「ヨシノさん、浮かない顔ですね」

 六月十日(水)。

 いつも穏やかな笑顔を浮かべるヨシノが塞ぎこんでいる様子を見せれば、それは誰だって心配する。大丈夫なのだろうか、と。
 だが、そのヨシノの正体を知っている人たちからすればどうだろうか。いつも穏やかな笑顔を浮かべて心の中で正反対のことを考えているあのヨシノが、自分の感情を隠しきれずにいるのだ。当然心配するに決まっている。大丈夫なのだろうか、と。
 どちらもヨシノを同じく心配しているのに、その両者の間にはとても大きな溝がある。
「ええ、大丈夫ですわ。ただちょっと、会いたくない人が来るものですから」
「ああ」
 サナエは思い至った。そうだ、今日が到着の日だった。
「イギリスのサラさんですか」
「そういうこと」
 正直、会いたくなかった。不意打ちが通じた前回と違って、今回のサラは完全武装で来るだろうから。
 あらゆる信念の背景には、重要でなくともいくつかの事実が存在する。












第弐佰伍話



理性と実存












「カスミくんがいなくなった?」
 朝のミーティングで突然言われたシンジは動揺した。どうしてこのタイミングでいなくなったのか、何を目的としているのか。
「ま、すぐに戻ってくるみたいなことは言ってたけどな」
 と、コウキ。別に何も心配はしていないようだ。
「あいつはあいつにしか出来ないことがあるからな。任せておけばいいんだよ」
「トレジャーハンターの真道カスミが動いたっていうことは、相当なお宝の香りがしますわね」
 復活したヨシノがたおやかな笑顔で言う。
「ま、保安部の方でぜひ真道くんを、ってことになったのよね。まったく何をさせるつもりか知らないけど、こっちの身にもなってほしいわ」
 説明役のミサトが不満たらたらに言う。
「ま、日本はその分オーストラリアからゼロくん、それに今日はイギリスからサラさんが来るんだけどね」
「世話になる」
 ゼロが小さくうなずく。両サイドにいるローラとマヅルがVサイン。
「サラはいつ到着するんですか?」
 シンジが尋ねると「昼ごろね」とミサトは答えた。
「またシンジをイギリスに勧誘しようとしてくるんじゃないのか?」
 コウキがからかうように言う。
「いいえ、そういう目的はないと思いますわ」
 ヨシノが眼光鋭く答える。
「ない?」
「ええ。この状況でドイツに行かず、日本へわざわざやってくるなんて、そんなに大きな理由があるわけでもありません」
「それが何か分かるのか?」
「あの子が突拍子もないことを考えつくときはたいてい──」
 ヨシノの口が、少し上がった。
「──あの子がただ単に『そうしたかった』からですわ」






