#5 喧嘩!

SIDE-B






「なるほど」
 マヤが状況を把握してから尋ねる。
「まず、シンジくんには梓ちゃんが怒ったことの理由に心当たりはない?」
「はい」
「本当に?」
 再度、念押し。だが、自分を相手に嘘をつくわけにもいかない。
「もしかしたら、ですけど」
「何?」
「中野さんが、僕のことを、うぬぼれかもしれないですけど、好き、なんじゃないかなって」
「私もそう思う」
 マヤは頷く。
「好きだけど、今の関係が崩れるのも怖いから何も言えないでいる。でも他の女の子といちゃいちゃしているのは気に入らない。そんな感じじゃないのかな」
「でも、僕の思いあがりかもしれません」
「そうかもしれない。でも、それだと梓ちゃんが怒る理由がないよね」
 廊下でいちゃいちゃしていたから、というのは理由にならない。一言、駄目だよ、で終わることだ。
「とりあえず、梓ちゃんが怒っていた理由はその辺にしようか。それが一番納得のいく理由だっていうだけで、あとは想像になっちゃうから」
「うん」
「そこで問題はシンジくんの方」
 言われて、シンジは目を瞬かせる。
「僕?」
「そう。問題が二つあるかな」
「何ですか?」
「まず、梓ちゃんと仲直りしたいかどうか」
「それはもちろん」
 考える間もなく答が出ていた。
「そうよね。話を聞く限りだと、今のシンジくんが一番仲いいの、梓ちゃんだよね。あとは唯ちゃんかな?」
「平沢先輩はまた、理由が違うと思いますけど」
 誰彼かまわず抱きついてくるだけで、戸惑うことはあっても唯がシンジを、ということにはならないだろう、とシンジは思っている。
「そうかなあ。もしかしたら唯ちゃんもシンジくんのこと、けっこう本気かもよ?」
「それは想像になるからやめておきましょう」
「あら」
 自分の言葉を取られてマヤが笑う。
「そこで二つ目の問題なんだけど」
「はい」
「シンジくんが、梓ちゃんのことをどう思っているかよね」
 うすうす、そんなことではないかと思っていた。というより『自分』からされる質問としては的確だろうと思った。何故なら、
「分かりません」
「分からない?」
「はい。確かに中野さんは僕にとって大切な友人だと思います。でも、好きとか嫌いとか、そういった気持ちを持ったことはないですし」
「嫌いじゃないんだよね?」
「もちろんです。でも、女の子として好きかと言われると……その」
 言いづらそうにシンジは少し声を下げる。
「比べるようなことじゃないのは分かってるんですけど、でも、アスカのときみたいな気持ちとは違うかな、って」
「うーん」
 アスカの名前を出されると確かに納得せざるをえない。あれだけ印象的な女の子が、戦いを重ねるにつれてどんどんやつれて、最後は病院のベッドの上で意識をなくした状態でいた。今ではきちんと祖国で活躍しているのだが、最後に会ったときの様子があれでは、シンジも連絡を取ろうとは思わないだろう。
「でもね、シンジくん。好きっていう気持ちは、全部同じ形っていうわけじゃないわよ」
「違う?」
「違うわ。好きっていう気持ちもたくさんあるのよ。好きで好きでたまらなくて自分の身を焦がしてしまいたくなる炎のような熱さもあれば、相手のことを思うだけで幸せをじっと感じられるような春の木漏れ日のような温かさもある」
 言いたいことはよく分かる。決してシンジの気持ちがそうだったというわけではないだろうが、アスカのときのような恋愛は二度とできないし、これからしていく恋愛も一度きりだということだ。同じ感情を抱く恋愛は二度とできない。
「でも、たとえば」
 マヤも少し顔を赤らめながら言う。
「梓ちゃんと、キスしてみたい、とか思ったりはしない?」
 シンジもまた、顔を真っ赤にした。
「そ、そ、そ、そんなこと!」
「あら、でも高校生くらいなら普通のことじゃないかな。好きになったら手をつないで、抱きしめて、キスくらいはしてもおかしくないと思う。早い子ならもっと先までいくかもしれないけど、さすがにそれはシンジくんには早いわよね」
「無理ですっ!」
 ぜーはーと呼吸を整える。
「でも、梓ちゃんのことを考えてみて。梓ちゃんの顔、唇。どう? キスしてみたくなったり──」
 シンジの顔がゆでだこになる。
「か、勘弁してください」
「うーん、シンジくんにはそれもまだ早かったかな」
 マヤが苦笑する。
「じゃあ、もう一人の唯ちゃんならどうなのかな? キスして──」
「思いませんっ!」
 この手の話題になると体が拒否してしまう。それが今の碇シンジという少年の現状なのかもしれない。
「でも、嫌じゃないわよね」
 マヤが重ねて尋ねる。少し落ち着いてきて、シンジが「はい」と頷く。
「梓ちゃんにしろ、唯ちゃんにしろ、シンジくんの彼女になる可能性はあるわけだ」
「でも、僕は」
「ストップ。紬ちゃんにも言われたんでしょ? シンジくんは、世界中の誰よりも幸せにならないと駄目だって」
「はい」
「私も同じ。もしもこの先、シンジくんが結婚して、私も誰かと結婚して、離れ離れになったとしても、私は絶対にシンジくんのことを忘れないし、シンジくんが困っているなら私は他のすべてを捨ててでもシンジくんを優先する。シンジくんに幸せになってほしいから」
 その気持ちは嬉しい。だが、
「マヤさん」
「なに?」
「恋人ができたら、その人のことを一番にしてください。そう言ってくれなかったら、僕はこの先、マヤさんに相談もしませんし、頼ることもしません」
 シンジはマヤに全て頼りきろうとは思っていない。確かに三年間、自分には保護者が必要で、マヤがそれを引き受けてくれるのは嬉しいし、甘えたいと思う。だが、それ以上を犠牲にしてほしくなどない。
「分かった。シンジくんに迷惑はかけたくないから」
「ありがとうございます」
「でも、幸せになることを妨げる理由なんて、誰にもない。そのことは忘れないで」
「分かりました」
 こうして、シンジはその日あったもやもやを晴らすことができた。
「明日は、何て言って梓ちゃんと話す?」
「そうですね」
 シンジは少し考えた。
「いつも通りにしようと思います」
「それがいいかもしれないわね。でも、梓ちゃんは几帳面な子みたいだから、絶対謝ってくると思うけど」
「誤解を解いてもいないのに?」
「きっと、唯ちゃんが誤解を解いてくれてるんじゃないかなあ」
 確かに二人をその場に残して帰ってきたから、そういう展開になることもありうる。だが、あの唯が、そんなに気が回るだろうか。
「期待しないでいくことにします」
 それを聞いたマヤが、どんな子なのかしら、と首をかしげた。






