さて、ここまで東から順番に世界各国の使徒迎撃戦を見てきているわけだが、次の戦いに入る前に、少しだけ時間をいただきたい。
 次の国は順番からいけばフランス。フランスを守るランクA適格者はエヴァ操縦者の中でも最も若いエリーヌ・シュレマン。当然のことながら経験不足は否めない。どの使徒が現れるにしても苦戦は免れないだろう。もちろん、勝てる可能性もきわめて低い。
 だが、戦いはこの一回で終わるものではない。この適格者がこの後の戦いにどれだけの影響を及ぼすか、それはまだこの時点では誰も知らない。
 だから、少しだけフランスの歴史について振り返っておきたい。その時間をいただくことをどうか了承願いたい。
 Hはhistory。すなわち、彼女たちの歴史。











第佰捌拾漆話



邂逅のH












 エリーヌ・シュレマンの将来の夢は宇宙飛行士になることであった。
 セカンドインパクト後の荒廃した世界の中で、地域復興プロジェクトの一環として各地の初等・中等学校へ有識者が講演に行くというものが、復興の年である二〇〇八年から三年間にかけて行われた。そのとき、エリーヌが通っていた学校へやってきたのが、一九九六年に宇宙飛行を行ったフランス人女性だった。
 本来であれば、彼女は二回目の遊泳を行う予定だったとのことだ。国際宇宙ステーションへも行くつもりだった。だが、あのセカンドインパクトのために無期限延期となり、その間に彼女自身も宇宙飛行士を引退することになった。
 だから、自分の夢を誰かが継いでくれるのをいつも夢見ていると、彼女は小学生たちにやさしく語りかけていた。
 そのときの話をエリーヌはよく覚えている。そしていつかは自分も宇宙に出たいと思うようになり、そのための勉強を行うようになった。
 フランスでは軍人が宇宙飛行士になるということがよくある。軍隊に入る方がいいのだろうかとエリーヌも考えるようになっていたが、親からは強く反対されていた。
 そんな折、自分が適格者としての資質があることが明らかになった。軍人というわけではないが、ここで実績を上げてアピールすることができれば、宇宙飛行士に近づくのではないか。エリーヌはそう考えて両親を説得し、適格者としての道を歩みだすことになった。
 彼女は誰よりも勤勉で、努力家であった。すべては自分のため。自分の夢のため。宇宙飛行士になるという夢をかなえるために、フランス・ネルフという組織の中で一番上を目指した。
 だが、彼女の個人的な夢を打ち砕く少女が現れた。

 名前を、マリー・ゲインズブール、といった。

 マリーはエリーヌよりも一か月遅れて適格者になった。
 ネルフ・フランス第五支部は今では全支部の中で下から三番目の人数でしかない。百人に満たない支部はフランス、イギリス、オーストラリアの三支部だけだ。
 日本本部だと毎月十人以上の適格者が登録されていくが、フランスだと二〇一三年以降、月五人を超えたことがない。
 エリーヌは二〇一三年七月に登録された二人の適格者のうちの一人で、マリーは二〇一三年八月に登録された三人の適格者のうちの一人であった。
 ランクBになるまで、二人はほとんど顔を合わせたことがなかった。何しろ、エリーヌもマリーもランクBまで順調出世、同じランクになることがそれまでなかったのだ。
 マリーという存在を知るまで、エリーヌはこの支部の中で誰よりも真剣に訓練をしていると自負していた。自分の夢のために、自分は決して怠けるようなことはしないと自分に誓いをたてていた。それほどに自分は宇宙に出たかった。
 だが、ランクBになって自分の努力では越えられないものが現れた。それがシンクロ率であり、ハーモニクス値であった。こればかりは何度もシンクロテストを繰り返して自分の力を少しずつ引き上げる他はない。訓練だけではどうにもならないことに初めて彼女は足踏みをした。
 そして次の月、マリーがランクBに上がってきた。そのとき、ランクB適格者になっていたのは全部で四人。女子が一人だけだったこともあり、マリーが来てくれたことを喜ぶ半面、マリーのことを見下してもいた。

 自分以上に努力している者などいないのだから。

 そう思っていたエリーヌの鼻っ柱をマリーは容赦なくたたき折った。シンクロ率、ハーモニクス値、どちらもエリーヌのはるか高みを示した。その数値の高さにエリーヌは愕然とした。日本のファーストチルドレン、ドイツのセカンドチルドレンの例があることは知っている。個人の実力には差があることが分かっている。
 だが、目の前で見せつけられたとき、彼女はマリーを憎んだ。当然だ。

