第壱話

使徒、襲来











 空。雲。風の流れ。山。線路。電車。鐘の音。駅。ホーム。道路。
 誰もいない、街並み。
「……都会じゃなかったのか……?」
 何があったというのか、その駅で降りた時他に人は誰もいなかった。駅職員、乗客、そこにいるはずの大勢の他人。だが、いないのならいないで別にかまいはしない。喧騒よりは静寂の方がここちよい。
「……ったく、こんなとこまで呼んどいて、迎えもなしか?」
 手の中にある手紙と、写真。手紙には簡単に「来い」という命令に、それを記した男の名前が書かれている。そして写真には、どこかおっとりとした優しそうな三十前後の女性。
「……この人が迎えに来るってことだよな……」
 だが、駅のホームを出てもそれらしい姿はどこにもない──誰一人いないのだから、当然この女性もいるはずがない。
「……なんでこんなことになっちまったんだろうなあ……」
 ここに来るつもりなどなかった。
 父親になど、会うつもりは欠片もなかった。
 それなのに、ここへ来た。
 逆らいがたい、何かを感じたから。
 この街に、自分が求めているものがあると感じていたから。
 青年──碇祐一は、手の中の手紙を握りつぶした。
「お前に会うつもりはさらさらないんだ」
 自分に言い聞かせるように呟く。もちろん、それを聞くものは誰もいるはずがない。
 手紙の指示どおり、簡単な手荷物を持って、彼一人のために用意された特別列車に乗った。別に乗らなくてもよかった。だが、自分はこの街に来なければならなかった。
 どうしても、しなければならないことがあったから。
 だから、この誘いに乗ることは自分にとっては有意義なことのはずだった──父親のことさえなければ、だが。
 とはいえ。
「……これからどうするのかくらい、指示しろよな……」
 一人で勝手に行動してもいいというのなら、そうする。自分には行きたいところがある。だがそれは今すぐでなくてもいい。いずれ時間ができたら、一度だけその場所に行きたいと思っている。
 だが父親が呼び寄せたというからには、こちらに行動の自由などというものはないだろう。
「どうすっかな……」
 駅付近にはいくつも店があったが、それらは全て「本日休業」の札がかけられている。
「なんでやねん」
 いくら第三新東京市だからといっても、ホームが十もある駅が小さな方だということはないだろう。だいたい職員がいないことからして変だ。店という店が閉まっているのも変だ。人っ子一人いないのはさらに輪をかけて変だ。
「せめてゲーセンでもやってりゃいいんだが」
 それっぽい店は全てシャッターが下りている。
 いったい何があったというのか。
「まいったなあ……」
 祐一は適当に駅を出て、夏の日差しを浴びる。今日は随分と熱い。まだ春だというのに。今年は猛暑になるかもしれない。
「寒いのもいやだが、暑いのもいやだ……」
 冬のアイスクリームと、夏の鍋焼きうどん。どちらが地獄だろうかなどと考え──不毛なことだと気付いてやめた。
 ふと、虫の声が聞こえた。
「……そういや、生態系が戻ってきてるとかなんとか……」
 インターネットで見た記事を思い出す。こう見えても新聞の一面に載るような記事には一通り目を通している。もっとも、そのほとんどは見出しだけなのだが。
 虫の声のした方に目を向ける。そちらにも長い道路が、延々と伸びていた。
 その、歩道。
「……?」
 人がいた。
 自分と同じくらいの年の、少女、のように見えた。

 ドゴオオオオオオオッ!

