「どういうことだ!」
 思わずウィルザはその少女につかみかかっていた。
「アサシネア・イブスキがルウをさらっただって!? どうしてルウを誘拐する必要があるんだ!」
「ウィルザ様、落ち着いてください」
 間に割り込んだドネアが二人を離す。それでウィルザは自分がよほど強く相手につかみかかったことが分かった。少女は自分の腕をおさえて顔を歪ませていた。
「大丈夫ですか?」
 ドネアが尋ねる。すると少女は小さく頷いた。
「はい。兄がしたことを考えれば、このくらいのこと」
 その言葉が周りに沈黙をもたらす。
「ウィルザ閣下」
 ミケーネが尋ねてくる。
「失礼ですが、閣下はこの少女をご存知なのですか」
「一度、会ったことがある。アサシネア五世陛下の姫だよ」
 ミケーネが驚く。アサシネア五世に連なる者は全て亡くなったと聞いているからだ。
「まだガラマニアに行く前のことだけれど。ファルはぼくのことを覚えていたのかい?」
「はい。それに、ウィルザ様はガラマニアで宰相になられましたから、忘れようとしても無理なことでした」
「ずっとイブスキと一緒に?」
「はい。ジュザリア王家にかくまっていただいてました。兄はある日突然、アサシナに来るガラマニアの宰相の恋人を誘拐すると国王陛下に告げて、姿をくらましてしまったのです」
「君はその間、どうしていたんだ?」
「私は」
 言いづらそうにしてから、それでも彼女はけなげに答えた。
「兄は、私を置いていきました。危険なことに巻き込みたくなかったのか、それとも足手まといだったからなのかは分かりません」
「置いていかれたのに、どうしてここへ?」
「兄を止めようと思ったからです。せっかくこの大陸が平和な方向へ進んでいるのに、それを逆行させる必要はありません。私は別に、アサシナの姫なんていう立場、必要ありません。私はただ、静かに暮らしていられれば充分なのに」
「でもイブスキにとってはそうではなかったということか。それがどうしてぼくの恋人をさらう理由になるんだ?」
「黒装束の人物が兄に接触して、アサシナとガラマニアを共倒れにさせる方法があると吹き込んだのです」
 ──ケイン、か。
 思い当たる節はそれしかない。そしてイブスキはケインが何を企んでいるかなど全く知ることもないままに、思いのままに操られている。
 愚かな男だ。何よりも、この自分がもっとも大切にしているものを奪おうとは。
「イブスキはどこにいる」
「分かりません。ですが、おそらくジュザリアに戻ったと思います」
「ジュザリアをのっとり、アサシナ・ガラマニアが疲弊したところを狙うために?」
「はい」
 兄のことだけに認めたくはないのだろう。だが、誰よりも近くにいる人間だからこそ、知りたくないことだって知らなければならない。
「よく分かった。ルウがジュザリアに連れていかれたのなら、ぼくはそれを追う。
「ウィルザ様」
 ドネアが顔をしかめる。
「ガラマニアのことはどうなさるつもりですか」
「物資が届くのならぼくがいる必要はありません。逆に、イブスキを放置しておくと、アサシナ・ガラマニアの双方にとって悪いことをもたらしかねません。ぼくはイブスキを止めなければならない。それに」
 ウィルザはきっぱりと断言する。
 確かに迷いはある。それに、やはり自分が最優先に考えなければならないのはこの大陸の平和だ。
 だが、それでも。
「ぼくはルウのいない世界を守りたいわけじゃない」
 この大陸を、この世界を守るために自分はいる。
 だが、愛する人がいるからこそ、全力で立ち向かうことができる。
 彼女がいなくなって、初めて気づいた。
 既に彼女は、自分にとってのモチベーションとなってしまっている。
「ぼくを止めますか、姫」
 幾分挑戦的だった。だが、ドネアは少し安心したように微笑む。
「ルウさんは、ウィルザ様のことをずっと待っていました。少し、遅いですよ」
 責めるような口調だった。
「すみません。でも、必ずルウを取り戻して今の気持ちを伝えたいと思います」
「はい。ガラマニアのことは私にお任せください。ウィルザ様は一刻も早く、ジュザリアへ。おそらくイブスキはもうかなり遠くまで進んでいるはずです」
「ありがとうございます」
 そして彼はもう一度、このことを伝えにきた少女を見た。
「君は、ここに残っていろ」
「ですが」
 自分もジュザリアに戻るつもりだったファルは機先を制されてひるむ。
「最悪の場合、ぼくはイブスキを殺さなければならない。この大陸のためにも。そして、ぼく自身のためにも。ファルはそんな場面を見たいかい?」
「でも、私がいれば兄を──」
「止められないだろうね。でなければ、君が今ここにいるはずがない」
 厳しい言葉だった。
 そう、彼女は心配されて置き去りにされたのではない。かといって足手まといですらない。
 兄にとって、妹の存在は、邪魔。ただそれだけだ。
「ここにいれば、君の待遇は保障される。穏健に解決されることを願っててくれ」
 ウィルザは言い残すと、一人、政庁を出ていく。
 いやみなくらい、空は青く澄み渡っていた。
(今行く。待っていてくれ、ルウ)
 そしてウィルザは南への道のりを急いだ。







