かねてから大量の質問を抱えていた赤木リツコは、この日ついにロシア支部のアイリスフィールと連絡を取ることにした。いや、これまでも所要では何度も顔を合わせているし、話もしたことがある。自分と同等か、それ以上に見識を持つ女性だった。本当に、自分たちよりも『上』の世代はどこまで力があるのか、空恐ろしくなるほどだ。
 碇ユイ。惣流キョウコ。赤木ナオコ。そしてアイリスフィール・アインツベルン。四人によって作られたという対使徒決戦兵器エヴァンゲリオン。アイリスフィール以外の三人は既にこの世の人ではないが、その名前は技術部に残っている。
「お久しぶりですね、リツコ。元気にしてますか」
 テレビ電話の向こうに現れた女性は、いつものように穏やかな笑顔を浮かべていた。












第佰陸拾参話



容顔美麗のフレッダメンテ












 六月四日(木)。

 マリィ・ビンセンスは久しぶりにクローゼ・リンツに呼ばれてネルフのジオフロントへとやってきていた。
 クローゼは今でもアメリカから狙われているのは間違いないことで、彼女がここにいるということは決してアメリカに悟られてはならないことだった。もっともアメリカはここにいるという検討をつけているだろうが、尻尾さえつかませなければそれでいい。
 クローゼが行っていたのはネルフの活動を裏から支えることだ。日本の取引相手に片っ端から連絡をつけて、ネルフへの協力を少しでも多く取り付ける。ネルフにとって活動資金の確保は何より大きな問題だった。企業からの資金提供が五月は通常の一.五倍になった理由の一つは飯山ミライの活動にあるが、裏ではこうしてクローゼもまた活動していたのだ。
「お呼びでしたか」
「ええ。なかなかお会いできなくてごめんなさい。あなたのことは気にかけていたのだけれど、思うように時間もとれなくて」
「お気になさらないでください。私は私で、何とかやっていますから」
 マリィもこの相手、クローゼの前では猫を被るようにしていた。
 アメリカでも有名なリンツ・カンパニーの一族で、若いながらに博士号を持ち、メディアへの露出も高い人物。
 三つ年上ということからも、かつての自分の姉のような信頼をこの人物に対しては抱いている。
「昨日、拾壱号機の修復作業は終わりました。明日のA.T.フィールド展開実験にはあなたも参加できるはずですよ」
「そうでしたか。でも、そうしたらなぜ私は格闘訓練には参加しなかったのですか?」
「たいした問題ではありません。拾壱号機の制動に問題がないかどうか、最終チェックを本日行っているからです。万が一ウイルスが残っていたりしては問題ですからね」
「そうですか。でも、格闘訓練を行っていない私がA.T.フィールド展開実験に参加するのは」
「あなたは拾号機と戦っている。充分にその資格はあります。少なくとも、レミさんやトウジさんに比べれば、贔屓目なしにシンクロ率でも機体操作でも上のはずですよ」
 それは言われるまでもなく分かっている。だが、きちんとしたプロセスを踏めないというのは常に自分につきまとっている。歩行・走行訓練にしても機体の搬入が遅れたために参加できなかった。実際自分がエヴァを動かしたのはあのとき一日限りなのだ。
「不安ですか?」
「はい。他の適格者に比べて私は絶対的にエヴァへの搭乗回数が足りませんから」
「正直ですね。ですが、あなたは必ず良い数値を出すことができますよ」