 だが、その少女の姿は爆音と共に消えた。
 何事だろう、とその音がした方を見つめる。
「……なんだ、ありゃ」
 別に、怖かったわけでも、自分の目を疑ったわけでもない。
 純粋に、その言葉が出てきた。
「なんだ、ありゃ」
 ビルよりも高い『何か』が、そこに現れる。
 人の形、といっていいのだろうか。二足歩行をした物体。当然両腕が生えている。
 もちろん、人間と同じ形をしているわけではない。色は緑と黒の斑で、首がなく頭が体に埋まっているような感じだ。
 そしてその物体の回りを囲むかのように、ヘリコプターが一〇機から飛んでいる。
「ありゃ、攻撃ヘリか……?」
 祐一もミリタリーには詳しいわけではないので、あくまで推測だった。推測とはいえ、それは正解に他ならなかったのだが。
「……さっきのは、ヘリのミサイルか……?」
 祐一の言葉を証明するかのように、一斉にヘリからミサイルがその物体に向かって発射される。
「おいおい(汗)」
 ようやく分かった。
 この一帯に、人の気配が全くないことの理由が。
「まーだーこーこーにー」

 ドガガガガガガガガッ!!!!

 民間人が残っているぞ、と叫んだつもりなのだがそれも爆音によってかき消される。
 爆発による煙がその物体の回りに巻き起こり、祐一の目から隠れる──その後で爆風が祐一のもとまで届いた。吹き飛ばされるほどのものではなかったが。
「こりゃ、戦争か?」
 あんな兵器が開発されているとは知らなかった、と冷静に頭の中で思う。
「なんなんだろな……」
 この期におよんで冷静さを失わない祐一もただものではなかっただろう。もちろん、あの謎の物体が自分を攻撃しようとしているのではないと分かっているからこそ落ち着いていられるのだが。
「この場所にいて巻き添えとかくわないだろうな」
 まさかとは思うが核兵器なんかで止めようとは……。
 ちょっとだけ怖くなった。だがそう思ったとしてもここからどこへ逃げればいいのかも分からない。おそらくは近くにシェルターか何かあるのだろうが、今から探しても見つかるはずがないだろうし、見つかってもおそらく外から開きはしないだろう。
「しゃーねえ、そこらへんのバイクでも失敬して……」
 と、思っていると、道路の向こうからいやにゆっくりと車が一台近づいてきた。
 なんだかいやな予感がした。
 その車はまっすぐこっちに向かってくる。
 逃げようか、と思った。
 だが、やめた。
(仕方ないよな……)
 今はここから逃げることが先だし、それには足(車)があった方がいい。
 予想どおり、その車はゆっくりと減速して、ゆっくりと自分の目の前で停車した。
 運転席に座っている人はもちろん、見たことのある女性だった。
 そのドアが開いて、女性が降りる(!)。
「どうも、遅れ──」
「いいから車出してください。急ぐんでしょう?」
 祐一は写真の女性が挨拶しようとするのを止めて、助手席に飛び乗る。
「はいはい」
 やけに女性はゆっくりとしていた。





 時に、西暦二〇一八年。

 使徒、襲来。





「なぜだ! 直撃のはずだ!」
 大スクリーンに向かって罵声と愚痴がこぼれる。それを聞いて、男はニヤリと笑った。
「通常兵器で使徒にかなうと思っているのか。おめでたい連中だな」
 男の隣に立つ初老の紳士がそう呟く。
「やはり、A.T.フィールドか」
 初老の紳士が言う。
「ああ」
 それに、男が答える。
「さて、この事態に対して戦略自衛隊はどうするつもりかね」
「石橋」
「なんだ、碇」
 石橋、と呼ばれた初老の紳士は隣に座る男に答える。
「何でお前が冬月の役をやっているんだ」
 その問いはあまりに重たかった。そのような自分の意思ではどうにもならないようなことを私に聞かないでくれ、とその顔は明らかに語っている。
「先生つながり、ではないかな」
 あくまで重たく、石橋は答えた。
「なるほど」
 碇、と呼ばれた男はまたしてもニヤリ、と笑う。
「……私には、お前がゲンドウの役をやっていることの方が信じられんよ」
 石橋はため息混じりに言う。碇はその笑いを崩さなかった。
「問題ない」
 その、直後。
「どうやら、『N2地雷』を使用するようだな」
 石橋が言う。
「……かまわん。これで奴らも使徒が自分たちの手に負えないことが分かるだろう」





