#3 チェロ!

SIDE-B






 その日の夜十一時に、青葉シゲルはシンジの家にエレキチェロを持ってきてくれた。
「よっ、シンジくん、久しぶり」
 会うなりシゲルはシンジの肩を抱いた。
「随分大きくなったな」
「まだ百六十ですよ」
「高校生になったばかりだろ? もっと伸びるさ」
 シゲルはそう言ってくれるが、シンジは自分がそこまで高くはならないだろうと思っている。特にこの中三の一年間は、ほとんど運動らしい運動もせず、栄養も不足していたのだ。これから急激に成長するということは考えにくいだろう。
「百七十くらいまで高くなれば、だいたいの女の子はかっこいいって言ってくれるさ。なあ、マヤちゃん」
「そうね。シンジくんがそこまで伸びたら、すごくかっこよくなると思う」
 今はまだ可愛いという感じだということの裏返しだろうか。少しふくれる。
「さて、待望のこいつだな」
 シゲルが背負っていたケースをシンジに渡す。
「これがエレキチェロですか?」
「そうだ。中を見てごらん」
 テーブルの上に置いたチェロは、本当に指板だけで、胴体が全くなかった。なんだか可愛い。重々しさが感じられない。
「本当に軽音って感じですね」
「はは。それにしても昔の仲間が持っててくれてよかったよ。正直、あまり言いたくないけど、あの戦いの後だろ? とっくになくなってるかと思ってたんだが、話は聞いてみるもんだな」
「ありがとうございます」
 そしてマヤが飲み物を取りに台所に行ったときだった。
「失礼ですけど」
「なんだい?」
「本当は、いくら、だったんですか」
 もちろんシンジとて馬鹿ではない。こんな高価なものをほいほいタダで譲ってくれるなど、たとえ昔のメンバーのツテだったとしてもそうそうあるものではないだろう。
「いや、それは」
「青葉さんには本当に感謝しています。でも、それはこうしてすぐに取りにいってくれて、ここまで持ってきてくれた。それだけで僕としては本当に感謝してもしきれないくらいです。僕はあの戦いでたくさんのお金をもらっています。だから、それくらいは自分で負担させてください。青葉さんに無理をしてほしくはないんです」
「でもな、シンジくん。少しくらい、俺たちも感謝の気持ちを伝えたいんだ」
「だから、エレキチェロを見つけてくれて、ここまで持ってきてくれただけで充分に伝わっているんです。お願いですから、無理しないでください」
 はあ、とシゲルはため息をついた。
「分かった。じゃあ十万。はみ出した分くらいはおごらせてくれよ」
「分かりました。それなら妥当な金額だと思います」
 シンジは財布を取り出して、そこから十万円を抜き取る。
「本当にありがとうございました」
「本当は十万円くらい、君のために使いたいんだけどな。俺たちはシンジくんに何もしてやれなかったから」
「いいえ。たくさんしてくれました。マヤさんや青葉さんだけでも生き残ってくれた。だから、僕はあのときの自分の選択が間違いじゃなかったと自覚できるんです。青葉さんたちがいてくれなければ僕はとっくの昔に絶望して死んでいたかもしれません」
 そう。ミサトや加持まで死なせてしまって、それでも自分が生きていられるのは、他に救うことができた人がいたからだ。
「そうだな。将来、シンジくんが二十歳をすぎたころには、もうあのときの戦いも思い出になっているかもしれないな」
「はい」
「そのときはゆっくり酒でも飲もうか。今はまだ、お互い、辛いだけだもんな」
「はい」
 そう。あの戦いでは誰もが何かを失ったのだ。自分ばかりではない。シゲルも、マヤも。
「男同士の話は終わった?」
 タイミングを見計らってくれたのか、ようやくマヤが戻ってくる。
「ああ。ま、今日はこんな時間だし、すぐに帰るよ。ただ、良ければだけど」
 シゲルは少し照れくさそうに言った。
「シンジくんのチェロを、少しだけ聞かせてくれないかな」
 シンジもまた、どんな言葉よりもそれが一番心に残るような気がした。分かりました、と答えて早速今手に入れたエレキチェロを手にする。
「それじゃあ、青葉さん。今日は本当にありがとうございました」
 そう前置きしてから、シンジはシゲルのために心をこめて一曲、演奏した。






