#7 夏休み!
SIDE-B
夏休みも終盤を迎えると、生徒たちの動きはにわかに変化を見せる。つまり、今まで放置していた宿題に手をつけはじめ、それに追われるようになる。
もっともシンジにしてみるとそれはたいした問題ではなかった。何しろ合宿の始まる前にほとんど終わらせていたのだから、今さら慌てるようなものは残っていなかった。
そんな宿題より、ずっと重い宿題が今のシンジにはのしかかっている。
『シンちゃん、大好き』
唯の突然の告白。それに対して自分がどうすればいいのか、まるで考えが及ばない。
学校に行けばまた唯と会ってしまうかもしれない。そう思うと気軽に学校に行くこともできなかった。もっとも、唯がそうそう毎日学校に来るとも思えなかったが。
そんなわけで、シンジの最近の練習場はマンションの中庭だった。ここでギターやチェロを弾いていると、マンションの子供たちが近づいてきて、もっと聞かせてとせがんでくる。そうして曲を弾いていると、今度は聞こえないとダダをこねる。仕方が無いのでもともと持っていたアコースティックのチェロで弾くと子供たちは満足した様子だった。
子供は正直だ。良い曲ならずっと黙って聞いてくれるし、つまずくとすぐに指摘される。
人に聞かせる機会の少なかったシンジにとって、ここは非常に良い練習場となっていた。
そのうち子供がいつも音楽を聴いているということが話題になり、マンションのお母さんたちがシンジのチェロを聴くことが増えてきた。
あまり大きな音を出すと住人に迷惑がかかるので、人数が集まったところで一、二曲だけ弾くという形にしていた。それ以外はエレキギターやエレキチェロの練習ばかりしていた。
(平沢先輩か)
確かに可愛い。あんなに可愛い女の子と一緒にいられたら、それだけで毎日幸せだろう。
だが、可愛いというだけで付き合うことはできない。そんなことをしていたら、それこそ軽音部員全員と付き合わなければならなくなる。
問題は自分の気持ちだ。好きか、そうでないのか。その判断は今の自分にはできない。そういう視点で唯を見たことがないからだ。
「分からないよ、全然」
ギターを弾いていた手を止めて、ベンチの背もたれに体を預ける。
「アスカのときは、難しくなかったのにな」
太陽のような少女に、自分は確かに惹かれていた。夫婦漫才とか茶化されるのも、恥ずかしかったが嬉しかった。アスカと一緒にいられる喜びを確かに感じていた。
(若かったってことだよな)
いつしか自分はアスカに依存し、アスカは自分を憎むようになった。
仕方のないことだったのかもしれない。自分にとっては初恋の相手だったし、アスカにとっては自分を目の仇にするのは当然のことだったのだから。
あのアスカのときのように、自分が唯に惹かれているかと言われると答はNOだ。
だが、マヤの言うように、好きという気持ちは一定ではない。アスカに対する好きと、唯に対する好きは違うということでかまわない。
(キスしてみたいかどうか……)
唯の唇は柔らかかった──気がする。一瞬だったので、あまりよく覚えていない。ただ、あの触れ合った瞬間に、唯の思いをぶつけられたような気がした。
「すぐには答、出せないな」
はあ、とため息をついたところだった。
「碇くん」
中庭に一人でいたシンジに誰かが声をかけた。
「……平沢さん?」
そこにいたのは制服姿の憂だった。中庭はマンションの敷地内。何もなく入ってこられるところではないはずだが。
「僕に用事?」
「うん。お姉ちゃんのことで」
なるほど、姉よりも妹の方が話としてはしやすいところがある。
「お姉ちゃんから聞いた。告白されたんでしょ?」
「う、うん」
「でも、碇くんはまだ気持ちが決められないでいるって」
「うん」
「それなら、いつも通り、お姉ちゃんに会ってあげて」
憂が悲しそうに言う。
「会う?」
