「この地はザの天使に守られており、どのような問題も起こるはずがありません」
 天使使いザーニャは笑顔で言う。
「問題は私が天使の制御ができなくなるというおそれ。それだけだというわけですね」
 少しとぼけた様子の女性が嬉しそうに言う。
「天使が暴走するとしたら、私の持つ『天使の鈴』を取り上げればいい……ゲ神信者の考えそうなことです。ええ、あなたの意見は正確に私に伝わりました。厳重に保管するようにいたしましょう。ええ、あなたのことはミジュア様からうかがっていますよ」
 そのザーニャの下を訪れていた一組の男女。
「ウィルザさん、サマンさん。あなた方のご忠告、決して無駄にはいたしません」

 二人は、東部自治区へとやってきていた。

807年 東部自治区事変
東部自治区で天使の暴走が起こる。原因は天使使いザーニャがザ神の制御装置である『天使の鈴』を紛失したことによる。


 事件が予め分かっているのならそれを防ぐのはたやすい。もちろん油断をすることはないが、制御装置がなくなるのなら、それをなくさないようにすればいい。
 何故なくなるのか。そんなことは考えれば簡単だ。そんな大事なものをザーニャが『うっかりなくす』などということはありえない。この『天使の鈴』は彼女の生命線だ。
 だとすれば、何者かが盗む、と考えるのが一番分かりやすい。
 しかもその何者かというのも、その後に起きる事態を考えればすぐに分かる。ザの天使が暴走することで利益を得る者。それはゲ神信者だ。
 それらを突き詰めた二人は年が変わる前からザーニャの下を訪れていた。そしてうまく取り入って天使の鈴について警告を与える。それでほぼ仕事は終わったようなものだ。
 だが、まだ安心はできない。どういう手段でゲ神がこの制御装置を奪いに来るか分からない以上、ザーニャの身の安全から考えるのが自分の役割だ。
「相手がどういう手段で来るかは分かりません。常に肌身離さず持ち歩くようにしてください。もちろん、ザーニャ様の警備は我々がしっかりと行います」
「ありがとうございます。ウィルザさんにはつくづくお世話になりますね」
「いえ。これも東部自治区が平和であってほしいがゆえのことですから」
 要するに、ウィルザたちはザーニャに取り入ってしまおうと考えたのだ。






 ガラマニアでサマンの協力を得て大陸の情報を一気に収集した二人は、この天使使いザーニャのことも漏らさず収集していた。根が善人で、人を疑うようなところがない。ただ、ザの天使を過信しすぎていて、天使さえいれば大丈夫というようなところがある。一度、痛い目を見た方が本人にとってもいいのかもしれない。だがここで混乱を起こして、いらぬ人命を失うのはごめんだ。
 この、ガラマニアでのグラン大陸の情報収集は恐ろしいほどの成果をあげた。さすがは盗賊のスキルは伊達ではない。目ざとく様々な情報を集めてきた。いくらかは金もかかったが、それ以上の価値があった。
 ガラマニアの王がガイナスターである、というのは二人にとって衝撃的だった。ただ、国を出奔しているというのは事実らしく、妹のドネアが現在は国政を取り仕切っているということらしい。
 アサシナの西域への王都移転。こちらは随時計画が進められているとのことだった。もう一、二年の間の話として浮上している。既に土地は確保しており、建物の建設も進んでいる。あとはいつ移転するかという秒読み段階とのことだった。
 そしてアサシナ王弟パラドックと、ドネア姫との婚姻。これは話としては既に上がっている。どちらかというとアサシナの方が積極的に動いているようだ。
 おそらく、アサシネア六世は平和外交を行うつもりなのだろう。いち早くジュザリアから王妃を娶り、王太子クノンを産ませた。さらには王弟パラドックはガラマニアと姻戚関係を結ぶ。あとはマナミガルだが、ここはもともとアサシナとは犬猿の国。そう簡単にアサシナになびくことはないだろう。
 このように平和外交を行うという政策は正しいものだとウィルザも判断している。およそこのアサシネア六世というのは、自分が行ってほしい政治・外交をそのまま実現してくれている。アサシナの王がこのような聡明な人物だと非常に助かる。
 だが。
(問題は、六世が病弱だということ。仮にこの後のドネア姫の暗殺を防げたとして、いつまでこのグラン大陸を支える人物として生きていられるか)
 おそらく八二五年の約束の日までは難しいのだろう。だが、クノン王子がせめて政治に影響を与えることができる年齢までは無事であってほしい。
 東部自治区に話を戻すと、このアサシネア六世が東部自治区に対してどのような政策を打ち出すのか、これはまだ見極めがついていない。先王五世の時と大きくは変わらないように見える。だが、現在のように自治を認めるという方法よりも、アサシナの直轄とした方が六世としては都合が良いに違いない。
 そして、グラン大陸にとってみても、アサシナというしっかりした国が各地を監視していた方が、来る滅亡の日の時も統一した行動を民衆に取らせることができる。東部自治区はアサシナに自治権を返上した方がいい、というのがウィルザの考えだ。
(この事件は、起こさせた方がいいのかもしれない)
 事件が起こらなければ、人々は天使というものに対して無制限の信頼を抱き続ける。それは危険な考えだ。さらにはこの東部自治区がアサシナから独立する動きすら見せるかもしれない。実際、東部自治区の経済力ならばそれは可能だ。
(ユクモの交易金が東部自治区を支えている。あれがなくなれば、おそらく東部自治区は終わりだ)
 いや、あってもいい。ユクモがあれば便利なのは間違いない。ただ、サマンから教えてもらった地図によれば、もしドルークとアサシナとを遮る大森林──緑の海を渡れるようになるならば、それで東部自治区の経済力は半減するだろう。
 だが、緑の海は別名『天使の墓場』と呼ばれる、狂ったザの堕天使の集まる場所だ。ここを抜けられるようにするのは結構な苦労が必要だ。
 ここしばらくザーニャと付き合ってみて分かったことだが、ザーニャは決して凡庸な人間ではない。自治を保つことができる理由として、天使とユクモの両輪があることはよく分かっている人間だ。
 もし、その片輪がなくなれば、この東部自治区は自治区としてやっていくことはできない。国からの援助が必要になる。
(うまく自治権を返上させることができればいいんだけど)
 東部自治区を混乱させず、ユクモも沈没させず、なおかつ自治権を返上させる。それには方法は一つしかない。
 緑の海。あそこの堕天使たちを一掃することだけだ。






