それは、あるとき突然に起こった。
『ウィルザ』
世界記の呼びかけ。そして、変化。
『歴史が書き換わった』
それは本当に突然のことで、ウィルザには何が起こったのかわからない。ただ、悪い方向に動いたわけではないのは幸いだった。
８１０年 カイザー暗殺
新王都に捕らえられていたカイザーが何者かによって暗殺される。犯人は逃亡し、行方不明。
（カイザーが、死んだ？）
ウィルザにとっては予想外の出来事だった。もしそんなことが分かるのだったら、事前に世界記に変化があるはずだった。
（犯人は行方不明って）
『分からん。少なくとも私のところではおさえられていない』
（お前が分からないって、まさかマ神がらみか？）
『かもしれん。警戒するにこしたことはない』
（分かった）
カイザーの死は少なくとも世界にとっては悪い方向には進まないはずだ。世界に混乱をもたらそうとするマ神がわざわざカイザーを殺すという選択をするのなら、そこにはどういう理由があるのか。
カイザーが邪魔になったから切り捨てたのか、それともカイザーが死ぬことでさらなる混乱を引き起こそうとしているのか。
いや、それとも。
（レオン、だったっけ）
自分と同じように、大陸の平和のために動いている人物がいる。もしかしたらその少年が動いたのかもしれない。理由は分からないが、彼の行動は基本的に世界記に反映されない。それは八〇七年の事件が未然に防がれていることからも明らかだ。
（実際にアサシナに行ければいいんだけど、多分今からじゃ間に合わないな）
ガラマニアから新王都は早くても二ヶ月はかかる道のりだ。その間ずっと犯人が新王都にいるとは思えない。
「ウィルザ様」
部屋にこもっていたウィルザのところに使いが来たのはそのときだった。
「王妹殿下がお呼びです」
「分かった。すぐに行くと伝えてくれ」
ドネアからの呼び出しとは珍しい。何があったというのか。
身の回りのものをある程度片付けて部屋を出る。きちんと鍵をかけたところに、全身フードをかぶった男が近づいてきた。
「オクヤラム。珍しいね、こっちに来るなんて」
彼はたいていザ神の神殿にいて、人と会おうとはしない。その青い肌を見られるのが嫌なのだ。話し相手はたいていローディやサマンなど、事情を知る者のみ。結構不自由な生活をしているはずなのだが、本人はそう気にしている風ではない。
それもそのはず、彼は夜になると必ず神殿を出て、城下街をあちこち回っては酒を飲んだり食事をしたりと、その日を楽しく暮らしている。それでもマ神のことについては彼なりに調べているらしいのだが、その調査結果を教えてくれることはまずない。
「ニクラで動きがあったので、お前に伝えておこうと思ってな」
「ニクラで？」
「ああ。ニクラに黒童子の襲撃があった」
「黒童子？」
何を言われているのかウィルザには分からなかったが、何か悪いことが起こったのは間違いない。
「黒童子というのはかつてニクラで作られた兵士のことだ。今はマ神についたケインが指揮権を握っている」
「ということは、ケインがニクラを襲撃した？」
「ああ。一度は襲撃を押し返したらしいが、二度目は難しいかもしれん。それに、うまく撃退したのもおかしな話だ」
「というと？」
「ケインが率いている黒童子ならば、一度の襲撃でニクラを全壊させることは可能だということだ」
「つまり、滅ぼすことができるのにわざと引き上げた？」
「そう考えて間違いないだろうな。目的はおそらく、マ神の解放」
「一度目の襲撃はそのための下準備ということか？」
「最悪の可能性としてはそういうことだ」
悪いときには悪いことが重なるものだ。もっとも、アサシナ内乱が終わってからなので、まだマシな方ともいえるが。
「俺は一度ニクラに戻る。すぐに戻ってくるつもりだが」
「分かった。頼りにしてるよ、オクヤラム」
「期待に応えられるよう、努力しよう」
この数年で二人の信頼関係はとても高まっている。それぞれが世界を救うために考えているので、話が早い。このガラマニアという国の中で、グラン大陸全体のことを考えているのは厳密にはこの二人だけなのだ。