「うん。お姉ちゃん、毎日学校に行ってる。碇くんに会いたいからって」
「平沢先輩が」
学校に毎日。まさかそこまで。
「碇くんに会えなくて帰ってくるお姉ちゃん、毎日泣きそうだよ。別に答を期待してるわけじゃない。ただ、もしかしたら余計なことを言ったせいで嫌われたんじゃないかって思ってる」
「そんなこと!」
「ないよね。分かってる。だからそれをお姉ちゃんに伝えてほしい」
憂が困ったように言う。
「碇くんがお姉ちゃんにまったく気がないっていうんだったら、すぐに断ってもらうんだけど、そういうわけでもないみたいだし」
「ごめん」
「お姉ちゃんには、苦しい恋愛をあまりしてほしくない。お姉ちゃんはいつも明るく笑ってて、みんなを元気づけてくれる。今のままだとお姉ちゃんのいいところがなくなっちゃう」
そして憂がシンジを睨む。
「もしそうなったら、私、絶対に碇くんを許さないから」
「分かった」
シンジは立ち上がる。
「楽器、片付けてくる。平沢先輩は学校?」
「うん」
「じゃあ着替えてくる。真っ直ぐ学校に向かうよ」
「待ってる」
「分かった」
そうしてシンジは急いで楽器をしまうと、チェロだけ持って自分の部屋に戻り、制服に着替えてすぐに中庭に戻る。
「お待たせ」
「ううん、大丈夫」
「それじゃ、すぐに行こうか」
シンジはチェロとギターを持ってマンションを出た。憂もそれについてくる。
「歩きながらでいいから聞いて」
「なに?」
「梓ちゃんのことは、どう思ってるの?」
また答えにくい質問だった。とはいえ、唯のことがはっきりしない以上、こちらも答は決まっている。
「それも分からないよ。僕がどっちを好きなのか、どっちも好きというわけじゃないのか。何も分からない。自分の気持ちって、どうしてこんなに分からないものなのかな」
「そうなんだ」
「優柔不断でごめん」
「仕方ないよ。お姉ちゃんも梓ちゃんも可愛いもんね」
二人とも可愛いことは否定しない。問題は、自分はどちらか一人しか選べないということだ。だから必然的に、もう一人には泣いてもらわなければいけなくなる。
「でも、できるだけ早くはっきりさせてあげてほしいな。お姉ちゃんも梓ちゃんも、あまり苦しい思いとかさせたくないから」
「うん」
そうした会話を交えながら、二人は学校へと入っていく。
いつもより少し足の動きが速い。そして、部室に入る。
「シンちゃん!」
部室では唯が一人でギターを弾いていた。
「シン──」
ギターを置いて駆け寄ろうとした唯が、コードに足をひっかけて正面から『びたーん』と効果音が聞こえるような倒れ方をした。
「うえええええ」
痛みで泣き出す。こんなところも唯だな、とシンジは苦笑した。
「大丈夫ですか」
シンジが片膝をついて唯にハンカチを渡す。
「だいじょうぶっ」
全然大丈夫には見えない。
「でも、来てくれたんだね」
「はい。さっき、平沢さんが家にやってきて、先輩が悲しそうにしているって言ったから」
「心配してきてくれたの?」
「まあ、はい」
「うれしい」
座ったまま、唯がぎゅっと抱きついてくる。
「あ、でも、まだ気持ちが整理できたわけじゃないんだよね」
「すみません」
「でもいいよ。心配してきてくれたっていうことは、脈ありってことだもんね!」
なんというポジティブシンキング。本当にこの辺りはシンジも大いに見習わなければならないところだ。
「シンちゃんシンちゃん」
「はい」
「一緒に演奏して!」
どういう流れなのだろう、これは。
「だって、シンちゃんまだどうするか決めてないんだよね? だったら、まずは音楽に聞け、だよ!」
さすが唯。理論より感性の人間。
「どこまでも平沢先輩は平沢先輩ですね」
「まあね!」
「分かりました。ギターとチェロ、どちらがいいですか」
「ギター!」
ということはふわふわタイムだ。分かりました、とシンジが頷いてギターをアンプにつなぐ。
