六月八日(月)。

 まだ適格者たちが目覚める前の、午前五時四十分。誰よりも早く神楽ヤヨイは目覚めた。いつもなら誰より遅く起きる彼女だが、今日は事情が違う。
 二日前に起こった戦いで、彼女の操るエヴァは胸を貫かれた。その衝撃、激痛は彼女の神経を焼き切った。そのままショックで心臓が止まっていても仕方ないほどだった。シンクロ率がまだ低かったことが彼女の生存を許したのは皮肉か。
 彼女は目を覚ましたときに自分の置かれている状況を判断した。使徒との戦いで傷ついた自分が病室へ運ばれてきた。とはいえ外傷はないはずだから、目が覚めればそれで終了。
 と、同時に。
(ああ、そうだったのね)
 ヤヨイは目を閉じて、大きく息をついた。
(だから私は、自ら記憶を閉ざしていたのね)
 次の戦いまでに、いくつかの話を進めておこう。











第弐佰壱話



物質と記憶












 その日、適格者たちは思い思いの訓練を行っていた。何人かがブリーフィングルームに集まって、前回の使徒との戦いを見直したり、次の使徒を予測して作戦を考えてみたり。一方で体を動かしていたい者は組手をしたりと、特別規律にのっとったものはなかった。また、葛城ミサトからもしばらくはゆっくりしていていい、と言われていた。
 その中で、野坂コウキは部屋から出ることができなかった。というのもガードの真道カスミが「しばらく大人しくしててくれ」と、ガードの仕事をほったらかしにして単独行動を始めたからだ。
 カスミがこうやって単独行動をすることは今までにもよくあった。代表的な例でいえば、美綴カナメの正体を探るために名古屋まで行ってきたときがそうだ。
 そのカスミはかつてない興奮の中にいた。それもそのはず、ようやく念願の『獲物』が網にかかった。いや、網にかかったと見せかけておいて、もしかしたらこちらを罠にかけようとしているのかもしれない。
(そんなはずはないか。あいつはもう、俺のことなんか覚えてないだろうしな)
 まさか自分がずっと監視されているなどとは思ってもいないだろう。彼女はきっと、MAGIの監視システムを完全にごまかしていると思っているに違いない。
(ようやく捕まえることができたな)
 彼女が目指しているのはケイジだ。人が通るはずのない通風孔やエレベーターの上などから巧妙に近づいてくる。
(ま、お前のことだけを考えてきたこの数年は無駄じゃなかったってことだ)
 彼女がネルフの高級士官だけが使える通路に入ったところでカスミは行動を起こした。もともとその通路には罠をしかけておいた。彼女がその通路に入ってしばらくしたところで罠を起動する。
「!」
 彼女の顔が驚愕に彩られる。通路の前後で突然シャッターが下りた。直後、白い煙が通路を満たす。
「くっ!」
 おそらくは即効性の睡眠ガス。ここはできるだけガスを吸い込まないように、意識を失ったふりをして倒れ、敵が近づいてきたところを逆に攻撃するしかない。
(って考えるよな、普通なら)
 カスミはさらに罠の第二弾を起動。彼女が倒れたその真上からネットが落ちてきた。そうして完全に相手の身柄を動けなくした上で、さらに安全を期す。
『真希波マリ・イラストリアス。悪いがお前の行動は完全に筒抜けだ。我慢してないで、さっさとそのガスを吸い込んでくれないかな。そうしたら苦しまなくてすむんだけどな』
 マリはあきらめて大きく息を吸い込んだ。その途端、がくりと彼女が動かなくなる。
「やれやれ、ようやく捕まえたぜ、真希波マリ」
 カスミはモニタの外側からにやりと笑った。






