さて、舞台はいよいよヨーロッパ方面へ移る。
 こちらにあるネルフ支部はドイツを筆頭に、イギリス、フランス、ギリシャ、そしてロシアともっとも支部が集中している地域になる。
 そして、その全てにおいてランクA適格者がいるのだから、ただ存在するだけでなく、優秀な人材も同時に存在しているということになる。
 物語は今回、東から順番に見ていくことにした。したがってまずは、世界でもっとも広い面積を持つロシア、ここを見てみよう。
 以前も紹介したが、ロシアのネルフ支部は軍との協力関係が強い。バルチック艦隊が存在するコトリン島、通称クロンシュタット。ここにネルフ支部が存在する。
 ロシアにおけるランクA適格者はイリヤスフィール・アインツベルン。ここのMAGI責任者であるアイリスフィール・アインツベルンの愛娘である。
 MはMatriel。すなわち第九の使徒。











第佰漆拾捌話



困惑のM












 ロシア支部に桑古木リョウゴがやってきたのが五月二十六日。あれからまだほんの十日しか経っていないのだが、イリヤはすっかりこのリョウゴという人物が気に入っていた。
 母親の様子からしても、自分が彼と一緒にいる方がいいのだろうということは分かった。
「ま、そうは言っても、リョウゴがいったい何を企んでいるかなんて、私はまったく聞いてないんだけどね」
 ニコニコ笑いながらイリヤはリョウゴに近づいて尋ねる。
「企むなんて人聞きの悪い」
「何言ってるのよ。日本に連絡もしないで、ここでこそこそとしてるんでしょ? 悪巧み以外の何があるっていうのよ」
「自分がやっていることは、使徒を倒して、世界を平和にすることだよ」
 リョウゴの姿はせいぜい二十になるかどうかというものだったが、その仕草にはどこか年寄りのようなところも感じられる。そのアンバランスさもイリヤにとっては気に入る要因の一つだった。
「ただ、そのためにも一人、どうしても助けたい人がいる。そのためにこの実験だけは成功させなければいけないんだ」
「この実験? この間から言ってる『人格交代』のこと?」
「そう。さまざまな実験を経て、ようやく人格交代も可能なところまで来た。あとは実用させるだけなんだけどね」
「その人って──」
 と、そのときけたたましくブザーが鳴った。緊急警報だ。
「これって」
 イリヤの表情が変わる。
「第一種、緊急警報。ネルフ内部でこの警報が出るのはたった一つだけだ」
 使徒、襲来。
「ようやく私の出番ってわけね。腕が鳴るわ。なにしろヨーロッパと違って、格闘演習すらできない状態が続いてたもの」
 嬉しそうなイリヤに対して、リョウゴは笑顔でその頭をなでる。
「でも、あまり無理をしすぎないように。人類が生き延びるためにはランクA適格者とエヴァンゲリオンが生き残っていることが大事なんだ。イリヤは絶対に自分を大切にすること。いいね」
「もちろん。私は自分が何より一番なんだもの。他の人が何て言ったって、自分が危ないと思ったら逃げるわよ。そう教えられてるし」
 イリヤは身を翻すと走り出した。リョウゴはそれを見送ってからパソコンを開いた。
(使徒襲来してからが勝負)
 この緊急事態になって初めてできることがある。それは、ネルフ外組織に対するハッキングだ。
(欲しい情報はただ一つ。『あの人』がどこにいるかということ、それだけだ)
 そう。たとえ人格交代の実験が完成しているとしても、実際に相手がいなければ実効するわけにはいかない。問題は、その相手がどこにいるか分からないということだ。
(ネルフ内部の情報ならアイリスフィールの協力で全て手に入れた。あとはMAGIでも難攻不落の情報要塞を、この機に乗じて攻め落とす)
 そうしてリョウゴは携帯端末を開く。いつも自分が持ち歩いている端末から、すぐにMAGIに接続することができるようになっている。
(アメリカよ。お前が隠しているもの、見させてもらうぞ)
 リョウゴがハッキングしようとしているのは、アメリカ国防総省──通称、ペンタゴンと呼ばれる組織だった。
 その組織が隠している事実。
 リョウゴは一人の名前を検索項目に入力する。

“Rutherford”






