「もしもし、こちらイラストリアス。無事、日本到着しました。どーぞ」
オーストラリアから日本まではそう遠くない。足さえあれば半日もいらない。
エヴァンゲリオン壱号機を乗り捨てた真希波マリは、錐生ゼロたちオーストラリアの適格者が日本に来るより早く到着していた。これから舞台はオーストラリアから日本に移ってくる。当然、自分の活躍する場所もこちらに来るはずだった。
『お疲れ。壱号機が役に立ったみたいでよかった』
小型無線機から聞こえてくる声は、自分の協力者。自分にあの壱号機をくれた人物でもある。
「でも、捕まりそうだったから乗り捨ててきちゃった」
『かまわないよ。オーストラリアの使徒を殲滅できたし、ターゲットも無事だった。それがとにかく一番ありがたい』
「あの子のこと?」
『ああ。目的を達成するためには絶対必要な存在だからね』
まあ、そのあたりはどうでもいいことだった。マリにとっては面白ければそれでいい。
「で、リョウゴは今どこなの?」
『カナダだ。ここからアメリカに入る』
リョウゴが動いた。それはつまり、計画も最終段階に入ったということ。
「無茶しないでね」
『当然。それから、彼の息子を頼む。何かあったときは守ってやってくれ』
「りょーかい」
そうして通信は切れた。彼は彼でしっかりとやっているようだ。もっとも、いくらアメリカが混乱しているからといって、彼の望むものがすぐに手に入るわけではないだろうが。
「さて、それじゃあネルフに表敬訪問といきますか」
一つの秩序が崩壊したとき、世界は新たな秩序を求める。
第弐佰話
心理的強さと弱さ
一方、六月七日になったドイツはどうだったかというと、昨日六日のうちに既にネルフドイツ支部がヨーロッパの方々に連絡を入れたおかげでもあり、まずギリシャからのパイロット・エヴァの移転が確定していた。
さらにフランスのエリーヌ・シュレマンは六日のうちにドイツに来ていた。もはやネルフフランス支部は消滅してしまっている。フランス上層部も生き残った適格者たちをどうするかというときに格好の引受先が見つかったということで、破壊されたマルセイユの復興協力を取り付けるかわりにフランスの適格者たちを差し出す格好になった。
ロシアはネルフ支部がまだ存続しているものの、既にエヴァンゲリオンは修復不能のレベルにあり、パイロットも重症だった。もっとも、覚醒さえすれば外傷があるわけではないのでいつでも戦うことはできる。問題は機体だ。
イギリスはドイツから移転の誘いがあったものの、日本へ向かうことがほぼ決まっていた。準備を整え、受け入れの正式承認が出てから、近日中に日本へ出発することになる。
『ハイ、アスカ。ごめんなさい、せっかく誘ってくれたのに応えられなくて』
そのアスカのところにイギリスのサラから電話が届いたのは七日の朝八時だった。ドイツとイギリスでも時差がある。イギリスではまだ朝の七時にしかなっていない。
「気にすることないわよ。早い時間に悪いわね」
『それは別にいいのよ。いざとなったら三日は寝なくても大丈夫なように訓練してあるから。それで、もう聞いてるんでしょうけど、日本に行くことになったわ』
アスカの脳裏に平凡そうな少年の顔がよぎる。
「聞いてるわ。それにしても思い切ったことをするわね。ドイツに来るのが嫌だからって、わざわざ日本にまで行くなんて。あなたの考えなんでしょ?」
『半分私で半分国ってところかな。私はドイツに行くので全然問題ないんだけど、やっぱりイギリスはそう簡単じゃないって』
「でしょうね。アタシも別に本気であんたを引き抜こうとしたわけじゃないもの。それにしてもどうして日本なの? 自分のところでやることだってできるでしょ」
アスカの質問に、サラは電話の向こうで小さく笑った。
『ここだけの話よ、アスカ』
「なに」
『私、本当にサードチルドレンのことが好きになったみたい』
そんなことを自分に言ってどうするつもりなのだろうか。というより、趣味が悪い。自分なら絶対にサードチルドレンだけは選択肢に入ってこないのだが。
「あいつのどこが気に入ったの?」
『優しいところかな。それに、一度決めたことは曲げない心の強い人だと思う。それにやっぱり、わくわくするから』
