マリーという少女が物語に与える影響は既に述べた。では、エリーヌという少女についてはどうだろうか。彼女もまたこの物語においてはある一定の地位にいると言っていいだろう。彼女の存在は今後、大変重要なものになってくる。だが、その伏線はここではまだ述べない。伏線につながるエピソードのみの紹介にとどめておこう。
 そしてもう一つ、忘れずにいてほしい。この国に襲いかかる使徒のことを。彼女がかなわないのならば、他の誰かが倒さねばならないのだから。
 Qはquestion。すなわち、質問。











第佰玖拾話



迷走のQ












 だが、現地で待っていたのは『たった今、息を引き取った』という結果だった。
「なぜだ」
 遺体の前で、サヤカが崩れ落ちる。
「お前が死ななければならない理由がどこにある、マリー。お前は、私にとってかけがえのない友人だ。どうしてお前が」
 震えて、涙を流して、顔も上げることができずにいるサヤカ。
 エリーヌは青ざめた表情でマリーの死に顔を見る。
「マリー」
 その死に顔は、エリーヌに驚きを与えた。
「そう、あなた」
 その顔は、予想以上に晴れやかだった。苦しみというものが微塵も感じられない。
「満足、したのね」
 話は既にほとんど聞いていた。サードチルドレンを守り、凶弾に斃れた。だが、彼女はそのことが何よりも嬉しかったのだ。それが、この表情から分かる。
「あなたは、世界よりも自分の感情を、恋心を優先して、サードチルドレンを庇った。それで、満足だったのね」
「エリーヌ!」
 サヤカが立ち上がり、その胸倉をつかむ。
「そんな馬鹿な話があるか! だからといってマリーが死んでいいはずがない!」
「ええ。でも、この子はこんなにも、満足そう」
 エリーヌも泣きながら言う。
「マリーは、自分の愛する人を守ったのよ。今まで世界を守ることしか考えていなかった、自分のことなんて二の次、三の次だったあの子が、たった一度、自分の命を愛する人のためだけに捧げた。私はずっと思っていた。マリーはもっと自分のために行動するべきだと。もちろん、こんな結果を望んでいたわけではないけれど」
 涙で視界がにじむ。だが、この感情は爆発してとどまることを知らない。
「マリーが死ぬなんて嫌、絶対に嫌。でも、マリーは、サードチルドレンを守ることができて嬉しかった。その気持ちは尊重してあげたいのよ」
「私は、嫌だ」
 手を離して、サヤカはうつむいて言う。
「私はサードチルドレンを許せない。あいつがいなければ、マリーは死ななかった!」
「そうね。でも、悪いのはサードチルドレンじゃないわ。襲い掛かった暗殺者の方よ」
 エリーヌの目が冷えた。それは、復讐者の目。
「確かにそうだな。感情のぶつけどころを間違えたら駄目だ」
「そうよ、サヤカ。私たちは絶対に許してはいけないわ。そして、マリーに出来なかったことを代わってやってあげなければいけない」
 エリーヌはマリーの遺体に近づく。そして、そっと手をつないだ。
 死体の冷たさが、全身に鳥肌を立たせた。これはマリーではない。少なくともマリーの手はもっと温かかった。その冷たさがまた、エリーヌを泣かせた。
「好きだったのね、マリー」
 サードチルドレン、碇シンジを。
「私は彼に会うわ。そして、あなたの代わりに、あなたが言えないことを伝えないといけない。あなたが命をかけて守った相手だもの。幸せになってくれないと、あなたの死が無駄になってしまう」
 人は言うかもしれない。他人の命を犠牲にして、どうして幸せにしていられるのかと。
 だが、命をかけて守られて、その結果辛い人生を歩むことになるのなら、マリーはいったい何のために死んだというのか。そんな他人を不幸にするために死んだなんていうことを、絶対に認めない。
「碇シンジには幸せになってもらう。それが、彼の義務だから」






