#1 入部!

SIDE-A






「うおおおおおおおおおーっ! 新入生ゲーット!!!!」
 と、高校入学早々碇シンジは面倒ごとに巻き込まれていた。
 かのサードインパクト寸前で終わった戦いから一年と少しが経ち、世の中は前と変わりなく活動を続け、かつてのチルドレンたちは名前や顔を非公開にしていたおかげで、以前と変わりない生活を送ることができるようになっていた。
 綾波レイ、惣流アスカ・ラングレーらとはもうメールや手紙などのやり取りすらしていなかった。シンジはもう、あのときの戦いのことを思い出したりしたくはなかった。辛く、苦しかった戦いから逃れ、ようやく平穏な生活を送ることができるようになったのだ。
 中学三年の一年間は、自分が立ち直るだけで精一杯だった。徐々に口数も戻るようになってきて、学校にも通えるようになって、高校受験も受けることができて、見事に合格した。
 高校ではあまり人と関わることなく、のんびりとした生活を過ごしたかった。
「わざわざ音楽室まで来るなんて、そんなに軽音部に興味があるなんてなー!」
「あ、これ、どうぞ」
 おでこを出したやたら元気のいい二年生の先輩と、たくあんみたいな眉毛をしたおっとりしている二年生の先輩が、自分を音楽室の中に連れ込んで、いつの間にやら目の前にケーキと紅茶を並べてくれている。
「いや、あの、僕、部活とかあまり──」
「でも音楽には興味あるんだよな!?」
 強引の押し。もちろん、嘘のつけないシンジは、
「はい」
 としか答えられなかった。
「へー、じゃ、どんな楽器やるんだ? ギター? ピアノ? シンセ? 意表をついてドラムか!? いやいやいや、ドラムは私のパートだからな、ここは譲れねえぜ!」
「チェロです」
 ぴし、とその先輩が凍りついたように固まる。
「ちぇろ?」
「はい」
「チェロって、あの、バイオリンの親戚?」
「……まあ、そんなところです」
 大きさが全然違うし弾き方もまったく違う。だが、あえて否定すると長くなりそうだったのでシンジはあえて黙っていた。
「すごいわね。私、もともとピアノやってたんですよ」
 おっとりした女性が優しそうに話しかけてくる。
(いい人だな、この人)
 相手をたてて、自分を押し付けない。一緒にいると安心できるタイプだろう。
 それに対して、元気のいい先輩は違う。どこかの作戦部長やどこかのセカンドのようなデジャヴを感じる。
「いや、でも同じ弦楽器だからギターでOK!」
「いえ、その、ギターって弾いたことないですから」
「大丈夫! うちのギターやってるやつも高校になって初めてギターやったくらいだし!」
(……あまり、本格的じゃないのかな?)
 シンジはどこまで本気の部活なのか、いまいち分からなくなる。
「あ、もう少ししたらメンバー二人が戻ってくるから、そうしたら一度聞いてみてくれよ。私たちこうみえてもけっこうやるもんだぜ」
 本当だろうか。少し不安な感じがする。
「あ、そうだ。名前聞いてなかったな。何ていうんだ?」
「あ、えと、碇シンジ、です」
「シンジ、な。私は部長でドラムの田井中律。こっちはキーボードの琴吹紬」
「よろしくね」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 緊張して思わず声が上がる。
「お、もしかしてムギに一目惚れか? でもな、ムギは見たとおりのお嬢様だから、相手にしてくれないからな」
「もう、りっちゃんたら、そんなことないわよ」
「琴吹……もしかして、琴吹商事の?」
「あれ、知ってるの?」
「はい」
 それはもう当然のように聞いたことくらいはある。子供でも三井や三菱、住友、丸紅、伊藤忠というような有名な企業の名前は聞いたことくらいある。その中の一つが琴吹商事。売り上げで数兆円、純利益だけでも千億を出すような超優良企業だ。
