『あなたは、誰』
自分に語りかけてくる声に向かって尋ねる。
自分が徐々に落ち着いてきているのは分かっている。もう少しで自分は完全に回復できるだろう。だが、回復する前にこの謎だけは解いておきたい。
明らかに、目の前の『何か』は、自分とは別の存在。
『あなたはいったい何者なの? 私に何を伝えたいの?』
(私は私。私はあなたにもっとも近いもの)
『何を言っているのか分からない』
(いつか分かる日が来る。あなたと私をつなぐものが、いつか私たちをめぐりあわせる)
『いつかって?』
(最後の使徒と戦う前までに)
約束の場所にて待つ。彼は神か、それとも。
第佰漆拾話
気炎万丈のフェルヴォーレ
そして、赤井サナエは目覚めた。
病室のベッド。白い部屋、白い天井。いったい何があったのか──いや、それは今はどうでもいい。
今、自分が話していた相手。どこか優しく、はかなく、そして自分に何かを伝えようとしていた。だが、その正体はまったく分からない。
(最後の使徒と戦う前までに)
いったい何を言おうとしているのか。めぐりあったときにどうなるというのか。
(考えても仕方のないことなのかな)
ふう、と息をつく。と、ちょうど扉が開いた。
「サナエ!」
息を切らせてきたのはヨシノだった。
「ヨシノさん──?」
そのヨシノに飛びつかれて、サナエは驚いて次の言葉が出てこなくなる。
「よかった。無事で、本当によかった」
「ヨシノさん」
「あなたがやられたとき、心臓が張り裂けるかと思った。こんなに心配させて。本当によかった。本当に」
他に言葉もないのだろう。感情的になっているヨシノを、逆にサナエが背中を叩いてなだめる。
「私、大丈夫ですよ。こうやってヨシノさんも応援してくれてますし、まだまだがんばれます。むしろ、今までが順調すぎて油断しすぎてたのかも」
今までサナエは何も失敗したことがなかった。確かに成績はいつもぎりぎりでクリアしてきたのだが、いつも必ずクリアをしてきたのだ。ランクAまでの順調出世、さらにはランクAになってからも数々のテストを常にクリアし続けている。自然と気が緩んだとしても仕方のないことだろう。
「でも、もう油断しません。見ててください、ヨシノさん」
はあ、とヨシノはため息をついた。
「あなたはもっと、ショックを受けているのかと思っていたわ」
「もちろんショックですよ。すごく痛かったですし、でも、傷口って残らないんですね」
実際に自分で受けた傷ではなく、実際に受けたときの痛みだけを感じるシステム。
「そうだ、ヨシノさん。使徒はどうなったんですか?」
「今休戦中。N2で敵に損傷を与えたけど、致命傷ではなかったわ。もうすぐ作戦開始」
「じゃあ、すぐに行かないと」
「そんな、怪我をしてるのに」
「してませんよ。ぴんぴんしてます」
むしろ精神的にどれだけダメージを受けているかということだろう。肉体にはどこにも傷はないのだ。
「私でもできることがあるなら、やりたいんです」
「まったくもう」
ヨシノはサナエの頭を抱きしめた。
「絶対に死んだら駄目よ」
「もちろんです」
「何があっても生き残ることを優先して」
「はい」
「よし。じゃ、行こう」
そしてサナエはプラグスーツに身を包む。
プラグスーツは戦闘服だ。これに身を包んだとき、自分は使徒と戦う戦士に変わる。
「見ててくださいね、ヨシノさん」
サナエは発令所に向けて走り出した。
飯山ミライの公開生番組が終わったのが午後五時。それから一時間経った午後六時、緊急避難警報が発令された。
このとき、佐久間ユキはまだ家に帰っていなかった。帰る途中で本屋に寄り、碇シンジが表紙になっているNERVの本を一冊購入したところだった。
第三新東京全域にわたる避難警報。そして、ただちに携帯電話に入る『使徒警報』。携帯電話がそのメールを受信するやいなや、画面に近隣シェルターの地図が表示される。こんな機能まで携帯にあるのか、と感心している場合ではなかった。
一斉に、人々がシェルターに殺到する。使徒への恐怖。死にたくないという人々の願望が、町を一気に戦場に変えた。
ユキも表示にしたがって走った。使徒がこの第三新東京を目指してくる。地下にもぐるシェルターに入らなければ、自分は使徒に蹂躙されてしまう。
たった一人、ユキは心細さを感じながらシェルターに入った。多くの人々がその空間にうずくまるようにしていた。
しばらくして、シェルターは完全に封鎖され、そのまま地下へと降下していく。使徒と戦うために作られた要塞都市、第三新東京。全てのシェルターは地下深くへと格納され、安全になるまで隔離されることになっていた。
そうしたことは学校の授業でも言っていたし、何度かあった避難訓練で実際に体験している。あわてる必要もないことだった。
