痛みはまだ、体に残っている。
貫かれた左肩。
だが、そんなものはどこを見ても存在しない。
あるはずのない痛み。
だが、実際に受けたその痛みのために、自分は完全に脱力してしまっていて、さらには左腕が完全に麻痺してしまって動かない。
エヴァンゲリオンに乗るというのは、こんなにも辛いことだったのか。
どうして自分はこんな選択をしてしまったのだろうか。
父親がネルフ職員だったからか。それもある。
世界を救うという英雄的行為にあこがれたのか。それもある。
だが、自分がエヴァンゲリオンに乗るのは、まるで運命であるかのようだった。
ランクAまでとんとん拍子の順調出世。
後で聞いた話だが、三千人もいる適格者の中でそこまで順調なのは自分を含めて三人だけだとか。
何故、自分はエヴァに乗ろうと思った?
(そんなに理由が大事なの?)
大事だ。決まっている。それは自分の人生を左右するものだからだ。
(でも、今、あなたはこの場所にいる)
そんなことは分かっている。だが、今は何かに八つ当たりでもしなければ、この痛みに耐えることができそうにない。
(他にもっと大事なことはないの?)
他に?
(そう、たとえば──今、一緒に戦っている人、とか)
戦いの中で、人は時に幻覚を見る。それは解放か、それとも絶望か。
第佰陸拾玖話
意気軒昂のアモレーヴォレ
だが、初号機のプログナイフは使徒のコアを破壊することはできなかった。それどころか、傷一つつけられなかった。
ただ、触れただけ。
そこから先に、力を加えていくことができなかった。
なぜなら。
「あああああああああああああああああああああああっ!」
シンジの絶叫が、パイロット、そして発令所の全員の耳に届く。
初号機が握っていたはずの巨大なプログナイフが大地に落ちる。いや、プログナイフだけではない。
初号機の右手首と共に。
「ああっ、ああがああああがががああああがあがががあがああああがあっ!!!!!」
悲鳴は言葉にならない。ただ喉から、腹から声を出して、それで痛みを、パニックを少しでも紛らわせようとしているにすぎない。
「碇くん」
レイが珍しく顔を歪ませる。彼女にとって唯一心を開いている相手の苦悶の声。それが彼女を動揺させないはずがない。
『何があったの』
ミサトがうめく。が、その正体はすぐに分かった。
捌号機が消滅させたはずのA.T.フィールド。それが再展開されている。それも局地的に。そう。
初号機の右手の位置に、強制的に出現させたのだ。
その光の壁は、どんな鋭利な刃物よりも鋭く、初号機の右手首を一瞬で切断した。
その後は、今見ている通りだ。
シンジの悲鳴が、嗚咽が、場を支配する。ようやく、ここにいる全ての人間の意識が一つに集まった。
自分たちは、失敗した。
エース機である初号機が戦闘不能。この状態でどうやって使徒を倒せというのか。このまま戦っていたとしても、徐々に戦力を削られて、やがては全滅する。その未来図が見える。
『何してるの、アンタたち! 肆号機は参号機を、零号機は初号機を連れて離脱! 陸号機は時間を稼いで! 捌号機はそのままでは一撃で粉砕されるわ。すぐに撤退して!』
だが、その指示は遅かった。直後、光のパイルが捌号機の胸を貫く。
『捌号機パイロット、意識不明!』
『早く距離を開けなさい! 全滅するわよ!』
使徒は次の標的を零号機に定めた。が、それより早く動いた機がある。
マリィの駆る拾壱号機だ。
「時間を稼ぐわ。その間にみんなを!」
白銀のエヴァが繰り出すキックで使徒が吹き飛ぶ。攻撃を仕掛けようとしていたせいか、A.T.フィールドは展開されていなかった。その一瞬の隙をついたマリィはやはり、天才というべきだろう。
「参号機および肆号機、撤退完了っ☆」
レミの声が響く。
「初号機も無事」
零号機が初号機を抱き上げている。その機体がいまだ痙攣している。
「捌号機も大丈夫だよ」
陸号機のタクヤが最後の一機を抱えて引き上げる。
『あとはあなたよ、マリィ。一旦下がって!』
「了解! ですが、攻撃を仕掛けてください。同時に下がります!」
『OK! いい度胸してるじゃない! 自衛隊機にN2投下させて!』