 それにシンジはネルフがらみの裏話をよくミサトやリツコから聞かされていた。非公式な組織であるネルフがお金を集めるにはそれはもう血の滲むような努力が必要なのだそうだ。詳しくは聞いていないが。その中に琴吹商事もあったはずだ。ネルフのスポンサーとしてはかなり上々の部類に入っているようなことを聞いたことがある。
(僕がエヴァンゲリオンを操縦できたのも、琴吹先輩の家のおかげなんだよな)
 もちろんそれだけでネルフが運営できたわけではないのだが、助けられていたのは事実だ。
「はい、どうぞ」
 紅茶のおかわりが入る。シンジはムギに頭を下げた。
「ありがとうございます」
 紅茶のおかわりに対して、という感じで頭を下げるが、もちろん意味は異なる。今まで資金を提供してくれていたことに対するお礼だ。
「いいえ。どういたしまして」
 ムギが笑顔で答えてくれる。シンジは改めて紅茶を飲んだ。
(あ、美味しい)
 一杯目は気づけば味も確認しないまま飲み干していた。随分と失礼なことをしたものだと思う。
「たっだいまー! ムギちゃん、ケーキ!」
 そこに改めて二人の先輩が入ってくる。
「おー、おつかれー」
「ただいま……って、うわ、男子!?」
 ロングヘアの先輩が自分を見て驚く。
「どどどどど、どうしてここに一年生が?」
「そりゃ、入部希望に決まってんだろ」
「いえ、田井中先輩に強引に連れてこられただけです」
 シンジははっきりと答える。ここで否定しておかないと、うやむやのうちに入部させられそうだった。
「なんだ、律に強引に連れてこられた口か。ごめんな、こんな部長で」
 ロングヘアの先輩がほっとしたように言う。
「でもでも、もし入部してくれたら、待望の下級生! それも男の子だよ!」
 ショートカットの先輩が後ろから抱き着いてくる。シンジは完全に硬直して動けなくなる。
「おいおい、唯。そのくらいにしておけ。後輩が緊張して動けなくなってるぞ」
「ほえ?」
 先輩の無邪気な顔が、すぐ目の前にあって、さらにシンジの顔が真っ赤に染まる。
「おーう、純情少年。今度は唯に惚れたか?」
「そそそそそそそそんなことないですっ!」
「どもってる」
「すごくどもってる」
 律と紬から同時に突っ込みが入る。
「ねえねえ、名前は何ていうの?」
 ようやく離れた先輩が尋ねてきた。
「碇シンジです」
「私、平沢唯です!」
「私はベースの秋山澪。よろしく。まあ、気に入ってくれたら入部してくれると嬉しいよ。こんな感じで人数も多くないし、一人でも多いと楽しいからな」
「と、彼氏イナイ歴十六年の秋山澪は、年下を狙うのであった」
 律が後ろから口を出す。その律に対して澪はモンゴリアンチョップを一撃。
(……漫才部、なのかな)
 確か軽音部とか言っていたはずだが、ここまでパート以外、まるで音楽の話が出ていない。
「で、お前たちを待ってたんだよ。せっかくだからシンジに私たちの演奏を聞かせてやりたくってさ」
「そうだな。せっかくの体験だし、聞いてもらうのもいいか」
「はいはーい! それじゃ、すぐに用意するからね!」
 てきぱきと四人が動き始める。それを呆然と見ているシンジ。
「あ、おかわり?」
 それを見た紬が声をかけてくる。
「い、いえ」
「何かあったら言ってね」
 いろいろと気を使ってくれる人だ。
(悪い人たちじゃないよな)
 あのときもそうだった。
 葛城ミサト。
 惣流アスカ・ラングレー。
 綾波レイ。
 悪い人なんていなかった。ただ、みんなが心を開くことができなかっただけで。
(だから、誰とも心を通わせなければ傷つくこともないと思ったんだ)
 それでも、人は一人では生きていけない。
 こうして学校に入り、社会に出て、ルールに縛られて生きていく。
(部活か)
 ここ、桜高には室内オーケストラはないし、吹奏楽もチェロのパートはない。あと音楽関係であるのは合唱部と、あとはこの軽音部だけ。
(別に部活をやらなければいけないということはないけれど)
 今、自分の面倒を見てくれている人は、できれば部活をやった方がいい、と勧めてくれている。
