな感じじゃなかった。もっと話しにくくて、冷たいところがあった」
あれより? と全員の頭の中に同じ言葉が浮かぶ。
「ヤヨイさんの友達が不当に乱暴されかかって、そのときのヤヨイさんの怒りようはもう、忘れられない」
「友達? あいつに友達なんかいるのか?」
「うん。ちょうどその子も一緒にランクEだったよ。何て言ったかな」
『五十嵐リン』
話を聞いていたのか、ヤヨイが話に入ってくる。シンジもその名前には聞き覚えがあった。元気溌剌な委員長タイプの女の子だったような気がする。自分を一切特別扱いしようとせず、普通に接してくれた子だ。だから余計に記憶に残っていた。
「だから、ボクはヤヨイさんを絶対に怒らせたら駄目だーって思っているのです☆」
「でも私がランクBで初めて会ったときはもう今みたいな感じだったと思うけど」
リオナが首をかしげる。
『それは仕方のないこと』
ヤヨイは少し頬を染めた。
『好きな人の前では、女性は変わるものだから』
間。
「なっ、なんやてえっ!」
「うわお、大胆発言」
「相手は、相手は誰!?」
男子・女子かぎらず一斉に火がついたような騒ぎになる。
『乙女には秘密がつきものよ』
そうして一方的に通信が途切れる。
「なんとまあ」
「いやしっかし、あの神楽がほれる相手っていったい誰なんだよ」
「この中に心当たりのある人は?」
「いたらとっくに分かってるんじゃないのか?」
わいのわいのと騒いでいる適格者たち。そして一方のヤヨイは通信を切ってから後悔していた。
『……冗談って言うタイミングを逃した』
まあ、別に誤解されたところで何も問題はない。
だが、このネルフにやってきたころの自分が荒れていたのは間違いない事実。記憶を失い、焦り、戸惑い、気づけばこんな建物の中で外と断絶した生活を送らされていた。もう何が何だか分からなかった。
そんなときにできた友人。彼女と一緒にいると自分がどんどん癒されていくのが分かった。彼女の前では何かを飾る必要がなかった。辛いことは辛いと、苦しいことは苦しいと素直に言うことができた。
『リン……』
彼女は今もランクCの適格者だ。ランクB、さらにAとあがってくることはないだろう。だが、そんな彼女とは今でも友人だ。メールは三日に一度交換しているし、月に二度、三度は会って食事もしている。会えば口喧嘩ばかりしている気もするが、それもまた楽しい。
『意外に冗談じゃないのかも』
自分、神楽ヤヨイは彼女に恋をしている。認めたくないところだが、どんな男の子よりも興味ある対象だということには違いない。
『さて、始めましょうか』
ようやく準備が整ったのを見て、ヤヨイとカズマが同時にシンクロを開始する。
タイムリミットは十分。その間に相手を倒すか、倒しきれなければタイムオーバーで引き分け。
もちろんヤヨイは相手が誰であれ負けるつもりはない。
『行くわよ』
八つ目の深蒼の機体が動く。迎え撃つのは暗赤色で鬣のある機体。
『来い、神楽』
カズマは迎え撃った。シンクロ率という観点を除けばエヴァンゲリオンを一番使いこなしているのは誰が見てもカズマだ。格闘訓練も行い、拾号機の暴走事故でも動けたのはシンジとカズマのみ。A.T.フィールドも誰より早く展開した。ヤヨイに対して稽古をつけるという立場でもある。
「シンクロ率出ました。朱童くん四〇.四一〇パーセント、神楽さん三六.一〇九パーセント!」
カズマは最高値更新。そしてヤヨイは前回の最高数値に比べて十パーセントも落ちているが、それでも三十パーセント後半だ。綾波レイに匹敵する数値である。
「まさか戦闘の目処が立つ子がもう一人出るなんてね」
見ていたミサトがわずかに目を見開いていた。
「あなたとしては嬉しい誤算でしょう?」
「まあね。一ヶ月前とは雲泥の差で戸惑うばかりだわ」
戦いはヤヨイの一方的な攻撃から始まった。
両手、両足を織り交ぜた攻撃だが、カズマにかかると苦もなくかわされていく。格闘ランクSにして、シンクロ率でも上回るカズマを倒せる道理がない。
『攻撃が甘いぞ、神楽』
はじめてカズマが腕を出してヤヨイのキックを防ぐ。そして逆にヤヨイの脇腹を蹴りつけた。激しい痛みがヤヨイを襲う。
『少しは守ることも考えろ。使徒はお前にあわせてはくれないぞ』
『私は』
痛みをこらえてファイティングポーズをとる。
『私は神楽ヤヨイ』
じっと相手の機体を見つめる。
『あなたは、誰?』
『何を』
『私は、誰!?』
ヤヨイが疾走する。カズマは回避しようとしたが、
『逃がさない!』
ヤヨイは相手に抱きつくように飛びかかる。カズマがパンチで迎撃しようとするが、攻撃を受けてもヤヨイはひるまずに相手に組み付く。
逃がさない。
逃がさない。
(見える)
自分がエヴァンゲリオンを動かしている間だけ、見える。
(あなたは、誰?)