ただちに無人機が近づき、N2爆弾を投下していく。同時に拾壱号機が大きく下がった。
直後、爆発。その膨大な熱量をA.T.フィールドで何とか相殺しようとしたが、それでも白銀の装甲は耐え切れずに一部が破損した。
だが、効果はあった。
爆発の中心部で、使徒は半分以上が消失していた。だが、顔と、コアの部分は原型をしっかりととどめていた。
「ど、どうなってるの?」
レミがその使徒を見ながら言う。
「修復しているわ」
レイが答えた。そう、使徒は少しずつだが、自分の体を治癒しているようだった。
『MAGIに計算させたわ』
リツコからすぐに連絡が来る。
『完全修復まで、五時間と三十二分』
「こっちもその間に、態勢を立て直さないといけないわね」
大破した参号機のほか、小破した伍号機と拾壱号機。さらには貫かれた捌号機と玖号機。右手を失った初号機。
(これほどの損害を出しても、まだ倒せないというの)
いや、今回の敗北は作戦ミスによるところが大きい。もっと相手の情報を引き出してから攻撃をしかけるべきだったのだ。
『修復中の使徒に追撃をかけられないか?』
ジンが尋ねる。が、リツコが『無理ね』と答えた。
『使徒はA.T.フィールドで周囲を守っている。あれを破るのは捌号機でなければ無理よ』
その捌号機は意識不明で、エヴァも胸を貫かれている。修復が必要だ。
『使徒が修復するのが先か、こっちが修復するのが先か。時間勝負になるわよ。エヴァ、全機撤収! 修復可能な機体を優先的に修復するわ!』
こうして、第三使徒との戦いは、思いもよらない形で休戦となった。
パイロットたちがただちに緊急治療室へと運ばれる。結局何の傷害もなかったのはレミ、タクヤ、カズマ、レイの四人だけ。もっとも、エヴァンゲリオンが受けた傷はパイロットがそのまま受けるものではない。誰も外傷はないのだが、エヴァの破損具合に比例してパイロットたちにも影響が出ていた。
コウキとマリィは『少しの怪我』で済んだので、外傷を確認したあとはセラピストによる検診のみ。
トウジとヤヨイは使徒の攻撃と同時にショックで意識が飛んでしまっており、精神的に安定するまで目覚めることはない。まさに使徒の回復とどちらが早いか、という時間勝負だ。
シンジとサナエは、錯乱していた。
サナエは焦点を合わせずに、歯をがたがたと震わせている。
シンジは叫び、呻き、暴れた。そのため鎮静剤を打って、一度眠りにつかせた。その方が回復が早いと思われた。
「最悪の場合、俺たちだけでやることになるな」
カズマが残った五人を前に言う。
「いやー、悪いけど、めっちゃ痛かったぞ。できればやりたくない」
「そんな言葉が通じないことは百も承知だろう」
「まあな」
愚痴ったコウキをたしなめる。
「だが、実際に出撃できる機体がどれだけあるか分からないのではないか?」
マリィが尋ねる。
確かに、現状で参号機が五時間程度の修復作業で元通りになるとは思えない。伍号機と拾壱号機は外装甲の一部を取り替えるだけなので何の問題もない。ということは問題になるのは三機。
「捌号機と玖号機は穴をふさげば問題ないだろうが、問題は」
初号機。さすがに右手を失った以上はどうにもならない。切断された部分を改めて作り直すというにはどれだけの時間がかかるものなのだろう。
「パイロットが乗れるかどうかも問題だしな」
「それは俺たちが言っても仕方のないことだろう。それより、どうやってあの化け物を倒すかだ」
考えても簡単に答が出るものではない。そんな六人のところにやってきたのはミサトだった。
「葛城さん」
「四人の容態は?」
六人がいっせいに詰め寄る。が、ミサトは「大丈夫よ」と前置きしてから答えた。
「外傷があるわけじゃないもの。鈴原くんとヤヨイは時間の問題。それより問題は、下手に意識残った二人の方ね」
「碇と赤井か」
「ええ。ただ、鈴原くん以外は精神的に落ち着きさえすればエヴァには乗れるみたいよ。各機、修復までにかかる時間は四時間以内」
「参号機は?」
「修復まで一ヶ月はかかる見込みよ。少なくとも今回の戦いでは使用不能」
「そこまで犠牲を出しておきながら倒せなかったのは痛いな」
カズマが悔しがる。だが、それは言っても仕方のないこと。