 カスミが使った睡眠ガスは短時間ですぐに気づく程度のものだった。マリが目を覚ましたとき、両手足は拘束され、椅子に座らされていた。拘束具についてはマリ自身も研究したことがあり、これはどうやっても自分一人では抜け出すことができないものだと分かった。
 自分が拘束された場所がどこなのかは分からない。完全に武装解除されている。部屋はどこかの尋問室か何かだろうか。扉が正面にあるだけで、他には机一つすらない。完全なコンクリートの壁。天井には通気口。
 しばらく待っていると扉が開いた。
「よう、久しぶりだな、イラストリアス」
「誰?」
 逆行でよく見えないが、どこかで聞いたことのある声だというのは分かった。
「ま、忘れちまってるよな。使徒に関するタブレットの奪い合いになったトレジャーハンターのことなんか」
「……真道カスミ?」
 声に警戒の色が出ていたのをカスミは聞き逃さない。とはいえ、この状況では煮るも焼くも好きにできるわけだが。
「お、忘れてなかったか。ったく、ようやく捕まえたぜ。まさかネルフにお前自身が乗り込んでくるなんて思いもよらなかったぜ」
「どうしてあなたがここに?」
「適格者だからに決まってんだろ。ま、それもお前を捕まえるのが目的だったから、無事にこうして果たしたわけだが」
「私をどうするつもり?」
「さあ、どうしてくれようかな。お前には一度出し抜かれてるしな」
 笑って近づくカスミに、マリは冷たく言った。
「変態」
「んなっ!?」
 カスミが目を見開く。
「だって、私の武装解除したでしょう。私の体をたっぷりねっぷり見て触ってあまつさえ──」
「見ても触ってもいねえよ! お前の武装解除をやったのは女だ!」
 その作業をしてくれたマリィ・ビンセンスからは『どういう関係の人なの?』と冷たい視線を送ってくれたわけだが。
「案外フェミニストなのね」
「女子供をいたぶるのは好きじゃねえ」
「たとえ敵でも?」
「たりめーだ。だいたい、まっとうなトレジャーハンターは自分の腕だけで勝負するもんだよ。捕虜になった敵の拷問なんか最低だ。もっとも、お前の返答によっちゃ、俺のポリシーもしまわなきゃならねえからな」
 マリの目が細まる。
「まず聞くぜ。あのタブレット、何て書いてあったんだ?」
「ヘブライ語なんて読めないもの。上に渡しておしまい。内容は知らない」
「そう言うと思ったぜ。じゃ、さらに聞くがその『上』ってどこの誰だよ。その返答をしぶるようなら──」
「元ライプリヒ製薬。今は仲違いして別行動中のある人物に協力している」
 すらすらと答える。ここまであっさりしていると、何とも尋問のしがいがない。
「ついでに言っておくと、私の『上』とネルフとは決して敵対関係ではない」
「それならなんでこそこそと潜入してきたんだ?」
「理由その一。以前ネルフと敵対していたから。具体的には加持リョウジと敵対した。そのときはカスミもいたけど」
 あのタブレットをめぐるいざこざの際に関わっていたのが加持だった。それはまあ分かる。
「それから?」
「理由その二。私たちはライプリヒ製薬から狙われているから、あまり表立った行動はできない」
「もともとの組織を裏切ってんならそうだろうな。それから?」
「理由その三。ネルフには渡せない情報がある」
「お前、それを俺の前で言うかね」
「だって事実だもん、仕方ないじゃない」
 あっけらかんと答える。
「それを吐かせるために拷問するかもしれないぞ?」
「ある、ない、どっちにしても拷問されるときはされるよ。それで吐いたところで『ほかにはないのか』ってさらに責められるのがオチ。捕虜になったら何を言っても言わなくても運命なんか変わらないもの。それなら嘘と本当を微妙に織り交ぜながら言うのが一番」
 つまりマリが言いたいことは、拷問しようが何をしようが、自分から得られる有効な情報はない、それどころかこちらを騙すつもりでさえいる、ということだ。
「他にもう理由はないのか?」
「あるようなないような」
「知ってることはあらいざらい、全部吐いてくれるとお互い楽だと思うぜ」
「それじゃあ、こちらの動きでネルフが知っているとお互いに便利だということを」
「何でもいい、早く言え」
「私の協力者は今、使徒を倒す方法を知っている人と接触しようとしている。だから見逃してくれると嬉しいな」
「馬鹿じゃねえの? 使徒はエヴァンゲリオンが半分倒してるっつーの」
「でもまだ半分、生き残ってるよね。それに、あのセカンドインパクトのとき、どうして二体の使徒が地球への侵攻をやめたか知ってる?」
「そりゃだれも知らない情報だな」
「だよねー。私も詳しくは知らないんだけどさ」
 あははは、とマリが笑う。