 こうして、ドイツにてエリーヌと碇シンジは初めて会うことになる。が、彼女は言いたいことをほんの少ししか伝えられなかった。
 サヤカは碇シンジに会うことを拒否した。そのため、別の通訳の人に来てもらうことになった。
 だが、通訳の人は事情を知らない。シンジにガールフレンドがいることも知らなければ、マリーが自分に電話をかけてきたことも、その内容も詳しくは知らない。
 だから、きわめて限定的なことしか伝えられなかった。
 不満が残っていた。彼は自分の話をどう受け取っただろうか。変な方向に誤解していないだろうか。
 もし、変に誤解して、自分の幸せを捨てようとしているのなら、それは大きな間違いというものだ。
 数日後、碇シンジのガールフレンドが亡くなったと、エリーヌにも伝わった。
 碇シンジは、マリーを失っただけではなく、自分のガールフレンドまで失った。ということは、現状で彼を幸せにできる人間が傍にいないということだ。
「いい気味じゃないか。マリーを奪っておいて、自分だけ幸せになろうなんて、甘すぎる」
 サヤカは言う。だが、エリーヌは首を振った。
「そんなことを、マリーが求めているわけじゃないわ」
「だろうな。マリーの考えはいつも甘かった。あの子はたとえ自分を殺した相手でも愛せるような、そんなところがあった」
「碇シンジには、幸せになってもらわなければならない。それは、彼の義務なのよ」
「マリーを奪っておいてか」
「マリーが命をかけたからこそ、よ」
 この後、何回話しても、この件について二人の意見が変化するということはなかった。もちろん、だからといって二人が仲違いすることはない。二人とも、相手の気持ちがよく分かるから。
「私、もう一度、碇シンジに会わなければいけないわ」
「何故」
「だって、私の言いたいこと、半分も伝わってない。マリーが死んだ直後で幸せになれなんて言っても、そんなの恨み言と何が違うっていうの」
「確かにな」
「だから、何とかしてもう一度会う。そのためにも」
 そう。そのためにも、何としても自分はランクAに昇格しなければならない。
「今月は大丈夫なんだろう?」
「何回か、ぎりぎり数値が達したことがある。でも、シンクロ率とハーモニクス、同時に超えたことは一度もないわ」
「大丈夫だ。お前は必ず合格する。私が保証する」
 サヤカは自信満々に言う。
「どうして?」
「それがマリーの意志だからだ」
 真面目な顔で言うので、思わず笑ってしまった。
「あなたらしくない言い方ね、サヤカ」
「そうだな。私らしくない」
 ふっ、と笑うサヤカ。
「だが、私の言葉は必ず当たる。絶対にだ」
 かくして、その予言通りにエリーヌは四月の昇格試験で合格し、見事にランクA適格者となった。
 最大シンクロ率は二〇.五%、ハーモニクス値は三一.二。どちらもランクA基準のぎりぎりの数値だ。だが、初めて彼女は同時にこの数値を上回った。
 まさにマリーの力が宿ったような、そんな感じだった。






