前の話で、必要な情報は出そろった。ここですぐにフランスの使徒戦に向かうのが正しい物語の流れというものだろう。
 マリー・ゲインズブール、エリーヌ・シュレマン。この二人によってフランス支部は動いていた。そして使徒戦が始まるまで、この二人による体制は続く。彼女たちの立ち位置はきわめて特殊で、決して表舞台に立てるようなものではない。そしてこの先も、全ての戦いが終わるまで、その位置は変わらないだろう。
 だが、それでも彼女たちがこの先の人間の歴史に与える影響は大きい。表舞台が華やかな分だけ、裏ではさまざまな出来事が起こっているものなのだ。
 彼女たちの歴史に、いましばらくつきあっていただけるだろうか。あの、ドイツでの悲劇の裏で何が起こっていたのかを、もう少し正確に見つめなおすためにも。
 Sはsynchro。すなわち、シンクロ率、およびシンクログラフ。











第佰捌拾捌話



障壁のS












 それからというもの、エリーヌとマリーは親友となった。学業もトレーニングも一番と二番を常に独占するようになった。マリーの方がシンクロ率やハーモニクス値は高かったが、シンクログラフだけはまったく安定する様子を見せなかった。一方エリーヌはパルスパターン、シンクログラフはきわめて安定しているのだが、シンクロ率やハーモニクス値がランクAにまったく届かなかった。教官からは「足して二で割ればちょうどいいのに」と言われた。まったくその通りだと思った。
 教官たちの間では二人とも何とかランクA適格者にしたいという考えだったが、どうもこのような認識があったらしい。
『エリーヌはランクAにはなれるが、戦力になれるのはマリーの方だろう』
 言いたいことはよくわかる。シンクロ率二十パーセント程度で使徒と戦っても後方支援にしか役立つことはできないだろう。だが、もしもマリーのシンクログラフが安定したらすぐにでも戦力になることができる。それだけのシンクロ率が出ている。
 二ヶ月もすると、エリーヌは『マリーにだけはかなわない』『マリーになら一番を取られても仕方がない』と思うようになっていた。それはもう単純な理由だった。自分より努力している人間が、自分より上に行かないのはおかしいという、ごく当然の結論だった。
「私は将来、宇宙飛行士になりたいの」
 休憩中、未来の話をしているときに自分からそう切り出した。
「将来の夢、ですか」
「ええ。昔からずっと興味があった。いつか私は宇宙に出る。今ネルフで訓練しているのも半分以上はそのためなのよ」
「なるほど」
 マリーは納得したようにうなずく。
「うらやましいです」
「うらやましい?」
「はい。エリーヌがうらやましい。私には将来の夢なんて何もなかった。ただ目の前に道が示されたから、その道に沿って歩いているだけ。私には、何もない」
 マリーは珍しく落ち込んだ様子を見せた。
「何言ってるの、これからじゃない」
 だがエリーヌは気楽な様子で答えた。
「これから?」
「そうよ。だって、私たちまだ十二歳だよ? 将来の夢をこれから考えたって何も遅くなんかない。マリーは何かなりたいものとか、憧れるものとかってないの?」
「憧れ……」
 ぽつりとつぶやいて、しばらくマリーは考えた。
「好きな人と結婚して、子供を産んで、幸せに暮らしたいと思います」
「そういうんじゃなかったんだけどな」
 職業的な意味だったのだが、考えてみれば主婦というのも立派な職業だ。
「それじゃあ、素敵な旦那さんを見つけないとね」
「はい」
「マリーは好きな男の子のタイプとかってあるの?」
「いいえ。ただ」
 少し顔を赤らめた。
「優しい人がいいです」
「そうだね。やっぱり男は優しくないと。その点、ここの男共ときたら、まるで魅力に欠けるなあ」
 エリーヌから見ると、フランス支部の男子適格者の中には、本気でランクAを目指そうと考えている者はいないように見えた。どうせシンクロ率は才能で決まるものだからと、決められた訓練しかしていなかった。
 それからも二人は訓練を一緒に続けていった。エリーヌにとって、他の誰といるよりも、マリーと一緒にトレーニングを続ける方が何倍も楽しかった。
 ある日のこと、遅い夕食をとりに食堂へ来ると、一人で座っている少女を見かけた。こんなところにいる女の子など適格者以外ありえないのだが、見たところアジア系の少女だった。もちろん、アジア系の適格者がいたらそれだけで話題になっているだろう。ということは彼女は適格者ではないということになる。
「ここは関係者以外立ち入り禁止だけど?」
 エリーヌがたずねると、座っていた女の子が首だけ振り向いてこちらを見た。目つきの鋭い少女だった。
「失礼。ここで待っているように言われたものだから」
「誰に?」
「保安部の長谷部という者で、私の父だ」
 なるほど、職員の子供だったのか。
「それなら問題ないのかな。せっかく食堂にいるのに何も食べないの?」
「父親と一緒に食べる予定だったのだが、なかなか戻ってこないので、食べられずにいるところだ」
「何時から?」
 夕方からにしても、相当時間が経っている。何しろもう十時近い。
「正午くらいからかな」
「お昼ご飯抜きなの!?」
 その少女は涼しい顔で「そういうことだ」と答えた。
