「いったい、どういうことか説明していただけますか、お兄様」
　ドネアの顔からは笑みが完全に消えている。常に穏やかに微笑む彼女から一切の表情が消えると、それはここまで冷酷な印象を与えるのだろうか、とさすがの兄も尻込みした。
「どうもこうもねえよ。お前にいい結婚相手を連れてきてやっただけのことだ」
　政庁で玉座に座る国王にくってかかることができる人物など数えるほどもいない。せいぜいがこの妹と王妃くらいだ。結局このガイナスターという男は女に強くはなれないらしい。
「私はお断りしたはずです」
「ああ。俺の知る限りではじめて理由をつけて断ったな」
　ドネアがさらに厳しい視線を向ける。
「お兄様は、余計なことばかりはきちんと覚えているんですね。でも、今回は絶対にお受けできません。たとえ私がお兄様の変わりにガラマニアの政治を行うことができたとしても、それだけは絶対に」
　随分と強い口調だった。そこまでドネアに強く言わせる原因は何だというのか。
「まさかとは思うが、お前本気で、あの盗賊に義理立てするとかいうんじゃないだろうな」
　ガイナスターもまた口調が荒かった。別にガイナスターは王族だとかいう身分を振りかざす気はさらさらない。その逆だ。何しろ、ガイナスターは王族であり盗賊なのだ。そのやり方はただ一つ。
『欲しいものは、自分の手で奪い取れ』
　それがガイナスターのただ一つの信条ともいえた。
「あの男自体が気に入らないというわけではないのだろう？」
「ええ。確かに良い方です。ですが、あの方にはサマンさんがいらっしゃいます」
「やっぱりそれが理由か。気にするな。欲しいなら奪い取ればいい。何ならあの盗賊はウィルザの側室にでもすりゃいいじゃねえか」
「お兄様はルウお義姉様以外の妻を迎えるつもりなのですか」
　これには厳しいしっぺ返しがきた。確かに自分はルウ以外の女性を娶るつもりは全くない。
「あのお二人は、お二人で一組なのです。それを離してはいけません」
　サマンがどれほどウィルザを思っているかなど、あの様子を見ればはっきりと分かる。
　ウィルザのことを思うサマンは美しいと思った。そして、そのサマンを心から応援したいと思った。それなのに、自分がその障害になど絶対なってたまるものか。
「もしもお兄様がそこまで強引に話を進めるというのなら、私は王家の地位を捨てて、尼になります」






　一方、タンドが立ち去った後のサマンの部屋には奇妙な沈黙が流れていた。
　お互いの気持ちが伝わった途端の、婚約。
　せめてあと少し告白が遅いか、ガイナスターから話が来るのが早ければ、二人の物語は全く別のものに変わっていただろう。だが、現実はこれだ。
　先ほどお互いの気持ちを確かめ合ったことが、今ではこれほどにお互いの足枷となってしまっている。
　二人とも何を言えばいいのか分からず、そしてどうするべきなのかも見えなかった。ただ、深い穴に落ちて、救助を求めているのと全く同じ状態だった。
　目が合ってはそらし、また目が合ってはそらし。
　どうしたらいいのかお互いに分からない。何も言えないまま時間だけが過ぎていた。
　やがて。
「ねえ、ウィルザ」
　先に声を開いたのはサマンだった。
「この婚約が成立したら、世界の歴史はどうなるか、分かるの？」
　すごい微妙な表情だった。何を願い、望んでいるのかが全く見えない。ただ、深い感情だけがそこにあるということだけが分かる。
「ちょっと待って」
　ウィルザは意識をようやくサマンから『世界記』に移した。
（世界記）
『分かっている』
　その後の歴史の流れを、ウィルザは追いかけた。

８０８年　婚約発表
ガラマニアのドネア姫が、以前から婚約者がいることを明らかにする。挙式は翌年行うとガラマニア国王の名で発表される。
８０９年　ドネア暗殺
ドネア暗殺〜ガラマニアの姫ドネアが、結婚式を目前にしてアサシナから祝賀の使節としてガラマニアに来た騎士ゼノビアにより暗殺される。
８０９年　ゼノビア処刑
ドネア姫を暗殺したゼノビアがガラマニアにて処刑される。
８１０年　第一次アサシナ戦争
ドネア姫暗殺を口実にガラマニアがアサシナに侵攻を開始する。
８１０年　アサシナ敗戦
急激なガラマニアの侵攻の前に、アサシナはあえなく敗れる。
８１０年　ガランドアサシナ建国
ガラマニア支配によるガランドアサシナ国が建国される。新国王はガラマニア王によりアサシナの補佐官カイザーが任命される。