「待ち人がいるのだろう。行くといい」
「ああ。それじゃあ、また。次に会うときは良い話が聞けるように願ってるよ」
「俺もそう願う」
そうして二人は別れた。次に会うときがいつになるのか、この時点ではまだ二人とも分からない。
第三十四話
希望、未来。
事件が起こったのはそれから数日後である。
風のある夜だった。政庁で働いていたウィルザの元にルウがやってくる。盆にお茶を載せて。
「ありがとう、ルウ」
ルウは笑顔でお茶をウィルザの前に置く。
ふう、と一息ついてルウの顔を見た。もう眠たいだろうに、彼女は疲れをまるで顔に見せない。いつも自分の仕事を手伝って疲れているはずなのに、その色を見せない。
「もう遅いから、休んでいいんだよ」
「ええ。でも、ウィルザががんばっているんだから、私も何か手伝えることはしないと」
「ぼくはぼくがやらなきゃいけないと思っていることをしているだけだよ」
「私もそうよ」
ルウとてただで引く女性ではない。確固たる信念の持ち主だ。
「私はあなたについていくと決めたとき──いえ、あの村を出たときから決めていた。この世界で起きていることを目にするんだって」
そう。戦争は終わってもマ神の件は終わっていない。今はオクヤラムがニクラに戻っているので、その結果を待ってから動くことになるだろうが。
「ウィルザ、いえ、トール」
不意にその名前を言われて体が跳ねる。
「ルウ、その名前は」
「分かってる。覚えてないっていうんでしょう。でも、私はあなたがウィルザと名乗ってからの五年間も、ずっと心の中では呼んでいた。トール、って」
二人の間に沈黙の時間が流れる。
ルウがウィルザのことを愛しているのは間違いない。だが、それに対してウィルザの方から何か積極的なアプローチをしたということは、実のところ全くなかった。
好きか、と言われれば間違いなくイエスと答える。
だが、自分の時間には限りがある。八二五年の終わりの日が来たら、自分はこの世界から立ち去らなければならない。そのときにルウを悲しませたくはない。
「私、トールが好き」
沈黙を破ったのは彼女の方だった。
「そして、あなたも私を好きでいてくれている。それは分かってるつもり。でも、怖い」
「怖い？」
「あなたはきっと、世界のために私が邪魔になったら、私を殺すでしょう。それだけの覚悟がある。だから、あなたについていくのが怖い」
「それは──」
ルウの言っていることに間違いはない。自分の使命は世界を守ること。そのためならばどんなことでもしなければならない。
「だから、お願いは一度だけにする」
何を、というよりも早く、彼女は後を続けた。
「世界よりも、私を優先して」
これは、究極の選択だった。
彼女か、世界か。たとえ世界が滅びても彼女が助かるのなら、自分はそうしたいという気持ちがある。だが、それはしてはならないこと。自分は最初から、この世界を救うためだけに存在している。だから、世界のためにならないことは禁じられている。
そういう存在なのだ。
「ルウ、ぼくは」
答が出ないまま言いかけたとき、突如大声が城に響き渡った。
「火事だ！」
その声に、二人が目を見合わせて立ち上がる。そしてすぐに政庁を出て、見晴らしのよいバルコニーへ駆ける。
「これは」
街が燃えている。
風があって火の勢いが強いとはいえ、尋常ではない燃え広がり方だ。火の位置から考えても、おそらく出火ポイントは一箇所ではない。
「放火だ」
「ええ。だとすると、この城も」
ルウの言葉にウィルザが頷く。
「兵士たちは全員、市民を安全な場所へ誘導しろ！ ガイナスター陛下、ドネア殿下は最優先で脱出されるように計れ！」
「はい！」
「消火活動はここまで来ると難しい。可能なら建物を壊して火の回りを防げ」
とはいえ、もはやこれだけ燃え広がると多少のことでは火はおさまらないだろう。つまり、このガラマニア王都は完全に炎上する他はない。
（都合よく、風上で火をつけたな）