第三十六話

慟哭、追跡。







 南方の国ジュザリアにウィルザが到着したとき、既に暦は十二月となっていた。
「お久しぶりです、リボルガン陛下」
 ガラマニア宰相となってから何度も来たことのある王宮だ。お互い何度も話はしているし、ウィルザの目から見てもリボルガンは賢君と見えた。まさかこの国王がイブスキに指示して誘拐させたとは思えなかった。
「お久しぶりですな、ウィルザ殿。そして、あなたが来られたということは、こちらは何重にも詫びなければいけない立場のようだ」
「事情はもうお分かりですか」
「イブスキのことでしょう」
 苦悶の表情を浮かべている。やはり国王はこの件に関しては無関係のようだった。
「事情をお聞かせいただけますか」
「事情も何もない。ある日、突然イブスキが言ってきたのだ。あなたの恋人を誘拐する、と」
「陛下は止めていただけたのですか」
「無論。だが、次の日、もうあの男の姿はなかった」
 つまり、イブスキのことは全く把握できていない、ということだ。
「失礼を承知でうかがいますが、陛下は何故アサシネア五世の子らを引き取ったのですか。後々の騒乱の芽となることは予想できたのでは」
 無論それはウィルザの恋人を誘拐するとかいうことではない。五世をクーデターで倒した六世にとって、五世の子は邪魔以外の何者でもない。それをかくまっていることが知られたら、アサシナの矛先はジュザリアに向くのではないか。
「確かにそうだが、五世の后が誰かご存知か」
「五世の? いえ、六世の后が陛下の妹君ということは知っておりますが」
「五世の後妻は我が姉だ」
 それで納得した。つまり、リボルガンにとっても可愛い甥、姪にあたるということか。
「では、イブスキ、ファルとクノンは従姉弟同士、ということですか」
「イブスキは違う。あれは五世が先妻に産ませた子。ファルとは異母兄妹にあたる」
 少し混乱してきた。
「つまり、陛下とイブスキとの間には」
「何の関係もない。ファルの異母兄だから預かっていただけだ」
 どうやらあれこれ悩まされるイブスキにはさほど興味がなかったらしい。
「ファルのために、ですか」
「そうだ。あの子は兄を慕っていたからな。どれだけ邪険にされても兄に従った。見ているこちらがせつなくなるほどにな」
「ファルはどうしてそこまで」
「前に言っておったよ」
 リボルガンは目を細めて思い返す。
「兄には心から信頼できる人がおらず、兄を好いてくれる人もいない。だから妹の自分が兄の傍にいてやらないと、兄には他に誰もいない、と」
「それだけ想われていて、イブスキは妹を何故嫌うんでしょうか」
「ファルは幼くてアサシナ宮廷でのことなど何も覚えてはおらんだろう。亡くなった先妻の子と、後妻。どのような確執があったかはその場にいなければ分からぬことだが、イブスキが妹を憎むようなことがあっても、不思議はなかろう」
 その意味でも、イブスキは確かに一人で生きてきた。アサシナでは王太子の地位が与えられているとはいえ、宮廷に味方はなく、常に一人。その中で、愛情に包まれて育っていく妹。確かに恨んでも仕方のないことかもしれないが。
「だからといって、現状のアサシナを覆したりするのは間違っている。アサシナは五世から六世、そしてクノンへと代わり、確かにいい方向に進んでいるのだから」
「うむ。五世時代のアサシナはひどいものだった。イブスキが後継となっていたら、それがさらに加速していただろう。六世がクーデターを起こしてくれて、逆に安心した側面はある。姉は結局、亡くなってしまったがな」
 詳しく聞いておきたいところではあるが、今は他に優先する話題がある。状況を確認したところで、ウィルザは本題に入った。
「陛下には、イブスキの居場所がお分かりになりますか」
「分からぬ。ウィルザ殿は、イブスキがジュザリアに戻ると考えておるのか」
「それが無難なところでしょう。本来ならルウを誘拐し、それをアサシナのせいにすることでアサシナ・ガラマニア間の戦争を狙っていたのでしょうが、ファルのおかげでそれがご破算となりました。イブスキの手としては、根拠地を定めて旗揚げするしかありません」
「ジュザリアを落とす気か」
「そう考えるのが妥当なところです。まずは市内の警備を厳重にしてください」
「うむ。それから」
「イブスキの隠れていそうなところを片端から捜査することです。それと、もしかしたら、イブスキに懐柔されている官僚や武官たちがいないとも限りません」
「それはないと言いたいところだが」
「ジュザリアの国情は分かっているつもりです。マナミガルの圧力がなくなり、対外政策で陛下に反対している家臣が多いのではありませんか」
 リボルガンは無言だった。それは肯定と同義だ。
「至急に行ってください。ぼくも捜査に加わらせていただきます」
「宰相殿がそこまでされることは」
「いえ。これは宰相として言っているのではありません」
 ウィルザが断言する。
「自分にとって大切な人を取り返す、ごく当たり前の行動です」
 その強い言い方にリボルガンも拒否はできなかった。