（歴史は全く変わらない……！）
　これでは、アサシナの騎士ゼノビアがドネア姫を暗殺する場所が変わっただけで、大きな歴史の変化は一切生じていない。
「駄目だ。このままでもドネア姫が暗殺されるっていう事実と、それによる第一次アサシナ戦争の歴史は変わらない。祝賀の使節としてくるアサシナの騎士に暗殺されてしまう」
「そっか」
　そして、少し困ったような、嫌そうな表情を浮かべる。
「サマン？」
「ごめん、ウィルザ。私、今すごくやな考えしてる」
「どうしたの？」
「もしもウィルザと姫様が結婚して、それで姫様の命が助かるなら、それでもいいと思ったの」
　激昂しかけたウィルザだったが、最後まで聞いて、とサマンが止めた。
「私だってウィルザと一緒にいたいし、好きだし、好きでいてほしいと思う。でも、ウィルザはもともと自分の幸せよりも世界を救うっていうことが一番の目的だったんだよね。それなら手段を選ぶべきじゃないと思うの。それに、たとえウィルザが他の人と結婚するとしても、姫様なら私もいいと思う。姫様、頼れる人がいなくて寂しそうだったから。あと、たとえウィルザが他の人と結婚しても、きっと私に対する感情が変わることはないって信じてる──もちろん、すごく嫌だけど」
　こういうとき、男よりも女の方がはるかに理性的であるということが分かる。感情は別にしたまま理性で判断できるサマンを、ウィルザは素直に尊敬した。だが、サマンを放っておいて他の人間と結婚するなどという選択肢はウィルザにはない。それに、どのみち自分はあと十数年すればこの世界からいなくなる。ならば結婚などしない方がいい。でないとお互いに不幸になってしまう。
「でも、姫様の未来が変わらないっていうんだったら、ウィルザが結婚する必要なんてないってことだよね。姫様の命がかかってるのに、私、そのことが嬉しくてたまらないの。いやになる、こんな性格」
　ウィルザは本当に悩んだ顔になっているサマンを見て、愛しさが余計にこみあげてきた。そして、強く抱きしめる。
「あ、ウィルザ」
「いいから。どのみち、ぼくはドネア姫と結婚したりなんかはしないよ。ただ、そうなるとどうやってこのパラドックの求婚を防ぐかなんだけど……」
　自分がドネア姫と婚約しないというのなら、結局ドネア姫はアサシナに行く他はない。自分たちが幸せになるためにドネア姫を生贄に捧げるというのはなんとも後味が悪い。
「それなら、ウィルザ」
　サマンが何かを決心したかのように言う。
「私に、少しだけ任せてくれないかな」
「サマンに？」
　何をどう任せるというのか。ウィルザは首をかしげる。
「要するに、姫様が結婚しないで、そして戦争も起こらない状態が一番理想なんだよね」
「ああ」
「姫様の了解を得てからだけれど、一つだけ考えがあるの」
　サマンは抱きしめられた体勢のまま、さらに他に誰にも聞こえないように、口を手で隠してウィルザの耳にあてて耳打ちした。