 次の日、シンジは普通に登校して、普通に朝練を開始した。
 いつものように部室には誰もいない。その中で一人、エレキチェロを弾くのは最近のシンジの楽しみになっている。
 昼はたいてい梓が来てくれるので、ギターの練習が中心となるし、放課後も同じだ。チェロは当然誰もいない時間帯、つまり朝にやることが多くなる。
「今日は何を弾こうかな」
 もう三ヶ月もエレキチェロを弾いていると、徐々に楽器が体に馴染んできていた。立ち上がって弾くこともできるようになったし、アコースティックと微妙に違う音が何だか面白い。覚えることばかりのギターより、どうしてもチェロの方が自由に弾ける分だけ楽しく演奏できた。
(たまに難しいのを弾いてみようか)
 さすがに難しいものをやるとなると立って弾くわけにもいかない。じっくりと腰をすえてやることになる。
 サン=サーンス、チェロ協奏曲第一番イ短調。
 そこまで有名という曲ではないのだが、チェロ協奏曲の中でもチェロのゆったりとした旋律が目立つこの曲はシンジのお気に入りである。
 楽譜は持っていないが、二十分近くにわたる協奏曲をほとんど頭の中に入れているので、特別みなくてもある程度は弾ける。もちろん、躓かず正確に弾くとなればそうもいかないのだが、別に誰かに見られるというわけでもないのだから、気楽に弾けばいいのだ。
 そうしてお気に入りの曲を五分ほど弾いて、曲が少し穏やかになったところだった。ドアの開く音がして、シンジは弓を止める。
「あ、中野さん、おはよう」
 音楽をしている間は昨日のことなど完全に忘れていた。そのままのノリで挨拶してしまったため、逆に梓の方がおどおどしてしまっている。
「あ、あの、シンジくん」
 梓は近づいてきて、きっ、と相手を見つめる。
「昨日はごめんなさい!」
 大きく梓は頭を下げた。
「唯先輩から聞いたの。全部誤解だったって」
「ああ、そうなんだ」
 まさか本当に話してくれていたとは。それも、どうやら完全に誤解が解けている。いったいどうやって話したのか。
「本当にごめんなさい。シンジくんの言うこと何も聞かないで一方的に」
「いいよ、別に。もう気にしてないし」
 気にしていないのは本当だ。誤解さえ解ければ何ということはないのだ。そして仲直りがしたいというのがシンジの一番の希望だったので、それがかなうのなら何も問題はない。
「よかったあ」
 ほっと胸をなでおろす梓。
「シンジくん、昨日何も言わないで帰っちゃったから、もうどうしようかと思ってそればかり考えてて。唯先輩に聞いたら自分から背中に飛び乗ったって言ってたし、シンジくん何も悪くないのに私ひどいことばかり言っちゃって」
「誤解が解けたんなら本当にもういいよ。僕も中野さんとは仲直りしたいって思ってたんだから」
「本当に?」
「もちろん」
 そうすると、梓は口元をほころばせた。その小さい唇に笑みが見えた。
(あ)
 その動きがやけに、なまめかしく見える。
(マヤさんが昨日、変なこと言うから)
 意識していなかったことを意識してしまうと、後はどうなっていくのだろう。
「ねえ、シンジくん。今の曲、何?」
「あ、えっと、サン=サーンスのチェロ協奏曲だけど」
「続き、聞きたいな」
「うん」
 梓は正面に座る。そしてシンジも改めて弓を構えた。
 朝。
 二人の間に、穏やかな旋律が流れていた。






