#5 喧嘩!

SIDE-A






 七月になるともう回りは夏休みムードだ。とはいえ、K大を目指したりする一部の上位層は校内で行われる講習に参加したり、自主的に予備校に通ったりする生徒もいる。
 シンジはそのいずれでもなかった。自分のランクを今より上げて、高い大学を目指そうと考えるような意識はシンジにはない。もっとも、もし自分が大学でやりたいことが見つかり、そのためにはランクの高い大学に行かなければならないとしたら、全力で勉強をするだろう。シンジが勉強に対して本気になれないのは、結局大学に行くことの意味が見つかっていないからだ。
 父と母は大学で知り合ったらしい。母のことはよく知らないが、よくあの父親を好きになれたものだと感心する。
(大学か)
 まだ高校一年なのか、それとももう高校一年なのか。少なくとも現役合格を目指す予備校の先生などは、どれだけ早く勉強を始められるかが勝負だとか言っているのだろう。
 というわけで、シンジは夏休み中、ずっと一人でギターとチェロの練習にでも明け暮れようかと思っていた。他にすることがないのなら、したいことをするのが一番だ。
「シンジくんは講習、受けないの?」
 昼休み。珍しく部室に顔を出したのは紬だった。今日は梓も唯も来ていないので、一人の練習だった。
「はい。あまり興味がないので」
「大学、興味ないの?」
「大学には行こうと思っているんですけど、専攻したいものがないんです」
「あら」
 くすくすと笑う。
「それじゃあ、卒業後の進路は決まってないの?」
「はい」
「そうなんだ」
「琴吹先輩は講習、どうするんですか?」
「私も受けないのよ」
「何か理由があるんですか?」
「ええ。家族でフィンランドに行くことになってるから」
 さすが琴吹商事。というか、グループ会長が避暑なんかしていてもいいものなのだろうか。
「お父様は三日くらいしかいないけれど、家族は二週間くらい行ってるから」
「さすがですね」
「本当は日本に残りたいのだけど」
 紬は少し微笑んで言う。
「どうしてですか?」
「だって、日本にいたら唯ちゃん、律ちゃん、澪ちゃんに、梓ちゃんやシンジくんとも会えるでしょ?」
 この人は。
「私、家が家だから、あまり友達っていうのが作れなくて。高校に入るまで、ハンバーガーも食べたことなかったのよ?」
 それは分かる気がする。よほど家庭でしっかり教育されてきたのだろう。
「だから、軽音部のみんなと一緒にいられるのが本当に嬉しいの。少しでも長く高校にいたい。夏休みなんてなくなっちゃえばいいと思ってるのよ」
「でも、そうしたら合宿はどうするんですか?」
「澪ちゃんがみんなから参加可能な日程を聞いてたでしょ? だから、ちゃんと出られる日程で合宿が組まれてるわよ」
「そうですか、良かった」
 ほっとシンジが息をつく。
「よかった?」
「ええ。だって、琴吹先輩がいなかったら、合宿が寂しくなりますから」
「あらあら」
 紬は嬉しそうに笑う。
「そんなにストレートに告白されると困るわね」
「え、ち、違いますっ!」
「そうね。告白するなら、唯ちゃんか梓ちゃんだもんね」
「だからどうしてそういう方向になるんですか」
「だって、目の前で恋愛されると嬉しいもの」
 にこにこ笑う紬。まずい。この人は意外に強敵だ。
「それに、シンジくんには幸せになってほしいから」
「幸せ、ですか」
 そういえば、最初に入部するときにも、そんな話が出た。
「そうよ。たとえ、世界中の誰が不幸になったとしても、シンジくんだけは幸せにならないと駄目よ」
 笑顔だが、どこか有無を言わせないような真剣な雰囲気だった。
「どうしてですか?」
「それはもちろん、私の後輩だから」
 最初に会ったときからそうだ。
 紬は、どこか自分を特別に見ているところがある。それは恋愛とかそういうものではなく、もっと別の。
「琴吹先輩」
 考えるより早く言葉が出ていた。
「もしかして──」
「あれ、ムギ先輩?」
 と、いいタイミングで入ってきたのは梓だった。
「あら、梓ちゃん」
「珍しいですね、ムギ先輩が昼に顔見せるなんて」
「梓ちゃんは毎日来てるの?」
「そうですね。だいたいは」
「今日は随分遅かったね」
「うん。純がお弁当持ってきてなくて、購買で買うのに時間かかっちゃって」
 すぐにギターを出そうとするが、残り時間はもうそれほど多くない。
「もうすぐ予鈴だから、今日はやめておこうか」
 シンジが言うと、えー、と梓がふくれる。
「放課後、またできるわよ」
 その紬は別にキーボードを弾いていたという様子もない。
「ムギ先輩と何してたの?」
 こういうときの梓は何故かいつも詰問口調だ。
「何って、普通に話してただけだよ」
「ふうん」
 じろじろと疑わしそうに見つめる。
「大丈夫よ、梓ちゃん。梓ちゃんからシンジくんを取ろうなんて思ってないから」
「だっ、誰がシンジくんとっ!」
「からかわれてるだけだよ、中野さん」
 はあ、とシンジはため息をつく。
「じゃあ、シンジくんはどうなの? 梓ちゃんのことどう思う?」
「どうって……頼りになる同級生だと思ってますけど」
 すると紬は「あらあら」と困った顔になり、梓ががっくりと肩を落とす。
「私、先に戻ってます」
「そうね」
 梓は力なく部室を出ていった。
「先輩?」
「シンジくん」
 すると、紬は思い切りゲンコツをシンジの頭に落とす。星が飛んだ。
「ちょ、琴吹先輩!」
「駄目よ、シンジくん。梓ちゃんは女の子なんだから、もっと気遣ってあげないと」
「じゃあ、どうしろって言うんですか」
「自分で考えるのよ」
 今度はちいさく、コツン、と額を叩く。
「それじゃ、私も先に行くから。ゆっくり考えてね」
 ゆっくりと言われても、予鈴まであと一分くらいしかないのにどうしろというのだろう。
 シンジは予鈴が鳴るまでは考えたが、当然分かるはずもなかった。