第二十一話

誓いの手紙






　三日が過ぎた。
　ドネアを説得しようとして連日話を続けていたガイナスターが、この日は政務でドネアと話すことが全くできなかった。
　婚約発表をするにしても、ドネアが反対したままではどうなるか分からない。そのため公には発表せず、すべて内々で話を進めていた。
　それがあだとなったのに気付いたのは、その日の夜のことである。
　深夜になり、ドネアと話をするのは明日にしようかと思ったところで、ふと気付いたのだ。
　まだウィルザとこの件ではしっかりと話し合っていない。タンドを通じてウィルザに話を伝えたはいいが、本人の意思を全く聞いていなかった。
　初動が遅れたな、と思いながらウィルザの部屋へと向かった。
「なに？」
　だが、その部屋の扉を開いた瞬間、目を疑った。
　誰もいない。それはかまわないのだが、ウィルザの荷物すらない。
（逃げたか。ドネアと結婚するのがそれほど嫌だったか）
　ウィルザは自分にとっては大切な友人だと思っていた。だからこそ、妹と結婚することで義兄弟となれるのなら自分にとっても嬉しいと、本気で思っていたのだ。
　だが、ウィルザはそうではなかったのだろうか。
（珍しいな。この俺がショックを受けているなど）
　いや、自分でも分かっていたのだ。もしもこの話を直接ウィルザにしたならば、きっと反発するだろうということは。だから逃げたのだ。タンドに話に行かせることによって、ウィルザと真っ向から向き合うことから逃げたのだ。
　逃げたのはウィルザではない。自分の方だ。
（やれやれ。ルウの時はあれほど積極的だった俺が、ウィルザのこととなるといつでも消極的になるものだな）
　いや、最初は積極的だった。それこそ、彼を手に入れるためにイライの村の襲撃をやめるほどに。
　だが、彼と共に行動をする中で、何かが変わった──いや。
（あの断られた時に、俺の中で『また断られる』というおそれが生まれたのだ）
　だからウィルザに対して強気になれなかった。少なくとも今回は。
　だが、二度と同じ間違いをしなければいい。次は正面から向き合い、きちんと話をしよう。
　それにしても、だ。
「あいつめ。いなくなるならいなくなるで、せめて一言くらい言っていけ」
　正直、結婚が破綻したことよりも、彼が突然いなくなったことが悲しい。悲しいと思っている自分にも驚くが。
「だいたい、あんな盗賊女など。俺の妹では不満だとでも言うつもりか」
　そのあたりは馬鹿兄というべきだろうか。ドネアが美しいのは万人が認めるだろうが、ガイナスターは基本的に妹を溺愛していると言ってもいい。
「ん？」
　と、そこにウィルザは書置きを見つけた。どうやら出ていく前に、ウィルザが書き残したものらしい。
「あいつらしいといえば、あいつらしいのだろうが」
　ガイナスターはその封を解くと、その場で読み始めた。

『ガイナスターへ。

　突然いなくなる無礼を許してほしい。
　でもぼくは、残念だけれどドネア姫と婚約してこの国に居座ることはできない。
　ぼくはぼくで、この大陸を救うという使命があるからだ。
　でも、ドネア姫のことは放っておくわけにはいかない。
　このままドネア姫が婚約したとしたら、間違いなく暗殺されて、戦争になる。
　それだけは避けたい。
　だから、ぼくは決心した。』

　中途半端に途中まで書いて、その続きは二枚目になっている。
　そのときはまだ、何気なくガイナスターは続きを読むために頁を繰った。

『ドネア姫を、誘拐させてもらう。』

　瞬間、身体が凍りついた。

『多分、これが一番いい方法だと思う。
　ドネア姫がガラマニアにいるから不和が起こる。ドネア姫はグランの未来のためには存在してはいけないんだ。
　だから、ぼくがドネア姫をもらっていく。ガイナスターはぼくと姫とを結婚させたいみたいだから、ぼくがもらっていっても問題ないだろう？』

　これは挑発か。挑発だろうか。
　ガイナスターは素早く頭の中で計算を始める。
　これを書いたのはいつだ？　今頃奴らはどこにいる？

『ドネア姫に相談したら、姫は快く承知してくださった。
　いつもガイナスターは国を留守にしてドネアに後を任せることが多いということも聞いた。今まで押し付けていた分、今度は自分が押し付ける番ですね、と笑って言ってくれた。
　姫も、これが一番ベストの方法だっていうことを分かってくれたんだと思う。
　後の処置だけど、もしもぼくたちを追いかけないでくれるっていうんだったら、方法は二つ。
　一つはドネア姫を誘拐されたということにして、アサシナにも犯人を捜すことを依頼すること。
　もう一つは、姫が病死されたことにして、公式の場に出さないようにするということ。
　今後の姫のことを考えるなら、後の方がいいと思う。
　たまにはこっそり顔を見せに来るから、姫のためにもここはぼくの言うとおりにしてほしい。
　ぼくは決して君を裏切らないし、君のためになることをしたい。
　今回取った方法は強引だったけど、ドネア姫がいなくなれば、ガラマニアはアサシナからの束縛が解かれる。これで君はある程度自由に動ける──国王として、だけど。
　そしてこれは姫も望んだこと。妹の望みをどうかかなえてあげてほしい。

