マリーという少女は、この物語においてはきわめて限定的な場面でしか登場してこない。だが、彼女がこの物語に与えた影響はとても大きなものである。彼女自身の物語は既に終了し、この先を語ることにはそれほど意味はないかもしれない。だが、残された者たちにとって彼女の言葉は至言であり、忘れることができないものである。
 彼女が最後に残していった言葉、それを今一度見ておく時間をいただきたい。物語はまだ続く。物語の解決のために、彼女の言葉を追いかけてほしい。
 Lはlove。すなわち、愛情。











第佰捌拾玖話



恋慕のL












 四月四日の早朝からマリーはドイツ入りすることとなった。いくら隣国とはいえ、フランスのネルフ支部は南端のマルセイユ。陸路で行くには正直遠すぎる場所にあった。
 そのためマルセイユにあるプロヴァンス国際空港からドイツのハンブルグ国際空港へと移動することになっていた。出発は午前六時。その前にエリーヌはサヤカと一緒にマリーの部屋にやってきていた。
「もう準備はできたのかい?」
 エリーヌが部屋にやってきたとき、マリーは部屋の中で一人、音楽を聞いていた。
「はい。お見送り、ありがとうございます。エリーヌ、サヤカ」
「ま、単に一泊して帰ってくるだけだから、ゆっくりはしていられないかもしれないけれど、サードチルドレンと少しでもたくさん話してこられるといいわね」
「はい。ありがとうございます」
「それよりもマリー、本当についていかなくていいのか?」
 サヤカが尋ねる。ドイツへ行くにあたり、サヤカは改めてマリーの護衛として同行することを願い出た。だが、当のマリーが固辞したのだ。
「サヤカはエリーヌと一緒にいてください。私は一人でも大丈夫です」
「いや、今回ばかりは私もサヤカに賛成だよ」
 エリーヌも詰め寄る。
「ここはフランスで、そうそう何か起こるっていう場所でもない。でも、マリーはフランスの外に出るんだ。何が起こるかなんて分からない」
「ですが、今回はドイツの方から特別に私の見学を許可してくださったのです」
 マリーは断固として自分の考えを曲げるつもりはないようだった。
「私一人だけ呼ばれているというのに、他にも連れていってしまっては、招待してくださったドイツに申し訳ありません」
 まあ、エリーヌもサヤカもこの期に及んで絶対についていくなどというつもりはなかったのだが。
「マリーは本当に頑固よね」
「まったくだ。周りで見ている人間の気持ちを少し考えた方がいい」
 エリーヌとサヤカから言われて、マリーは笑顔で答える。
「それでも、私にはお二人がいてくれます。エリーヌとサヤカに会えたことが、私にとっては何より嬉しいですから」
「だったら少しくらい頼ってみせてほしいわ」
 エリーヌはマリーを正面から抱き寄せる。
「お土産期待してるから」
「はい」
 そうして、マリーはドイツへと旅立っていった。






 その日の夜に、エリーヌのところに早速電話が来た。
『まだ起きてた?』
 珍しく少し声が上ずっているようだった。もちろん、とエリーヌが答える。
「なんだか声が弾んでいるけど、何かあったの?」
『はい。シンジさんに会えました』
 なるほど、ある意味では片思いの相手と会えたことになったわけだ。
「どうだったの?」
『とてもいい人です。すごく優しい人で、心が締め付けられます。一緒にいると心が温かくなります』
「そういうのろけ話をするために電話してきたわけだ」
『そ、そうではありません。エリーヌの声が聞きたかったから』
 あわてたのは図星をつかれた証拠だ。まったく、本当に裏表のない純粋な子だった。
「ごめんごめん。からかうつもりはなかったんだけどね」
『いいえ。ただ、どうしても伝えたかったから』
「好きになった?」
『はい』
 たった一日で、ここまで人を変えることができる魅力を持った人物、サードチルドレン碇シンジ。いったいどういう人物なのか、興味がわいた。
『ただ、シンジさんには日本にガールフレンドがいるそうです』
「あら」
 ということは早速失恋してしまったわけだ。
「本気になる前に分かってよかったじゃない」
『はい』
 声が明らかに落ち込んでいる。やれやれ、帰ってきたら盛大に慰めてやらなければ。
『明日、実験が終わったら帰ります』
「ん、分かった。お土産と土産話、楽しみにしてるから」
『はい』
 こうして、その日の電話は終わった。マリーが本当に碇シンジのことを気に入ったというのはエリーヌにとっては喜ばしいことだった。
 今まで世界のために自分を犠牲にしてきたマリーが、初めて自分のことを考えるようになったのだ。マリーはもっと自分のことを考えてもいいはずだ。
「でも、サードチルドレンにはガールフレンドがいたんだ。やっぱり目立つ人っていうのはそういうものなのかな」
 別に碇シンジは目立った人間ではない。ただシンクロ率という一点だけが目立ったにすぎない。シンジに彼女ができたのは、まったく違う理由だ。
「明日は残念会か。どんな話を聞かせてくれるのかな」
 そうしてエリーヌはその日を終えた。