 そうして、二日が過ぎる。
 市内は全て見回った。無論、全てを自分の目で確かめたわけではない。
 だが、それらしき動きがまったく見えないとなると、おそらくイブスキは市内に潜伏しているのではない。おそらくは市外。そこから都市の様子をうかがっているのだ。
「近隣の地図を見せてくれ」
 ウィルザが言うと、ジュザリア兵が大きな地図を机の上に広げる。
 この王都を中心に、いくつかの町村が散らばる。
 その中のいずれかに、イブスキがいる。
「それぞれの村の特徴を教えてくれ」
 一つずつ兵士から説明が入る。あれこれの産物がある、交易都市でにぎわっている云々。
 だが、全ての町村が説明し終わってから、一つだけ説明されていない村があることに気づく。
「ここは?」
「ああ、ケミヌですね。私もそこは詳しくは存じません。あそこはゲ神を信仰している者たちが集まっている場所ですので」
「ゲ神?」
 そのキーワードにウィルザが反応する。
「はい。そのせいで、我々との交流もほとんどないんですよ。もしそこにイブスキ殿がいらっしゃるとすれば、我々にはきっとわからないでしょうね」
「なるほど、第一候補というわけか」
 このまま市内に留まっていても得られるものは少ない。ならば、調査に行く方がいい。
「行ってみる」
「お一人でですか」
「ああ。イブスキがクーデターを起こすかもしれないのに、君たち王都を守る騎士がいないわけにいかないだろう。一人で充分だよ」
 ウィルザは言って立ち上がると、すぐに出発する。
 じっとしていられなかった。
 今、このとき、ルウがいったいどういう気持ちでいるのか。
(必ず助ける)
 ウィルザはそう心に誓う。
 自分の第一の目的は世界だ。それは変えられない。
 だが、自分の本心は。
(もう、君なしでは駄目なんだ)
 いつも一緒にいてほしい。傍にいてほしい。
(待ってて、ルウ)







ケミヌ。ゲ神信仰の地。
ウィルザはついにイブスキがケミヌの裏山にいることを突き止める。
山の中にいる者、彼に会いに来る者。
そして彼はルウを求めて、その足を東へと向ける。

「ぼくだ! ウィルザだ! ルウ!」

次回、第三十七話。

『対峙、転移。』







もどる