「わくわく?」
いったいあの平凡そうな少年のどこにそんな要素があるというのか。
『最初からあんなに高いシンクロ率を出すことができる、それだけで充分私にとっては魅力的。もちろん、シンジ自身が魅力的だし』
「ごめん。あんたとは趣味が合わないわ」
どうもあのなよなよした少年には好意を抱けない。栄光あるチルドレンなのだからもっと堂々としていればいいものを。
『でも、それが一番の理由でもないかな。私、サードチルドレンよりも大切な人が日本にいるから』
「サードより?」
『ええ。大切な友人だった人。日本に行ったら今度はこっちがとっちめてやるんだから、覚悟してなさい』
「アタシに言ってどうするのよ」
楽しい友人関係がそこにはあるようだ。まあ、自分には関係のないこと。
「それじゃあ、元気でね。サードに会ったらよろしく伝えておいて」
『ええ。それじゃあ、またね』
そうして電話が途切れた。またね、と彼女は言った。だが、一ヶ月後の使徒との戦いで、二人とも生き残ることができるかどうかは定かではない。
(一人でも多く生きてる方がいいに決まってるんだからね。死ぬんじゃないわよ)
だが、そんなことは言われるまでもないこと。そして何よりまず自分が死ぬわけにはいかない。アスカは気合を入れなおすと、ネルフのスーツに着替えて部屋を出た。
ドイツは日本と違い、戦闘が終わった段階でまだ夕方にもなっていなかった。アスカは戦闘後、まだ使徒と戦っていたイギリスへ向かったが、エヴァンゲリオンの修復が必要だったヴィリーとアルトはそのままドイツに残ることになった。
昨日、ミーティング以外の場で、二人の間に会話はなかった。ヴィリーは親友のメッツァを亡くしたこともあって、気持ちを抑えるのだけで必死だった。
一方でアルトは精密検査を受けることになった。アスカがイギリスに向かってから、日が変わるまで繰り返し検査を続けた。だが、結局分かったことは『原因不明』というだけのことだった。
そういうわけで、今日は朝も早くからミーティングルームで昨日の戦いの映像を繰り返し見ていた。何かを思い出そうとしているのだが、何も思い出せない。ただ、明確に『使徒撃破』と『メッツァ死亡』の二つだけが知識として刷り込まれてしまっている。
自分が気を失ったことも不明なら、自分が気を失ったままこれほどの動きを見せていることも謎だ。アスカよりエヴァの操縦が上手いのではないかというくらいの動きを見せる。いったいどうしてこんなことになっているのか。
「早いわね、アルト」
ミーティングルームに入ってきたアスカが声をかけた。
「アスカさん。昨日はお疲れ様でした」
「何言ってるの、あなただって戦ったでしょ」
「いえ。アスカさんはその後イギリスへ行っていますから」
「ああ、そのことね」
たいしたことでもないような様子で受け応える。
「結局、精密検査、何も出なかったんだって?」
「はい。どうしてこうなるのか、もう手がかりがない状態です」
「そうね。確かに現状では手がかりはないのかもしれない。でも、その手がかりを持っている人をお互いに知っているわよね」
「はい」
そう。
この戦いが始まる前に、自分は実際に問い正しに行っている。特殊監査部の加持リョウジ。彼は自分の身に起こっていることを間違いなく知っている。
「アルト。プラグ内部の映像は見た?」
エントリープラグには、内部の様子を外部に送るためのカメラがついている。これは自動録画機能がついており、プラグ内部の様子を確認することができるのだ。
「はい。でも、カメラの録画スイッチが切られていて、見ることができなかったんです」
「逆に聞くけど、アルト、あんた乗り込むまでの記憶はあるのよね」
「はい」
「じゃあ、その乗り込んだときの映像はないの?」
それは確認していない。早速昨日のデータを画面に出す。
アルトが乗り込む。それからしばらく、まったく動かずにいる。やがて、アルトの目が開くとすぐに手が伸びてカメラのスイッチを切ってしまった。あとは完全な黒画面。
「明らかにあんたが切ってるわね」
「はい」
