物語の第一の舞台を日本とするならば、第二の舞台はドイツである。
 理由はいくつかある。まず、物語によって選ばれた『セカンドチルドレン』の存在する場所であるということ。次に、日本につぐ五人のランクA以上の適格者がいるということ。さらに、第二使徒が消えた場所であり『ミュンヘンの石碑』のある場所だということ。
 だが、第二の舞台とするにはまだ弱い。たとえばオーストラリアであってもチルドレンがいて、使徒が消えた場所という意味ではドイツと変わらない。
 ドイツとオーストラリアの決定的な差を言うのなら、それはたった一つ、『彼女』の存在だろう。
 JはJapanese。すなわち、日本人。











第佰捌拾弐話



焦燥のJ












 紀瀬木アルトがエヴァ搭乗を禁止されてから五日が経過していた。
 この間、もちろんトレーニングをサボるようなことはしていないが、それでもモチベーションが上がってくるはずもない。自分の身に何が起こっているかなどわかるはずもなく、解決の糸口は全く見えてきていない。
 加持に相談しようと思っても、ドイツ支部には現在いないらしく、全く手のうちようがなかった。
 アスカは相談に乗ってくれるのだが、さすがの天才少女もアルトがどうして記憶を失うのか、A.T.フィールドが展開できないのか、記憶のない時間帯だけ展開できたのか、答えることはできなかった。
「随分悩んでいるようだな、アルト」
 休憩所でジュースを飲んでいたアルトに声をかけてきたのはクラインだった。普段、他人を見下してばかりいるこの少年の方から話しかけてくることなど、滅多にないことだった。
「何か用?」
「僕が相手だと、用がなければ話しかけてはいけないみたいだな」
「だって、クラインは私のこと嫌いでしょう」
 ふう、とクラインは両手を上げる。
「そこまで自分をさげすまないとやっていられないのか。重症だな」
「なによ」
 アルトは立ち上がってクラインを睨んだ。
「私を馬鹿にして、楽しんでいるつもりなの」
「僕をそんな下衆な人間だと評価されるのは心外だな。僕は君を馬鹿にしたりなどしていないし、楽しんでいるわけでもない。見下しているだけだ」
 冷たい視線で言う。
「なに、を」
「こんなところでうじうじして何のメリットがあるんだ? 君は何のためにエヴァに乗っている。エヴァに乗るということは、個人の問題ではすまないことだ。何しろ世界の命運を背負うことになるのだから。その君がいつまでもくだらないことで悩んで、エヴァンゲリオンを一機みすみす無駄にしている。これがどれほど不利益なことか分からないのか」
「くだらないことですって」
「くだらないことだ。単純に、君の覚悟一つなんだ。記憶がなくなる? だからといって君が記憶をなくしている間、君は立派に戦っていたじゃないか。戦力になると判断することができればそれで充分だ」
「でも、記憶がなければ何をしでかすか分からないのよ」
「そのためにも、何回も起動実験を繰り返さなければいけないだろう。それを馬鹿正直にエヴァにも乗らず、トレーニングも上の空。君がエヴァに乗ろうとしていたのは、そんな安っぽい理由なのか」
「馬鹿にしないで」
 アルトはクラインを睨みつける。
「私だって、アスカさんの役に立ちたい。エヴァに乗って世界を守ることに貢献したい」
「その気持ちがあるなら、やることは決まっているだろう」
 クラインが言うと、アルトは息をついた。
 確かにクラインの言う通りだった。自分が記憶を失う理由は分からない。だが、記憶を失っても作戦行動を取ることができて、エヴァを上手に操ることができているのなら、何も怖がる必要はないのだ。
「クライン。もしかして、励ましてくれたの」
 おそるおそる尋ねてみる。
「うぬぼれるな。君のためにやっていることじゃない」
「え?」
「僕らはみんな、使徒を倒すための捨て駒だ。最終的にはアスカさんが生き残って使徒を倒してくれればそれでいいんだ」
 クラインが断言する。つまり、うじうじしていないで、戦って死ね、ということか。ずいぶん極端なことを言う。
「クラインは、そんなにアスカさんのことが好きなの?」