だが、現実は違う。いよいよ現れた使徒。これで世界が終わるのではないかという絶望。それがシェルターの中に満ち満ちている。
子供が泣き出したのをきっかけに、あちこちで口論が起きる。ちょっとしたいざこざが続き、険悪なムードが漂う。
パニックを起こしかけていた。
誘導していたのは戦略自衛隊の人だろうか。だが、今この場所にはいないらしく、統制する人が誰もいない。
このままでは、使徒ではなく、自分たちで自分たちを傷つけあうことになりかねない。
そのときだった。
『みなさん。聞いてください』
その声は、いきなりあちこちから同時に聞こえた。
ユキの懐からも聞こえた。
(緊急避難警報……)
そう。緊急避難警報が鳴った携帯電話から聞こえてきた。
『ただいま、第三新東京に住む人、全ての避難が終了しました。エヴァンゲリオンと使徒との戦いが終わるまで、少し時間がかかるかもしれません。でも、私は信じています。エヴァンゲリオンが、碇シンジくんが、きっと使徒を倒してくれると』
この声は。
『だから、みなさんも一緒に、信じましょう。祈りましょう。私たちは負けない。私たちは大丈夫。私たちの先頭に立って戦ってくれる人がいてくれるから。私たちにできることは、自分たち自身を信じること。私はそう思います。みなさんはどうですか?』
どういうカラクリかは分からない。だが、間違いない。
この声は、自分がよく知っている声。
『もし、どうしても不安なら、一緒に歌いましょう』
ディスプレイに表示されていたのはまぎれもない、飯山ミライ、その人であった。
『私は碇シンジくんを信じています。苦しみから逃げず、正面から戦うシンジくんを支えてあげたいと思っています。みなさんはどうですか? みなさんは今、シェルターの中にいるはずです。一番危険なところでは、たった十四歳の少年が戦っているのです。私たちには何ができますか? 何もできないなら、私はせめてシンジくんを応援したいです。みなさんも同じ気持ちになってくれることを願います。だから、私は歌います。みなさんの心が、少しでも安らぐように。そして、碇シンジくんにみなさんの思いが届くように』
そして、携帯の中のミライは、ゆっくりと呼吸を整えて、歌をつむぐ。
ピアノとハープの旋律。それは間違いない。
『PRAY』
くすんだ空の色 雲間からこぼれてる 一筋の光
窓辺にもたれて 真っ直ぐ前を向いてる 君の背を見てた
今 一人で立ってるの?
たった一人で戦ってるの?
ほら こっちを向いて
君には仲間がいるから
信じよう 明日を未来を この星に住むすべての命と
生きていこう 一緒に 歩ける仲間がいる
もう君は 一人じゃない
だから泣かないで 抱きしめてあげるから
その歌は何回も、何回も流れた。
ユキは最初に、その歌を一緒に口ずさむようにした。
すると、近くにいた人も歌い始めた。
次第に輪が広がり、最後はみんなが同じ曲を歌っていた。
(ミライさんは、すごい)
この場所にいなくても、たった一人で、このシェルターの騒乱を救った。
いや、この場所だけではない。きっと、第三新東京のいたるところで、ミライの歌声が、みんなを救っているのだ。
(ミライさんは、本当に、すごい)
信じる心が力になるというのなら、ミライはまさに信じる心を生み出すことができる存在だ。
『みなさん。もうすぐ、戦いが始まるそうです』
時間は既に、午後十一時を過ぎていた。
『午後十一時半。それが使徒との決戦時刻だということです。さあ、みなさん、信じましょう。私たちと同じ人間が、まだ十代の少年少女が、私たちを救ってくれるということを』
そうだ。信じよう。
明日を。
未来を。
この星に住むすべての命とともに。
(シンジくん、ミライさん)
ユキは、ぐっと手を握り締めた。
(勝って)
いつしか。
シェルターの中の人たち、全てが祈りをささげていた。
「それじゃあ、作戦の説明に入るわね」
ミサトが集まった適格者たちを見て言った。
まだ神楽ヤヨイ、鈴原トウジの両名は回復していなかった。となると、エヴァを動かせるのは全部で八名。この人数で使徒に戦いを挑むことになる。
だが、前回の敗戦でさらに心を鍛えてきたシンジとサナエ、さらには一度戦ったという経験を持った適格者たち、たった一度の戦闘が全員を一段上のランクへといざなったようだ。
「今回、ヤヨイは出撃できないけど、実際に出撃しても大きな差が出ることはないわ。何しろ、今度はA.T.フィールドを消滅させないから」
「消滅させない?」
カズマが顔をしかめる。