「なぜですか?」
「あなたはその若さでありながら、完全に一つの人格として独立している──大人になっているからです」
 マリィは戸惑う。思わぬ評価を受けていて驚いたというのが素直な気持ちだった。
「姉の体を手に入れ、姉の名を汚さぬためにあなたは自分と姉という二つの存在をその心に刻んだ。それは一つの大きな意識体となり、個として完全に成長、独立を果たした。まさにあなたのおっしゃったとおり、あなたはマリィにしてクレア、クレアにしてマリィなのですね」
「買いかぶりです」
「あなたはたとえ好きな相手から見てもらえなかったとしても、それを割り切って我慢するだけの強さを兼ね備えています。仲間のために協力し、さらなる高みへと成長しようという意思を手に入れています。誰からも評価されなかったとしても、自分の為すべきことを為し、自分のために努力を重ねることができます。中国の書物にある、『人知らずして恨みず』というものですね。他人が自分を理解してくれなくても不満に思わない、なんと人格者であろうか」
「私はそんな人間ではありません」
「ですが、そういう自分でありたいと考えている。それは『マリィ・ビンセンス』という人間がかつてそうだったから。少なくともあなたの目にはそう映っていたから」
 まったくその通りだ。それだけは否定できない。自分がそのレベルに到達できているかは別として。
「今日はそのような話をなさるためにお呼びになったのですか?」
「いえ、すみません。話がそれましたね。あなたに以前伝えていた『桑古木リョウゴ』が現れました」
 その言葉がマリィの顔から余裕を奪う。ライプリヒ製薬に勤めているという男の名前。そして、自分たち家族を引き裂いた男の名前。
「どこに」
「ネルフロシア支部。今はそこにかくまわれているようです」
「かくまう? ネルフがですか」
「ええ。もっとも本部にはそのことが伝わっていない以上、ロシア支部の独断ということになりますね」
「何が目的なのですか」
「わかりません。本日すぐに赤木リツコ博士から向こうのMAGI主任に話がいくことになりますが、それを待たなければ」
「MAGI主任?」
「アイリスフィール・アインツベルンという女性です。適格者イリヤスフィールの母親にあたります」
 ロシア唯一のランクA適格者イリヤの母。
「あなたは今でも、ライプリヒ製薬を恨んでいますか」
「もちろんです。私たち家族に人体実験を行った組織、許すわけにはいきません」
「今、桑古木リョウゴは完全にライプリヒ製薬から離れています」
「離れて?」
「ええ。どうやら、桑古木リョウゴ本人に別の目的があるみたいですね。何をたくらんでいるのかはわかりませんが」
 そう言われても当然自分にだって心当たりなどない。それに、桑古木リョウゴが何を考えていようと自分にとって仇になることは変えようのない事実。
「会いに行くことはできますか」
「さすがに今の状況では厳しいですね。あなたたち姉妹、そしてセカンドチルドレンのところに現れたことを考えても、彼がロシア支部に入り込んでいるのは明確な目的があるはず」
 だからといって放置することはできないということなのだろう。
「まずは報告までです。このようなこと、電話で話すことはできませんからね」
「ありがとうございます。進展がありましたらまた教えてください」
「もちろんです。私はあなたの味方ですから」