「三回目の日本かあ」
 一回目は二年という長い期間だった。二回目はほんの数日間。そして三回目となる今回は、いったいどれだけ長くなるのだろうか。
 サラは特別急行に乗り込み、ネルフ本部へと向かう。一緒に誘ったエドワードは『国に残る』と簡単に断られてしまった。一緒にいればせめて話し相手くらいにはなったのに。
(今度はどう出てくるつもりかしら、サクラ)
 自分とサクラの勝負はいつも同じだった。充分に用意して望んだ場合は自分が常に勝っていた。だが、準備のない勝負では自分はサクラに勝った試しがない。
 自分は用意周到に事を進めるタイプで、サクラはその場でのアドリブに長じているということなのだろう。だからこそ自分たちはウマが合った。自分にはない発想をサクラがしてくれるから、自分はさらに高みに行けた。
 だが、サクラの目から見ると自分はどうだったのだろう。自分は彼女にとって良きパートナーであったのか。
(I only want you to be friendly.)
 かつて願ったこと。もっとも、今も思っているかどうかは自分でも分からない。
(あなたに向き合うことで、私はもっと強くなれると思う)
 列車が止まり、身一つで降りる。そこには既に出迎えが来ていた。
「あら」
 まさかとは思ったが、いきなりのお出ましとは。
「あなたが直々に出迎えてくださるとはね、ヨシノさん」
 出迎えに来ていたのはヨシノとサナエの二人だった。
「シンジの方が良かったかしら?」
「そうね、好きな人に出迎えてもらえるのが一番嬉しいわ」
「残念だったわね。シンジなら今日はサードチルドレンの任務で出迎えには来られなかったのよ」
「そう、残念だわ。ところで、どうしてサナエさんではなくてヨシノさんが話しているの? ランクB適格者の分際で、対等に口を利いていいと思っているの?」
「ちょっ、そ、その発言を撤回してください!」
 サナエが口を挟むが、ヨシノが左腕で止める。
「失礼いたしました。私はサナエさんとサラさんを護衛するように仕ったものですので、ご無礼は承知ください」
「駄目よ。私はそんなこと了承した記憶がないもの。『あなたが』護衛ですって? ふざけないでくださるかしら。どうして私が自分より弱く、下等な相手を護衛にしなければならないの?」
「文句があるなら一緒に護衛を連れて来ればよかっただけのことです。護衛もなく出歩くなんて、ランクA適格者の自覚が疑われますよ」
「ご丁寧にどうも。でもね、あなた、飲み込みが悪いわ。もう一度だけ言ってあげる」
 こほん、と咳払いを一つ。
「あなた『ごとき』じゃ私の護衛は勤まらないって言ってるの。さっさと首洗って出直してきなさい」
「ちょっ──」
「何度も申し上げますが、私の一存ではありませんので」
「あなた方が勝手に決めたことを私に押し付けないでくださいませ。だいたい、護衛というのならそこのランクA適格者と同時に来るなんていうのはおかしいことではありませんこと? あなただけでなく、あなたに命令をした指揮官も無能なのね」
「それは否定しません」
 それ、というのはもちろん命令をした指揮官のことだろう。その棘のある言葉にサラは思わず苦笑した。
「わかってるなら出直して来なさい。さもないと、今度はあなたの体に直接分からせてあげるわよ」
「申し訳ありませんが、これも任務ですので」
「分からないのね、あなたは」
 サラはにっこりと笑うと、素早く足をかけた。バランスを崩したヨシノを宙に舞わすと、そのまま地面に押さえ込んだ。
「何を!」
「あなたは黙ってなさいな、サナエ」
 サラの視線に射抜かれたサナエは、石化したように固まってしまう。
「ヨシノさん、いえ、サクラ」
 胸元を押さえ込むようにして近づく。
「あなた、ちょっと弱くなったんじゃないの?」
「……油断してたのよ。まさかこんな場所でいきなり仕掛けてくるなんて思わないでしょ」
「知りたいんでしょ、あなた。私がどうして日本に来たのか」
「いいえ」
「知りたくないの?」
「わかってるもの。あなた、日本に来たかったから来たんでしょう?」
「ふうん? その根拠は?」
「私よ」
「え?」
「あなたは私に会いに来たのよ。決着をつけるためにね」
 ヨシノの言葉に、サラは一度ぽかんとした表情を見せて、それから次第に笑い出した。
「あなた、本当に私のことなら何でも知っているのね」
「分かりやすい性格だもの」
「そう。私、そんなあなたが好きよ、サクラ。その通りよ、私、あなたに会いに来たのよ。あなたを完全に屈服させるためにね」
「難しい日本語を知っているのね」
「これでも二年間日本にいたのよ。日本語、必死に勉強した。あなたが使う言葉を理解するためにね」
「あなたの前で日本語の悪口が言えなくなっちゃったわね」
「あなたなんて、平気で悪口どころか罠まで仕掛けておくくせに」
「否定しないわ。相手があなたですもの」
「他の人ならしていないとでも言うつもり? 知ってるわよ、あなたをいじめた情報部の人間がどういう目にあったか。あなたは実に効果的に復讐していたわね」
「記憶にございません」
「そうね。どうせもう時効よ。ま、あなたもたった一人だけ、作戦ミスをした相手がいたけどね」
「誰のことよ」
「決まってるじゃない。私よ。あなた、私に嫌われるために必死になってたわよね。私みたいな面倒な相手と関わりたくないから。それはむしろ、今の方がそうなのかしら?」
「何のことかしら」
「でも無駄よ。私は、自分と同じだけ、いえ、私よりずっと力のある人を初めて見つけたんだもの。絶対にあなたを手放さない。だから、そのための作戦を考えてきたの」
「どういうことよ」
「簡単なことよ。私、この日本滞在中に、何があっても碇シンジくんを落としてみせるわ。ほら、あなたはそれを防ぐために私にかまわなきゃいけなくなる。ふふ、面白いでしょう?」
 ヨシノの顔が引きつった。
「さいっ……てい」
「いいわね。その顔が見たかったのよ。日本に来てすぐに願いがかなって嬉しいわ」
 そしてサラが立ち上がった。
「私はずっとあなたを追いかけていた。でも、これからは違うわ。今度はあなたが私を追いかける番よ。せいぜい邪魔してごらんなさい」
「くっ」
「言っておくけど、私、シンジくんのこと、割と、いえ、本当に好きよ。だから放置しておくと本当に私、シンジくんを落とすから覚悟しておいてよね」