 イリヤがプラグスーツに着替えて発令所に到着すると、既にスクリーンには使徒の姿がはっきりと映し出されていた。
「来たわね、イリヤ」
 アイリスフィールが娘に向かって微笑みかける。
「あれが使徒なの?」
「そうよ。まあ、予想外の形をしてるわね」
「気持ち悪いわね。使徒の自覚あるのかしら」
 それは、たとえるなら蜘蛛だろうか、目のついた半球の下部に足のようなものが八本ついている。
「蜘蛛?」
「そうね、蜘蛛に近い生物で、ザトウムシに似てるわね。足が細長くて、でも糸とかを吐くことはないのよ」
「攻撃方法は?」
「まだよく分からないの。あの長い足を振り回してくることも予想できるけど、目から怪光線を出してくるかもしれないわ」
「弱点は?」
「それもまだ分からないの。でも、コアが足についてるとも思えないから、あの半球の中にあると考えた方がいいわね。それから」
 と、アイリスフィールは画面を切り替える。使徒上部と下部からの映像だ。
「見ての通り、どちらかというと上部の方が外殻が厚くて、下部の方がやわらかいみたい。上からより下から攻撃する方がダメージは大きいわ」
「どうやって?」
「わかんない♪」
 てへっ、とアイリスフィールは舌を出してごまかす。イリヤはため息をついた。
「お母さん。年を考え──」
 瞬間、アイリの体がひらめき、イリヤは地面に叩き伏せられていた。
「何か言った、イリヤ?」
 固まった笑顔が怖い。
「これは虐待だと思うんだけど、お母さん」
「イリヤも、いくらあなたが可愛くても許していい発言とそうでない発言があることは覚えておきましょうね」
 にこにこと笑いながらアイリが言う。ため息をつきながらイリヤは立ち上がった。
「それで、どうすればいいの?」
「とりあえずロシア軍が攻撃してくれるから、それを見てから攻撃方法を決めるわ」
 そうして、一歩ずつネルフ支部に近づいてくる使徒を見つめる。行動速度はそれほど早いわけではないので、じっくりと敵を観察することができる。
「それにしても、どうしてロシアなの?」
 もちろん、使徒がどうしてロシアに来たのか、という意味だ。イリヤの質問はごく当然のものだ。が、
「世界のネルフ本部と支部すべてに同時攻撃を仕掛けたみたいよ」
 アイリが平然と答える。
「そうなんだ。それじゃ、シンジお兄ちゃんも」
「今頃、戦いになっていることでしょうね」
「ふうん」
 そう言ってからため息をつく。
「可愛そうなお兄ちゃん。せっかくの誕生日なのに」
「そうね。でも、きっと日本は大丈夫よ。たくさんエヴァがあるんだから。それよりも」
 アイリが言葉を区切る。もちろんこの流れで言いたいことはイリヤにもよく分かっている。
「大変なのはオーストラリア、フランス、イギリス、中国、それからロシアね。まあ、エヴァもないところは戦いにすらならないでしょうけど」
「そういうこと。イリヤ、あなた次第でこのロシアの命運が決まるといっても過言じゃないのよ」
「分かってる」
 そうして近づいてくる使徒に対し、バルチック艦隊、および航空機、戦車からの爆撃が飛ぶ。使徒の外殻で爆発しても、何の効果もない。
「固いわね」
「N2なら通るんじゃないの?」
「でもそうしたら、使徒はきっと成長して、次は二度と通用しなくなるわ。一回だけしか使えないN2なら、必要になるまでとっておかなければいけないわ」
 それはつまり、イリヤが失敗して、この支部から出ていかなければならないときだ。ネルフ職員や適格者を逃がすための時間稼ぎとしてN2を使う。少なくともN2では使徒を倒すことはできないのだ。
「それならどうやって攻撃するの?」
「どうしましょう」
 アイリは本当に困った様子で首をかしげた。
「下から攻撃したらダメージを与えられるかどうかだけでも知りたいのだけど」
 だが、上空から爆弾を落としていく戦闘機に対し、戦車の方は近づこうとすると長い足で払われて爆発していく。近づくことすらできない。
「でも、下が弱点なのは間違いないみたいね」
「どうして?」
「だって、真上に来ている戦闘機を倒してないのは、上からの攻撃を防ぐ自信はあるってことでしょ。下にもぐりこませないのは、そこが弱点だからに決まってるじゃない」
 イリヤの言葉は実に的確だった。確かに使徒は上からどれだけ爆弾を落とされても何とも思っていない。そのひらべったい背中の上でどれだけ爆発しても意に介さない。
 だが、戦車が下にもぐりこもうとするのは執拗に嫌っている。それは、下から攻撃されたくないと使徒が思っているからだろう。
「イリヤちゃんはやっぱり、見るところがすごいわね」
「それくらいすぐに気づかないと」
「でも、そうやって私たちを罠にかけようとしている、なんてことはない?」
「その場合、条件が二つあるわ。まず、使徒が私たちに切り札があることを知っていること、もう一つは使徒が人間のことを互角の相手だと評価していることね」
 エヴァンゲリオンという切り札があるということを知っていれば、確かに罠にかけようという気にもなるだろう。だが、その切り札も『所詮は人間』という視点に立ってしまえば、罠をかけようという気にもならない。
「なるほど。使徒は私たちを見くびっているっていうことね」
「ただ、あの使徒が下向きに攻撃方法がないとは言ってないわよ。弱点になるところだからこそ、逆に攻撃方法があるのかもしれないし。それでも、弱点であることには違いないんだと思う」
「そうね。その通りだわ」
 アイリはうんうんと頷く。これではどちらが大人なのか分からない。
「それじゃあ、イリヤはどうしたら使徒を倒せると思うの?」
「そうね」
 少し考えてから、自信ありげに笑みを見せる。
「私なら、こうする」
 イリヤの指が、モニターの使徒の、ある一点を指した。
「なるほど」
 アイリは頷いた。
「それじゃあ、その方向で考えてみるわね。ただ、一機だけでやるとなると──」
「大丈夫よ、お母さん。こまめに休憩を取れば、問題はないはず」
「そうね。エヴァが攻撃して、成功したら引き換えして休憩、その間はロシア軍から間断なく攻撃を続ける、そんな感じかしら」
 戦車が大量に必要になると感じた。が、国と地球の一大事に、自走式戦車の十台や二十台、何が問題になろうか。
「いいわ。戦闘機も低空で使徒の下にもぐりこむように飛んでもらうことになるけど」
「まずは一回、試してみないと駄目ね」
 イリヤは笑顔で言った。
「それじゃ、乗り込んでもいい?」
「いいわ。準備している間に、攻撃のタイミングや方法をこちらで試算しておくから」
 イリヤは頷くとケイジへ走り出す。が、アイリがそれを止めた。
「イリヤ。一つだけ」
 足を止めて振り返るイリヤに、アイリが笑顔で言う。
「万が一のときは、逃げなさい。あなたとエヴァだけでも。ネルフには代わりはいるけれど、あなたに代わりはいないのだから」
 だが、イリヤは首を振った。
「それは聞けないよ、お母さん。私にとってもお母さんの代わりなんていないんだから」
 そうしてイリヤが駆け出していく。それを見送ったアイリはため息をついた。
「イリヤはいい子に育ったわよ、あなた」
 そう言ってから、アイリはただちに攻撃のシミュレーションのためにMAGIを稼動させた。






