八一二年、十月。

 ウィルザはいつになく緊張していた。
 目の前の扉の向こうでは、サマンとリザーラがいるはずだった。だが、自分はその先に入ることはできない。
 この扉の向こうでは、まさに今、サマンが子を産もうとしているのだ。自分と、彼女の子を。
 中から苦しげな声が聞こえてくる。そのたびに自分の体も力が入る。
(どうか)
 ウィルザは神に祈った。
(どうか、無事に)
 子供の無事は当然だが、それ以上に母体が心配だった。
 この時代の乳幼児死亡率は実に六割。十人に四人しか生き残ることができないという時代だった。何人かは栄養失調や事故死であったりするわけだが、出産に関する医学が発展していない以上、産む時の負担や、子供の生命力そのものが問題となるわけで、その数値が飛躍的に上がることはない。
 子供を産むのに体力を使ってしまった場合、最悪、母体までが亡くなってしまうことがある。また逆に、母体が亡くなり、赤子だけが助かるという場合もある。
 とにかく二人とも無事に、というのは当たり前のことだが、ウィルザは子供のことよりもサマンの方が心配だった。彼女は子供の方が大切だとはっきりと言うが、自分にとっては生まれてくる子供よりも生涯自分が愛する相手の方がはるかに大切なのだ。このあたりは男と女の考え方の違いによるものなのだろう。
「少しは落ち着いたら?」
 すぐ近くにいたのは『妹』にしてこの国の王妃たるルウであった。そして、その腕の中にはもう五ヶ月になる子供が抱かれている。
 ガイナスターとルウは、ウィルザたちより五ヶ月早く子供が生まれていた。女の子だった。セリアと名づけられ、母子ともに健康で今にいたっている。
 ガイナスターは、自分の子供が男で、ウィルザの子供が女だったら、将来結婚させることができると言っていたが、残念ながらそれはかなわなかった。ただ、この後第二子、第三子と産んでいけばいずれはそういうことも可能になるかもしれない。
 もっとも、ウィルザとサマンにしてみればこれが最初で最後の子になるはずだった。無事だとしても、そうでなくてもだ。サマンは子を産んだら、子育てはするものの、ウィルザと共にこの世界を救う旅についていくことに決めている。拠点はガラマニアだが、ウィルザが行くところにはどこにでもついていく。子供はガイナスターやドネアたちに任せればいい。その話は済んでいる。
「落ち着いてなんかいられないよ。それに言っておくけど、君のときだってガイナスターはこんな感じだったよ、確か」
 そう言うとルウはくすっと笑った。
「あの人がそんな様子になるのは想像つかないけど。でも、そんな感じがするから面白いわね」
 そのガイナスターは案外子煩悩だった。向かうところ敵なしのあの男が『俺の子供は可愛いだろう』と本気で言うのだから、ルウが彼を『可愛い』と表現するのも頷けるところがある。
「無事に違いないわよ。だって、リザーラさんがやってくださるんですもの。私のときも本当に楽に産めたわ。半日とか、普通それくらいかかるのに、たった数時間で産めたんですもの」
 たった数時間。それを待つ男のどれだけ苦悩することか。ガイナスターの気持ちが今ならよく分かる。落ち着けといった自分に切りかからんばかりの勢いだったのだから。
「うらやましいなあ」
 ルウがそんなことを言う。何が、と尋ね返すと少し困ったように笑った。
「あなたにそんな風に想ってもらえるサマンさんが。だって、私はそう想ってもらえなかったでしょ?」
 傷口を突いてくる。
「あれは……ごめん」
「今となってはもういい思い出だけど、当時はショックだったんだから」
「分かってる。あ、いや、どれくらい辛いのかなんてぼくが言えることじゃないけど、でも君を傷つけるのは分かってた」
「うん。それであの人と出会えたんだから。それに、あの人に会うためにあなたがいなくなったんだから、ザ神のされることって不思議なものよね」
 まったく同感だった。そして今、自分たちはこうして、お互いの伴侶を伴ってこの場で話し合っている。このなんと数奇なことか。
「でもぼくは、ルウと分かり合えてよかったと思ってる。本当に、君のことは忘れたことがなかったから」
「そう? だったら迎えに来るくらいのことはしてほしかったなあ。少なくとも私、あの村に二ヶ月か三ヶ月くらい、いたんだから。そういえば、そのころにはもうサマンさんと一緒だったのよね?」
「それってぼくのことをいじめてるよね、ルウ」
 ううう、と呻いてうらめしそうにルウを見る。
「でも、それであなたは少し落ち着いたでしょ?」
 言われてみると、確かに。そんななにげないやり取りで、ようやくウィルザの心から緊張が取り払われたようだった。
「もうすぐだと思うわ」
 ルウが預言者のように言う。
「私、昔からこういうときって、よくあたるのよ」
 本当だろうか。ウィルザは少し首をかしげかけて──直後、子供の泣き声が中から響いてきた。
 ほらね、といわんばかりにルウが微笑んだ。