「……あら?」
 制限速度でとろとろと走りながら、女性は首を傾げた。
「どうかしたんですか?」
「いえ──どうやらちょっとまずいことになったみたいです」
 そう言うと、女性は道の脇に丁寧に車を止める。
「降りてください」
「ここでですか」
「できれば、早くしてくださると助かるんですけど」
 どこまでもゆっくりとした女性だ。
 祐一はいい加減疲れてきていた。
「……分かりました。それで、どうすればいいんですか?」
「とりあえず伏せてください」
「伏せる?」
 その、瞬間。
 強烈な閃光が辺りを襲った。
 続いて、爆音。



 ドガガガガガガゴゴゴゴゴゴオオオオオオオッッッッ!



「情けないことに、耳が悲鳴をあげていてな、まだ満足に聞こえないんだ」
 セカンドインパクト前に放送されていたというアニメのセリフを吐く。そして次に襲い掛かってくるものを予測して、伏せた。
 光、音、とくれば次は当然。
「ばくふうすらんぷ〜!」
 意味不明な祐一の叫びは爆風にかき消された。
 それが収まったとき、辺り一帯は──ちょっとした惨状となっていた。
(これをちょっとしたって言うかね)
 とりあえず車を風避けにしなかったことは正解だった。なぜならその車が飛ばされて完全に横になっていたからだ。横になっただけで済んだのは重畳だろう。元に戻せば、また乗れるのだから。
「あらあら、ちょっと埃っぽいですわね」
 そうじゃないだろう、とは思うが突っ込まない。もうこの女性が普通の感覚を有していないことは理解していた。
「それじゃ、とりあえず車起こしますか」
 祐一はげんなりして言う。当然、力仕事となるとこの女性に期待するわけにはいかない。
「がんばってくださいね」
「……」
 なんとなく釈然としない、十六の春だった。





「我々の切り札が……」
 今度は、罵声すら出なかった。もはや彼ら、戦略自衛隊の幹部がその顔に表していたものは諦めしかなかったのだ。
「化け物め」
 それすら、負け惜しみでしかない。相手が化け物であるなら、こちらはその化け物をしとめることができるだけの兵器を作らなければならない。それが戦争というものなのだ。
 大スクリーンには、左肩を失ってその場に立ち留まる使徒の姿が映し出されている。
「予想どおり、自己修復中だな」
 石橋が言う。その瞬間、スクリーンは砂嵐となった。
「……おまけに、知恵もついたようだ」
 すぐに別のカメラに切り替わって、修復中で動けずにいる使徒が映し出される。
「知恵?」
「ああ」
「だが、やつには知恵などというものがあるのかね」
「ないな、本来なら」
 碇の言葉に反応するかのように、使徒のコアの部分、すなわち胸に位置している光球が変化し、そこに顔が現れた。それは明らかに人間の顔に酷似していた。
 どことなく、いやらしさを感じた。
「……碇」
「なんだ」
「こころみに聞くのだが、あの第三使徒、名前はなんといったかな」
「クゼエルだ」
「……」
「……」
 しばし、沈黙が二人の間に流れる。
「悪だな」
「ああ、問題ない」
 碇はニヤリと笑った。