 だから何の気なしに、とりあえず部活をしていそうなところを歩き回ってみていたところで、律に捕まったわけだが。
「よーし、準備完了!」
 律の声が響く。気づけば四人は自分に向かって完全に楽器の準備を整えていた。
「それじゃ、いきます。『ふわふわタイム』!」
 唯の声で演奏がスタートする。
 まず、目がいったのは紬だ。キーボードを担当しているが、その指の滑らかな動きに驚く。お嬢様ということだったが、確実にピアノを長年やっている人の手つきだ。だからキーボードなのだろう。あのレベルだと、かなり難度の高いスコアでも弾きこなせるだろう。
 続いてドラムの律。スネアがとにかく速い。ともすればベースやギターを置いていきそうになるくらいの速さで叩いていく。単独で叩くなら走り気味で、あまり良い演奏ではないだろう。だが、
(ベースでうまくおさえてるな)
 澪のベースと律のドラムが、何故かうまくマッチしている。澪のベースは常に一定のリズムを保ち、走り出しそうになるドラムを引き寄せるようにして演奏する。普通、リズムを取るドラムにスピードをあわせるものだが、このバンドでは明らかにペースメーカーがベースにある。
 そしてギターの唯。
(うまい)
 さっき、ギターは始めて一年だと言っていなかっただろうか。
 自分は十年近くもチェロをやってきてようやく人並みなのに、この人のギターは違う。たった一年で並どころか、熟練者のピッキングをしていく。それでいて歌まで歌っているのだ。
(インディーズくらいの実力、あるんじゃないのかな)
 それは、今まで音楽に深く携わってきたシンジだからこそ評価できるものだった。バンド音楽はこれまでほとんど聴いたことがなかったとはいえ、上手か下手かは見て、聞けばすぐに分かる。
 そして、一曲が弾き終わったとき、シンジは思わず手を叩いていた。
「やっと笑ってくれたな」
 律が笑顔で言う。
「喜んでくれて嬉しいよ!」
「はい。すごかったです。本当にすごい演奏でした」
 シンジも少し興奮気味に言った。
 だが、だからこそ逆にシンジには分かった。
「でも、申し訳ありません。僕、やっぱりこの軽音部には入れません」
 四人の顔が一斉に曇る。
「だって、こんなに上手で、息のぴったりあった演奏の中に入っても、調和が乱れるだけで、逆に悪くなってしまいます。先輩たちの演奏を聞くのは凄く嬉しいし、何回だって聴きたいと思います。でも、僕はこの演奏の中に入っていくことはできないと思います」
 それはチェロをずっと長く続けてきたから分かる感想だった。
 だが、この音楽が気に入ったというのは本当だった。それだけは伝わってほしかった。
「今日、ここに誘ってくれた田井中先輩には本当に感謝します。演奏、これからもがんばってください。必ず聴きにいきますから。それじゃ──」
「待ったぁ!」
 と、唯が手を上げてシンジを止める。
「私、私ね!」
 唯は、えーと、と話しかけてから考え始める。
「初めてここに来たとき、やっぱりそんなに深く考えてなかったんだ。軽音って、軽い音楽って書くでしょ、それこそカスタネットでも叩いたりするのかなって」
 さすがにシンジもそこまでではない。
「だから、初めはそんなんでもいいんだよ。みんな音楽が好きで、普段はだらだらとお菓子食べたりしながらおしゃべりしたり、それから歌ったり演奏したりするだけで幸せな気持ちになれて」
 とりとめのない説得になっているのは分かった。
「でも、でもでも、もしシンジくんが音楽が好きで、それだけで幸せになれるなら、一緒にやれたら楽しいよ、絶対!」
 唯の力説。確かに、言いたいことは分かる。
「幸せに……ですか」
「そうだよ!」
 もう一息だと思ったのか、唯がぐぐっ、と前に身を乗り出してくる。
 だが。
 碇シンジという少年にとっては、その言葉は逆効果だった。
「僕は──」
「あ、ちょっとタンマ」
 シンジが決定的に入部を断ろうとしたタイミングで律が言葉をさえぎる。
「せっかくだし、もしよかったらシンジのチェロってのを聴かせてほしいな」
