#8 二学期!

SIDE-B






「シンジくん、今度の土曜日、暇?」
 と、朝の練習中に突然梓が切り出してきた。
「特に用事はないけど、どうしたの?」
「実は、その」
 梓は後ろ手に持っていた二枚のチケットを出す。
「ペアのクラシックコンサートチケット。もらいものなんだけど」
 親戚からほしいかどうかを尋ねられて、ぜひともほしいと譲り受けたものだ。
「できれば、シンジくんと一緒に行きたいな、と思って」
 これはデートのお誘いということなのだろうか。シンジはチケットを受け取って時間と場所を確認する。
「うん、行けるよ」
「よかったあ」
 梓が少し蒸気しながら息をつく。
「もし断られたらどうしようかと思っちゃった」
「でも、中野さんがクラシックなんて珍しいね。ジャズとかそっちの方かと思ったのに」
「うん。親戚のおじさんがいるかどうかって尋ねてきたの。シンジくんならきっとジャズとかよりもクラシックの方がいいのかなと思って」
「僕のために?」
 シンジが驚いて尋ねる。梓は否定せず、笑顔で「うん」と答えた。
「ありがとう」
「ううん。私、シンジくんと一緒に二人でおでかけしたかったから」
 かなり強烈なアピールだということはシンジも分かった。
「分かった」
「うん。それじゃ、土曜日。開演が五時で、入場四時半だから」
「じゃあ、四時に駅前で」
「うん」
 そうして改めてチケットを見る。クラシックといっても種類はいろいろだ。
「ドヴォルザークのチェロ協奏曲」
 曲目リストの中にそれが混じっていた。
「あ、うん。シンジくんなら、それも聞きたいのかなって」
「そうだね。ちょっと癖のある曲だけど」
「弾ける?」
「チェロ独奏のところは弾けるけど」
「聞きたい」
 リクエストが出たので、シンジはチェロをかまえる。重曹な響き、激しく荒々しい演奏。ドヴォルザークがナイアガラ瀑布の勢いを楽曲にしたという通りの激しさが表現できなければ、この演奏に価値はない。
「すごい迫力」
 シンジもこの曲を弾くときだけは穏やかな様子をまるで見せない。障害となるものを破壊し、めちゃくちゃにしてすべてを飲み込んでいく滝。そのイメージで演奏する。
「やっぱり、シンジくんのチェロはかっこいいね」
「そうかな」
「うん。ギターもいいけど、何か違う。本当はもっと穏やかな方がシンジくんに合ってる気がするけど、こういう荒々しいのも男っぽくてかっこいいよ」
 そんな風に褒められたことは今までにない。やはりチェロを褒められるのは嬉しい。
「そうしたら、そろそろ教室行こうか」
「うん」
 いつものように朝練を終えた二人は教室へ一緒に戻る。
 だが、二人の距離はいつもより心持ち近かったような気がした。