「……葛城、秋子さん、ですか……」
 既にぼろぼろと化した新型マーチに乗って、二人はのんびりとドライブを楽しんでいた。その途中、運転していた女性が名刺を渡して、名乗ったのだ。
「はい。名字が違うのは愛嬌ですし、祐一さんも同じですから気になさらないでください」
 もちろん気にしない。気にする必要もなかったからだ。
「それで……」
「はい。これに目を通しておいてもらえますか」
 秋子さんは左手で後部座席を探る。もちろん、右手はハンドルを握ったままだし、まっすぐ前を向いているのでなかなか目的のものが手にあたらない。
「これですか?」
 祐一は書類が大量に入ったB4型の茶封筒を手に取る。
「それです」
「これが?」
「読んでおいてください」
「今ですか?」
「できるだけ、早くにお願いします」
 左手を頬にあてて、微笑みながら言う。この微笑の前には、さしもの祐一も逆らえなかった。
「……読みます」
 仕方なく茶封筒から資料を取り出す。
「特務機関ネルフ……」
「はい」
「父親の職場ですか」
「そうなりますね」
「秋子さんも?」
「秘密です」
「ばればれです」
「残念です」
 その笑顔からはどこにも残念さなど見つけることはできなかった。
「どういう組織なんですか?」
「国連直属の、非公式な組織です」
「もしかして、さっきの化け物と戦ったりするんですか?」
「ご明察です」
 何となく嫌な予感がした。
「父親は、どういう地位なんですか?」
「総司令です」
 総司令。ということは、ネルフでは一番偉いということか。
「秋子さんは?」
「その部下、というところです」
 その笑顔はいささかも曇りはしない。
(……本心を見せない人だなあ……)
 ある意味、これ以上苦手な人もいないのではないか、とも思う。
 と、その時、携帯電話が鳴った。秋子さんはヘッドフォンをつける。
「もしもし」
『もしもし、秋子さん?』
「はい、真琴ちゃん?」
『うん。無事なのね、今どこ?』
「ええと、本部のすぐ傍です」
『もう、秋子さん。近くまで来たら連絡してって言ったじゃない』
「ごめんなさい、祐一さんと話していたから」
 会話の内容は、祐一にはよく分からない。だが、どうやら目的地が近いということは分かった。
 やれやれ、と重いながら再び資料に目を落とす。
(その、総司令とやらがいったい俺に何の用があるっていうんだよ……)
 世の中で、自分の父親ほどに嫌いなものはない祐一の、それは純粋な疑問であった。





「碇君」
 自分たちよりも高いところにいる三人が、こちらを見下ろして言う。
「今から、本作戦の指揮は君に移った。お手並みを拝見させてもらおう」
 中央にいる男が言う。
「了解です」
 碇は静かに答える。別に、誇張する必要も抗う必要もない。
「碇君、我々戦略自衛隊の兵器が目標に対して無効であったことは、素直に認めよう。だが、君なら勝てるのかね?」
 どうやら、こちらが何も言わないことが相手の癪に障ったようであった。だが、その程度で怯むようなネルフ総司令ではない。
「そのためのネルフです」
 その答に安心を覚えたか、苛立ちを覚えたか。いずれにせよ戦略自衛隊の幹部たちは去っていった。
「戦略自衛隊はやはりお手上げのようだな。どうする、碇」
「初号機を起動させる」
「初号機をか。だが、パイロットがいないぞ」
「問題ない。今、予備が届いた」
 だが、碇は平然としていた。










NEON GENESIS KANONGELION


EPISODE:01   “ANGEL” ATTACK











「これが私たち、秘密基地ネルフ本部、世界再建の要、人類の砦となるところです」
「ジオフロント」
「そうです。ここに、祐一さんのお父さんもいらっしゃいます」
「父親ねえ」
 気乗りしなかった。当然だ。
 自分を捨てた──正直、捨てられてよかったと思っていたが──男になど別に会うつもりもなければ会いたくもなかった。
 ただ、自分を捨てて七年にもなる父親という存在が、いまさら何を言うつもりなのかと、言うなれば好奇心だけでここまで来たようなものだ。
 それから──この第三新東京市に入る口実にするために。
 と、そのようなことを考えていた時、
「遅かったですね」
 通路の途中に、少女が待っていた。
 美少女だ。
 祐一の目が光った。
「美汐ちゃん」
「ですから、その呼び方はやめてください」
 赤紫色の髪は短く耳下でカールがかかっている。およそ笑顔というものが感じられない、不機嫌そうな表情。身長は秋子さんよりもさらに低いだろうか。
「わざわざ迎えに来てくれたの?」
「秋子さん一人だと時間がかかりすぎるという全員の一致です」
 何を言いたいのかは分からなかったが、おそらくその判断は正しいだろうと祐一も思う。
「この方が、サードチルドレンなのですか?」
 美汐、と呼ばれた少女がこちらを見上げる。
「ええ、三人目の適格者」
「はじめまして。碇祐一。よろしくな」
 さっと手を出す。だが、彼女はその手を取らなかった。
「私は技術部の赤木美汐です」
 言葉だけだったことを少しだけ、もといかなり残念に思う祐一。
「こちらへ来てください。総司令にお会いしていただく前に、見てほしいものがあるのです」
 美汐が先頭に立って歩き出す。その後を秋子さんが「あらあら」と言いながらついていく。
「……なんだかなあ」
 祐一は出した手をひっこめて、その後をついていった。