　それじゃあ、また、絶対に戻って来るから。
　君のところに。

君の友人、ウィルザ』

「妹を誘拐しておいて友人とは、笑わせる」
　ガイナスターは笑いがこみ上げてきた。ひとしきり大声で笑ってから、ようやくおさまりを見せると素早く頭の中で計算を続ける。
　ドネアがいなくなった。確かにそれ自体は寂しいことではあるが、これによってアサシナからの圧力は確実に減らすことができる。国葬は大々的に、それこそアサシナからの弔問の使者でも取り付けてやろう。病名は何にしようか。これから忙しくなる。
「俺の妹を奪っていったんだ。幸せにしなかったら絶対に許さんからな、ウィルザ」
　二人に会えないのは寂しいが、二人が幸せであるならそれでもいい。
　自然と二人を許そうという気持ちになっていたガイナスターであった。






「しっかし、思い切った手を打つもんだ」
　その頃、ガラマニア国境。
　昨夜のうちに馬車で移動を行っていた一行──ウィルザ、サマン、ドネア、そしてバーキュレアは馬を取り替えながら丸一日の逃避行でようやくここまで来ていた。
　関所を越えればそこはもうアサシナだ。さて、これからどこへ行くべきなのか。
「お体は大丈夫ですか、ドネア姫」
　さすがに一日座りっぱなしでは身体もつらいだろう、と思って声をかける。だがショートカットの姫は気丈にも「大丈夫です」と答える。
　逃避行のため、その美しかった長い髪はばっさりと切っていた──そこまでする必要はない、とウィルザは止めたのだが、それはもう国に戻らないという決意の表れだと本人が断行した。
　サマンもこの案を提案した人物でありながら、本当にこれでよかったのかと不安を隠せない様子だった。唯一『ドネアに雇われた』バーキュレアだけが平然としていた。
「バーキュレアが来てくれて本当に助かるよ」
「おっと、勘違いしないでおくれよ。あたしはあくまでもドネア姫に雇われたにすぎないんだからね」
「もちろん分かってる」
　だが、いずれにせよこのメンバーの行動決定権がウィルザにあるのは間違いのないことだ。ドネアはウィルザに全権を委譲しており、当然護衛のバーキュレアも同じ、そしてサマンは当然ウィルザの味方となれば、すべてはウィルザの一言で決まると言ってもいい。
　と、その時だった。
『歴史が書き換わった』
　いつものフレーズが、頭の中に響いた。

８０８年　ドネア病死
ガラマニアのドネア姫が、持病の心臓を悪化させたため病死する。これにより、アサシナとの婚約は白紙に戻る。

『これに伴い、ドネア暗殺の歴史はなくなり、第一次アサシナ戦争、及び今後の歴史は大幅に修正される』
（そうか。具体的にはどうなる？）
『まだ不透明だが、すぐに分かるだろう。アサシナがこれを受けてどう動くかにより、歴史はまた大きく変化する。現状でグランの未来はまだ不定だ。数日待て』
（分かった）
　だが、ドネアの暗殺がなくなり、第一次アサシナ戦争がなくなるというのなら、これほどいいことはない。その上、ドネアが国に残ることこそできなかったが、ほぼ理想的な形で誰も悲しまずにすんだ。
（これでルウとの約束も果たせたかな）
　ルウは、ガイナスターを裏切らないでほしい、とお願いした。
　ガイナスターがどれほどウィルザを求めていたかずっと一緒にいたから分かる、と。そしていつまでも傍にいてほしい、と。
　だから書置きを残してきたのだが、正しく伝われば自分がガイナスターを裏切っていないということが分かってくれるだろう。
「これからどうするんだい？」
　関所を越えたところでバーキュレアが尋ねる。
「ああ、一度行っておきたいところがあるんだ。というよりも、会いたい人、かな」
　ウィルザは少し考えてから言った。
「東部自治区まで行って、そこでしばらく時間を置く。それから──アサシナに行く。ちょうど新王都への移転が始まっているからね。それが完全に終わる前に、会っておきたいんだ。アサシネア六世に」












　世界滅亡まで、あと十六年。






舞台は、アサシナに戻る。
世界を救うための貴重な人材は、アサシナに集まっている。
ミケーネ、ミジュア、クノン……そして、アサシネア六世。
再訪したこの国で、ウィルザは誰と出会い、何を得るのだろうか。

「その道の先に、小さな男の子がいます。あなたに縁のある人物です」

次回、第二十二話。

『風の街』






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