「もちろん本気だ。僕はアスカさんを尊敬している。僕は自分の力で、可能な限りのことをしようと思っている。そして僕が世界のためにできることは、アスカさんを守ることだと判断したまでのことだ」
 やはり、極端なものの考え方をしているのだろう。死ぬことが前提だと考えているのだろう。
「クラインはもっと人に優しくしたら、よく思われるんじゃないかな」
「僕がいい人みたいな言い方だな」
「悪い人ではないよね」
「どうだか」
 他人のことのように笑う。
「アルト。君はいったい何のために戦っているんだ」
「何のため?」
「僕には明確な理由がある。僕はエヴァに乗って戦い、使徒を倒す。そうしなければいけない理由がある。アルト、君にはそれがあるのか」
「私は」
 少し間をおいてから答える。
「最初はあったわけじゃない。真実を知りたくて、少しでも真実に近づきたくて、このドイツ支部にやってきた」
「真実を知ってどうするつもりだったんだ?」
「分からない。でも、何も知らないままでいるのが我慢できなかったから、私はここにいるんだと思う。そして、今でも分からないことばかり。結局私は、私という存在そのものを知ることができないでいる」
 かつて自分が所属していた組織、ハイヴが自分たちで何かの実験をしようとしていたことは知っている。だが、どうして自分と姉だったのか、そしてどのような実験をしようとしていたのかは知らない。
 エンはきっとそれを知っている。もしかしたら姉も知っていたのかもしれない。知らないのは自分ばかり。
「私、自分のことが知りたい」
「そうか。それなら僕が知っている」
 クラインが突然言ったので、アルトは目を見開いた。
「嘘」
「本当だ。君は紀瀬木アルト。ドイツ支部のランクA適格者で、僕たちの仲間だ。日本に恋人未満の男がいる。それ以上に何が必要だ?」
 そう言われたアルトは、しばらく何も言えなかった。そして突然、ぷっ、と吹き出す。
「クラインがそんなこと言うとは思わなかった」
「だが事実だろう」
 クラインは耳が赤くなっていた。照れているのだろう。
「ありがとう、クライン。元気が出てきた」
「何よりだ」
「クラインは他人に厳しくって言ってるけど、でも優しいよね」
「女子を守るのはクライン家の家訓だ」
 そっぽを向く。どうも照れ隠し以外の何にも見えない。
「クラインのことも聞いていい?」
「何をだ?」
「クラインが、どうして適格者になったのか」
 クラインは顔をしかめた。
「軽々しく話すようなことじゃないんだがな」
「無理にとは言わないけど、聞きたいな」
 ふう、とクラインはため息をついた。
「オーストリアは共和国だから、貴族制度なんてものはない。それくらいは知っているか?」
「それは、もちろん」
「ただ、実際には貴族というのは存在する。それは昔貴族だったというだけのことなんだが、そういうやつほど、自分では何もできず、家名にばかりとらわれているのが多い。僕はそういう連中と同じになりたくなかった」
 それは分かる。クラインは常に自分に対しても厳しい人物だった。
「僕はクラインなんていう家名で自分を判断されるのが嫌だ。だから自分の力でできることをしたかった。適格者になれたのは、家を出るいい口実だったよ」
「クラインががんばっているのは、そうやって自分をもっと高めたいからなの?」
「もちろん。ただ、そればかりではないけどね」
 アルトは首をかしげた。
「約束をしたんだ。その約束を果たすために僕は適格者になった」
「約束? 誰と?」
「ああ。昔の許嫁だ」
「いいなずけ!?」
 思わず声を上げた。クラインは苦笑する。
「といっても、まだ十二歳だったから、ままごとみたいなものだよ。アスカさんに出会う前だよ」
「でも、そうしたらアスカさんのことは」
「ああ。もちろん僕はアスカさんのことが大好きだよ。今はね」
 寒気がした。
「……その人は?」
「セカンドインパクト症候群で亡くなった」
 胸に、その言葉が刺さる。
「じゃあ、クラインが戦っているのは、その子のためなんだ」