「とはいえ、ここで待てと言われた以上、他の場所に行くわけにもいかない。だが私自身は金もない。どうすることもできなかった」
「呼び出しをかけてもらうとか」
「迷子ではないからな。どのみち今日はこの施設に泊まっていくつもりだったから、不自由があるわけではない」
「いや、ご飯も食べずにずっと座っているのはある意味拷問だから」
 エリーヌは頭を抱えた。その様子を見てマリーが笑顔になった。
「もしよかったら、一緒にご飯を食べませんか」
「いや、だが私は」
「大丈夫です。お金なら私たちが払います」
 ぽわぽわした笑顔で言われると、アジア系の少女は毒気を抜かれたようになった。
「それでは、頼む。正直もう、限界が近い」
「はい。何がいいですか?」
 ということで、私たち三人は一緒に食事を取ることになった。
 彼女の名前は長谷部サヤカ。父親は日本人で、母親は日本人とフランス人のハーフ、すなわちフランスのクォーターだった。
「国籍は?」
「日本だ。もともとは日本人の祖母がフランス人の祖父に嫁ぎ、生まれてきた子供が私の母だ。父は日本人だったが、結婚する際に母は国籍をフランスから日本に移している」
「フランスのクォーターか」
「私は日本人で、日本に誇りを持っている。だが、ほとんどをフランスで過ごした私にとっては、フランスの方が祖国という感じが強い」
「フランスのことが好きなのですね」
 マリーが深くうなずいて言う。
「父の仕事柄、日本とフランスを往復することが多くて、一応はどちらの言語も話せるのだが、やはりフランス語の方が話しやすい」
 サヤカの父はネルフの保安部に属しており、日本で作られたMAGIの運用について保安部の立場からフランスにやってきた人物であった。当然、日本の技術部トップである赤木リツコや、剣崎キョウヤなどとも親交があった。
「フランスと日本、どちらかを選べと言われたらどうするの?」
「状況にもよるが、可能な限り両方を選ぶ道を探したいと思う」
 年齢はサヤカの方が一つ上だった。だというのに、サヤカは尊大な態度を取ろうとすることはなかった。このあたりは日本の『礼』の文化が備わっているということなのだろうか。エリーヌはどちらかといえば現代風の女の子で、マリーはおしとやかな、それこそ日本でいう『大和撫子』に通じるところがある。
「私、長谷部さんと友達になりたいです」
 マリーがいつもの笑顔で言った。
「私と友人?」
「はい。ご迷惑でなければ」
「迷惑でなどあるものか。あなたたちは見ず知らずの人を助けてくれる心の広い人たちが。そのような立派な人と友人になれるなど、心から嬉しく思う」
「堅苦しいわよ、サヤカ」
 隣に座っていたサヤカの頭をエリーヌは指でつつく。
「な、何を」
「もう友達なんだから、もっとやわらかく話してほしいわ」
 む、とサヤカは口ごもった。
「すまない。これが普段の口調なので、親しい口調というものが難しい」
 これが地なのか、とエリーヌは驚いた。
「普段、ご家族と話されている感じでいいと思います」
 マリーが助け舟を出す。もっともこのマリーにしてもずいぶん他人行儀なところはあるが、エリーヌのことを特別な友人だと思っているのはわかるので、あえて何も言わなかった。
「いや、父親ともこんなふうに話すのだが」
「ふうん。日本で暮らすとこんな風になるものなのかしら」
「いや、これは私の性格の問題だ。日本でも私のような者は少ない。いや、日本の方が特にかしこまっているかもしれない」
「どうして?」
「フランスは多民族国家だ。さまざまな人種、民族がいる。移動が自由だから国籍もばらばらで、誰が何人だということをそこまで気にすることがない。だが、日本は島国で、私のような外国人が混ざると異質扱いされるものなのだ。これはそういう土壌が長い年月の間に積み重なってきたものだから、百年や二百年で変わるようなものではないだろう」
 なるほど、国が違えば考え方も変わるものだと納得する。
「だからかな、日本にいるときよりもフランスにいるときの方がくつろげる」
「それならあなたは最終的には日本ではなくフランスを選ぶということよね」
「そうなるのかな」
「嬉しいわ。フランスを好きになってくれて」
 ヨーロッパはEUの移動が自由になってからというもの、国籍にそれほど重みがなくなってきている。だが、だからこそ自分の生まれ故郷には逆に誇りを持つようになった。
「サヤカも適格者になっちゃえばいいのに」
「いや、私はもう適格者試験を受けた後だ。残念ながら資質はなかった」
「あら、そうなの。残念」
 エリーヌは心から残念に思っていた。それほど、この日本の血が色濃いフランス人のことが気に入っていたのだ。
「でも、また会えますよね」
 マリーが笑顔で言う。
「そう願う。お前たちと会話をしているのは、とても心が弾む」
 サヤカもようやく、相貌を崩した。
 そのサヤカがネルフに軍属として加わることになったということを聞いたのは、その翌日のことだった。
 ランクB適格者から相談を受けたりする立場、つまり世話役というか、カウンセラーというか、そういう立場の一人にサヤカが任命されたらしい。
 特にサヤカの場合は柔道を習っていて護衛としても腕がたつし、マリー、エリーヌのお姉さん役として適任であると考えられたようだった。