 が、次の日に教官から聞いた話はマリーから聞いた話とは全く異なるものだった。というのも、マリーはもう一日ドイツに滞在してくるということだった。
「どうしてマリーはすぐに帰ってこないんですか」
 と尋ねると、詳しく教えてもらうことはできなかった。が、後でサヤカが教えてくれた。
「どうも、イギリスとの間で確執ができているみたいだな」
「イギリス?」
 意味が分からなかった。イギリスとマリーとの間に関連性が何も見当たらなかったのだ。
「イギリスはサードチルドレンを取り込もうとしているようだ」
「サードチルドレン、碇シンジを?」
「ああ。イギリスの適格者、サラ・セイクリッドハートを碇シンジと結ばせ、強引にイギリスへ引き込むつもりらしい」
「何それ」
「それで、きわめて不愉快だが、フランスもそれに倣うことにしたようだ」
「それってまさか、マリーが碇シンジと?」
「そういうことだ」
 やれやれだ、とサヤカはため息をついた。が、事実を知るエリーヌには別の思惑があった。
「でも、それってありがたいわね」
「ありがたい?」
「ええ。昨日マリーから電話があったんだけど、マリー、サードチルドレンのこと、かなり気に入ったみたい」
「そうか」
「マリー本人が碇シンジのことを気に入っていて、国が全面的にバックアップしてくれるなら、こんなありがたいことってないわよね」
 もちろん、碇シンジにガールフレンドがいる以上、イギリスもフランスも何かしたところで崩れるようなものではないだろう。ただ、初めて異性に興味をもったマリーのことをバックアップしてくれるのは、あの純粋で奥手なマリーにとってはありがたいことになる。
「そうか」
「あれ、サヤカ、何か機嫌が悪いの?」
「そうだな。マリーは昨日、お前には電話があったのに私には電話がなかった」
 返答しにくい内容だった。
「気にするな。ただの嫉妬だ」
「気にするわよ。でも、私はあなたもマリーも親友だと思ってるわよ。マリーもきっと同じ。私にしか電話がなかったのは、チルドレンのことに関することだったからでしょう。適格者じゃないサヤカには話せないこともあるから」
「気にするなと言っただろう。そんな慰めなどいらん」
 ふん、とサヤカは気に入らない様子で顔を背けた。この子もこの子で、なかなか可愛いところがある。
「サードチルドレンってどんな子なのかな」
「見た感じ、意思の弱そうな男だったな」
「うん。でも、マリーが言ってた。一緒にいると温かい気持ちになるって」
 一緒にいるだけで心が休まり、穏やかになる。それは得難い資質ではないだろうか。
「私も会ってみたい。サードチルドレンに」
「お前はいずれ会えるだろう。ランクA適格者になるのは時間の問題だ」
「いいえ、マリーが先よ、きっと」
「どちらでもかまわん。二人ともランクAに上がるのは間違いないのだから」
 サヤカが言った。
「なるほど、確かに二人でランクAになれば問題ないわね」
「そういうことだ。フランスの誇る適格者、マリーとエリーヌ。お前たち二人がこのフランスの希望になる」
「がんばらないといけないわね」
 エリーヌが苦笑した。
「サヤカ。私ね、マリーにだけはかなわないとずっと思ってた」
「そうか」
「でも、かなわなくてもいいのね。一緒に横に並んでいられれば、それでいいんだもの」
 そう。自分たちはライバルではないのだ。世界を守るために共に戦う同志。だから自分はマリーに勝てなくてもかまわない。
「そうだな。そして、お前たちのコンビは他の誰にも負けないと思う」
「そうかな」
「そうとも。この長谷部サヤカが保障しよう。二人はエヴァンゲリオンパイロットの中でも最高のコンビプレイをすることになるのだと」
 いつの間にか、サヤカは自分を慰めていたらしい。嬉しくなって、エリーヌはサヤカに抱きついた。
「大好き、サヤカ」
「ふん」
 と、ツンツンしているようで彼女は間違いなく喜んでいる。サヤカは自分と違って本当に可愛いと思う一面だった。