いつも自分が追いかけている『何か』。初めてシンクロ実験をしたときに見えたもの。人なのかどうかも分からない。ただ、失われた記憶の中にいる『何か』がエヴァの中から感じる。
(見える)
何か、輪郭が生まれる。
人の形をした『何か』。自分と関係の深い『何か』。
(違う)
人のようで、人ではない。
何かもっと違う別の存在。
大きな光。
(これは──)
光の巨人。
(どうして、私はこんなものを知っているの)
失われた記憶の中にそれがあるのだろうか。
自分が追いかけていたもの。それは、自分のような人間とはまったく違う別の存在。
『私は、誰?』
『お前は神楽ヤヨイだ』
組み付かれていたカズマが、ヤヨイを放り投げる。その衝撃で、ヤヨイは自分が今訓練中であることを思い出した。
『朱童、くん』
『お前は神楽ヤヨイだ。それ以上余計なことを考えてどうする』
そしてカズマが動いた。
『エヴァンゲリオンに乗っている以上は悩むな! 悩んでいる間に使徒から攻撃されるぞ!』
その後のカズマの攻撃は容赦がなかった。殴り、蹴り、一打ずつ確実に相手を弱らせる。
『中途半端な気持ちなら、エヴァンゲリオンに乗るな! ここは戦場だ!』
最後に回し蹴りが捌号機の側頭部に入り、ヤヨイは意識を失った。
「そこまで!」
それをもって、本日の格闘訓練は終了となった。
医務室で目が覚めたとき、近くにいたのはガードの谷山マイだった。
「ここは」
「目が覚めたんだ。良かった」
マイが嬉しそうに尋ねてくる。
「負けた」
ぽつりと呟く。そう、自分は負けた。いくら相手が強くても、勝つつもりでいたのに。
「仕方がないよ。相手は格闘のプロだもん」
「肉体で戦うのと、エヴァを操って戦うのとは違うわ」
珍しい愚痴だった。マイも珍しいと思ったが、言ったヤヨイ本人がそう思っていた。
「そんなにまいってるヤヨイさんは初めてだよね」
「マイだけにまいってるとは、うまいこと言ったつもり」
「いや、そんな」
さすがにそんなふうに返されるとマイも困るところだろう。ふう、とヤヨイが息をついた。
「エヴァに乗っていると、記憶が戻ってくるような感じがする」
マイには既に自分が記憶喪失であるということを伝えている。今まではそこまで真剣に考えているというわけでもなかったので、マイに相談にのってもらうという感じではなかったのだが、さすがにここ最近のエヴァとのシンクロ状況を考えると、一人では限界があった。
「そっか。記憶喪失か」
マイは頭をひねる。記憶喪失だからといって、自分が相手のために何かしてやれることは少ない。だが何もできないとは思わない。
「ヤヨイさんは、自分のことをどれくらい知っているの? 記憶としてではなくて、知識として」
「私は神楽家の養女。ロリじゃない方」
「いや、分かってるから大丈夫」
「その前のことはよく知らない。記憶が戻れば思い出せると思うけど」
「養女になったのがいつごろかっていうのは?」
「あれは忘れもしない二〇〇九年三月三日の誕生日に私は神楽家の養女となった」
「いや、記憶喪失だよね?」
ちなみにヤヨイの記憶喪失は、ちょうど綾波レイが適格者として認定された二〇一二年のことだ。
「私は養父母に自分のことをあまり話さなかったみたいで、記憶をなくしたとき、養子になる以前の自分のことは何も知らないって言われた。こんなことならどんなことをしてでも聞いておくんだったと二人とも悲しんでいた。私は荒れた。正直、自分がどんな人間かも分からなかったから、それはもう荒れた。台風の中にいる小船くらい荒れた。毎晩火炎瓶を持ってバイクにまたがり、夜の街へ──」
「そういう作り話は置いといて」
マイが荷物を動かすしぐさをする。
「じゃあ、なんでネルフに?」
「適格者の資質があるからって連絡が来た。記憶喪失以前に適格者検査を受けていたみたい」
「それで適格者になろうって思ったんだ」
「そう。以前の自分がなろうとしていたなら、間違いないんだろうって思った。でも始めてみるとこれが意外につまらなくて荒れた。日焼け止めを塗り忘れた肌のように荒れた。ナイフみたいにとがっては触るものみな傷つけた」
「そういうネタも置いといて」
マイも、自分はよくこの人と仲良くやれてるな、と思う。
「ランクBまで上がって初めてシンクロテストをしたとき、ビビビと来た」
「びびび?」
「記憶が揺さぶられる感じになった。頭の中に何か映像が流れて、見たことのあるはずの人影があった。それからずっと、シンクロテストをするたびにその映像が流れた。実際にエヴァとシンクロしたとき、それがもっとはっきりするようになった。今日は特にはっきり見えた」
「何が?」
「光の巨人」
マイが顔をしかめる。
「それって、第一東京に出たっていう、あの?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
「でも──そうか、養子になったのが二〇〇九年だから、もしかしたらヤヨイさんは、二〇〇八年の九月に、あの第一東京にいたのかも」
「可能性はあるけど、分からない」
ヤヨイは首を振った。シンクロしていなければ記憶の揺さぶりもこない。現状では何も分からないということだ。
「記憶、取り戻せるといいよね」
「自分がどういう人間だったかは興味ある」
ヤヨイは頷く。
「でも、たとえ知ったからといっても自分が大きく変わるとは思えない。自分はどこまでも自分だから」
「大きく変わったら困るよー」
「谷山さんを困らせる気はないから大丈夫」
ふっ、とポーズを決める。つくづく面白い人だ、とマイは思った。
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