『使徒、前進を開始。最終防衛線を突破します〜』
『……最終予測目的地……第三新東京市……』
 やたらと間延びした声に続いて、まるで呟くかのような小声がスピーカーから流れる。
「……うちのオペレーターは、もう少し教育をしなければいかんな」
 石橋が苦笑した。目下で、三人の美少女たちがディスプレイに表示されたことを復唱し、キーボードになにやら打ち込んでいく。
「石橋、後を頼む」
「ああ」
 碇総司令はそう言い残すと、発令所から姿を消した。
「七年ぶりの息子との対面か」
 石橋もまたニヤリと笑った。
「父親の正体を見たら、驚くだろうな」





「これは……」
 祐一は、目の前に現れたモノを見て息を呑む。
 これは、なんだ?
 紫色のボディが、妖しく光る。
「ロボット……」
「厳密には、違います」
 思わず口にした言葉を美汐が否定する。
「人が造りだした、対使徒用汎用人型決戦兵器、カノンゲリオン」
「その、初号機です」
 カノンゲリオン。
(ベタなネーミングだ……)
 そう思ったことは秘密にしておこうと心に誓い、とりあえず手元の資料に目を通す。
「どこにも、書かれていませんよ。カノンゲリオンは最重要機密事項ですから」
 美汐が言う。
「……これで、使徒と戦うんですか」
「そういうことになりますね」
 あくまでマイペースな秋子。
「なるほど、これも父親の仕事というわけですか」
「その通りだ」
 その声は、秋子さんでも美汐でもなかった。
 カノンゲリオンの向こう、一段と高い位置に設けられている特設ブース。
 そこに、父親がいた。
「祐一、お前が乗るんだ」
「俺が──」
 と、答えるよりも先に頭に浮かんだのは別のことであった。
「──って、誰だよお前」
 感動の再会もへったくれもない、純粋な疑問であった。
「父親を忘れたのか。親不孝な子だな」
「七年もほったらかしにしておいてよく言えた台詞だな──と言いたいところだが、正直に答えろ。お前、誰よ」
 本当に分からなかった。
 少なくとも、自分はこの人間に『会ったことがなかった』のだ。
「知りたいか」
「さっさと言え」
 男はニヤリと笑った。
「私は碇往人だ」
「……」
「……」
 長い沈黙の時間だった。
「カノンキャラじゃねーだろがっ!」
「失敬な。少なくとも鍵キャラではある」
「エアの人間がこんなとこまで出張ってくるんじゃねえっ!」
「そうでもしないと、男性陣が足りないのでな。まさかお前も、あの久瀬を父親に持ちたいとは思うまい」
「だいたい、お前何歳だよ」
「二十前後かな」
「俺は十六、もうすぐ十七だ」
「そうなるな」
「どー考えても無理があるだろっ!」
「問題ない」
 ニヤリ、と往人は笑った。どうやら自分の演じるキャラクターというものを勉強してきているようである。
 祐一もここにきてこれ以上の議論は無駄と悟った。
「だいたい、なんで俺が乗らなきゃならないんだ」