「そうね。というわけで、作戦立案、完了したわ。問題は各機、きちんと動けるか次第ってところが問題なんだけど」
そう言ってから、ミサトは作戦の説明に入った。
シンジは病室のベッドで横になっていた。
天井を見上げながら、体が震えるままに任せている。
何故、自分の右手はついているのだろう。
確かに切り落とされたはずなのだ。一瞬で、自分の右手から先がなくなった。いや、自分の目にはくっついたままの右手があったはずなのに、そこにはもう何もないのと一緒で。
震える左手で右手に触れる。冷たい。触れた左手には感触があるのに、右手は熱も痛みも何も感じていない。
何があったのかは、よく覚えている。
(いやだ)
あんな、痛い思いはもう、したくない。
だが。
「シンジ? 目、覚めたのか?」
病室に入ってきたのは同期のコモモだった。
「ああ、うん」
シンジは体を起こす。まだ体ががくがくと震えている。
「シンジ」
その様子を見たコモモが、涙目で近づいてくる。そしてシンジの右手に触れた。
「動くのか?」
「今はまだ。ショックで神経が麻痺してるんだって」
「ちくしょう」
コモモがその右手を両手で包み、そっと自分の頬にあてる。
「私はお前に、何もしてやれない」
「コモモ」
「ガードなんて、使徒との戦いじゃ何の力もない。ちくしょう、ちくしょう」
「そんなことないよ」
シンジは左手で、コモモの頭をなでる。
「みんながこうして僕のことを心配してくれる。だから僕はまだ戦えるんだ。そうじゃなかったら、こんな痛い思いするのなんて、もう嫌になって逃げるところだよ」
そう。
あんな、痛い思いはもう、したくない。
だが。
仲間たちのためなら、たとえ自分が痛くても苦しくても我慢ができる。
「僕に友達とか、仲間とか、そんなのいないってずっと思ってた。でも、今は違う。コモモや、みんながいるから。みんながいるこの世界を守るためにも負けられないんだ」
すると。
その声に導かれるように、コモモの頬に触れていた手が、ぴくりと動いた。
「シンジ、今」
「うん」
コモモと手が離れる。そして強く、強く握る。
戻ってきた感触。熱も、痛みも、この右手とともにある。
「シンジ」
コモモはもう一度シンジの手に触れる。そして自分の方へ手を近づけると、ちゅっ、と唇をつけた。
「おまじないだ。もう、シンジの手が同じことにならないように」
真っ赤な顔でコモモが言う。された方のシンジの顔も赤い。
「ありがとう、コモモ。今度こそ、使徒を倒してみせるよ」
シンジは一度首を振ると、真剣な表情でコモモを見つめた。
「あれからどうなったの?」
コモモは簡単に説明をする。全員引き上げたこと、N2で使徒にダメージを与えたものの、現在A.T.フィールドで完全防御しながら修復中であること。
「N2投下してからだいたい三時間くらい経ってる。さっき作戦会議も終了したみたい」
「分かった」
シンジは起き上がると、準備されていたプラグスーツを手にする。
「ごめん、コモモ。着替えるから」
「あ、ああ、ごめん」
くるり、とコモモが反転する。シンジは落ち着かない気持ちになりながらも、コモモに背を向けてプラグスーツに着替える。
スーツに身を包み、手首のボタンを押すと、ぴったりとそのスーツが自分に吸い付く。
直後、背後からコモモに抱きつかれた。
「コモモ?」
「死ぬなよ、シンジ。約束だ。絶対、絶対、死んだらだめだ」
「もちろん」
シンジは頷く。
「ありがとう、コモモ。勇気がわいてきたよ」
そしてシンジは病室から出る。
「シンジくん」
そこにいたのはエン。気をきかせて、ずっと待っていてくれたのか。
「エンくん」
「体は?」
「大丈夫。もう痛みは治まってるし、右手もちゃんと動いてる」
まだ手は冷たい感じがするが、それはずっと動かしていなかっただけのこと。もういつもの通り、きちんと動いている。
「作戦、どうなったの?」
「残念だけど、シンジくんは一番危険なところ担当だよ」
エンは、ごめんね、と言った。だがシンジは首を振る。
「それが僕の役割だから。みんなのためにも、やれることは何だってする」
頷くと、シンジは走り出した。
作戦開始の時間まであと少しだ。
次へ
もどる