 自分より努力も何もしていない人間が、何故才能だけで自分より上に立つことが許されるのか。

 初めてマリーのシンクロ率を見たとき、エリーヌはマリーと口をきくことができなかった。そして、彼女のシンクログラフが一定せず、ランクA適格者となれないことを知ったとき、彼女は喜んだ。心の底から喜んだ。エリーヌはシンクログラフもパルスパターンも安定している。シンクロ率やハーモニクス値はこれからいくらでも上げることができるが、シンクログラフとパルスパターンはどれほど調整しても安定させるのが難しい。ここでひっかかっていたランクB適格者がランクAに上がった例は、世界中探してもどこにもいなかった。なお、二〇一五年六月までみても、この例にあてはまるのはアメリカのアイズ・ラザフォードただ一人である。
 気をよくしたエリーヌは、その数日間訓練量が減っていたことを反省し、夜にトレーニングルームへと向かった。
 シンクロ率やハーモニクス値は簡単には上がらない。だが、時間が経てば必ず解決する問題だ。だからエヴァンゲリオンが操縦できるようになったときのために、トレーニング量は少しでも多い方がいい。
 改めて自分にそう言い聞かせて向かったトレーニングルームに先客がいた。たった一人でトレーニングを続けていたマリーであった。
 シンクログラフが安定しなかったから、自分を鍛えなおしているのかとエリーヌは思った。
「Salut(サリュ)」
 ランニングマシンでひたすら走り続けていた彼女に後ろから声をかける。が、マリーは振り向くどころか、まるで気づいていないようだった。ずいぶん集中しているんだな、と感心する。
 ストレッチをして、自分も隣のマシンでランニングをしようと考えた。そして、マシンの使用履歴を見る。
(開始、一時間半前?)
 一時間半前というと、ちょうど自分が夕食を取っていた時間だ。
(いつ食事をとったのかしら、この子)
 自分も時間を書き込んで隣のマシンに入る。そこでようやくマリーが自分に気がついた。
「Ca va?(サヴァ)」
 走っていた彼女から声をかけられる。エリーヌも「サヴァ?」と返す。
「トレーニング、いつから始めたの?」
 そう話しかけると、マリーは答えた。
「ずっとです」
「ずっとって、今日のカリキュラムが終わってからってこと?」
「はい」
「食事は?」
「ランニングが終わってからにしようと思います」
「あとどれくらい走るの?」
「今一時間半なので、あと三十分。体力がないので、もっとつけないと」
 ランクB適格者まで上がっておいて、体力がないなどということがあるものか。
「いきなりトレーニングを増やしても、シンクログラフがよくなるわけじゃないわよ」
 と、声をかける。
「いえ、毎日のことですから」
 答に詰まった。
(毎日? これだけのトレーニングを、毎日やってる、ですって?)
 自分だって自己トレーニングは行っている。だが、それは通常カリキュラムが終わってから夕食時まで。夕食後はたいてい語学や宇宙学の勉強にあてている。それをおろそかにするつもりは全くない。
 だが、彼女はその夕食後──いや、まだ夕食前か。その時間までずっと体を動かし続けているということになる。
(それで体が保つの?)
 毎日それを続けているというのだ。当然、十分に保っているのだろう。正直、そのトレーニング量がおそろしかった。
 自分もトレーニングは嫌いではない。むしろ楽しい。自分の力が上がるのは何にもまして喜ばしい。
 だが、これほどトレーニングをして、体を壊したりしたら意味がないではないか。
(この子)
 走り始めてから、痛切に感じた。
(私より、ずっとトレーニングをしている)
 それだけは認めないわけにはいかないようだった。
 マリーは二時間をしっかりと走り切り、そこで引き上げていった。
(本当に二時間走ったのね)
 そんなに長い時間を走れる体力は、エヴァンゲリオンには必要ない。
 最初、エリーヌは三十分を走って、それから筋トレをしてトータル一時間くらいで終了しようと考えていた。
 だが。
(二時間か)
 負けたくなかった。
 少なくとも、努力の量で負けることだけはしたくなかった。
 自分の夢のために、このネルフで一番になる。
 それが自分の目標だった。