 エントリープラグに乗り込み、LCLが注水される。白とピンクのプラグスーツが徐々に液体に飲み込まれていく。
 準備ができると、紫の機体は戦闘機に格納される。そしてそのまま地上から飛び立っていった。
「大きい」
 まだ戦闘機に格納された段階なので、起動はしていない。だが、モニターで外の様子を見ることはできる。上から改めてみると、かなり巨大だ。
『イリヤ。あまり回数は多くないものと思って。一回で決めなさい』
「もちろん」
 そして紫の機体を積んだ戦闘機と同時に、他の戦闘機も次々に飛び立つ。
 その中の一部は低空で使徒に近づき、長い足によって次々に撃墜されていく。だが、イリヤの乗った戦闘機は高度を高くとり、上から近づいていったので使徒もまったく無警戒だった。
「エヴァンゲリオン、起動!」
 そして、爆弾が次々に投下される。それと同時にイリヤは起動を開始、爆弾に交じって自分も地上──使徒の真上に飛び出していった。
 爆弾が次々に爆発する。が、イリヤはそんな爆風に負けず、使徒の背中に着地した。
『成功!』
 アイリが手を叩く。が、時間はそれほど多くない。上空からの投下によって接近したため、アンビリカルケーブルをつないでいないのだ。起動時間は三百秒しかない。
「手っ取り早くいくわ!」
 イリヤの拾玖号機は、背中に巨大な斧を背負っていた。それを振りかぶり、使徒の背中を走ってから飛び上がった。
「くらええええええええええええええええっ!」
 何の妨害も、抵抗もなく。
 イリヤの振るった斧が、使徒の足の一本に向かって振り下ろされた。






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