どれくらいたったのだろうか。既に日は完全に落ちて、空に星々が輝きを増やす。それだけの間、二人は言葉もなくただお互いを見詰め合っていた。
 かつて、この身体の本当の持ち主が結婚相手と思っていた女性。そして自分もまたその美しさに目を奪われた女性。
(相変わらず綺麗だな)
 自分よりも少し濃い目の蒼い髪。宇宙を覗き込んでいるかのような黒い瞳。そして、あのイライの村の時には全く見られなかった、どこか憂いを帯びた雰囲気。そう、あの時は結婚を目前にして幸せが満面に表れていた。だが、今は違う。
(ぼくのせいなのか)
 当然といえば当然だが、それでも彼女をこんなふうに変えてしまったことは自分の望むところではなかった。他の村の男の人と一緒になることができればそれがいいと思っていた。
 だが、それだというのに、美しさはいっそう増している。幸せそうに見えたあの頃は太陽の美しさなら、今の彼女は月の影を帯びた妖しい美しさだ。どちらも美しいが、惹かれるとすればそれは今のルウの方が強い。
 ──そういえば、どうして彼女はここにいるのだろう。
「……本当に、トールなの」
 しばらくの静寂の後、彼女がおそるおそる尋ねてくる。正直、信じられない気持ちでいっぱいなのだろう。自分も同じだ。
「うん。でも、今はウィルザと名乗ってる」
 正直に頷く。名前が変わっているということには大きな問題はなかったらしい。それよりももっと大きな問題があった。
 彼女の目に涙が浮かんでいる。
 言いようのない、おさえきれない思いが喉をついて出る。
「どうして、今頃っ!」
 ルウは泣きながら近づいてきて、ウィルザの頬を大きく張った。
「私もう、ガイナスターと結婚してしまったのに!」
 ウィルザの目が驚愕で見開かれる。
「ガイナスターと?」
 信じられない。
 いったい何の因果があって、ガイナスターとルウが出会うことになったのだろうか。
「ルウ」
「どうしてよ! なんであの時、あなたは行ってしまったの!? そんなに私と結婚するのがイヤだったの!? 答えてよ!」
 何も言葉が出てこない。ただ、胸をせりあがってくる苦しさだけが彼を支配していた。
「トール、どうして……」
 ルウにしても、それ以外の言葉が出てこないのだろう。
 彼女の中に占められているのは『何故』。そう、ウィルザがそういう行動を取らざるをえなかった理由だ。
 何故、イライの村に定住してルウと結婚しようという気になったのか。
 何故、結婚式の前日に突然いなくなったのか。
 何故、彼女が結婚した後になってから現れたのか。
 何故。何故。何故。
「どうして!」
 彼女の人生は自分によってゆがめられた。それが否定することのできない事実だ。
 あの時は誰もが結婚という事実に酔い、冷静に自分の話を聞いてくれる者はいなかった。
 だから単身、ガイナスターのもとへ直談判に行ったのだ。
「ごめん。ルウ」
「謝らないでよ。悪いと思ってるなら、どうしてこんなことをするのよ!」
 一言、一言が彼の心を傷つけていた。






「色々とお話いただいてありがとうございます、サマンさん」
 ドネアはたとえ相手が皇族や貴族でなかったとしても、丁寧な物言いを変えようとしない。普通の王侯貴族なら居丈高になって、好き勝手な言動が出てくるものなのだが。
「いえ。私だって、姫様とお話できて嬉しかったです」
 特別話したことは多くない。今までどんなふうにして生活してきたのか。姉のリザーラや、同行者のウィルザの話、そうしたものを延々と話していたら、いつの間にか夜もかなり更けていた。そろそろ戻らないと、ウィルザに申し訳ないとドネアが言うのでお開きになったのだ。
「サマンさんは、本当にウィルザ様のことが好きなんですね」
 だが、その質問には彼女は首を振る。
「いいえ。私とウィルザはそういう関係じゃないんです」
 ドネアが不思議そうにサマンを見つめる。
「私はウィルザの協力者ですから。もちろん、仲間として大切だし、頼りにしてます。でも、好きとかそういうのじゃないんです」
「ご無理なさらなくてもいいかと思いますけど」
 心で息をつく。本当に最近、誰も彼も同じようなことしか言わない。そんなに自分とウィルザをくっつけて楽しいのだろうか。
 もちろん、自分の感情としては──ウィルザが好きなのだ。だが、それでも彼と一緒にはいられない。何故なら、彼はこの世界の人間じゃない。たとえ本気で、命がけの恋をしても、いつまでも一緒にいられるわけではない。
「あら」
 と、二人で廊下を歩いていると、宮殿の中庭に人影があった。
 既に暗くなっているので、はっきりとは分からない。だが、ドネアにはその見分けがついたらしい。表情が険しくなる。
「お義姉さま? それに──」
 サマンにも分かった。
 そこに立っていたのは。女性にしがみつかれているのはまぎれもない、ウィルザ本人だった。