 半ば強引に話が捻じ曲げられた。だが、シンジの変化を敏感に感じ取ったのか、紬が「そうね」と頷く。
「でも、チェロなんてあったか?」
 澪が尋ねる。
「一応、音楽室なだけにバイオリンとかそういったのもいくつかあったはずだぜ」
「私、ちょっと探してくるわね」
 紬が近くの備品庫に行く。いつの間にやら話がどんどん進んでいく。
「えっと、あの」
 シンジが話しかけようとすると、澪がさえぎった。
「いろいろとあるかもしれないけどさ」
 澪がシンジの肩にぽんと手を置く。
「あまりあれこれ考えるんじゃなくて、音楽が好きなら音楽に答を聞いてみてもいいんじゃないかな」
「音楽に、答を?」
「ああ。この場でチェロを弾いてもらって、それでもシンジが入部しないっていうんなら、それ以上は引き止めたりしないよ」
 頼りになる感じの澪がそう言うので、シンジは「分かりました」と答える。
「でも、みなさんチェロの曲なんて知っていますか?」
「知らん!」
「知らない!」
「ごめん、私もよく分からない」
 この状況でいったい何を演奏しろというのだろう。
(まあ、さっき聞かされたのもオリジナルの曲みたいだし、何でもいいのか)
 シンジはそれこそ頭で考えないようにした。
 そして紬がチェロのケースを持ってきてくれて、どうぞ、と渡してくれる。
「ありがとうございます」
 丁寧にチェロを取り出し、準備をする。
(有名な曲の方がいいかな)
 どこかで聞いたことのある曲。
 バッハ、無伴奏チェロ組曲第一番。
(チェロを弾き始めてから、もう十年になるのか)
 母親が亡くなって、その翌年くらいから始めた。まだ幼稚園とかそれくらいで、自分の体よりずっと大きいチェロを抱きかかえるようにして音を鳴らした。バイオリンをチェロのように持ってみたりもした。当然、うまくは弾けなかった。
(弾いていて落ち着けるようになったのは、中学生になったころくらいかな)
 父親と墓の前で別れたのは十一歳のとき。そして自分はもう、父親に何かを求めようとは思わなくなった──少なくとも、表面上は。実際には、どれほど父親を求めていたとしてもだ。
(でも、この曲を弾いていると、何もかも忘れることができたんだ)
 そう。
 唯が言ったように。
 今となっては、自分はチェロを弾いているときだけが唯一安心できる時間だった。
 チェロを弾いている間だけは、音楽に身を委ねて、何も考えなくてすんだ。
 使徒のことも。
 みんなのことも。
(でも──)
 四人を見ていて思ったこと。
 それは──
(一人より、四人の方が、いい曲が演奏できるんだ)
 一人では、音楽を弾くことができても、それを分かち合うことができない。
(僕は、先輩たちの中に入りたいのか?)
 入りたい、と思う。
 同時に、もう傷つきたくない、とも思う。
(傷つくくらいなら──)

『また、逃げるの?』

 一瞬、青い髪の子の姿が脳裏をよぎる。
(逃げちゃ駄目、か)
 もし、最初に逃げ出していたら、世界はどうなっていたのだろう。
 ここでこうしていることはできなかったかもしれない。世界は滅亡していたかもしれない。
(それでも──僕は、世界を望んだんだ)
 幸せにはなれなくてもいい。
 でも、望んだ世界で、少しくらいは望みを持ってもいいだろうか。

 そうして、シンジは一曲すべて弾き終わる。
「おおおおおおお、シンジくん、すごい、すごいよ!」
「うん。上手だな。驚いた」
「いやー、まっさかこんなに弾けるとは思わなかった!」
「感動しました。すごいわね」
 四人から一斉に拍手をもらう。
 そして、シンジの気持ちはほぼ固まっていた。
「僕、チェロしか弾くことができません」
 当然、軽音部に入るということは、それ以外の楽器を改めてやり直すことになる。
「それでも、いいですか?」
 四人の顔が輝いた。

『軽音部へ、ようこそ!』






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