#3 チェロ!

SIDE-A






 碇シンジはやればできる子ではない。やったらできた子である。
 あの戦いの中、精神的に追い詰められても最後は逃げ出すことなく、十四歳の少年にしては重すぎる責務を果たした。確かにあの戦いの中で亡くなった人は多いが、それでも彼を非難することはできないだろう。はたして、彼の代わりに誰かがあの戦いを続けることができたかどうか。碇シンジにしかできないことをしっかりとやりとげた。そのことに対して異論はないはずだった。
 だが、少年の心の中は違う。あの戦いで自分に優しくしてくれた保護者も、唯一の肉親であった父もいなくなった。共に戦った仲間とは連絡すら取らない関係だ。唯一、伊吹マヤという、当時のオペレーターだけが一緒にいる。
 シンジは決して、自分が何かをなしとげたとは思っていない。それどころか、自分が罪人であるとすら感じている。そんな自分が幸せに、のんびりした生活をすごしていいなどとは少しも思っていない。
 それなのに。
(居心地いいんだよな、ここ)
 軽音部に入って一週間。今日もシンジは部室へとやってきていた。
 もちろん練習はきちんとする。軽音部で一番練習好きなのは誰から見ても梓なのだが、シンジはその次くらいにはきちんと練習をしている。さらには紬の手伝いで紅茶を入れたりと、既にこの部活の中で自分の立ち位置を見つけ始めている。
「あ、今のとこ間違ってるよ、シンジくん」
 梓から指摘が入る。ここ一週間、ギターは部活で二時間、家で三時間、合計五時間は弾いていた。おかげで手の皮が切れてしまったりして大変だ。
「こうかな」
「そうそう、上手上手」
 梓がうれしそうに言う。初心者を教えるといっても、シンジの進歩は並みのスピードではない。やればできる子ではなく、やったらできた子だというとおり、梓の教えることをその日のうちに習得していく。まだ手つきは慣れていないものの、もうそろそろ簡単な曲なら一曲くらい弾けるようになるのではないだろうか。
「でも、シンジくんって、音楽の知識すごいよね。本当に初心者なの?」
「ギターはね。ずっとチェロをやってたから」
 そういえば梓のいたときにその話をしたことはなかった。
「チェロ?」
「うん。だから、そっちならけっこう上手に弾けるんだけどね」
「そうなんだ。この学校、オーケストラはないもんね。あったらそっちに行ってた?」
「分からないよ。田井中先輩の勢いに負けてたかもしれないし。琴吹先輩だって、もともと合唱部に入るつもりだったって言ってたよ」
 そうして二人だけの練習時間は続く。先輩たちは誰も来ない。当然だ。今はまだ放課後ではなくて、昼休みなのだから。
「それにしてもこの音楽室、普通に私物とか置いてるけどいいのかな」
「授業で使う部屋じゃないから問題ないんじゃないかな」
 桜ヶ丘高校は芸術科目は美術・音楽・書道の中からの選択制で、シンジも梓も選択は当然音楽。そのためこの部屋が全く使われていないというのは当然分かっている。
「おかげで昼休みからこうして気兼ねなく練習できるわけだし」
 シンジは言いながらもう一度コードを押さえていく。
「それにしてもシンジくん、昼休みも練習してるんだね」
「うん。他にすることもないし」
「友達と一緒に遊んだりとかしないの?」
「あまり」
 別に話す相手がいないとかではない。クラスの中に何人か男子生徒の知り合いもいれば、話し相手もいる。だが、仲のいい友人はいなかった。当然だ。自分が作ろうと思っていないのだから。
「中野さんだって、別に僕につきあってくれなくてもいいのに」
「私も練習したかったから。それに、私は毎日来てるわけじゃないわよ」
 確かにその通りだ。ここまで一週間、毎日シンジは昼休みに必ず部室に来ていたが、他に誰も練習に来たことはなかった。一人でギターを鳴らして終わる。そんな昼休みだった。
「そうだね。でも、今日はどうして?」
「別に理由はなかったけど、ちょっと寄ってみたらシンジくんがいたから」
「そっか。足止めしちゃったかな」
「いいわよ、別に。それに、こうしてシンジくんが本気で音楽をやってくれるのも嬉しいし」
「本気なのかな」
 ぼそりと呟く。
 今の自分は、何もすることがないからただギターを弾いているというだけだ。チェロだろうがティンパニーだろうが、多分何でも良かったのだと思う。ただそこに軽音部のメンバーがいて、自分にはギターがあてがわれたからそうしているだけ。
 自分が最初にチェロを始めたときと、何も変わらない。