 ネルフ地下に匿われていたクローゼ・リンツが発令所へ顔を出すのはこれが初めてのこととなる。
 結局、アメリカは間違っていたことが明らかになった。軍の兵器は使徒にはかなわない。使徒を倒せるのはエヴァンゲリオンとネルフだけなのだ。
 それでも表舞台に立つまでには時間を要した。この三日間、ホワイトハウス近辺は相当念入りに調査されたが、結局大統領の行方は依然として知れない。大怪我をしたか、どこかに閉じ込められているか、既に亡くなっているか。いずれにしてももはやベネット大統領のことを恐れる必要はないと言ってもいい。
 唯一恐ろしいのは、使徒教のテロだが、ネルフ内部においては何の問題もないだろう。
「葛城ミサトさん。これからよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。リンツ・カンパニーの重鎮をお迎えできて光栄であります」
「堅苦しいのは抜きにしていいわ。私の方が年下なんですし」
「いえ。そういうわけにはいきませんので」
「現在、赤木リツコさんが使徒迎撃の準備のため、完全に連絡を遮断しておりますので、技術部部長代行としてがんばらせていただきます」
「恐縮です」
「早速ですが、葛城さんには作戦部の動きとしてただちに整えてほしいことがあります」
「はい」
「次の戦いですぐに必要になるかどうかは分かりませんが、今後の戦いでは軍隊の動きが鍵になってきます」
「は、軍、ですか」
 ミサトは突然言われて混乱するだけだった。火力兵器のきかない使徒相手に、どうして軍が必要になるというのか。
「アメリカの戦いを見ましたか」
「はい」
「アメリカ軍が秘密裏に開発していたUTAF弾、効果があったみたいですね」
「はい。ですが、あれはアメリカ軍が極秘に開発しているものなので、私たちでは入手不可能です」
「入手できないなら作ればいい。何のための技術部だと思っているのですか」
 クローゼがにこりと笑う。
「既にプロジェクトチームを作ってUTAF弾の分析に取り掛かっています。一番いいのは作成方法や現物を入手することなのですが、今のアメリカからそれを持ってくるのは至難の技です」
「だから、一から作るということですか」
「そうです。MAGIのデータとネルフの技術力ならそれができると信じています。別にA.T.フィールドを弱めるだけだってかまわない。エヴァ以外からの攻撃が通用するのなら、絶対に開発しておくべき武器です。その分だけ、適格者も私たちも生き残る可能性が高くなる」
 アメリカの兵器だからといって、何もかもを否定することはない。良いものは良いと認めること、それが自分たちには必要なのだ。
「目から鱗が落ちた気分です」
「いつもアメリカのことばかり考えているから、自然と思い浮かんだだけのことです。葛城さんの立場なら、結果として通用しなかったUTAF弾に目もくれないのは当然のことです」
 暗にそれはミサトの能力の限界を示唆したものだったが、クローゼは別にそれを隠すつもりも責めるつもりもない。一人では気づけないことも、複数の人間がいれば気づくこともある。自分が気づかないことをミサトが気づくことだってあるのだ。
「UTAF弾が通用するとしたらどの使徒に対して一番効果的なのか、そのシミュレートもしなければなりません。また、現状戦略自衛隊で準備できる艦数、戦闘機数も必要になります。ただちにお願いいたします」
「はい。ですが、自衛隊は国軍にあたります。現場の判断で勝手なことは──」
「問題ありません。既に総司令から御剣内閣総理大臣に連絡が行っています。後は現場がどれだけの数をそろえてくれるかどうかだけです」
 手回しが早い。ミサトは脱帽して「ただちに」と答えた。発令所から出ていったミサとを見送ると、クローゼは後ろに立っていた人物を見る。
「軍曹、お願いがあります」
 ヨウは肩を竦めて答えた。
「戦略自衛隊の上層部に知り合いなんかいないぜ。日本は戦争には参加しない国だからな。傭兵募集もほとんどない」
「分かっています。でも、軍曹なら動かせる相手の目星くらいはついているのではありませんか」
「ま、正規の戦略自衛隊員が一人いたからな。信頼できる相手くらいは分かるんじゃねえの」
「門倉さんですね」
「覚えててくれたとは、あいつも浮かばれるだろうぜ」
「もちろんです。軍曹にとってたった二人だけの部下。知らないではすまされません」
「OK。今は死徒も海外勤務みたいだし、ミライちゃんはエリに任せてあいつを動かすとするか。任せてもらっていいぜ」
「ありがとうございます」
 クローゼは笑みをこぼした。
「軍曹がいてくださるから、私は戦えます」
「お前のことは俺が守ってやる。だから安心して先頭に立ってろ」
「ええ。信頼しています」
 その言葉を聞いて、ヨウは軽く微笑むと発令所を出ていった。






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