「あなたのことが好きだった」



 その言葉は、それぞれに波紋を呼んだ。
 ウィルザには、それだけこの女性を傷つけたということ。
 ドネアには、自分の敬愛する兄の妻という立場でありながらそのような発言があったということ。
 サマンには、その言葉からこの女性の正体がかつての婚約者のものだということが分かったこと。
(そっか、あの人がウィルザの)
 できれば、出会ってほしくはなかった。
 ウィルザはそのことで傷ついている。その女性を目の前にしたら、ウィルザの精神は壊れてしまうかもしれない。
 今すぐにも彼の傍にいって、支えてあげたい。彼はもう、今にも倒れてしまいそうなほどに蒼白になっている。
「でも、あなたはそうじゃなかったの、トール? 今だってあなたは、やっぱり私を大切に思ってくれてはいない。どうして? 何があなたを変えてしまったの?」
 変わる──そう、彼は変わってしまった。
 その正体から完全に変わってしまった。もう彼はトールではない。ウィルザという名の、世界を救うための、グランの騎士だ。
「変わった。そう、ぼくはあの夜、変わってしまった。トールという名を捨てて、ウィルザという名に変わった」
「そんな詭弁を聞いているわけじゃないわ!」
「いや、変わったんだよ、ルウ。ぼくは世界の危機を知ってしまった。世界の危機を知った以上は、その危機から世界を守らなければならない」
「そんなこと聞きたいんじゃない! 私が聞きたいのはあなたの気持ちだけなのに!」
 ぐさり、とその言葉が胸に刺さる。
 確かに可愛いとは思った。だが、それだけだ。
 今の自分は、ルウをそんな風に、愛しているだなどとはとても思えない。何故なら──
(ああ、そうか)
 自分が今のルウを綺麗だと、可愛いと思っても、愛することができないのは。
 それよりも自分の心の中を占めている可愛い少女がいるからだ。
「ごめん」
 他の、どんな台詞より、それがルウには応えただろう。
 それは、拒絶だ。ウィルザがルウを求めていないという、何よりの証だ。
「……なんで」
 がっくりと、ルウは膝をついた。