「チェロ、あるの?」
「うん。家にはあるよ」
「ここに」
 そういえば前に紬が隣の部屋から運んできたことがあったが。
「多分あるんじゃないかな」
「私、シンジくんのチェロ、一度聴いてみたい」
 真剣な表情だった。シンジは「いいよ」と答えて隣の楽器室からチェロを持ってくる。
 構えてから弓を引き、バッハの無伴奏チェロ協奏曲を弾く。
「すごい」
 一曲弾き終えると、梓が目を輝かせた。
「シンジくん、こんな特技があったんだ」
「長くやってたからできるだけだよ。僕は中野さんや平沢先輩みたいに上手に弾けるわけじゃない」
「謙遜しなくてもいいよ。すごく上手なのは聞けば分かるもん」
 今まで教え子に対するような視線だったところに、急に憧れのようなものが混じる。
「どれくらいやってたの?」
「十年くらいかな。小学校に入る頃には始めてたから」
「せっかく十年もやってるのに、違うのに変えるのって抵抗なかった?」
「全くないわけじゃなかったけど、チェロを続けてたのも何となくっていうくらいだったから」
 誰かにやめろと言われたわけでもなかったので続けていた。小学校、中学校のころはその程度のものだった。
「でも、こうして別の楽器を手に取ると、チェロになじんでいる自分がよく分かるよ」
「そうだよね」
 梓がじっと見つめてくる。
「シンジくん、どうしてバンド音楽のことを軽音楽っていうか、知ってる?」
「ううん」
「もともとはね、クラシックから来てるんだよ。クラシックってコンサートホールとかで聞く感じで、すごい重厚感があるでしょ。それに対して、リゾート地なんかで気軽に聞けるクラシックっていう感じで始まったんだって」
「ふうん」
「だから、別に軽音に楽器なんて関係ないと思うの。ギターでもいいし、バイオリンやチェロだって」
「でも、このメンバーの中で、一人だけアコースティックじゃできないし」
「ん、それもそうか」
 梓が言ってから考える。
「中野さん?」
「あ、いや。ないのかな、と思って」
「何が?」
「エレキチェロ。原理としては作ることができるはずだよね」
 確かに。エレキギターもエレキベースもできるのだから、エレキバイオリンやエレキギターがあってもおかしくはない。
「聞いたことないよ、そんなの」
「でも、もしあったとしたらどうする?」
 どうする、と言われても。
「シンジくん、確かにギターはすごい上達してきてる。でも、シンジくんが十年かけてやってきたチェロでみんなと演奏ができるかもしれないんだよ?」
「できたとしても、ギターやベースと一緒にチェロを混ぜたら、楽譜がどうなるか」
「そんなの、自分でつくればいいんだもん」
 何か梓がやけにやる気を見せている。
「ちょっと探してみようよ」
 そう言って梓は携帯を取り出してなにやら打ち込む。インターネットで調べているのだろう。格闘すること五分。
「あった」
 梓が呟く。
「エレキチェロ。新品直輸入……三十万円」
 なるほど、確かにあるものなのだ。
「あるんだね、本当に」
 シンジもさすがに感心した。
「うん。ほら、画像載ってる」
 見てみると、チェロの指板のところだけがあって、巨大な共鳴胴が存在しない。とても軽そうだ。
「座らずに立って演奏できそうだね」
「そういうパフォーマンスもできるんじゃないかな」
 梓が興味深そうに携帯の画面を見つめる。だが、やがてため息をついた。
「さすがに三十万じゃ手が出ないよね」
 出る。少なくともシンジには六桁の金額くらいではひるまないくらいのお金がある。
「どんな音が出るのかな」
「軽い感じの音かもよ」
「チェロっぽくないね」
 シンジは苦笑する。
「でも、聞いてみたいな」
「演奏してみたい、じゃないの?」
「それもあるよ」
 今までになかった世界。
 もしかしたら、チェロという武器でこの軽音の中でやっていけるかもしれないという事実。
「でも、せっかくギター買ったばかりだし、もったいないよね」
 シンジが言うと、たしかに、と梓が頷く。
「あ、そろそろ昼休み終わるね」
「うん。片付けようか」
「また放課後来るんだから、楽器だけしまって、あとはそのままでも」
 梓が楽をしようとしているが、ここはその案に乗ることにした。さすがに今から全部片付けると間に合わないかもしれない。
「賛成」
 そうして二人は後片付けを始めた。






 家に戻ってくるなり、シンジはパソコンをつける。
 今日、梓と話していたエレキチェロ。それについていろいろと知りたくなったのだ。