「お前以外の者には無理だからな」
「お前が乗れよ、往人」
 すると往人は、鼻で笑った。それはいつものニヤリ笑いとは違った、少し気障ったらしい仕草であった。
 そして、おもむろに後ろポケットから手のひらより少し大きめの人形を取り出す。
 それを、祐一にも見えるようにブースの端っこに置いた。
(何をしてるんだ……?)
 祐一がそう思うのも束の間、その人形はトコトコと歩き出した。
「……」
「……」
「……」
 自分のみならず、秋子も美汐も目が点になっていた。
「今はこれがせいいっぱい……」
「セカンドインパクト以前の古いギャグやってんじゃねーっ!」
 こんなこともあろうかとポケットに忍ばせておいた軽石を投げつける。残念ながら強化ガラスに弾かれてしまったが。
「何でこんな奴が父親なんだ……」
「同情します」
 何故か美汐が肩をたたいて慰めてくれた。今は慰めが心地よかった。
「祐一」
 往人はいつの間にか人形を元の位置に戻して、威厳のある表情で息子を見下ろす。
「乗るなら早くしろ、でなければ帰れ」
「帰る」
「うわ、はやっ」
 往人は思わずうめいていた。
「お前、わざわざ父親が呼んでやったというのに、考える間もなく帰るとはどういうことだ」
「誰が父親だ、誰が」
 祐一は顔をひきつらせていた。
 自分に父親がいることは知っていた。というか、確かに会ったこともある、はずであった。
 それがこんな大馬鹿親父だったとは、思いもよらなかったが。
「祐一さん」
 すると、隣で秋子さんが話し掛けてきた。
「……乗って、くださいませんか」
「申し訳ありませんが」
 返答は早い。
 別に自分はこんなものに乗るために来たわけではなかった。七年も息子をほったらかしにした父親がいったい何を言うことがあるのかと思ったからここまで足を運んだだけのことだ。
 用事は済んだ。
 だから帰る。
 それだけのことであった。
「やむをえん。赤木博士、初号機のシステムをファーストに書き換えろ」
「分かりました」
 美汐は素直に答える。秋子さんも諦めたのか、少しだけ残念そうな顔でその場を立ち去ろうとする。
(やれやれだな)
 全く、何故こんなことになったのか。
 とにかく、これで用事の一つは済んだ。あとは──目的の場所へ行くことにしよう。そう考えて祐一もまた格納庫から出ようとした。
 と。
 そこへ何人かがカートを運んできた。その光景に違和感を覚えて、視線を送る。
 そこに、少女が横たわっていた。
「な……」
 その姿を見た祐一は言葉を失った。
 身体中を包帯でがんじがらめにされている、というのがもっとも正しい表現のように思えた。そしてその包帯は彼女の顔にまで及び、右眼を完全に覆っている。
 まさか。
 まさか、この少女が、乗るというのか。
 この、カノンゲリオンに。
 少女は人の肩を借りて、それでも降りようとする──その時であった。

 ゴゥンッ!