「ねえ、ウィルザ」
 机に向かってじっと黙り込むウィルザにサマンが話しかけてくる。
「どうした、サマン」
「いや、ちょっとしたお話なんだけど、いい?」
 もちろん彼女の話を断る理由など何もない。これまで献身的と言っていいほどに自分を助けてくれたパートナーだ。信頼はこの一年間でしっかりと築き上げている。
「何だい?」
「あのさ、この東部自治区の事件が終わったら、次はどうするの? 何もないなら、ちょっとお願いがあるんだけど」
 何もないわけがない。ユクモ沈没を防ぐという仕事が次に待っている。実際、自ら乗り込んでいくのが一番手っ取り早いだろうとウィルザは考えている。
「とりあえず、それを聞いてからかな」
「うん。実は、ユクモに乗りたいの」
 ──それはまあ、願ったり叶ったりなのだが。
「何故だ?」
「実は、あたしのお姉ちゃんがユクモに乗ってるんだ」
「姉? サマン、姉がいたのか?」
「いるわよ。なに、みなしごだとでも思ってた? ま、仕方ないけどさ」
 確かに確認したわけではない。だが、家族への憧れのようなものを見せられていたから、てっきり──。
「騙された」
「騙してないよ。で、そのお姉ちゃんなんだけど」
 サマンは少し間を置いてから言った。
「リザーラっていって、ドルークで神官をやってるんだ」







