オーストラリアにおける戦いは人間の辛勝に終わった。
多数の死傷者を出し、支部を一つ失いながらも、絶対に失ってはならないランクA適格者とエヴァンゲリオンは健在。かろうじて人間側の勝利と称して問題はないだろう。
だが、全ての戦いが人間側の勝利に終わるわけでもない。
オーストラリアはさまざまな幸運が重なった結果の勝利であった。
エヴァンゲリオンが複数機存在した。
やってきた使徒がさほど強くなかった。
使徒を倒すという点において、軍とネルフとがよく協力をしていた。
搭乗者の能力が高かった。
これらのうち、一点でも存在しなければ、おそらく勝機はなかっただろう。
では、そのすべてが存在しなければどうなるのか。
たとえ搭乗者の能力がどれほど高くとも、それこそチルドレンクラスの能力の持ち主であったとしても勝ち目はないだろう。現に、オーストラリアですらチルドレンクラスを抱えていてもなお辛勝だったのだから。
では、ただのランクA適格者が『最強』クラスの使徒に立ち向かったらどうなるのか。
さあ、中国の戦いを見てみよう。
CはChildrenにしてChina。すなわち希望。
第佰漆拾陸話
希望のC
中国におけるネルフ支部は南京にある。
いまだに人口四億を抱える大国中国は適格者数もアメリカ、ドイツに次ぐ三番目の人数が所属している。だが、三百人を超える適格者たちのうち、ランクAまで到達しているのはたった一人、香港出身のムサシ・リー・ストラスバーグのみである。
ムサシは決して天才型の適格者ではない。日本の碇シンジやオーストラリアの錐生ゼロのように初めから高いシンクロ率を出していたわけではなかった。ランクBまでは早かったのだが、そこから一年の時間をかけてシンクロ率を高め、ようやく上り詰めた地位だった。
当然、中国からの期待は厚い。唯一のエヴァンゲリオン操縦者として、使徒が現れたときには必ずやムサシが使徒を倒してくれるものだと国をあげて応援している。
日本でもテレビ番組で碇シンジの特番が組まれることがあったが、中国はその比にならないほどムサシのテレビ出演の回数は多かった。ランクAになってからというもの、仕事の半分が取材ではないかというくらいの忙しさだった。
もっとも、純粋にムサシを応援できない層がいるのも、彼の出自的にやむをえないところであった。
まず、出身が香港であるということ。香港はセカンドインパクト直前までイギリス領であり、さらにそのセカンドインパクトでほとんど被害が出ていなかったことから、本国から疎んじられているところがあった。
さらには彼の母親が日本人であるということ。六か国襲撃を含むセカンドインパクト後の諸問題により、日中関係は現在でもかなり冷え切ったままの状態だ。彼の母親の話は国内ではほとんどタブーとなっている。
こうした事情から、マスコミはムサシのランクAとしての実績のみを売り出し、本人のバックヤードについては一切放映しないという手段を取ることにした。
「あー、やだやだ。今日もテレビ、明日もテレビ」
ムサシは友人の部屋に上り込んで、そのベッドに寝転がった。同じく香港からやってきた適格者、浅利ケイタである。
「それだけ国がムサシのことをかってくれてるってことじゃないか」
「露骨すぎんだよな。だいたい、そうやってマスコミにつきあってるせいで訓練だってままならないんだぜ。お前もさっさとランクAになれよ。そうしたら少しは俺だって楽できるんだから」
「僕はムサシほど露出が多くはならないよ。何しろ、ムサシと違って両親とも日本人だからね。中国政府は日本人の僕を表に出すようなことは絶対にしない」
ケイタが顔をしかめて言う。ムサシも同じくため息をついた。
「こんなんで、使徒が現れたら俺たちきちんと戦うことできるのかな」
「作戦部はしっかりしている。何もなければ問題はないよ」
ケイタが遠回しな表現をとった。
「どういう意味だ?」
「政府が横槍を入れてきたら、身動きが取れなくなるかもしれないっていうこと」
「なるほどな」
セカンドインパクト後、とにかく迷走を続けている政府だ。何をしでかすかは国民ですら分からない。
そんな政府でも国民からの支持率は高く、実に九十パーセントを超えている。もっとも、セカンドインパクトの混乱に乗じて多くの少数民族を犠牲にし、漢民族の優遇政策をとったことにも理由がある。実際、香港における政府支持率は三十パーセントに満たないのだ。
本国が香港を蔑視しているのと同様に、香港出身者は政府を信頼していない。それはムサシもケイタも同じことであった。
「アメリカの奴らがさ、日本に亡命するって言ってたんだよ」
ムサシが言うと、ケイタがぎょっとして周りを見る。
「滅多なこと言うなよ、盗聴されているかもしれないんだぜ」