ガラマニアを全焼させるルートが出来上がっているかのように、火は勢いよく燃え広がっていく。
「城まで来るのも時間の問題だ！ 早く行動しろ！」
この一件で、どれだけの人命が失われる？
考えたくなかった。まさかこのガラマニアにマ神の手が近づいているなど、全く思ってもいなかった。
三日後。
火は完全に消えていた。同時に、街の姿は完全に変わってしまっていた。
無事に残った建物の数、ゼロ。ほとんどが全焼で、かろうじて半焼の建物があるくらい。もはや瓦礫と焼け跡の山が散乱している。
「ひどいことになりましたね」
ローディが顔をしかめる。
「これでは街としてもう機能できない。遷都が必要だ」
「そうでしょうね。候補地はリストアップしていますが」
「とにかく生き残った人たちの受け入れ先が必要だ。すぐに動けない人には仮設住宅を。近隣の村には受け入れ体制を整えさせて」
「はい」
ウィルザもローディもここ三日、ほとんど寝ずに動き回っていた。一人でも多くの人間を助けるために奔走していた。
それで助けられた命もある。だが、ほとんどは間に合わず、目の前で多くの人が死んだ。
（マ神の仕業なのは違いない）
理由は分からない。だが、アサシナが弱体化した今、マ神の矛先がガラマニアにも向いた、ということなのだろう。
そうして不眠不休でウィルザやローディ、それにタンドらも働いて、別の一地方都市に遷都することが決まった。自分で歩ける人々にはそちらまで移ってもらうことになった。およそ五日程度の道のりだ。
問題は食糧不足だった。数万人・数ヶ月分の食料があっという間に灰になってしまったのだ。それだけの食糧を手に入れる手段がない。今は何とか少ない食糧を分け合っているが、直に底を尽くのは目に見えている。
「アサシナから、追加の資材、食糧をもらってこなければならない。そうしないと今年の冬は越せないな」
「蓄えが全てなくなりましたからな」
既にアサシナからの食糧援助の第一陣は届いている。それによって遷都が可能になったのだ。
ガイナスターも完全に頭を抱えていた。春先に攻め込もうとしていた国から援助を受けるのだ。それは複雑な気持ちだろう。
「ぼくが行くよ」
「ああ、お前が一番適任だからな。それに、ドネアも連れて行け。こちらの誠意を見せなければならん」
「分かった。それから、ルウ。君はここで待っていてくれ」
「いやよ」
ルウは幾分、挑戦的にウィルザを睨む。
「私は何があってもあなたについていく」
「大丈夫だよ。今回の旅はそんなに危険じゃないし、それより行軍のスピードが必要になる。できるだけ少人数で行きたいんだ」
「なら、私は一人ででもあなたを追いかける」
毅然とした態度にウィルザが折れた。ガイナスターを見る。
「連れていけばいいだろう」
ウィルザも頷いた。ここまで言われたのでは引き下がるしかない。
国内はガイナスターがいるし、タンドにローディがいれば問題はないだろう。
それよりも食糧が手に入らなければ、今年の冬は間違いなく餓死者が出る。
（亡くなった人には申し訳ないけれど）
これ以上人数が多かったらとても食糧を分配できないというのが本音だった。
死者・行方不明者合わせて四万人。十万人都市だったガラマニア王都の約四割が死亡したのだ。
あと一万人多く生き残っていたら、確実に食糧は足りていなかった。
ぎりぎりだ。今、このガラマニアはぎりぎりのところで生き延びている。
「できるだけ早く、食糧を送ってもらうようにするよ」
「そうしてくれ。でないと俺の食べる分すら尽きる。このままではな」
王都炎上。ここから、物語は新たな展開を見せる。
彼を追いかける歴史の『裏』を守る人物に気づくこともなく、
ウィルザはただ、前だけを向いて進む。
その先に、何が待っているかを知る由もなく。
「すべては、兄の仕組んだことなんです」
次回、第三十五話。
『焦燥、困惑。』
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