第十一話

東部自治区事変







「リザーラ!?」
 さすがにその言葉には敏感にならざるをえない。

神官リザーラ
ドルークのザ神殿の女性神官。ミジュアに副神官におされたこともあるが、本人の希望でドルークの神官にとどまる。幾つかの特殊な力を持つ。


 ローディのような実務能力で副神官になったわけではなく、ミジュアと同様にザの祝福をあげられることができる神官である。ドルークに留まった理由などは明らかではないが、だが。
『世界記。お前にはサマンがリザーラの妹だなんて書かれてないぞ』
 だが世界記からは沈黙しか帰ってこない。都合が悪くなるとすぐにこれだ。
「あれ、ウィルザ、お姉ちゃんのこと知ってるの?」
「そりゃ、ドルークの神官リザーラは有名だから」
「そうかな。まあ、東部自治区の人たちはたいがいイライ神殿まで行って祝福を受けてくるんだけど、ちょっと東部自治区に用事があって、ユクモでこっちに来るんだって。で、すぐに戻るみたいだから、私も一緒に乗ってお姉ちゃんとお話ができたらなーって思ったんだけど」
「いいよ、ただ」
 リザーラ暗殺。その事件が次に控えている。あまりうかつな行動ができるわけではない。
『世界記。リザーラさんの暗殺は、ドルークからこっちに来るときじゃなくて、こっちからドルークへ行くときで問題ないんだよな』
 世界記とはこの件では何度も話し合っている。暗殺を防ぐためには一緒にユクモに乗る必要がある。行き先がどちらかによって行動が変わってくるのだから、この作業は綿密に行わなければならなかった。
『そうだ。この東部自治区事変の最中に彼女はこちらに着く』
『あとは一緒に乗って暗殺を防ぐだけか』
 そうして確認を取ると、サマンがウィルザの次の言葉をじっと待っていた。
「ただ、何?」
「リザーラさんを紹介してくれないかな。多分、この世界を守るためには君のお姉さんの協力が必要だから」
「いいわよ、もちろん」
 そう答えたサマンはじろじろとウィルザを見る。
「なに?」
「いや、お姉ちゃんは美人だって巷で評判だから、もしかしてウィルザもそういう意味で言ってるのかなって」
「そうなのかい?」
 素で尋ねる。だいたい、美人だとかいう情報は世界記には記されていない。外見的な特徴は記録されているが。
「お姉ちゃんに比べると、あたしはあまり美人とかじゃないもんね」
 はあ、とため息をつくサマン。
「そんなことはないと思うけど。まあ確かに、年齢的に幼いけど、きっと大人になればサマンは綺麗になるよ」
 それはウィルザの本心だ。この快活な少女はその雰囲気もさることながら、その笑顔が何より可愛い。子供ながらにどきりとさせられることもあるのだ。
「そう? 本当に?」
「少なくともぼくの基準からは」
「そっか。うん、それならいいや」
 えへへ、とサマンは嬉しそうに笑う。
「そういうあなたの方には浮いた話の一つもないの?」
「サマンとずっと一緒にいるのにかい?」
「それよりも前にってこと」
 言われて思い出すのは、逃げ出した結婚式のことくらいだ。確かにルウは綺麗だった。もし邪道盗賊衆が現れず、あのまま結婚することができていたのなら、自分たちはどのような未来を描くことができていたのだろう。
 もちろん、その場合彼女と結婚していたのは自分ではなくてトールの方だというのは分かっているが。
「あったよ。結婚式直前で花嫁を置き去りにしてきたこと、とかね」
 それを聞いたサマンがさすがに驚いてまじまじとウィルザを見る。
「人は見かけによらないのね」
「そうだね。ただ断っておくけど、ぼくが結婚を考えたのはそのとき一回限りだよ」
「そんなことが二回も三回もあったら、この場であたしが張っ倒してるわよ。それにあなたのことだからそれも世界のためにやむをえなかったとかいう理由なんでしょ?」
 さすがに鋭い。そうだよ、と安心したように答えたが、その瞬間サマンに胸倉を掴まれた。
「さ、サマン?」
「いい? あなたに悪気がないのはよく分かってるし、事情が事情なのも分かってるつもり。でも、これだけは言っておくわよ。どんな大義名分があっても、そのせいで泣いた子がいるってこと、忘れないでね」
「忘れたことなんかない。でも、ぼくに言い返す権利がないことも分かってる」
「よろしい」
 サマンは手を離す。他人のことだというのに、この少女は今、真剣に怒っていた。
(本当に、困った人を見捨てることができない性分なんだな)
 自分のことだとて、自分が頼りになるような人間だったなら、サマンはきっと自分についてくることはなかっただろう。憧れなどはあったかもしれないが、彼女が相手にするのは保護欲を駆り立てられる相手なのだ。
(ある意味、ちょっと侮辱されてるよなあ)
 だが、こうしてサマンが一緒にいてくれるおかげで助かったことはこの一年でも数え切れないほどだ。それに、何より明るく元気なので、一緒にいるこっちが勇気づけられる。
「いつもありがとう、サマン」
 そんな気持ちが、ふと言葉にさせていた。
「なに、突然改まって」
「ぼくがサマンに随分助けられてるなと思ったから」
「当たり前でしょ。あなたなんて放っておいたらいつアサシナに捕まったりするか分からないもの」
 前科があるだけに言い返せない。やはり口ではサマンにかなわないらしい。
「でもね、あたしもあなたにはやっぱりありがとうって言いたいな」
 サマンが突然素直な口調でそんなことを言う。
「どうしてだい?」
「あなただって、何回もあたしのこと助けてくれたでしょ? お互い様ってこと」
 確かに、ゲ神に襲われた時に彼女を助けたことが何度あったかは知れない。確かにお互い様だ。
「なるほどね」
「さて、納得したところでこれからどうすればいい? まだしばらく事件は起きなさそう?」
「まあね、そんなに都合よく──」
『ウィルザ』
 と、その言葉の途中で世界記からの連絡が入った。

807年 天使暴走事件
東部自治区で天使の暴走が起こる。原因は天使使いザーニャが制御装置である天使の鈴を紛失したことによる。


「……そろそろみたいだから、見張りをしておこうか」
 ウィルザはため息をついた。まさかこうもタイミングを計ったように連絡が入るものなのか。
(まさか世界記、タイミングを狙って連絡してきたんじゃないだろうな)
 だが世界記は答えない。間違いない。手遅れにならない程度に頃合を見計らって連絡をよこしたに違いない。
「やなやつ」
「ん? どうかした、ウィルザ」
「いや、なんでもないよ。それじゃ、行こうか」
 ウィルザが立ち上がると、サマンも真剣な表情でそれに続いた。







大陸を救うための戦いがいよいよ始まる。
東部自治区事変を事前に防ぐ。そのために『天使の鈴』が奪われないようにする。
とうとう、犯人と対峙した二人。その二人の前に立ちはだかったのは。
彼の、忘れることのできない『過去』だった。

「ようやくあなたに少し認められたってことになるのかな」

次回、第十二話。

『思わぬ余波』







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