この画像はアルトもまったく見ていなかった。明らかに自分の体が勝手に動いてカメラの録画を止めている。
「カメラを止めた記憶は?」
「ありません」
「ということはこの『アルトもどき』は、自分の動いているところを見られるのを嫌ってこういうことをしたわけか」
その言葉の意味するところはつまり、
「見えてきたわね、アルト。やっぱりあんたの体に誰か別の人間がいる」
「二重人格、ということですか」
DID──解離性同一性障害。いわゆる二重人格、多重人格症のことである。だが、アルトの場合は何かそういうものとは明確に違うものを感じる。
「今の動きからすると、明確に自分の正体が発覚するのを防ごうとしているのを感じるわね。もう一回見せてくれる?」
アルトが言われるままに画像を流す。もちろん自分でもじっくりと見る。これが自分の動きなのかということを確認するように。
「監視カメラの映像にあったのと同じ奴でしょうね、きっと。あのときもMAGIのシステムは完全にシャットダウンされていて、MAGIと無関係の監視カメラにだけ、あんたが自分から出ていった画像が残っていた」
「自分がどう動いているのかを見られたくない?」
「ということなんでしょうね。あんたの中には随分と用心深い奴がいるみたいね」
そう言われても実感がわかない。自分の中にもう一人いるなどと言われて、はたしてどれだけそれを自覚できるだろうか。
「でも、そういうことならこのもう一人のあんたって奴はさ」
ようやくアスカが少し笑顔を見せた。
「何ですか?」
「あんたの味方ってことよ、アルト」
「私の?」
「ええ。ここからは推測だけど、このもう一人の人格は、自分が表に暴かれるのを恐れている。それはもしかしたら、加持さんのこの前の言葉が原因なんじゃない?」
「この前のというと」
「真実が分かるとあんたが死ぬことになるかもしれないって奴よ」
「あ」
「だからこのもう一人のあんたは用心に用心を重ねて、気づかれないように行動してきた。でも、この間の使徒戦はさすがにそうはいかなかった。だからカメラを切って行動し、あんたの体を助けた。そんなところかしら」
これなら辻褄があう。だがそれは希望的観測に基づくもの。アルトの中の人格が必ずしもアルトを守るとは限らない。もしかしたらアルトの体をのっとり、外に出てくるかもしれない。そのために今、力をたくわえているのかもしれない。考え方などいくらでもできる。
「とにかくアルト、あんたはこの一ヶ月の間に必ず自分でエヴァを乗りこなせるようにならないと駄目よ。そうでなければ今度こそ謹慎にするわよ」
「絶対に」
アルトは力強く頷く。
「もう、私の目の前で誰も死なせたりしません。私が止めてみせます」
「その意気その意気」
アスカは笑ってアルトの頭をつつく。
「すぐにでも起動実験がしたいんですけど、しばらくは難しいんでしょうか」
「多分ね。まずはエヴァの修復作業があって、そのあとギリシャの機体も運ばれてくるからこれも修復。全部直すのに十日から二週間ってところじゃないかしら」
「それまでにできることはないのかな」
「敵の分析くらいしかないんじゃない? もう少ししたら各地の使徒の記録が整理されるから、どうやれば倒せるのか分析して作戦を立案、その通りに行動できるように訓練。なんといっても敵の種類が多いから、それにあわせて訓練しておかないといけないわよ」
残る使徒は八体。そのうち正体が判明しているのが五体。
「アスカさんは倒す方法とか考えているんですか?」
「そういうのは作戦部の仕事。私たちの仕事はそれを正確に行動に移す技術を身につけることよ」
それは作戦部への信頼であると共に、与えられた命令を確実に実行しなければならないという責任でもあった。
と、そのとき、二人の携帯端末が同時に鳴った。メールだ。件名を見て二人の顔が輝く。
『クライン意識戻る』
二人は同時に立ち上がっていた。
「行くわよ、アルト」
「はい、もちろんです」
二人の足は自然と駆け足になっていた。
クラインは目を覚ますと同時に自分の置かれている状況を把握した。
自分が意識を失う直前、使徒の喉にコアを見つけ、それを叫んで伝えた。それが最後に残っている記憶。そして今、自分がこうして意識を取り戻しているということは、その後の戦いでアスカたちが使徒を殲滅したということだ。