「唯先輩、クーラー冷たすぎませんか?」
 そうして放課後。今日も部活は六人が集まり、いつものケーキタイムから始まる。
「大丈夫〜」
「教室は本当に暑かったから、ここは天国だよなー」
 唯と律とがだらっとしているのもいつもの通り。
「ところで、今週の土曜日はみんな暇か?」
 律が突然話を振ってくる。
「なになに?」
「いや、そろそろ学祭の練習を本格的にしておかないとと思ってな。もし集まれるなら──」
「すみません、用事があります」
 だが、いきなり話を折ったのはシンジだった。
「いきなりだな。でもま、そういうことなら仕方ないか。五人で──」
「いえ、中野さんと一緒に行く予定なので、すみませんけど」
 シンジは何も隠さずあっさりと応えた。梓はびっくりしてシンジを見ている。
「梓と? 二人で?」
「はい」
 悪びれる様子もなくシンジは答えた。ほうほう、と律がうなずいて二人を見る。
「デート?」
「とは違いますけど」
「じゃあ何さ」
「オーケストラのコンサートがあるので見に行く約束を」
「それをデートっていうんじゃい!」
 ハリセンでたたかれた。そんなに悪いことを言ったつもりはないのだが。
「えー、あずにゃん、シンちゃんとデートなんだ。いいなー、いいなー」
 ううー、と唯がにらんでくる。
「いや、だから、デートじゃないってシンジくんも言ってるじゃないですか」
「じゃあ、こころみに聞くけどさ」
 律が、おそるおそる尋ねる。
「二人はもう、つきあっちゃったりしてるとかあるわけ?」
「いいえ?」
「ありません」
 二人ともそこはきっぱりと答えた。
「僕は恋愛とか、よく分かりませんから」
 梓にも、唯にもそこで一線を引く。自分はまだどちらとも付き合うつもりはないのだ、と。
「じゃあさ、じゃあさ」
 俄然、勢いを取り戻す唯。
「今度、私ともデートしてくれる?」
「遊びに行くくらいならいいですけど」
「やった!」
 唯が大喜び。
「二股とはやりますな、シンジ先生」
「だから、そういうつもりはないですって。友達と遊ぶような感覚です。田井中先輩とだって一緒にゲーセンに行って遊んだりするじゃないですか」
「二人っきりっていうのはないけどな。たいていお邪魔虫が一緒にいるし」
「律? それはいったい、誰のことを言ってるんだ?」
 澪がにらんでくる。もちろん澪を暗に示して言っていたわけだが。
「そうしたら練習、日曜日でもいいか?」
 別に反対意見はない。
「よーし、それじゃ日曜日朝九時集合!」
「おーっ!」
 そうして練習が始まる。
 練習ともなるとそれぞれ気合が入ってくる。近くなってきた学祭ライブに向けてひたすら練習だ。
 だが、梓だけはいまひとつ気合が入りきっていなかった。それは誰もがわかるところだった。どこか集中力が欠けて、やる気が感じられなかった。
 当然、練習後、それは話に出ることになる。
「なあ、梓」
 帰りがけ、梓と二人きりで話をもちかけたのは澪だ。
「すみません、先輩。今日の練習」
「いや、自分でも分かってるならそれはいいんだ。明日からちゃんとやってくれればいい」
 まずは梓をなだめながら、話を聞くようにする。
「気にしてるのはシンジのことか?」
「はい」
「自分とコンサートに行く約束を守ろうとしてくれたのは嬉しいけど、一方で唯とも遊びにいくという約束をした」
「はい」
「まあ、シンジも正式にどっちかとつきあってるわけじゃないし、本当に恋愛のことは今は考えようとしてないみたいだからな。誰と遊びに行っても問題が出るわけじゃないが」
 とはいえ、人数も少なく、ここまでオープンな環境だとお互いの行動を隠すわけにもいかない。既に唯と梓がシンジのことを好きなのは誰もが分かっている事実。問題はシンジの気持ち一つだ。
「梓は自分の気持ちをシンジにちゃんと伝えたのか?」
「いいえ」
「唯はもう伝えたみたいだぞ」
「……はい」
 それは憂から話を聞いていた。だから負けじと今回思い切って誘ってみたのだ。
「いずれにしても、この状況を動かしたいなら、まずは梓が自分の思っていることをきちんと伝えるべきじゃないかな。シンジに。それから、唯にも」
「唯先輩?」
「ああ。お互い、まだはっきりと自分たちの気持ちを確認はしてないんだろ? だったらすっきりさせるためにも話をしておいた方がいいと思うけどな」
「そう、ですね」
 確かに唯の行動にやきもきさせられるのは、唯がシンジをどう思っているのか、はっきり聞いていないせいもある。
「分かりました。唯先輩ともしっかり話してみます」
「うん」
「シンジくんには、今度のコンサートのときに」
「そうか。まあ、がんばれ」
「ちなみに」
 梓は澪を見つめた。
「澪先輩なら、もし」
 尋ねかけたが、
「──いえ、やめておきます」
「何だよ、途中まで聞いておいて」
「だって、自分ならそんな質問されても困りますから」
 唯と自分、どちらを応援してくれますか、などと。自分なら決められない。少なくともこの部活のメンバーでどちらかを優先することなんてできやしない。
「そうか。まあ、お前たち三人なら、どんな結果になっても仲良くやっていけそうな気はするけどな。唯はあんなだし、シンジは結局選ぶ立場だし」
「そうですね。仮にシンジくんと唯先輩がつきあうことになったとしても、私、唯先輩を恨める自信がありません」
「だよな」
 くすくすと澪が笑う。
「みんな幸せにはなってほしいけど、こればっかりはそうもいかないからな」
「はい」
「それに、唯だってシンジと梓がつきあうことになっても、恨んだりしないだろうしな」
「そんな気がします」
「だったら、しっかりと話してくることだ」
「はい」
 信頼する澪の言うことだ。梓もその助言はきちんと聞くし、その通りにするつもりだ。
 問題は、いつ、どうやって話すかということだった。