 それからしばらくして、ようやく母子と対面することができた。
 産湯できちんと洗われた自分の子供──男の子だった。彼女の、願い通りに。
 それを見た瞬間、不覚にもウィルザは涙を流していた。自分に子供ができる。そんな幸せが与えられるなどとは思ってもいなかった。自分がそんな幸せを手に入れる権利などないはずだった。自分はただ、この世界を守り、そしてこの世界から去っていくだけの存在にしかすぎないはずだった。
「あなたの子供です、ウィルザ」
 リザーラが優しく差し出す。子供はもう泣き止んでいた。
 それを受け取る。とても小さくて、軽い。子供はもう、猿そのものだった。それなのに、不思議と、可愛い。
「サマンに似るといいな」
「サマンにもあなたにも似るわ。あなたたちの子ですから」
 リザーラがそう言ってくれるのが何より嬉しかった。この世界の人間ではない自分を祝福し、そして大切な妹の伴侶として認めてくれた。それどころか子を取り上げてもくれた。感謝してもしたりない。これほどの女性を姉と呼べることの、どれほど嬉しいことか。
「うぃ、るざ……」
 そして体力を使い果たして横になっているサマンが呼びかけてきた。
「がんばったね、サマン。君の希望どおり、男の子だよ」
 ウィルザが彼女の顔のすぐ近くに、子供の顔を寄せる。
「おサルさんみたい」
「ぼくも同じことを思ったよ」
「でも、可愛い」
「うん。本当に」
 弱々しく笑うサマンの表情は、一仕事を終えてさらに磨きがかかった大人の女性だった。本当に、どんな姿でも、どんな表情でも、この女性は自分をひきつける。他に誰もいなかったら、抱きしめてキスしたいくらいだ。
「ねえ、ウィルザ。名前、つけてもいいよね」
 以前から、サマンは名前を絶対自分につけさせてほしいと言っていた。当然、この世界からいなくなるウィルザにそれを拒むことはできなかった。彼女の思う通りにさせたかった。
「もちろん。名前、決まってるんだろう?」
「うん」
 サマンは微笑んで、手を伸ばして赤子の頭を撫でた。
「あなたと私の子供だもの。私たちが守るものは、たった一つでしょ?」
 ああ、なるほど。ウィルザは納得した。それは本当に、自分たちの子供に相応しい名前だと思った。
「名前は、グラン。それ以外なんて、何も思い浮かばないよ」