 次の日、シンジはエレキギターとエレキチェロの両方を持って登校した。さすがに朝からは誰も練習していない。早速シンジは一人で練習に入る。
 まずはギター。昨日はずっとチェロばかりいじっていたので、ギターもきちんと練習しないと曲が弾けるようにならない。軽音でやっていくにはチェロばかりでも駄目だ。ギター・ベース・ドラムのどれかができなければつぶしがきかなくなる。
 コードを全部覚えていくのは大変だが、この地道な努力がやがて曲につながるのだと考えれば、決して嫌というわけではない。あとは、自分が弾く曲、ふわふわタイムとかで使うコードを覚えることが優先。
「おはよう、シンジくん」
 と、そこに入ってきたのは梓だった。
「おはよう、中野さん。早いね」
「シンジくんの方が早いのに、何言ってるのよ。あれ、これ何?」
 ギターではなくもう一つのケースを見て梓が尋ねる。
「エレキチェロ」
「ふーん」
 と梓が頷く。言葉の意味が理解できてから、
「ええええええええっ!? な、なんでっ!?」
 と、改めて驚いて尋ねてきた。
「知り合いが持ってたから、安く譲ってもらったんだ」
「へえ……持ってる人って探せばいるんだね」
「うん。それで、もしよければ、ギターとチェロ、両方やっていけないかな、と思って」
「チェロに専念するんじゃなくて?」
「うん。チェロはそれこそアドリブでもそこそこ弾けるけど、チェロ用に楽譜を直さないといけなくなるから、ギターも弾けるようになった方がいいと思うんだ」
「それは違わないけど、でもせっかくチェロが手に入ったのに」
「ギターだってせっかく買ったんだよ。中途半端でやめたくない」
 というわけで一度決めたら後には引かない碇シンジである。梓も少し考えていたようだったが、やがて納得したように頷く。
「しばらくはチェロメインで、ギターも一緒に練習していこうか」
「うん」
「それこそ十月の学祭のときには両方弾けるようにしておいて、ステージ上で楽器チェンジとかすると目立つし、話題にもなるよね」
「そこまでは考えてなかったけど」
「それにシンジくん、見た目はいいんだから一人でチェロとか弾いたら女の子たちが放っておかないかも」
「それはないと思うな」
「そうかなあ」
 そう言って梓はまじまじとシンジを見つめて、何故か言っている方が顔を赤くした。
「わ、私がシンジくんのことを好きだとかいうわけじゃないからね!」
「う、うん」
「あ、ご、誤解しないで。別に嫌いって言ってるわけでもないから!」
「う、うん」
 結局どっちなのだろうか、という質問はしない方がいいのだろう。
「それで、お二人さんのラブコメはいつまで続くんだい?」
 と、突然二人の横から誰かの声が聞こえた。
「りりりりりりりり律先輩! いつからそこに!?」
「ついさっき」
「入って来たんだったら、声くらいかけてくださいよ!」
「いやあ、お二人さんが何だかいい雰囲気だったからさあ。な、澪」
 扉の向こうにいる人影に向かって律が声をかける。
「み、澪先輩まで!」
「趣味が悪いですよ、二人とも」
 シンジがため息をついた。
「悪い悪い。で、何だ、これがエレキチェロってやつか」
 ひょい、と律がチェロを持ち上げる。
「いやー、軽いな。っていうか、胴体のないチェロってなんかやらしーな」
「どこがですか」
「いや別に深い意味はないけど。なあ、せっかくだからこれで曲弾いてみてくれよ」
 チェロを渡されて、シンジはため息をつきながら、アンプに接続する。
「それじゃあ、いつもの無伴奏チェロ協奏曲でいいですか」
「おう。聞き覚えのある曲の方がいいしな」
 というわけで、シンジも初めてアンプにつないでの演奏となった。
「確かにエレキな感じもするけど、基本的にチェロの音だよな」
 律が言う。シンジの腕前が良いのはわかりきっているので、ここは純粋に音色だけを確認している。
「そうだな。でも、アコースティックと違ってこの音ならギターやベースとあわせても問題ないんじゃないかな」
「私もそう思います」
 シンジは座ったままの演奏だが、これなら立ってでも演奏できるかもしれない。左手の親指で指板を押さえなければいけないので大変だろうが、決してできないというわけでもないだろう。
「面白いですね、エレキチェロって」
 シンジが弾きながら言う。
「アコースティックなら、いい音を出すために神経を過敏にして弓を使うんですけど、エレキは弓を当てるだけで音が出てしまいます。よくも悪くも、簡単に音を出せるんですね」
「へえー。何年もチェロをやっている人間として、どう思う?」
「良いところも悪いところもある感じですね。やっぱりアコースティックの音に慣れていると、すぐには馴染めないかもしれません。でも、この音じゃないと先輩たちに合わせられないのも事実ですから」
「ああ。これなら普通にプレイできるな」
「だがしかし!」
 律が大きな声で留める。
「一つだけ問題があるぜ」
「何ですか?」
「楽譜がない!」
 それは当然のことだった。オリジナルの楽曲は全て自分たちの手作りだ。そこにチェロパートなどあるはずがない。
 というより、およそどんな軽音部でも、チェロを取り入れた楽譜を作っているところなど皆無であろう。
「僕、自分の分は自分で編曲しますよ」
 シンジが言う。
「その上で、楽曲自体が何か変な感じがしたら、先輩たちの方から修正してくだされば」
「そっか。じゃ、いつまでにできる?」
「一曲だけなら、来週にでも」
「よぉーし。じゃ、今週はとにかく練習しておいて、来週からはシンジのチェロも入れて新生・桜高軽音部の活動開始だな」
「そういえば、先輩たちのバンドの名前って、何ていうんですか?」
 バンド名、と言われて律と澪が視線を交わす。
「決めてないよな」
「ああ、まったく」
 結成してから一年。実はバンドの名前がなかったという事実発覚。
「何をしているんですか」
 梓がため息をつく。
「んー、じゃ今日の放課後はまずその議題からにしよう」
「そう言って練習サボりたいだけじゃないんですか!?」
「さ、そろそろ行かないと遅刻だぞー」
「あーもう、逃げないでくださいよっ!」
 やれやれ、とシンジは息をつく。
 だが、これでチェロの演奏の目処は立った。後は自分で楽譜を作るだけだ。
(今日、先輩たちに演奏してもらって、曲を聞きながら楽譜に音を重ねていけば何とかなるかな)
 大変な作業になりそうだったが、やりがいはありそうだった。