 そういうわけで、土曜日を迎える。
 シンジは約束より三十分早く着いてしまったので、近くのCDショップででも時間をつぶそうかと考えていたのだが、その待ち合わせ場所に梓がいたのを見て驚く。
「中野さん」
 声をかけると、え、と梓が驚いてこちらを見る。
「シンジくん、こんなに早く」
「中野さんこそ。いったいどうして」
 だが、二人とも結局緊張していて予定より早く着かなければと思い込んでいたのだろう。お互い顔を見合わせて苦笑する。
「似たもの同士ってことかな」
「そうだね。中野さん、意外にそそっかしいところあるし」
「ふんだ。シンジくんだって結構天然なの、もう分かってるんだからね」
「ごめんごめん」
 そうして二人は少し時間があるということで、近くのマクドナルドに入る。
「でも、シンジくんと来られてよかった」
「僕も中野さんと一緒でよかったよ」
「本当に?」
「もちろん」
「唯先輩とだったら、どっちがよかった?」
 シンジは苦笑する。
「難しい質問だね」
「唯先輩から告白されたって本当?」
「うん」
「どうするの、付き合うの?」
「分からない。自分の気持ちが恋愛っていうものに向かっていないのは自覚してるけど、平沢先輩も、それに中野さんも、気になっているのには違いないから」
「そうなんだ」
 ここまできて、さすがにお互いの気持ちが分からないということはない。
「こんなところで言うのもなんだけど、でも、すっきりしないから言うね」
「うん」
「私、シンジくんが好き」
「うん」
「チェロを弾いているときとか、誰にでも優しいところとか、全部大好き」
「ありがとう。僕なんかをそんなふうに思ってくれて、本当に嬉しい」
 そう。梓から好かれるのは本当に嬉しいことだ。だが、梓が自分にとって本当に好きな人なのかどうかは分からない。自分ではそこまで判断がつかない。
 自分のことなのに、自分が一番よく分かっていない。
「シンジくん、私や唯先輩のこと、よくは思ってくれてるんだよね」
「うん」
「じゃあまず、唯先輩のどこが好き?」
「平沢先輩か」
 ゆっくりと考えてみる。
 いつも笑顔で、天然で、何かというとすぐに抱きついてきて──
「あったかいところかな。平沢先輩と一緒にいると、自分の心がぽかぽかしてくる感じがする」
「あ、それ分かる。憂も同じこと言ってた」
「基本的に平沢先輩はあったかいっていう印象が強いんだよね」
「うん。それじゃあ」
 梓は一呼吸置く。
「私は?」
「中野さんは……」
 こちらもゆっくりと考えてみる。
 いつもはきはきしていて、自分のことを気づかってくれる優しいところがあって、ただ何といっても──
「中野さんはかわいいよね」
「かわいい?」
「うん。親切で優しいところもいいと思う。でも、中野さんを見ているとこっちまで楽しくなって、嬉しくなってくる」
「褒められてる?」
「もちろん」
「そっかあ」
 梓は嬉しそうににこにこ笑う。
「表情がよく変わるよね。怒ったり、笑ったり、そういうところが僕は気に入ってる」
「あ、ありがと」
「照れるところもかわいいところだと思う」
「ばか」
 真っ赤になってうつむく梓。ああ、かわいいな、と純粋にシンジは思う。
 だが。
「ただ、平沢先輩も中野さんも、僕はまだ『好き』だとは思えていない」
「うん」
「だから、まだ時間がかかるかもしれないけど、待ってもらえるかな。僕も自分の気持ちがはっきりしないまま、二人に中途半端な答を出したくない。二人とも本当に僕のことを好きになってくれたから、僕も真剣に二人の気持ちについて考えたい」
「うん。待ってる」
 ほっとしたように梓が微笑む。
「今日は、本当はその話が一番したかったんだ」
「僕もだよ」
 シンジは落ち着いたように微笑む。
「最近、何かというと田井中先輩がからんでくるから、正直困ってたんだけど」
「私やシンジくん、唯先輩が自分のことをしっかりと理解していれば、何も問題ないもんね」
「そういうこと」
 そうして時間を見ると、ちょうど会場入りの時間になっていた。
「それじゃあ、今日はゆっくりとクラシックを見ようか」
「うん。シンジくん、解説お願いね」
「まかせて」
 そうして二人は笑顔で会場へ向かった。






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