 次の日、案の定筋肉痛になった。とはいえ、きちんと鍛えているのでそこまででもない。ただいつも以上に酷使したため筋肉疲労を起こしているだけだ。
 だが、マリーは昨日あれだけのトレーニングをしたというのに平然としている。何が体力がない、だ。自分よりはるかに高いくせに。
 通常のカリキュラムが終わって午後二時半。それでいつものように解散となると、男子二人は自分の部屋に引き上げていった。だが、マリーはここからトレーニングを開始する。他人より多くトレーニングをしている人間が、成長しないはずがない。
 それなら、自分も一緒につきあってみようと思った。いつも自分一人で行っているトレーニングと何が違うのか、どれだけ多いのか、それを確かめてみたかった。
「一緒にしていい?」
 尋ねると、マリーは笑顔で「もちろんです」と答えた。
 トレーニングの内容は変わったものではなかった。ただ、速く、重く、多い。通常のトレーニングよりもはるかに苦しい内容をマリーは行っていた。
 さんざん体をいじめぬいた後で、最後は七時から九時までを二時間マラソンで終わる。
(この子、絶対マゾね)
 最後までトレーニングにつきあったエリーヌは、息も絶え絶えだった。途中休憩を入れたり補給をしたりしてはいるものの、通しで六時間もトレーニングしていたら体もがたがたになるというものだ。
「おつかれさまでした」
「あなた、体力ありすぎ」
 愚痴の一つも言いたくなるというものだった。
 ストレッチをして、筋肉を休めてから二人はシャワーを浴びて、それから食堂に向かった。既に午後十時に近い。二十四時間やっている食堂だが、さすがにこの時間に適格者は誰もいなかった。いるのは技術者とか職員ばかり。
「おう、マリーちゃん、今日もトレーニングかい?」
「いつもお疲れ様、マリーちゃん。あら、今日はエリーヌちゃんも一緒かい」
「毎日精が出るな。ようし、今日はエリーヌの分もまとめてお兄さんがおごってあげよう!」
 マリーが食堂に顔を出すと、みんながマリーに声をかけていた。
 それはエリーヌにとって信じられない光景だった。自分は誰よりもがんばっているつもりだった。だが、技術者や職員たちは、マリーが一番努力していると思っている。いや、違う。実際にその通りだし、それが正当に評価されている。
「どうしましたか?」
 マリーが尋ねてくるが、エリーヌは首を振った。
「いいえ。人気あるのね、あなた」
「それほどでも」
「謙遜しなくていいわよ。あなたの性格は分かってきたつもりだけど」
 そう、この少女は自分よりもはるかに純粋だ。人を疑うということを知っているのだろうか、と不安になるくらい。だからこそ職員もマリーのことを放っておけないのだろう。
「少し、話をしてもいいかしら」
 二人は対面に向き合って座り、食事をしながら話をする。
「どうぞ」
「マリーは、どうして適格者になったの?」
 率直に尋ねてみた。すると、マリーはきょとんとして尋ね返してくる。
「適格者は、世界の平和を守るためになるものではないのですか?」
「そうだけど、適格者になればお金も入るし、教育も受けられる。将来のために適格者になる子は多いわよ」
「そうですか」
 マリーは首をかしげた。
「私は世界を守りたいから適格者になりました」
 マリーはそう断言した。
「他に何か理由があるわけではありません。自分が世界を守るにはどうすればいいかと考えて出した結論が、適格者になることでした。だから適格者になりました」
「そうなんだ」
 エリーヌは動揺していた。そして、もう一つ尋ねた。
「それじゃあ、どうしてあんなにトレーニングしてるの?」
「世界を守るために、私はもっと強くならないといけません」
「十分強いじゃない。組手をやっても大人顔負けでしょ」
「いいえ、まだまだです。それに、使徒は大人よりもずっと強い。私は誰よりも強くならないといけません。そうしなければ世界を守れませんから」
「世界を守るためだけに強くなろうとしているの?」
「はい」
 信じられなかった。
 自分のためにだけ生きてきた自分にとって、他人のために生きるという生き方を認めるにはまだエリーヌは若すぎた。
 だが、目の前の少女がまったく嘘をついていないことだけは分かった。
「世界を守って、どうしたいの?」
「どうもしません」
 マリーは質問の趣旨が読み取れないようだった。
「世界を守りたい。それではいけませんか?」
 エリーヌはため息をついた。
「あなたは現代のジャンヌ・ダルクね」
「は?」
「なんでもないわ」
 自分のために誰よりも努力してきたと今日までは思っていた。
 だが、他人のために自分よりも努力する人間を、初めて知った。
(かなわないわね)
 脱帽だった。
 自分は今の生き方を変えるつもりはないし、将来の夢を諦めることも変えることもしたくない。
 だが、自分が宇宙飛行士になりたいという夢よりも、彼女が世界を守りたいという願いの方が強い。だからこそ辛いトレーニングを自分に課している。
「ねえ、マリー」
 だから、エリーヌは言った。
「私と友達になってくれる?」
 彼女が友人であるということが、きっといつか、何よりも自分にとって誇らしい事実となることが分かったから。
「もちろんです、エリーヌ」
 彼女はきれいな笑顔で、答えた。






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