 そして放課後。唯と紬もシンジのエレキチェロを見て、ほー、と感心していた。
「これからよろしくねー、チェリー」
 エレキチェロに向かって話しかける唯。
「今のは何ですか?」
「シンジくんのチェロの名前」
「……勝手に人の楽器に名前をつけないでください」
「いいじゃん。私のはギー太だし、澪ちゃんのはエリザベスだよ」
 ギターのギー太もひどいが、ベースのエリザベスのなかなか落涙ものだ。
「とにかくチェリーはやめてください」
「うー、じゃあ何て呼ぼうかな」
 名前をつけないでほしいということなのだが、わかってくれているのだろうか。
「それで、今日の議題は、第一回、チキチキ! バンド名決定会議〜!」
「第二回があるんですか!?」
 梓の突っ込みは当然のようにスルー。
「それで、みんなの意見はどんな感じだ?」
「『ぴゅあ☆ぴゅあ』はどうかな」
「『タンスの角に薬指』」
「『充電期間』とかどうかしら?」
 何というまとまりのない部員たちだろう。というか、少しはまともな意見とかないのだろうか。
「あれなんかどうですか? メンバーの頭文字を並べるやつ」
「メンバー増えたり減ったりしたら変えなきゃいけなくなるぞ」
「そういう律先輩は何か意見があるんですか?」
「『恩那組』」
「却下!」
 律と梓のじゃれあいが始まる。
「あ、ねえねえ、シンジくんは何がいい?」
 唯が尋ねてくる。
「僕は別に何でも」
「む〜、そんなこと言ってると『碇シンジとユカイな仲間たち』にしちゃうぞ!」
「私らはオマケかい!」
 律からの遠距離突っ込みが入る。
「どうせなら、僕たちにあった名前がいいと思います」
 シンジが控えめに意見を言う。
「僕たちは上手に弾きたいっていう気持ちももちろんありますけど、それよりは放課後にみんなで話したり、お菓子を食べたり、音楽を気軽に楽しんだりっていう感じですよね。そういうほのぼのとした名前の方が愛着がわくんじゃないかと思います」
「というわけで」
 いきなり現れた顧問、山中さわ子がホワイトボードに書き出した。
「命名『放課後ティータイム』!」
「つか、さわちゃん、いきなり出てきて何勝手に決めてんだよ!」
「文句ないわね!?」
 律の抗議を聞かずに尋ねる。
「うんうん! 私たちらしくていいよ!」
「楽しいバンド名ですね」
「僕も賛成です」
 唯、紬、シンジと賛成意見が出る。
「ぴゅあ☆ぴゅあの方がいいと思うけど、それも悪くないな」
 それにしても澪のセンスというのは改めてたいしたものだとシンジは思った。
「もっとカッコイイやつの方がいいと思いますけど……みなさんがそうおっしゃるなら」
 梓も陥落。というわけで、
「仕方ないなあ。じゃ、これで行くか」
 こうして『放課後ティータイム』は結成された。






#4

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