第十九話

見えない出口







「ウィルザ様が、ルウお義姉さまの昔の恋人」
 それをじっと見つめていたドネアが顔をしかめる。
 ルウの様子を見る限りでは、まだ彼女はウィルザへの未練を断ち切ったというわけではない。それなのに、彼女は兄と結婚をしたというのか。
「昔のだよ。今のウィルザは、あの人のことは何とも思ってない」
 トールは死んだ。それはウィルザの口からはっきりと聞いた。
 だが、それをあの人は知らない。だから今でも目の前にいるのがウィルザではなくトールだと思っている。
 そして、ウィルザはトールではない。だから、あのルウという女性に対して、かわいそうな女性という以上の気持ちを持つことはない。
 それは、はっきりと分かっている。
 だが。
(ウィルザ)
 イヤだ。
 自分ではない人が、彼にすがりついている。
(イヤだよ、ウィルザ)
 自分は、こんなにも独占欲が強かっただろうか。
 執着などしないと思っていた。ウィルザに何も求めるつもりもなければ、何かを与えてほしいとも思わなかった。
 ウィルザを求めようとしなかったのは、たとえ恋愛感情はぬきにしてもウィルザにとっての一番が自分だと確信していたからだ。その関係が心地よかったし、それで十分満足だった。
 それなのに、誰かがその場にいるというのは、イヤなのだ。
 その自分の位置を揺らがせていることが、イヤなのだ。
(わがままだ、私)
 自分がそんな人間だと思ったことはなかった。だが、それはまぎれもない自分の気持ちだ。
「ルウ。もしよければ教えてほしい。君はどうしてガラマニアへ? それに、ガイナスターと」
「私は、あなたを探す旅に出たわ」
 ルウが立ち上がる気配がなかったので、ウィルザがその場に座る。
「でも、女の足ではあなたを見つけることはできなかった。そんな折、ケガをした陛下を見つけたの。介抱して、怪我が治るまでに三ヶ月かかったけど、それでも陛下は元通りになった。そうしたら陛下が私に、来い、と」
 ガイナスターは盗賊などということをしてはいるが、その実は女性に優しい人物だということは知っている。盗賊として略奪を行う時に容赦はしないが、その中でも女性を無駄に傷つけることはしなかった。そう、あのイライ神殿の襲撃の時だって、殺していったのは自分や、抵抗する男だけだった。
「陛下と一緒に行けば、もっといろいろな情報を集めることができる。その方があなたに早くたどりつけると思った。でも」
 情が移った、ということなのだろう。結局はその求婚に応じた。それは仕方のないことだ。傷心を抱えて生きるには、人間は弱すぎる。
「ねえ、トール。あなたこそどうしてこのガラマニアに来たの」
「ぼくは、ドネア姫の婚約を止めに来たんだ。それは、世界の混乱を招くことになるから」
「どういうこと?」
「ドネア姫をアサシナで暗殺しようとする動きがある。もしもそれが実行されたら、ガラマニアとアサシナとの間で戦争になる。それだけは防ぎたい」
「ドネアが」
 ルウの顔つきが変わった。
 既に王妃として、いくつもの難事を超えてきたのだろう。彼女の顔は真剣そのもので、頭の中で素早く状況を整理しているようだった。
「暗殺されるかもしれない、というのは本当のことなの?」
「ああ。暗殺なんて絶対にさせない。それなら、ドネア姫を婚約させないのが一番だ」
「そうじゃないわ、トール」
 ルウは施政者としての意見を言う。
「アサシナは強大な国よ。もしも縁談をこちらから断るとしたなら、よほどの理由がなければいけないわ。いえ、それだってアサシナにしてみれば不満でしょう。断ることは相手に隙を見せるということ、攻め込む口実を与えることにだってなるのよ」
「そんな、アサシナがそんな」
「今のアサシナの力を考えればそれくらいのことはありえるわ。私が結婚してからこの半年間で、どれだけ我が国がアサシナの干渉を受けてきたか。私ですら苦労しているのだもの、陛下にしてみればそれだけでも毎日がとても大変だと思う」
 だが、アサシネア六世の外交姿勢を見ているととてもそうは思えない。それは受け止め方の違いだろうか、それともアサシネア六世という人物を知らないだけなのか。
「一つ方法があるわ」
 だが、そのウィルザに対してルウが提案した。
「それは?」
「簡単なことよ。暗殺を防げばいいのよ。信頼のできる人が護衛についていれば安心だわ」
 護衛──なるほど。だが、相手はどこから襲い掛かってくるかも分からない。四六時中、護衛が一緒にいるわけにもいかない。
 そんなにうまくいくものだろうか。
「あなたが行くべきだと思うわ、トール」
「ぼくが?」
「ええ。あなたがドネアを守り、無事に婚姻させる。それができれば両国の関係は安泰だわ。そうすればみんなが幸せになれる」
 なるほど、と一瞬納得したがすぐに打ち消す。
「駄目だ、それはできない」
「どうして?」
「みんなが幸せにはならないよ。ドネア姫の幸せが、そこには抜けている」
 その言葉に、こっそりとその話を聞いていたドネアが心を打たれる。
「駄目なんだ。ぼくは一人として不幸になんてしたくない。それが友人であるガイナスターの妹なら当然のことだよ」
 ルウは少しうつむいて、そう、と呟いた。
「変わっても、やっぱりトールはトールね」
「え?」
「だって、優しさが昔のままだもの」
 そう言って、ルウは笑った。
「試したのかい?」
「そうじゃないけど。でも、あなたが昔のままのあなたで良かった。ねえ、トール。私だって、このグラン大陸に何かが起ころうとしているのは気付いてるわ。そして、あなたがその危機に立ち向かっているというのなら、私は協力することができる」
「ルウ」
「そして、約束してほしいの」
 座ったまま、二人は真剣なまなざしで見詰め合った。






(ああ、もう、駄目だ)
 サマンはそこから先を聞くことができなかった。すっと身を引いて、二人に気付かれないように遠ざかろうとする。それをドネアも追った。
「サマンさん」
「ごめんなさい、ドネア様。私、今すごい嫌な顔してる」
 壁際に立ったサマンは振り返ることができなかった。
 ウィルザのことは何とも思っていないと言い切った自分。
 それに対して、ここまで動揺がはっきりと出てしまっている自分。
 あまりにも自分が愚かでこっけいだった。
「ウィルザ様のことが、好きなんですね」
 後ろからかかる声に、サマンは今度こそ小さく頷く。
「ウィルザが好き。そんなの、最初からそうだった」
「大丈夫ですよ。あの人はウィルザ様とそういう関係にはなりません。何しろ、兄上の妻なのですから」
「分かってます。でも」
 そういう、理屈じゃない。この感情はもっとどす黒い、嫉妬だ。
 自分の知らないウィルザを知っている相手への、嫉妬だ。
「大丈夫」
 ドネアはサマンを後ろから優しく抱きとめた。
「ウィルザ様を信じてください。あの人は、あなたのことを本当に大切に思っておいでですから」
「姫様」
「サマンさん。幸せになってください──私の分まで」







ルウとの再会は、物語をいっそう加速させる。
大陸の未来のために、いったい自分たちに何ができるのか。
そして二人の見えない未来は、どこへ向かおうとしているのか。
物語は混沌として、まだ先を予感させなかった。

「もう、諦めることなんてできないよ」

次回、第二十話。

『傾く天秤』







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