 アイリスフィール・アインツベルン。ロシア支部のMAGI責任者。位としてはロシア技術部のトップということになり、赤木リツコからみると同じ位になる。いや、本部責任者である分だけ、リツコの方が肩書きは上だ。
 だが、アイリスフィールはもともと赤木ナオコ、惣流キョウコ、そして碇ユイらとともにエヴァンゲリオンの開発に携わった人物。全ネルフ技術者の中で唯一頭が上がらない相手であった。
 他の三人と彼女の違いは国籍や言語の問題ではない。彼女の持つ優しいオーラ。母性的な優しさこそが彼女の本質のように見える。が、違う。あの三人とやっていくことができる時点で、普通の人間ではないことは分かりきっていることだった。
「お久しぶりです。本日はいろいろとご教示願いたく、お電話いたしました」
 あらかじめアポイントメントはとってある。盗聴されることのないように、MAGIによる妨害電波を発しながらの映像電話だ。
「お互い忙しい身分ですから、なかなか会うことも話すこともできないですものね。お母さんのこと、いろいろと話してあげたいのだけれど」
「イリヤのことも。日本にいたときの彼女の様子とか、お話できると思いますよ」
 するとアイリスフィールは途端に崩れた笑顔を見せる。
「いやもう、うちの娘のことですからどこに出してもかわいいのは分かってるんですけど、あのとおり我の強い子ですからご迷惑をかけてないかどうかだけが心配で。いやもうかわいいのは分かってるんですけど」
 二回言った。そんなに大事なことなのか。
(親馬鹿だったのね、この人)
 意外な一面を見たが、あえてスルーしておこう。
「それでは、いくつかの質問をいいでしょうか」
「ええ。私で答えられることならば」
「いきなり難しい質問ですが、そちらにいらっしゃる桑古木リョウゴ氏の目的を教えていただけますか。何のためにネルフに近づいているのか、そしてロシア支部がかくまっているのは何故なのか」
「カブラギ?」
「とぼけなくてもけっこうです。そちらに来ているのは分かっています。ただ、ロシア支部が彼を助けて何のメリットがあるのか、まったく分からないのです」
 アイリスフィールは困った顔をした。とはいえ、本当に困っているのかよく分からない。困っている振りをしているだけなのかもしれない。
「あのですね、リツコ」
「なんでしょう」
「カブラギリョウゴは、あなたがロシアに行くように言ってくださったのではないのですか?」
「なん──ですって」
 目を細める。いったい何を言っているのか。
「彼は言っていました。ネルフの技術者から、ここにかくまってもらうように言われたのだと。まあ、誰ということは教えてもらいませんでしたけど、てっきりリツコなのかと思っていました」
「誰のことか、今すぐ聞いてもらえませんか」
「無理です」
「何故」
「もう既にこのロシア支部を出て行かれました。もうこの支部にはおりません」
 なんという切り返しだろう。かくまっているにしてもそうでないにしても、これで完全に足取りを追うことはできなくなった。
「どこに向かうかなど」
「聞いていません」
「では、何をしにロシア支部に現れたのですか」
「ライプリヒ製薬から逃れるためにかくまってほしいと。三日ほどここにいて、それから出ていかれました」
 アイリスフィールがはたしてどこまで本当のことを言っているのかが分からない。この童顔笑顔の下でいったいどんな牙をむいているのか、まったく見えない。ある意味、母たちよりもずっと厄介かもしれない。
「そうですか、分かりました。では次ですが、これは私も困っていることで、どうしたらいいのか分からない状況です」
「碇シンジくんのことですね」
 相談の内容については既に一度メールで送信していた。初号機のプラグの中にもう一人の存在がいるような感じがするのだが、と。
「結論から言いますと、私には何も分かりません」
「そうですか」
「いえ、落胆しないでください。分からないのは情報が少ないからで、もしかしたら何かしらのヒントくらいは上げられるかもしれません。要するに、シンジくんがプラグの中で誰かと会話しているようなそぶりがあったということなのでしょう?」
「はい」
「シンジくんには聞いてみましたか?」
「はい。ただ、何も、とだけしか答えてくれません」
「だとしたら隠しておきたいことなのでしょうね。無理に聞いて関係を悪くする必要はありません。私に分かることではないですが、その初号機のコア、誰か別の人格がインストールされていませんか?」
「インストール?」
「はい。コア理論の応用で、一応私はそちらに引き継いでおいたはずです。シンクロ率を高めたり低めたりするために、プラグの中に人間を一人おいて、コアに食べさせてしまうという内容を」
「コアに、食べさせる?」
「正確には、シンクロ率四百パーセント超の状態にすることで、強引にコアに人格を持たせる方法です。ただ、これを行うことによって搭乗者のシンクロ率は飛躍的に向上しますし、コアからの精神汚染も起こらないので、理論上エヴァが動き続ける限り機体を操作し続けることが可能です」
「え」
 リツコは耳を疑った。
「精神汚染が、起こらない?」
「ええ。その方法の原案は残してきましたよ? 引き継いだのは惣流キョウコ女史と、赤木ナオコ女史。あなたのお母さんです」
(母が)
 もしかして、母がコアへの人格インストールを行ったということだろうか。だが、それはつまり。
「誰か一人を犠牲にすることになりはしませんか」