「ただ、キーマンになる人物は知っているよ。知りたい?」
「ああ。俺には必要のない情報だが、それを知りたい奴は他にいる」
「それじゃあ、作戦名downfallで調べてみてよ。なんでもかんでも私から聞くより、多分自分で調べた方が安心するでしょ?」
 それを聞いたカスミがしかめっ面をする。
「おいおい、どうして第二次世界大戦の未実施作戦名が出てくるんだよ」
「さあ、どうしてかしら」
 それも自分で調べろということか。
「分かった。それじゃもう一つ。お前はここに何しに来た?」
「エヴァを見に」
「エヴァを?」
「ええ。あと、できればしばらく潜伏して、友達が来たときに出迎えてあげようかと思ってたんだけど」
 もう少しでゼロが日本にやってくる。その際に顔を見せれば相当嫌がるだろうと思ったのだが、これでは残念ながら目論見が外れてしまった。
「まだあるだろ」
「まあね。一番の目的は、現在入院中のある人物に会うこと、だったんだけど、さすがにもう無理かな。捕まっちゃったし」
 どこまで本気で言っているのかよく分からないが、どうやら得られる情報はこの程度だろうとカスミは判断した。
「分かった。じゃ、これで終わりだな」
 カスミは懐から拳銃を取り出し、マリの額に向けた。
「何のつもり?」
「見て分からないか? 殺すつもりだよ」
 明らかに殺気をこめた声。さすがにマリも表情を変えた。
「女子供はいたぶらないんじゃなかったの?」
「時と場合による。お前を生かしておくとろくなことにならないと判断した。あと、一番の理由が他にある」
「なに?」
「あのときの復讐さ。俺はお前に仮を返すためだけにここにいたんだからな」
 マリは悔しそうな表情を見せたが、仕方ないわね、とつぶやいた。
「この状況じゃ逃げることもできないし、カスミの好きにするといいわ」
「ああ。じゃ、一緒に心の中ででも数えてくれ。五、数える」
 冷酷に言い放つ。マリは体を動かそうとしたが、そもそも椅子が床と固定されているのか、まったく動くことができない。どれほどあがいても拳銃から回避することは不可能だろう。
「五、四、三、二、一、」
 トリガーにかかったカスミの指に力が加わる。そして、カスミの殺気は否応にも増している。
(リョウゴ、ごめん!)
 マリは目を閉じて、銃口から視線を逸らした。直後に、銃音。
 ……。
(……?)
 確かに音がした。が、自分に衝撃はこなかった。
 おそるおそる目を開けると、そこには相変わらず銃を構えた──
(銃だけじゃない)
 もう片方の手にあったのは、小型のデジタルカメラ。
「おー、よく取れたよく取れた」
 そして近づいてきて、今撮ったばかりの画像を出してマリに見せる。
「ほら、空砲に驚いて目をそむけたお前の顔。うまく撮れてるだろ」
 馬鹿にしたような声で言う。
「空砲?」
「おうよ。俺が本気で女子供を打ち殺すと思ったのか? 俺の復讐はな、お前にこうした顔をさせてカメラにとって、お前を馬鹿にすることなんだよ。所詮、お前なんか俺の足元にも及ばねえんだよ、ざまあ、ってな」
 にやにや笑うカスミ。正直、怒りが爆発しそうになったが、この状況では怒ったところでどうしようもない。
「さーって、復讐完了! それじゃ、ダウンフォール作戦について調べてきたらもう一回話を聞くからな、それまでは大人しく待っててくれ」
 そうしてカスミは尋問部屋から出ていった。いなくなってからようやく、マリは怒りを全面に出して「こんちくしょう」と毒づいた。






 目が覚めたヤヨイのところにガードのマイをはじめ、シンジやカズマ、タクヤなどもすぐにお見舞いに駆けつけていた。
「大丈夫ですか、ヤヨイさん?」
 マイが心配そうに顔を覗き込む。
「心配かけたわね。もう大丈夫」
 外傷はないのだ。当然ヤヨイは何の問題もないわけだが、それよりも気を失った後のことがヤヨイには何も分からない。
 簡単にタクヤから状況を説明されるとヤヨイはうなずいて答えた。
「まずいことになったわ」
 真剣な表情のヤヨイに全員が緊張する。
「何があった?」
「昨日の午後八時」
「午後八時?」
 全員が頭に疑問符を浮かべる。
「──大河ドラマを見逃した」
 なるほど、それは一大事だ。
「神楽」
 そのヤヨイに向かってカズマが応える。
「昨日の大河は使徒の特番でつぶれた」
「神よ、この奇跡に感謝します」
 こんなことで敬われる神なのだからずいぶんと安っぽいものだ。まあ、この程度のやりとりができるくらいにはヤヨイも回復しているということなのだろう。






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