「親同士が勝手に決めた婚約者だ。僕たちの感情はそこにはない。ただ、僕は彼女が好きだったし、彼女も僕が好きだった。彼女がいるならあの家にとらわれてもいいと思っていた。僕が適格者になるのと、彼女が亡くなるのはだいたい同じだったよ。もう、すっかり生きる力をなくしてしまっていて、どんなに治療しても回復すらできなかった」
「クラインは、その子と、なんて約束したの?」
 クラインは天井を見上げた。
「いろいろ言われたな。自分の思う通りに生きてほしいと言われたし、世界を守るためにがんばってほしいとも言われた。その中でも、最後に言われた言葉が、痛かったな」
 何も言わずに、次の言葉を待つ。
「今度は、本当に好きな人を見つけてね、と」
 息をのんだ。何を言っていいのか、分からなかった。
「僕はけっこう、本気だと思っていたんだけどな。どうも許嫁だから優しくしていた、そんなところがあったんだろうな」
「でも、好きだったことには違いないんでしょ?」
「もちろん。ただ、今のアスカさんに抱いているような感情を彼女に持っていたかと言われたら、確かにそういわれても仕方がないな」
 自嘲する。だが、だからこそ次の言葉が重い。
「僕は彼女を助けられなかった。だから次は絶対にアスカさんを守る」
 アルトはその切羽詰まった様子を見て、逆に不安を感じた。
「自分が犠牲になっても、なんて思ったら駄目だよ」
「もちろん。僕は自分の気持ちがアスカさんに届かなかったとしても、アスカさんが幸せになるところはこの目で見たいと思っているからね」
 それを聞いたアルトもうなずく。
「好きなのに、想いが届かないのって、つらいね」
 言われたクラインは、嫌味っぽく笑う。
「何を言っている。君はとっくに故郷の彼と通じ合っているだろう」
「え?」
 いきなり顔に血が上った。
「誰が見ても分かる。今さら何を言っている」
「でも、私とエンは──」
 そうだ。
 考えてみれば、エンもまた自分のことを知っているのだ。
「クライン。いろいろとありがとう」
「突然、なんだ」
「さっき、クラインは私がみんなの仲間だって言ってくれたでしょう」
「蒸し返すな、恥ずかしい」
「そうじゃないの。やっぱり私、自分の過去を見ない振りはできないと改めて思っただけ」
 アルトは真剣な表情でクラインを見つめる。
「確かにドイツに来て、みんなと一緒にやってきた私も真実の私。でも同時に、過去にあの第一東京で逃げ回って、命からがら逃げ出してきた私も真実の私なの」
「第一東京って」
 クラインは顔色を変えた。
「そう。あの第一東京の生き残りが私。そして、あの滅びた第一東京で、私はずっと実験体として扱われてきた。今、私の体に起こっていることはあのときの実験の延長なんだと思う」
「実験?」
「内容は知らない。きっと加持さんやエンは知っているんだと思うけど、私には教えてくれない。でも、もう逃げない。私、自分と正面から向き合う」
 アルトは自分の胸をおさえた。
「クラインが自分の過去を教えてまで元気づけようとしてくれたんだもの。これで私が復活しなかったらクラインに申し訳ないよね」
「まったくだ。アスカさんにすら話したことがないんだからな」
「それじゃあ、私はクラインの秘密を握っているわけだ」
「人の善意につけこんで、弱みを握るつもりか」
「まさか。ただ、嬉しいだけ。クラインがそうやって私のことを気遣ってくれたっていうこと。クラインって自分のことばっかり考えて、他人のことなんて虫ケラみたいに思ってると勝手に思ってた」
「否定はしないよ。僕は自分に関係しない人間なんて、存在していてもしていなくても同じだと思っている。でも、仲間になったのなら話は別だ。アルト。別にいまさら君の仲間を気取るつもりはないけど、僕にとっては君も僕の守る対象だ」
「私、そんなに頼りない?」
「この一週間、どれだけ他人をやきもきさせてるか分かっているのか?」
「ごめんなさい」
 素直にぺこりと頭を下げる。
「クラインの期待に応えられるようにがんばるね」
「そんなことは──」
 クラインの会話を途中で遮り、館内に緊急警報が流れた。
「まさか」
「ついに来たか」
 もちろん、二人にとって緊急警報の意味はよく分かっている。

 使徒、襲来。






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