「サヤカ」
 二〇一五年にもなると、マリーもサヤカもかなりくだけた調子になっていた。ある日、マリーがサヤカに自分のPCから写真を見せた。
「この方のこと、わかりますか?」
「いや。誰だ?」
「今度、日本で選出されたサードチルドレンだそうです。名前は、碇シンジ」
「ああ、碇司令の息子か。最近ランクAに昇格したと聞いていたが」
 どうやら本当に見たことがないらしい。ネルフ関係者で日本と関係があるというのにだ。
「有名人ではないのですか?」
「顔は知らないが、名前だけなら有名人だな。何しろ親が親だ。七光りだと言われても仕方がないだろう」
「でも、シンクロ率は嘘をつきません」
 マリーはシンジの写真をじっと見つめる。
「不思議な人ですね」
「どこがだ?」
「どこがというわけではないのですが、強いていうなら雰囲気が」
 そしてマリーがほほ笑む。
「会ってみたいです、この人に」
「だが、日本人はフランス語どころか英語も話せないかもしれないぞ」
「大丈夫です。サヤカから日本語を習っています」
「片言でどう意思の疎通を計るつもりだ」
 サヤカが苦笑した。
「まあ、同じ適格者だ。願えばいつかは会えるかもしれないな。それまでに少しでも日本語を勉強しておくといい」
「はい。そのつもりです」
 そう言って微笑むマリーを見て、少しは他人に(男の子に)興味を持ってくれればいいけど、とエリーヌはそんな心配をしていた。
 マリーは自分以上に、他人の存在を必要としていない。いや、違う。自分そのものを必要と感じていない。
 世界のために戦い、世界のために死んでいくという運命を受け入れてしまっている。
 マリーには死んでほしくない。
 だから、マリーにはもっと自分を大切にしてほしい。
 そう思っていた、次の日だった。
「ドイツでセカンドチルドレンの起動実験?」
 八人の適格者の前で、教官から通達があった。日本から技術部のTOPである赤木リツコがやってきて、直々にセカンドチルドレンの起動実験を行うというのだ。
 それに向けて、ロシアを含むヨーロッパからランクA適格者が集まり、起動実験の見学を行うということだった。
「フランスからは適格者を代表して、マリー・ゲインズブールに行ってもらうことになった」
 イギリスもロシアも一人、ギリシャは二人だが、各国ともランクA適格者しか見学にいけないのだ。フランスから一人呼ばれただけでも幸運に思わなければならない。
 そしてその代表にふさわしいのは、エリーヌの目から見てもマリー以外にありえなかった。
「フランスの名を汚さぬよう、しっかりと見学してきます」
「頼む。それから、日本からも適格者がやってくるそうだから、挨拶をしておくように」
「日本?」
 マリーがきょとんとした表情になる。
「そうだ。サードチルドレンを筆頭に、ランクA適格者が四人来るそうだ」
「サードチルドレン」
 まさか、とは思ったが、こんなにも早く。
「そうですか。とても、楽しみです」
 マリーは笑顔で言うのを、エリーヌは自分のことのように喜んでいた。
(よかったね、マリー)
 この、サードチルドレンとの邂逅がはたして彼女にどのような影響を与えることになるのか。
 神ならぬ存在には、知りようはずもなかった。






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