「ええ。A.T.フィールドを消滅させたら、相手はまた新しいA.T.フィールドを生み出す。その結果が、先の初号機の件につながっている。だとしたら、A.T.フィールドを消滅させずに相手を倒す。それしかないわ」
「だが、A.T.フィールドがある限り、使徒にダメージを与えることはできないぞ」
「そんなこと、誰が決めたの?」
ミサトが余裕をもって答える。
「だいたい、N2の火力ですら使徒にダメージを与えているのよ。参号機の体当たりで相手をぐらつかせたことからも分かるとおり、決してダメージがゼロというわけじゃない」
「だが、致命傷を与えられるかとは別問題だ」
「そうね。だから簡単なことよ。A.T.フィールドは消滅させないまま、A.T.フィールドの影響を受けないように攻撃をかける。言っている意味が分かるかしら?」
カズマは素早く頭の中で意味をはかりとる。
「つまり、A.T.フィールドに浸食して穴をあけ、そこから攻撃するということか」
「Good、結論として、最終的に二人で協力して倒す形になるわね。もちろん、シンクロ率の高いシンジくんと朱童くんの二人。初号機の右手は完全に治ってるから安心してちょうだい。残りのメンバーは補佐」
「具体的にどうするかを聞きたい」
「メインの二人の話をすると、接近してから朱童くんがA.T.フィールドに接触、浸食開始してA.T.フィールドの中心に穴を開けるわ。その穴からシンジくんがプログナイフを使徒のコアに突き刺す。これで完了」
「簡単に言うのだな」
「実際には簡単じゃないわよ。だから防御役に榎木くんの陸号機、さらには牽制役にマリィの拾弐号機がつく。レミとサナエは補佐、後方から射撃したり、プログナイフを渡したり。野坂くんとレイは万が一のことを考えて控えに回ってもらうわ。何しろ、失敗したら誰かが時間稼ぎをしてもらわないといけないでしょ?」
なるほど、とカズマが頷く。コウキは肩をすくめた。シンジを守る役を取り上げられて不満なのだろう。
「大丈夫だよ、野坂くん。僕がきちんと役目を果たすから」
「ああ、頼むぜリーダー。こういうときに頼れる相手でよかったぜ、まったく」
「それじゃあ、各自、乗り込んで。攻撃開始は二三三〇! 日が変わる前には決着をつけるわよ!」
『了解!』
全員の唱和。そして、乗り込もうとしたときだ。発令所のメインモニターにリツコの顔が出た。
『ちょっと待ってくれるかしら』
作戦会議が終わったところを見計らって連絡を入れたのだろう。
「どうしたのよ、リツコ」
『見せたいものがあるのよ。時間はとらせないわ』
そう言って、さらに画面が切り替わる。
それは、第三新東京地下の、シェルターの様子だった。
「これ──」
シンジは驚いて目を丸くする。
そう。
そこにいた人たちは、手を合わせて、祈るようにして、歌っていた。
今 一人で立ってるの?
たった一人で戦ってるの?
ほら こっちを向いて
君には仲間がいるから
飯山ミライの、新曲。シンジを応援するためだけに作られた歌。
と、その画面の左下に、ミライの顔が出た。
『シンジくん』
画面を見る。彼女はしっかりとこちらを──カメラを見つめている。
『みんなが、シンジくんを応援してくれています。もちろん、私も』
ミライが笑顔を見せる。
『だから、がんばってください。そして、必ず、生きて帰ってきてください。待ってますから』
そして、通信は途切れた。リツコが『以上よ』とだけ言う。
「なかなかにくい演出じゃない、リツコ」
『ミライと保安部が言い出したことよ。緊急警報にミライの歌を流すって。それにミライ本人がメッセージを流しただけ』
「それでも、今の映像はみんなをやる気にしてくれたみたいよ」
そう。
全員、目の色が変わっていた。たくさんの人の命を背負っているという重み。だが、それをプレッシャーにするのではなく、いい意味での緊張感に変えるということ。
「行こう、みんな」
シンジの声に全員が反応する。一斉に駆け出していく適格者たち。
そしてシンジが初号機に乗り込む。
『よかったですね、シンジさん』
すぐに声が聞こえてきた。
(うん。シオリさんも聞こえた?)
『もちろんです。というか、シンジさん、緊張しててさっき私の声、聞いてくれませんでしたよね。ぷんすかです』
(ごめん)
『いいんです。シンジさんも初めての戦いでしたから、余裕がないのはわかってます。でも、今はもう違いますよね』
(うん)
『それじゃあいきましょう。私たち二人が力を合わせれば、使徒なんて楽勝です!』
(もちろん!)
そして、エヴァンゲリオンが出撃する。
「初号機、出ます!」
六月六日。二三時三〇分。
使徒との決着をつける戦いが、始まる。
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