だから尋ねた。
「使徒は倒したんですね。僕が倒れてからどれだけ経ちましたか。アスカさんは、そしてみんなは無事ですか」
飲み込みの早い患者に対し、医者は呆れた顔で答えた。
「そんなことより自分の心配をしたらどうだね」
「僕には自分より大切なものがあるんです。アスカさんは無事なんですか」
「無事だ、無事だとも。そう目くじらを立てなさんな。ちなみに、戦闘があったのは昨日。ほぼ丸一日経っとるよ」
医者はなだめるように言う。
「それから、一人戦死者が出たよ」
「誰です?」
「メッツァだ。アスカをかばって死んだらしい」
クラインは表情を変えずに「そうですか」と呟く。
「残念だな。彼がブンデスリーガの一部リーグで活躍するのが楽しみだったのに」
「ほう、サッカーが好きだったのかね」
「人並み程度にですけどね」
さて、とクラインはベッドから起き上がる。
「おいおい、病人が無茶をするものではない」
「無茶? エヴァンゲリオンでは衝撃は受けても傷は残らないんです。もうとっくに全快ですよ。それより、食事をしておかないと体力がもたない」
起き上がってネルフのスーツを着たところで、病室にアスカとアルトが駆け込んできた。
「クライン!」
アスカが息を切らせて言う。そのアスカにクラインは笑顔で応えた。
「おお、フロイライン・アスカ。わざわざ僕のために、そんなに急いで来てくれたのですか」
「うぬぼれてんじゃないわよ! まったく、あんたって奴は」
アスカは大股で近づくと、手を振り上げて、勢いよくクラインの頬を叩いた。
「あんたが犠牲になったらアタシにとって勝利もないって、言わなかった?」
「ええ、直接、はっきりと」
「だったらなんであんな無茶をしたのよ! かっこつけたつもりなの!?」
「勘違いしないでください、フロイライン。あのタイミングでは、使徒の攻撃を回避することはできませんでした。それなら少しでも情報をつかんだ方がいいと思って、コアを確認した。それだけです」
「引き際を間違えるからそうなるんでしょうが!」
「その通りなんですが、直接言われると堪えますね」
クラインは肩をすくめた。そして、後ろに控えていたアルトと目が合う。
「とにかく、生きていてくれてよかった」
アルトは涙目だった。その意外さに、思わずクラインも笑顔になる。
「どういたしまして。それにしても、君まで心配してくれるなんて思わなかったな」
「なに言ってるの。仲間だって言ってくれたのは、クラインの方が先じゃない」
「もう忘れた」
クラインは冷たい表情で両手を上げた。もちろん照れ隠しなのは分かっている。
「話は変わるが、メッツァのことは今聞いた」
突然、二人の表情が暗くなる。当然だ。まだ一日しか経っていないし、何よりアスカをかばって死んだと聞いた。
「それ以外のことを知りたい。他の国はどうなってる?」
「そんなことより、あんたの体調が先でしょ!」
「フロイラインまで、医者と同じことを言う」
向き直って、クラインは肩をすくめた。
「でも、大丈夫です。所詮エヴァの中で受けたダメージなんて、終わってしまえばないのと同じですから。それで、他の国の状況は?」
「分かったわよ。ここで説明しても面倒だから、一旦ブリーフィングルームまで行きましょう。そこであらかた分かるわよ。それに、アタシもこれからのことを確認しておきたいし」
アスカが振り返り、先頭で病室を出ていく。
「アスカさん、ああ見えて本当にクラインのこと、心配してたんだよ」
「そんなのは見れば分かる。それに、アスカさんが優しい人だっていうのは、とっくの昔に分かっていたことだ」
「ふうん?」
「だから僕は、アスカさんを尊敬しているんだ」
クラインの言葉にアルトも少し心が和む。信じられるものがあるというのはいいことだ。それだけで人は強くなれる。
「何やってんのよ二人とも、置いていくわよ!」
二人は目を見合わせて微笑むと、アスカを追いかけていった。
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