「いいですよ」
「それじゃ、いくよ! ふわふわタイム!」
合宿明けのあのときと同じ、二人だけの演奏が始まる。
ギターの入りが難しい曲だが、シンジがうまく唯のペースに合わせている。ギターでもシンジはこれくらいのことができるようになってきた。どんどん上達しているのだ。
『ああ、神様お願い二人だけのドリームタイムください。お気に入りのうさちゃん抱いて、今夜もおやすみ』
明るくて、前向きで、それでいてなおかつ悩んでいるところもあるこの曲。もともと作詞は澪なのだが、唯の一番お気に入りの歌である。
「やっと、最後まで歌えた」
唯がにへらっと笑った。
「この間、途中でやめちゃったから、すごい最後が消化不良だったんだよー」
やめたのは唯のせいなのだが、それをあえて言うことはしない。
と、そこに拍手の音。
「二人とも、すごい上手だったよ」
憂だった。そういえば一緒に来たのだった。いきなり盛大に唯が転び、二人で会話が始まったので今までずっと外で様子をうかがっていたのだ。
「あっ、ういー!」
唯が憂に抱きつく。
「憂のおかげで、シンちゃんが来てくれたよ。ありがとー!」
「どういたしまして」
よしよし、と憂が唯の頭をなでる。どちらが姉か分からない。
「碇くんもありがとう」
「いや、僕は何も」
「お姉ちゃんがすごく嬉しそうだから。碇くんのおかげだよ」
憂がにへらっと笑っている。この妹はやはり姉が幸せそうにしているのが一番嬉しいらしい。
(気持ちは分からなくはないけど)
唯がにこにこしているのを見ているのは嬉しい。憂の気持ちはシンジにもよく分かった。
それから三人は楽器を持ったまま喫茶店へ移動。甘いものが食べたいという唯のリクエストに答えたものだ。
「もうすぐ夏休みも終わるね〜」
冷房が苦手な唯のために、一番冷房から遠い席に座ってチョコレートパフェを人数分頼む。
「お姉ちゃん、宿題終わった?」
「へ?」
その様子からするとやっていないんだろうな、とシンジは水を含みながら思う。
目の前で平沢姉妹が繰り広げるコントを見ながらふと思い出す。
「休み明けってそういえば、テストあるんだよね」
一学期の復習テストのようなものが存在するが、それを聞いてまた唯が泣きそうになる。
「うい〜」
「はいはい」
本当にこの姉妹はどちらが姉かよく分からない。
と、そこへ誰かの携帯の着信が鳴った。
「あ、ごめーん」
唯が携帯をのぞくと「律ちゃんだ」と言った。
「宿題終わったか、だって」
「すごいタイミングですね」
「本当に」
「ま・だ・だ・よ、っと」
返信すると、すぐにまた返信。
「これからうちに来ないかって。澪ちゃんも来るって書いてある」
「宿題を口実に遊びたいだけですね」
シンジが冷静に突っ込む。
「どうする、お姉ちゃん?」
「ん〜、憂とシンちゃんはどうする?」
「え、私もお邪魔していいの?」
「……僕は遠慮しておきたいですが」
「えーと、憂とシンちゃんも連れてっていい? っと」
シンジの答を全く聞かず、唯はさっさと返信を打つ。
「かまわないって」
「それじゃ、食べたら行こうか。お姉ちゃん、宿題持ってきてる?」
「うん、カバンにいれっぱなし」
「碇くんは?」
「僕はもう終わってるから」
「うそっ!?」
「私も終わってるよ、お姉ちゃん」
これが学年一・二位コンビの実力だった。
「ううー、二人してずるいー」
いや、計画的に終わらせておいただけのことなのだが。
「いいもん、宿題なんかに私の熱い気持ちを止めることはできないのだ!」
(きっと今日の勉強会は、ただのお遊びになるんだろうなあ)
シンジは自分の予想が絶対に外れることはないと確信していた。
#8
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