 当然ながら教室に戻っても梓は機嫌を悪くしていて目を合わせようともしてくれない。やれやれと思いながら席につく。
「ねえねえ、碇くん」
 と、尋ねてきたのは純だ。
「何、鈴木さん」
「梓、すっごく機嫌悪いけど、何かあったの?」
「多分、僕が機嫌を悪くさせたんだと思う」
「ふうん?」
「でも、どうすればいいのか分からなくて」
「うーん」
 純が少し考えてから言う。
「相談にのってあげようか?」
「いや、自分で考えてみるよ」
「ちぇー」
 純は唇を突き出す。
「でも、ま、それが碇くんのいいところなのかもね」
「いいところ?」
「うん。他の人のことを真剣に考えてくれるところ」
 そうかな、と呟く。
「だから、梓も碇くんのことが好きなのかもね」
「それは違うと思うけど」
 微妙な間。
「なんとなく、梓が不機嫌になった理由が分かった気がする」
「ええ?」
「とにかく、梓のことを考えてあげてよね。それじゃ」
 純も意味ありげなことを言い残していなくなる。どうして女の子というのはこういう物言いをするのだろう。






 さて、ようやく放課後になり、週番で後片付けも終わったところだった。既に教室にはほとんど誰もいない。帰宅したか、部活に行ったか。ふう、と一息ついて教室を出て自分も部室に向かう。
「あっ、シーンちゃん!」
 こういう言い方をするのはたった一人、唯しかいない。
「シンちゃんゲットだぜ!」
 後ろからおんぶするかのように飛びついてくる。
「ひ、平沢先輩っ!」
「お、およよよよっ?」
 そのまま廊下でばたんと倒れる。
「あいたたた、大丈夫、シンちゃん?」
「あ、はい。大丈夫です」
「おでことかぶつけてなかった?」
 唯の顔がアップで近づく。
「だ、だ、大丈夫です!」
「でも顔赤いし」
 それは唯の顔が近いせいであって、別に転んだせいでもなんでもない。
「保健室行こうか? 連れてってあげるよ?」
「いや、だから──」
 と、密接した二人の後ろに、一人の女性の影。
「……こんな廊下で、何やってるんですか、唯先輩。それに──」
 もちろん、そんな鬼のように怒っているのは、
「シンジくん!」
 誤解だが、あまりにタイミングが悪い。
 先ほど怒らせておいて、こういう場面に出くわせば、それは怒りも絶頂になろうというもの。碇だけに。
「唯先輩が好きなら好きでしょうがないけど、でも場所くらい選んでよ! ここ学校だよ!? 今はまわりに誰もいないかもしれないけど、こうして私だって見ちゃったわけだし!」
 何を見たのだろう。どう考えてもいつものように唯がじゃれてきて、バランス崩して倒れただけなのだが。
「あー、えーと、あずにゃんあずにゃん」
「唯先輩は黙ってて!」
「はい……」
 フォロー失敗。
「だいたい、シンジくんの周りにはいっつも女の子いっぱいで、別に私があれこれ言うこともないとは思うけど、でも誰か一人にしないと平沢先輩にだって愛想つかされちゃうんだよ!」
「中野さんは」
 だが、シンジはまったく悪びれてなかった。というより、自分が悪いわけでもないのにここまで言われて気分のよくなるはずもない。
「僕のことをそういうふうに見てるんだね」
「え?」
「いいよ、もう」
 人間関係が面倒になってくると説明をやめようとするのはシンジの悪い癖だ。だが、もともとの性格はそう簡単に直るものではない。
「平沢先輩。今日、部活休みますから」
「え?」
「先輩たちにはそう伝えておいてください。それじゃ」
 そう言って、梓には何も言わずにシンジは立ち去る。
「シンジくん?」
 最後に梓から声をかけられたが、かまわずにシンジは学校を出た。






「ただいま」
 ここ最近、七時前後の帰宅が多かったため、マヤは不意をつかれた格好だった。別に化粧とかに手を抜いたというわけではないが、少しうとうととしてしまっていたのだ。
「やだ、シンジくん。今日は随分早かったのね」
「ええ、ちょっと」
 だが、シンジのことをよく知るネルフ世代のメンバーにしてみれば、こういうときのシンジが問題を抱えていることなど一目瞭然だった。それも十中八九、人間関係。
「学校で何かあった?」
「何も──」
「私にだけは、嘘をつかないでほしいな。私、どんなときでもシンジくんの味方のつもり。たとえシンジくんがどんなに悪いことをしても、世界中から嫌われても、シンジくんの味方になる」
 その言葉に偽りがあるとはシンジも思っていない。この一年以上の間、シンジのことだけを考えてきた女性を疑えるはずがない。
「でも」
「恥ずかしいことなんか、何もないわよ。それこそ、私のことは伊吹マヤじゃなくて、もう一人の碇シンジだと思ってくれればいいのよ」
「もう一人の?」
「他人には言えなくても、自分には言えるでしょう?」
 なるほど、面白い考え方だ。
「たいしたことじゃないんです」
 そう前置きしてから、シンジはその日学校で会ったことを簡単に説明した。






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