 その夜、マリーから連絡があった。もう一日滞在が伸びたことを伝えるものだった。
 そして次の日は一日オフで、ハンブルク市内を観光し、最後はヴィリーとメッツァのユースの試合を見るのだという。
『せっかくのトレーニング時間がなくなるのは残念です』
 説明の後でマリーがいきなり言った。エリーヌは思わずふき出す。
「あなたが一日トレーニングをサボったくらいで、力が落ちるとでも思っているの?」
『はい。肉体的な力は次の日のトレーニングで取り戻せますが、一度トレーニングを休んでしまうと、それが慢性的になる可能性があります』
「あなたはそんなことにはならないわ」
 つまり『その日トレーニングができない理由』をこじつけて少しずつトレーニング量を減らすということなのだろう。だが、マリーは絶対にそんなことはしないと断言できる。
『どうしてですか?』
「だってあなた、トレーニングが好きでしょう?」
 そう。ずっと一緒にやってきて分かったことがある。マリーがどうして過酷なトレーニングに耐えられるのか。それは崇高な使命があるとか、そんなものではない。ただトレーニングをして体を動かすのが好きなのだ。だから続けることができるのだ。
『そうですね。言われてみればそうかもしれません』
「トレーニングが好きなんだから、サボりたいなんて思うはずがないわよ」
『はい』
「ただ、今のあなたは少し注意かもね。トレーニングより碇シンジくんの方が比重が高いみたいだから」
 それには心当たりがあるのか、ため息をつくだけでマリーは答えなかった。
『シンジさん、すごくいい人です』
「あなたがそう言うのなら間違いないでしょうね」
『仲間のみなさんからも慕われてて、それに、今日はシンクロ率を大きく更新したんです』
 サードチルドレンのシンクロ率はだいたい五〇%くらいだったはず。そこから数値を上げたとなると、もうセカンドチルドレンに追いつく勢いだ。
「すごいわね」
『はい。それに、シンクログラフが安定しているのが、すごいと思います』
 その話になるとマリーは一番暗い声を出す。彼女にとって唯一の、そして致命的な弱点ともいえる部分だ。それさえなければ彼女はシンクロ率四〇%、サードチルドレンにだって見劣りはしないのだ。
『エリーヌも、もうすぐランクA適格者になりますよね』
「まだシンクロ率もハーモニクス値も届いてないわ」
『でも、次か、その次には到達します。エリーヌの数値は確実に毎月伸びているから』
 それは自分でも分かっていた。シンクロ率二〇%、ハーモニクス値三〇。ここまでの上昇率から考えて、近いうちにランクAの基準を超えることができる自信はあった。
『私だけが置いていかれる』
「マリー」
『すみません。こればかりは、何をどう努力していいか分からない。分からないから迷います』
「あなたみたいに何事にも全力でやる人に結果がついてこないはずがない。私が保証するわ。あなたはフランスの希望を背負うだけの人間になれる。私なんかよりずっと。私はあなたに会ったときからずっとそう思っている」
 そう伝えると、マリーが『ありがとうございます』と小さく答えた。
『明日も早いので、そろそろ休みます』
「そうね。早くあなたに会いたいわ、マリー」
『私もです、エリーヌ』
 そうして、通信が切れた。

 それが、彼女との最後の会話になった。






 次の日の夜、ドイツから緊急連絡があった。
 マリー・ゲインズブールが重傷、緊急手術だと。
「マリーは、大丈夫なんですか」
 エリーヌとサヤカが発令所にいた司令に詰め寄る。が、司令は「分からん」とだけ答えた。
「撃たれた場所が悪かったらしい。即死でもおかしくないということだった」
「助かるんですか!?」
「だから、分からん。手術が終わってみないことにはな」
 司令も心配そうな表情だった。混乱したエリーヌに代わってサヤカが「何があったんだ」と尋ねる。
「話によると、暗殺者に襲われたらしい」
「暗殺者? マリーがですか?」
「いや、日本から来ていたサードチルドレンだ。マリーは彼を庇って撃たれた」
「な……」
 絶句した。撃たれたというだけでも冷静に思考することができなくなったというのに、その情報は思考を停止させるだけの力があった。
(サードチルドレンを庇った? マリーが? どうして?)
 いや、どうしても何もあるものか。マリーが庇ったのなら、その理由は明らかではないか。
「教官。確認したい」
 サヤカが低い声で言った。
「サードチルドレンとマリーは、どこで、誰に、襲われたんだ?」
「ドイツ支部の中で。相手が誰かは伝わっていない」
「ドイツ支部の中で起こっていて、相手が伝わってきていないのはおかしい。隠蔽の匂いがする」
 サヤカが拳を握り締める。
「確かに。私はこれからすぐにドイツに飛ぶ。お前たちはここで──」
「行きます」
「ここで連れて行かないというのなら、考え付く限りの嫌がらせをするぞ、司令」
 司令の言葉を待たずに、エリーヌとサヤカが言う。
「やれやれ、お前たちはずっと仲がよかったからな。仕方ないだろう」
「ありがとうございます」
「恩に着る」
 そして二人は司令と共にドイツへと旅立った。






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