「別にいいさ。俺が亡命しようって考えてるわけじゃない。ただ、アメリカの連中も大変だったんだろうな。国を信じて戦うことができないっていうのは、けっこう辛いんだよな」
「それじゃあ、ムサシはどうして適格者になったんだ?」
「そりゃ家のためだろ。あと、兄貴が優秀だったからな。俺が生きる道が他になかったんだよ」
ストラスバーグ家は香港の三財閥の一つだ。だが、経済とか経営とかはどうにもついていけないムサシにとって、エヴァンゲリオンの適格者資格というのは自分が生き延びるのに最適な手段だった。
「だから俺は亡命なんかできない。亡命するには捨てるものが多すぎる」
「そっか」
「お前はどうなんだ、ケイタ」
「俺だって同じだ。俺がここで適格者をやってるから家に仕送りをすることができるんだからな」
香港は現在、世界でも指折りの『貧富の差』の激しい地域である。収入が何億もあるような豪商がいる一方で、一つの部屋を板で仕切って何家族かで分け合って借りるというようなところもある。家がなくて小舟の上で生活をしている人たちもいる。
ケイタの両親は商売で日本から香港へとやってきていたのだが、セカンドインパクトで日本の本家の方がつぶれてしまい、戻る場所もなくなってしまった。しばらくは香港でそのまま商売を続けていたのだが、没落するまでは本当に早かった。香港で日本人が成り上がることなど、まずありえないことだった。そのうちケイタと、その妹が生まれたが生活は依然として苦しいままだった。
「俺がここにいないと、両親も妹も行くところがなくなるんだ。ネルフからの支給が俺の家族が生き延びる唯一の手段だからな」
「そうだったな」
そんな二人が仲良くなったのもおかしな話だ。かたや香港の富裕層、かたや香港の貧困層。普通に考えると接点などどこにもない。それが急激に接近したのは、ネルフに入った直後のことだった。たまたま南京の町に出ていたとき、迫害されている女の子をムサシが発見した。日本人だった。六か国襲撃から日中関係が冷え切っていたこともあり、日本人が一人で歩いていたら躊躇なく迫害されてしまう。
半分日本人の血を引き、ストラスバーグ家の子としての誇り高きムサシとしては、黙って見ていられるはずがなかった。相手は大人だったが、既にネルフで格闘訓練を受けている彼にとっては、決して倒せない相手ではないはずだった。
だが、ふとした油断から捕まってしまい、あとはサンドバッグにされた。意識を失いかけたときに助けにきたのがケイタだった。あとはよく覚えていないのだが、とにかくケイタと二人で大人たちを追い払うことに成功したらしい。
こうして二人は友人となった。いや、このとき助けた女の子──霧島マナも含めて三人が友人となった。出自も知らないうちからの戦友だった。後から自己紹介したとき、逆に『そうだったのか』と三人ともお互いを見つめなおすということがあったくらいだった。
休日のたびにムサシとケイタはマナのところへと顔を出した。二人ともマナが好きだったのだが、残念なことにマナには本国に好きな人がいるということだった。だが、たとえ恋が破れたとしても友人であることは変わらない。三人は今までも、それからもずっと仲良しであった。
マナは小学校を卒業する年齢になると日本へと戻っていった。ムサシとケイタがネルフで訓練しているのを見て、自分もできることをしたいと思い、日本の戦略自衛隊学校の中等部に入ることにしたというのだ。
学校とはいえ、中身は軍隊と大きな差はないのだという。学生の身分でありながら使徒戦では任務を与えられることもあるという。
『二人に負けないように、私もがんばるから』
そう言ってマナが旅立ってから一年以上が過ぎた。先日、日本に行ったときに一年ぶりに再会したわけだが、今は初恋の相手だったサードチルドレンの護衛をしているのだという。彼女にとってもっとも嬉しい任務だろう。
一方でムサシとケイタは順調にランクを上げていった。とはいえ、ケイタはランクBになってからはシンクロ率が上がったり下がったりで、おそらく使徒戦になってもランクAに上がれる見込みはないということは、もうはっきりしていた。
それでもここにしがみついているのは、おそらくほとんどの適格者がそうなのだが、適格者であれば給料が出るというその一点につきる。
「お前みたいな兄貴をもって、妹も幸せものだな」
「だといいけどね。ま、そうは言っても妹はもう長くないけど」
「長くないって」
「セカンドインパクト症候群。五月頭から発症したらしい」
ムサシが体を起こした。
「マジかよ」
「冗談で言えるかよ、こんなこと」
「そうなのか」
ムサシが顔をしかめた。