「もちろんです。ですからこの方法は封印されました。ただ、万が一のときには必要になることもあるかもしれないということで、廃棄はされませんでした」
「そうですか」
 となると当然、一つの問題が生じる。
「まさかとは思いますが、ロシアの機体に『そのような』ことはされてませんよね」
「科学者として興味はありましたけどね。さすがに一人殺してしまうのは、私にはできません」
 だが、今の話はありがたい。初号機のコアに関する過去の実験データを洗えばそうしたことも分かるはずだ。
「ありがとうございます。最後に、あなたがロシアに帰る前のことをお伺いしたいのですが」
「ロシアに帰る前というと、ちょうど適格者が見つかった頃ですね」
「そうです。あなたはその頃、ここでどのような研究をされていたのですか」
「あなたは知っているはずです。私の仕事はエヴァンゲリオンのコア開発にかかわる部分。コアの基礎理論を完成させた私はお払い箱になってロシアに戻ってくることになったということを」
「そのコアにいたる経緯で何があったのかを知りたいのです」
「経緯も何も、コアに電気パルスを打ち込むことによってエヴァンゲリオンを起動させる、ごく初歩的な理論にすぎません。ただ問題は、リツコも知ってのとおりエヴァンゲリオンは使徒研究をベースにして進めてきた技術です。長くシンクロしていると、逆にパイロットが精神汚染を受ける。それをどう解決するかが大きな問題だった」
「それが先ほどの人格インストールですか」
「ええ。それは逆に無理だということが分かりましたが、だからといって他に方法がない。だから今も私たちは不完全なコアと、不完全なエヴァで戦わなければいけないということになる」
「なるほど。だからといってどうすることもできませんよね」
「ええ。人を一人犠牲にする勇気があるなら、別ですが」
 アイリスフィールにはその意思はないらしい。少し安心した。
「ただ、確実に人格インストールがされている機体があります」
「なんですって」
「ドイツの弐号機。あれには人格インストールがされています」
「ドイツ。ということは、キョウコおばさんが人格インストールをしたというの」
 なんということ。
「ええ。だからキョウコは『いなくなった』んだわ」
「つまり、それは──」
「そういうこと。キョウコは自分の人格をコアに食べさせた。そして自ら自分の娘を、アスカちゃんを守ろうとした。遺書に近いものが、後になってから私のところに届きました。おそらく間違いないでしょう」
 母というのはそこまでできるものなのか。
 ならば、赤木ナオコという女性は、自分のためにいったい何をしてくれたというのだろう。
「人格インストール以外のことはどうですか」
「私は何も」
「神楽ヤヨイ、という名前に心当たりは?」
「あります。日本のランクA適格者ですね」
「適格者になる以前は?」
「何故、それを知りたがるのかしら」
「質問をした相手が分かっているのなら、あえて説明する必要もないと思います」
「では、私に説明は必要だと思うわよ。何しろまったく何のことだか想像もつかないもの」
「日本からロシアに帰る直前、綾波レイというファーストチルドレンが発見される直前、一人の少女が行方不明になっていました。そして、彼女は綾波レイの発見とほぼ同時期に見つかった。そして、それ以前の記憶がなくなってしまっています」
「それが神楽ヤヨイ?」
「はい。名前は以前からあったものということで、おそらく変わっていないと思います。行方不明だったのは、あなたがロシアに戻る直前の期間とほぼ一致します」
「私がその子を誘拐したとでも?」
「もしそうだとしたら」
「そうだとしたら?」
「どうもしません。ただ、何のためにそうしたのかを知り、次に活かすことができればいいと思います」
 さて、どうする。
 アイリスフィールはやはり困った顔だ。仕方がないわね、と笑顔を見せる。
「私からは詳しいことは何もいえないけれど、うちのイリヤが適格者なのは、たぶんそのヤヨイちゃんという子と同じ理由からよ」
「どういうことですか」
「プロジェクト・マーチ。調べてごらんなさい。本部のMAGIならいくらでもとはいかないかもしれないけれど、計画の一端くらいは見られるでしょうから──さて、そろそろ時間ね」
 約束の時間の一分前。だが、情報はいくつか得られた。
「ありがとうございました。教えていただいたことは有意義に使わせていただきます」
「いいえ。あまり根を詰めすぎないようにね。あなたのお母さんみたいなことにならないように」
「はい」
 そうして通信が切れる。
 調べることは山ほどあった。これから忙しくなる。その実感がふつふつとわいてきていた。






「というところでよかったかしら、カブラギさん」
 そのテレビ電話のモニタが届いていないところに座っていた男性が立ち上がる。
「ありがとうございました。ロシア支部にかくまっていることが公になったら、あなたの身も危ないでしょうから」
「どういたしまして。私もあなたの力になりたいと思います。私たちは取り返しのつかないことをたくさんしてきています。でも、最終的に使徒を倒すことができるなら、私たちはあえて罪を被りましょう」
 リョウゴが頷いた。
「ええ。私もここまで来るのにたくさんの犠牲を払いました。そしてようやくここまでたどりついた。あと少しで、この研究は完成する」
 リョウゴの目に涙が浮かぶ。
「使徒を倒すために、何としても私の恩人を救出しなければいけません」






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