第三十五話

夢見る未来







 それから数日の間はあれやこれやと瞬く間にすぎる。ようやく一息ついた時、夜の空には冬の星座が見え始めていた。
 また冬が来る。八度目の冬。あと十三年という時間が過ぎれば、自分はこの世界からいなくなる。
『残す者がいるのは、辛いか』
 何もないのに世界記が話しかけてきた。まあね、とウィルザは答える。
(ただぼくは、サマンに残してあげられるものが他に何もないから。それに、こんな時代だもの、子供がきちんと成人するまで両親ともに生き残っていられる確率だって、そんなに高いわけじゃない。終わりが決まっていても、決まっていなくても、それはそれでかまわないのかな、って思うようになったんだ)
『君は少し成長した』
(そうかな)
 だが、そう思いながら自分の中で解決できずにいる問題がある。そしてそれは、この日、この時にいたるまで、ウィルザから決して切り出してはいないことだった。
『何故、この世界に留まる方法を聞かない?』
 世界記からその質問があった。そう。ウィルザからその話を世界記に聞くことはこれまで一度もなかった。その可能性があると分かっているにも関わらず、だ。
(どうしてかな)
『諦めているのか? それとも、私がいざとなれば助けてくれるとでも?』
(どっちでもないよ)
 ウィルザは首を振った。
(ただぼくは、この世界を救うことを優先しないのは駄目だって思ったんだ)
『君がどう思ったとしても、君がこの世界に留まりたいと思う気持ちはとめられない。その気持ちを抑えないままにどのような活動をしても、必ず支障が出る』
(ぼくに、本気でこの世界にいる努力をしろって言ってるのかい?)
『正直、手を貸すつもりは全くなかった』
 世界記は素直に言う。
『だが、私という、すがりつくものがありながらそれにすがらず、自分の使命を第一に考える君を見ていると、私の方がやるせない気持ちになる』
(手伝ってほしいとは思っていたよ。でも、ぼくからそれを切り出すのはルール違反のような気がしたんだ)
『その通りだ。もしそうだとしたら私は決して君を助けなかった。君はこの世界の奴隷だからな』
(奴隷?)
『そう。君が過去に犯した罪。いくつもの世界を滅ぼしたという罪を贖うために、君は七つの世界を守るという使命を課された』
(覚えていないと、まるで実感がわかないな)
『そうだろうな。ただ、その旅もここで終わる。何故なら、この世界がその七つ目に当たるのだから』
(じゃあ、つまり)
『この戦い、八二五年が過ぎて君が無事に目的を達成することができていたら、君は自由だ。ただし、条件がある』
(それは?)
『全ての記憶を失うということだ』
 さすがにそれには何も答えることができなかった。
(記憶を失ってもこの世界に留まるか、それともそうしないかの選択か)
 あらかじめそのことをサマンに伝えておけばその方法もあるだろう。
(この体は?)
『保存さえしておけばまた使えるだろうが、その技術はニクラに行かねばあるまい』
 ニクラ。その名前はアルルーナが言っていた。
(ニクラっていうのは?)
『東部自治区の東。炎の海を越えた先にある』
 炎の海とは灼熱の砂漠のことだ。誰もその先へたどりつくことができないという。
(行くことができるのかい?)
『それは私の預かり知らぬこと。私は過去と現在と未来のことしか知らないからな』
(でも、未来は変えられる。それって、未来は決まっていない、これから紡いでいくものだっていうことだよね)
『そうだ。だが、今のままでは必ず崩壊は起こる。八二五年。それは変えられぬ定め。そのために害のあるものは除き、アサシナの地下のエネルギーは封印しなければならない』
(はじめてだな、お前がそんな風に明確に方針を出してくれるのなんて)
 アサシナ地下エネルギーの封印。それがかなえば、この世界は守られるのだ。
(そのエネルギーの正体は?)
『分からぬ──が、これはじきに明らかになるだろう。それを知る男が必ず動く』
(誰が?)
『ケイン。おそらくは、あの男が』
 ケイン。黒いローブの男。
(あいつがぼくの邪魔をする?)
『必ずだ。おそらくはもう動いているだろう。来年か再来年か、次の問題に焦点を合わせてきているに違いない』
 来年はアサシネアイブスキが新王都に来る。そして死の海から疫病が広がる。
 再来年はガラマニアに寒波が襲来し、餓死者が増える。これはアサシナさえ無事ならば、食料を供給してもらうことが可能なのだが、そのためにもアサシネアイブスキの野望は阻止しなければならない。あの男は間違いなく、現王家を転覆させ、自分が王位につこうとしているのだから。
 そして八一五年──ガラマニアを盟主として、マナミガル、ジュザリアの三国同盟がアサシナを襲う。
 そのどこかに、いやその全てかもしれない。そこにケインの手が入っている。もしかしたら今年食い止めることはできたものの、豪族の反乱や凶作の発生などもケインの仕業なのかもしれない。
(ケインは何者だ?)
『分からない。ただ、この世界を破滅させようとしていることは確かだ』
(それにあと、八二〇年に来るという神。これは)
『それも分からぬ。ザ神か、ゲ神か、それともそれ以外の神か。いずれにしても旧王都に神が来る。地下のエネルギーを求めて』
(それを防ぐのか?)
『その神が悪意を持つ者ならば。だが、この世界を救おうとする者ならば──難しい』
(お前が方針を決められないでいるのは、方針を決めるための情報が少ないからか)
 そう尋ねると若干の沈黙のあとに『そうだ』と答が来た。
(だとしたら、もっと情報を集める必要があるな。相手のことが分かってから手を打っても遅い)
『そうだな。いずれにしても君がニクラへ行くか行かないかというのは、八一六年を過ぎてからにするといい』
(八一六年? どうしてだ?)
『八一六年が過ぎれば、アサシナとガラマニアの仲は良好になる。八一〇年に取り交わした約束が五年。八一五年にガイナスターはアサシナ侵攻を決め、翌年に行動を開始する。その歴史の流れがある。君はそれを止めなければならない』
(こうなるとガラマニアにいるっていうのは便利だな。いざとなれば直接ガイナスターと対話に持ち込める)
『だが、彼の考えを変えるのは難しいだろう。一度、レムヌ妃には裏をかかれているからな。実力勝負になればアサシナはガラマニアに勝てぬ』
(戦いにさせない。アサシナとガラマニアを共存共栄させる。それが基本方針でいいんだよな)
『君の好きにするといい。私はその方針に賛成する』
(分かった。じゃあまずは、この三つの事件をきちんと片付けよう)
 自分がこの世界に留まるか、それともいなくなるかはそれからのことだ。



 八一六年。
 それは、全ての変化の年。






 世界滅亡まで、あと十二年。







どのような道をたどっても、避けられないものがある。
八一六年。その年をウィルザはどう超えるのか。
その年にいたる最初の争乱が、いよいよ幕を開ける。
イブスキ王家の帰還。それをウィルザはどのように解決するのか。

「私はたとえ死んだってあなたについていく」

次回、第三十六話。

『イブスキ王家の帰還』







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