「シンジくん、昨日は本当にごめん!」
 ぱん、と手を合わせて唯が謝る。そんな放課後ティータイム。
「もういいですよ。それより、昨日はどうやって中野さんに話したんですか?」
「えーとぉ……」
 唯が視線をそらす。事情を知っているのか、紬や澪が苦笑いだ。
「いや、実はな」
 澪が楽しそうに言う。梓は怒ってばかりだし、唯はまったく事情をつかんで話せないので、紬が順序良く尋ねて、それに唯が答えていったのだ。
 誤解が完全に解けた後、澪、律、紬の三人は口をそろえた。

「「「唯(ちゃん)が悪い!」」」

「……まあ、誰がどう見ても平沢先輩が悪いですよね」
 人目をまったく気にせず、しかも廊下でシンジに飛び乗ってきたのだ。つきあってるとか好き合ってると思われても何も文句は言えないだろう。
「でも、シンちゃんの背中、何かいつもより大きく見えたんだもん!」
「子供かお前は」
 ぺち、と律が唯の額を叩く。
「でも……」
 澪が改めてシンジを見る。
「シンジ、少し背が高くなったんじゃないか?」
「そうですか?」
「確か春の身体測定のときは、澪と同じ一六〇センチだったんだよなー」
「律」
 ギロリ、と睨まれる。怖い。
「それなら澪ちゃんと身長合わせてみようよ!」
 唯がここぞとばかりに話を変える。
「話は終わってませんけど……いいですよ」
 立ち上がったシンジと澪が背中を合わせる。
「ああっ!」
 唯がオーバーリアクションで驚く。
「シンジくんの方が、完全に高くなってるわね」
 紬が解説した。
「ほ、本当か?」
 澪が嬉しそうに言う。相当気にしていたようだ。
「はい。澪先輩よりシンジくんの方が、一センチ以上高いと思います」
「いやー、シンジもやっぱり男の子なんだな。タケノコみたいに伸びるな」
「タケノコって、子供じゃないんですから」
 さすがにこの年になってそんなに毎日伸びるようなことはありえない。
「背が高くなったら、もっとシンちゃんかっこよくなるね!」
 唯が目をきらきら輝かせる。
「てことは、唯はシンジのことかっこいいって思ってるわけか」
「かっこいいよ! それにあったかいし、優しいし、料理作れるし!」
「なんだ、やっぱり唯、シンジのこと好きなんじゃないか」
 律がからかうように言った。
「まあね! こう見えてもシンちゃんのことは世界で二番目に愛している自信があるね!」
「じゃあ一番目は誰なんだよ」
「まだ会ったことはないが、いつか自分以上のシンちゃんファンに出会えると思っている」
 何のネタなんだか、とシンジは頭を押さえた。






#6

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