 まず、一般にはエレキチェロという言い方はあまりしていないということ。もちろんそういう楽器の括りはあるのだが、ヤマハで出しているエレキチェロは『サイレントチェロ』といって、要するにプラグにつながなければほとんど回りに音を響かせないので『静かな』という意味合いがあるようだった。
 ヤマハのサイレントチェロシリーズは安くても二十五万から。これは普通の高校生では絶対に手が出ない範囲だろう。もちろん、シンジなら軽く購入できる。
 一方、中古となれば何とか十万ちょっとでの購入が可能だ。画像を見ると本当に指板だけで胴体がないので、本当にチェロなのだろうかと思うほどだ。
 欲しくなった。
 エレキチェロなら、自分も軽音部の先輩たちに負けない演奏ができる。自分が引け目を感じる必要もない。
 迷うことはないはずだった。
「あれ、何見てるの、シンジくん」
 インターネットをじっくり見ていたシンジにマヤが話しかけてくる。
「チェロ?」
「はい。エレキチェロっていうのがあって、それを見ていました」
 へえ、とマヤが画面を覗く。そして「高いね」と一言呟く。
「青葉さんなら分かるかなあ」
 マヤが何の気なしに呟く。
「青葉さん?」
「うん。覚えてるでしょ。あの人、昔はバンドやってたから」
 そういえばギターが趣味だとか聞いたことがある。
「ちょっと待って。今、電話で聞いてみるから」
 そうしてマヤはただちに携帯を取り出す。
「もしもし──うん、久しぶり」
 久しぶり、という言葉が出るくらい、マヤもまたネルフのメンバーとはほとんど付き合いをしていなかった。
 マヤが現在の状況などをかいつまんで説明し、エレキチェロの部分について話をする。それからうんうんと頷く。
 やがて電話が終わった。
「知り合いに持っている人がいないかどうか、聞いてくれるって」
「そうですか。ありがとうございます」
「いいのよ。私たちみんな、シンジくんのおかげで生き延びられたようなものだもの」
「でも、たくさんの人を亡くしました」
 そう。マコトやシゲル、マヤのように生き残った人もいれば、ミサトや加持のように死んだ者もいる。自分が助けられたのは有限で、すべてを救えたわけではない。
「シンジくんがいなかったら、私も死んでたよ」
 マヤはそう言って、シンジをそっと抱きしめる。
「シンジくんは、シンジくんにできることをしてくれた。その結果、私は今も生きている。だから私はシンジくんに感謝してるし、それは青葉さんや日向さんも同じなんだと思う」
「でも」
「私たちは、みんな人間なのよ」
 シンジが何か言おうとするのと、マヤが止める。
「人間は万能じゃない。できることは有限。でも、だからこそ何とかしようと全力を尽くす。シンジくんはあのとき全力を尽くしてくれた。だからこうして今も生きている人がいる。それでいいんじゃないのかな」
「本当に助けたいと思った人は、助けられなかったんだ」
 アスカ。そしてレイ。自分が一番助けたかった人たち。
「でも、アスカちゃんもレイちゃんも生きてるじゃない。生きていればいいことがあるって言ったの、シンジくんじゃなかったっけ」
 少し、マヤは抱きしめる力を強くした。
「シンジくんは、充分なことをしてくれたのよ。だから、もう少し自分を大切にしてあげて」
「……はい」
 納得はいかない。だが、自分もまた生きていて、これから長い人生を生きていかなければならない。事実として起こったことは変えられない。あとは自分がどうしていくのか、何ができるのかということを考えるだけなのだ。
 と、そこに着信が来た。
「はい──え、本当に?」
 マヤの声が輝く。
「シンジくん、エレキチェロ、見つかったって。譲ってくれるって言ってる!」
「え」
 シンジの顔も輝いた。
「本当に?」
「うん。もしもし──ええ、うん。本当に? それじゃあどうすれば──」
 そして話の方が終わって、マヤが言った。
「青葉さん、今から取りに行ってくれるって。今日にも家に届けてくれるんだって!」
「──そうですか」
 それは青葉の感謝の気持ちということなのだろう。
 何とも思わない相手ならそこまではしない。
「ありがとうございます」
「それは、青葉さんが来たら言ってあげて」
「はい」
 シンジは、そうやって自分のために何かしてくれるだけのことが、本当に嬉しいと感じていた。






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