 その、ランクA適格者になった直後に日本行の話が来た。日本本部において、サードチルドレン碇シンジによる初号機起動実験への参加の案内だ。
 これは各支部のランクA適格者へと通達され、とくにアメリカ、中国、オーストラリアについてはぜひ参加してほしいというものだった。もっとも、オーストラリアは起動実験に成功したばかりでもあり、本人が希望しなかったので見送りになったのだが。
 無論、このチャンスを活かさない手はない。初号機の起動実験などどうでもいい。だが、日本に行けば、碇シンジに会える。
 さらに、サヤカにも声をかけた。前はマリーが死んだ直後だったので冷静に話すことはできなかったが、今ならある程度冷静に碇シンジと向き合えるのではないかと。サヤカは少し悩んだが承諾した。
 こうしてエリーヌは初めて日本へとやってくることになった。
 そして最初に見たのが、碇シンジ、古城エン、アイズ・ラザフォードによる合奏だった。
 上手、とは少し違った。
 温かさと優しさのこもった、聴衆を幸せにさせる演奏。
 その直後に行った彼との会話でも、自分の伝えたいことはすべて伝えた。
 そして彼の気持ちも伝わった。
「僕が使徒に勝って、全世界に向けて『僕の命を助けてくれたのはマリーというフランスの少女だ』と言うことです」
 その一言に、思わず涙が出そうになった。
 彼の中で、マリーは確かに生きている。マリーという人間の魂は、間違いなく碇シンジに宿った。その気持ちが伝わってきた。
(私が心配するようなことじゃなかったのかもしれない)
 自分は今まで、サードチルドレン碇シンジという人間そのものを見ていなかったような気がする。あくまでも相手は『マリーが命をかけて救った相手』としてしか意識はしていなかった。
「不思議な少年ね、碇シンジは」
 フランスへと戻る飛行機の中で、エリーヌはサヤカに話しかけた。
「そうだな。正直、マリーのことで許すつもりは全くないのだが、それがなければよき友人になれたと思う」
「そうね。シンジはきっと、仲間のためになら自分の命も投げ出せる人なのだわ。だからこそマリーもシンジのことを信頼し、好きになった」
 マリーがシンジに惹かれた理由がよく分かる。彼女が求めていたのは、相手を守り、相手に守られる、お互いがお互いの役割を果たすことができる、そんな相手だったのだろう。
「エリーヌもシンジに惚れたのか?」
「いいえ、私のタイプではないわ」
 友人としてならつきあえるが、恋人としてはもの足りないというのが正直な感想だった。
「ただ、そうね。掛値なしに、信頼できる人。そんな感じがした。彼は嘘がつけない。他人にも、自分にも。とにかく曲がったことが嫌い──違うわね、曲がったことを考えつかない人。いい意味でも悪い意味でも純粋だわ。本当に、マリーによく似てる」
「もっと話してみたいか?」
「そうね」
 興味を引く人物という意味でなら間違いなくそうだろう。あれほど興味深い少年には出会ったことがない。
「やっぱり、私も日本語を勉強しないと駄目かしら」
「お前の人生に影響を与えるほどの男なのか、碇シンジは」
「そうね」
 そう言われるとそこまででもないような気がする。だが、フランス支部の男子適格者たちに比べれば、ずっと魅力的なのも確かだ。
「いずれにしても、しばらくは会うこともないでしょうし、今年の戦いが終わらないことには私たちに未来はないものね」
 そう。もうすぐ使徒が来る。今年中に間違いなく使徒がこの地球のどこかに現れるのだ。






 こうして、エリーヌは六月六日を迎えた。
 地中海に現れた使徒はまっすぐにフランス支部に向かってきている。間違いなく自分たちを攻撃目標にしている。そして同時に、世界各国で使徒の出現情報が届いた。
 すなわち、使徒は全てのネルフ支部に同時攻撃を仕掛けてきたのだ。
「サヤカ。あなたにお願いがあるの」
 プラグスーツに身を包んだエリーヌは、発令所に行く前にサヤカと最後の話をした。
「私、正直に言うと、勝てる自信がないの」
「エリーヌ!」
「だって、冷静に考えてもみて。私は世界中、すべてのランクA適格者の中でも最低の数値しか出せていない。シンクロ率もハーモニクスも基準ぎりぎり。他のどんなパイロットだって、もっといい数値を出しているわ」
 そう。彼女の数値は全ランクA適格者中、最低数値。それは本人が一番よく分かっていることだった。
「戦闘開始までまだ少し時間があるわ。非戦闘員はみんなシェルターに入るか避難することになっている。だから、あなたにも避難してほしいの」
「何を!」
「お願い。万が一私が負けたら、この支部は使徒によって完全に破壊されてしまう。この中にいるのは危険なのよ」
「お前が死んで、私だけ生き残れというのか」
「私は死なないわ。エヴァごと消滅させられない限り、エヴァは破壊されても中の人間は無事でいられるのだから」
 実際には中国でエヴァごと消滅させられる適格者が出ることになるが、それはまた別の話だ。
「私が負けて、無様に生き残った後、あなたが死んでいるのを確認するのは嫌なの」
「エリーヌ」
「だから、負けて帰ってきた私を慰めて。きっとフランスの生き残った人たちは私を役立たずと罵るわ。だから、あなただけでも私に『よくがんばった』って言ってほしいの」
「卑怯だな、エリーヌ」
 そう。これは死ぬか生きるかの戦い。負けて生き残ることなど考えられない。それでもエリーヌはその可能性を示して、サヤカを逃がそうとしている。
「分かった。そのかわり、約束は守れ。約束を守らない奴は友人と認めないことにしている。生き残らなかったら私はお前のこと忘れる。いいな」
「分かったわ。必ず」
 もちろん、生きて帰ってこられるなどとは思っていない。
 だから、サヤカだけでも生き残ってほしいと思うのは、自分のエゴだ。

「エリーヌ、行きます」

 そして、エヴァンゲリオンに乗り込んだエリーヌは、使徒との決戦に臨んだ。






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