「仕送りじゃ妹を病院に入れることもできないからね。一気に衰弱して、早ければ今月か来月ってとこだろうな」
「お前、なんで早く言わないんだよ!」
「言ってどうなるものでもないだろ」
ケイタは冷たく言い放った。
「セカンドインパクト症候群が発症した子供は、誰も治ったことがないっていう話だよ」
「けど延命はできる。栄養剤を打ち続ければいいんだからな」
「その金がないって言ってるんだよ!」
「ケイタ」
起き上がったムサシはケイタの肩をつかむ。
「俺たちは友人じゃなかったのか」
「なんだよ、突然」
「妹の命がかかってるんだろ。俺の金を使って──」
「僕がそれを、何度言おうとしたか、お前に分かるか」
だが、ケイタの目はなおも冷たかった。
「僕がお前にお金を要求する。そうしたらお前はきっと僕のことを結局、他の人間と同じに見るだろう。結局自分の金を目的に近づいていただけなのかと。僕はお前と友人でいたかった。だから絶対にお金をお前から借りないと決めた」
「ばっ……」
怒鳴りつけようとしてから、ムサシは首を振った。
だが、ケイタの気持ちも分からなくはなかった。もしこれから先、ずっと妹を病院に入れ続けるとなると、ケイタはずっとムサシからお金を借り続けるということになる。そんな一方的な関係になることをケイタは嫌がったのだ。
「よく分かった。でもな、お前の妹が苦しんでると知って、それで何もしないようならそれこそ俺はお前の友人失格だぜ」
そう言うとムサシは携帯電話をかけた。
「兄貴か? ああ、俺」
電話をかけた先は、優秀な自分の兄。
「頼みがある。といっても、俺がネルフで稼いだ金の使い道についてなんだ。確か俺の金は全部家の方にたまっていってるはずなんだけど、違ってたかな。ああ、うん、そう。それを全額、今から言うとおりに使ってほしい」
それからムサシは事情を説明する。自分の友人の妹がセカンドインパクト症候群で苦しんでいるということ。ただちに病院を見つけて入院の手続きをとってほしいということ。入院は栄養剤に関する費用は全部自分が稼いだ金から出してほしいということ。
「できるか? ああ、うん。助かる、兄貴」
そう言うと、電話口から返事があった。
『お前から頼られたのは初めてだな。嬉しかったぞ』
「照れること言うなよ、兄貴」
苦笑してから通話を切る。その一部始終をじっと見ていたケイタが複雑な表情を浮かべていた。
「勘違いするなよ、ケイタ。これは俺が勝手にやったことだ。俺がお前のことをどうこう思うことじゃない」
「いや、違う。そうじゃない」
ケイタは首を振った。
「やっぱり僕はいじきたない奴だ。僕がこの話をお前に振ったら、きっとお前はそうしてくれると思っていた。だから、口にしてしまった。口にしたらこうなるのは分かり切っていたことなのに」
「なんだ、そんなことか」
ムサシは笑った。
「人間なんだから気持ちが常に一つじゃないってことくらい分かってるさ。俺だってケイタのこと見くびってたり腹立つことはあるさ。でもな、それを差し引いてもお前が全体的にいい奴だってのは知ってるし、勇気のある奴だっていうのも知ってるよ。それに、俺が香港の財閥の次男坊だってのに態度を変えない、公平なところがある奴だってのもな。それに、お前は俺と一緒にいることでやっかみを受けることはあっても、いいことは何もなかったはずだ。それでも友人やってるんだから、たまにはメリットがあってもいいじゃねえか」
「ムサシ」
ケイタはぐっと歯を食いしばって、頭を下げた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
そう。別にこうしたときに理由とかそういうのはどうでもいい。
相手のために何かをしたいと思った。親切の押し売りだとしても、相手にとってはそれが何より必要で大切なことだった。だからどれほどいろいろな気持ちが頭の中を巡っていたとしても、ただそれを感謝の言葉で表せば済む話なのだ。物事は単純な方がいい。
そのときだった。
【EMERGENCY! EMERGENCY!】
使徒が現れたときにだけ鳴る緊急警報が、中国時間の六月六日十七時に鳴り響いた。
二人はしばらくお互いを見合った。それから、先にムサシが苦笑した。
「来るときは案外、唐突なものなんだな」
「そうだね。なんだか、まだ実感がない」
「でもすぐに実感することになると思うぜ。何しろ本当の戦いが始まるんだからな」
「うん。死なないでよ、ムサシ」
「そのつもりだ。元気になったお前の妹にも会わなきゃならないしな」
そうして二人は発令所へと向かった。
中国における戦いがいよいよ始まりを迎えた。
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