 格納庫全体が大きく揺れ、そこにいた者たち全てがバランスを失って、倒れる。それは祐一とて例外ではなかった。
「くうっ」
 祐一は突然の震動で倒れたが、自分のことよりも気にかかることがあった。
 あの少女は。
 確認した時、彼女が床に倒れているのが見えた。
「ちっ」
 舌打ちして駆け寄る。遠目にも彼女が震えているのが見えた。
「大丈夫か」
 少女を抱き上げると、その震えは現実のものとして祐一に伝わった。まるで自分まで揺れているかのような、そんな気を起こさせるほど強いものであった。
 抱き上げた自分の手が、血で汚れていた。
(な……んて)
 これはいったい、何だというのだろうか。
 何故、この少女が、こんなにも怪我を負っているというのに、ここへ連れてこられなければならないのか。
「……大丈夫か」
 いつになく冷静さを欠いていることが自分で理解できた。それほどに、少女の容態は自分に衝撃を与えていた。
「うぐぅ……」
 元気があるのかないのか分からない答であった。その声を聞いて、一瞬冷静さを取り戻しかけるが、彼女の震えがまたそれを取り払っていく。
「何故、こんなになってまで……」
 だが、それに答えられるほど彼女の容態はいいとは言えなかった。がくがくと震え、ついには悲鳴のようなものまでその口から漏れる。
 こんな状態であの機械にのって、あの化け物と戦うというのか。
 確率などという問題ではない。間違いなく死ぬ。
 それが分かっていて、この少女は戦うというのか。
「……ふざけてる……」
 何もかもが。
 少女に戦いを強制する父親も。
 それに従順に従おうとする少女も。
 そして、指をくわえてそれを見ている自分も。
(自分が……)
 自分があれに乗れば、この少女は乗らなくてすむ。
 だがそれは、この世界に足を踏み入れるということを意味する。
 父親と、同じ場所に居続けるということを意味する。
(逃げろ)
 父親から。
 戦場から。
 自分を苦しめる、全てのモノから。
(逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ……)
 だが、
 手の中の少女の震えが、その誘惑を断ち切った。
(……人助けなんて、柄じゃないんだがな……)
 これも美少女のためなら、仕方がないというべきか。祐一は苦笑した。
 そして、少女を軽く抱きしめると顔を上げて、しっかりと言った。
「俺が乗る。準備を頼む」





「真琴ちゃん、状況を報告してください」
「初号機冷却終了まで一二〇秒です」
「舞ちゃん、目標の現在位置を教えてください」
「……既に市内に侵入……零地点に向けて進行中……」
「佐祐理ちゃん、初号機、起動完了次第直上に投射してください」
「了解しました」
 秋子は発令所に戻り次第、次々に指示を出す。そして、初号機内の祐一にマイクで話し掛けた。
「大丈夫ですか?」
「まあ、なんとか」
「がんばってくださいね」
「やるだけはやってみますよ」
 祐一はかなりやる気がなかった。
 さっきはどうかしていた。目の前で起こったことに気が動転して、自分らしくない行動をとってしまった。
 はあ、とため息をついた時である。
『起動準備開始』
『LCL排水開始』
 いろいろと声が聞こえてくる──感じからして、まだ若い女の子の声だ。
(ま、いいか……)
 美少女と会う機会があるのなら、こうして努力するのも少しは耐えられるというものだ。
『エントリー・プラグ挿入』
『プラグ固定完了』
『エントリー・プラグ注水』
 注水?
 なにやら妖しい言葉を聞いた気がした、その直後である。
「どわっ!」
 思わず悲鳴をあげたのは彼の責任ではあるまい。彼に十分なレクチャをしなかった美汐の責任である。
『心配しないでください。それはLCLといって、エントリー・プラグが満水になると──』
 そんなことを言っている間にも、既にLCLは満水になってしまっていた。
(お、お、おぼれる……)
 必死に息を止めて耐える祐一。
『大丈夫です。肺がLCLで満たされたら、直接酸素を取り込んでくれますから』
(まじかよ……)
 泣きたくなった──いや、実際泣いていた。
 誰も、おぼれる経験などしたくはないものである。
「がはっ」
 信じて──半ば息が続かなくなって、ついに残っていた息を吐き出す。
 が、確かに苦しくはない。LCLが肺の中を満たしていく……。
(……って、肺……?)
 どういう仕組みなのだろう、と頭の中で思う。
「なんか、気持ち悪いっすね、これ……」
『大丈夫です、すぐに慣れますから』
「そう願いますよ」
 不思議とこのLCLの中というのは話までできるらしい。
(そういや、どうやって戦うんだろ……)
 まあいいか、と思いながらあとは時間が進むに任せた。
『主電源接続』
『全回路動力伝達』
『起動開始』
(何が始まるんだかな……)
『絶対境界線まで、残り一.〇』
『〇.五』
『〇.三』
『〇.二』
『〇.一』
『カノンゲリオン初号機、起動!』
 何かが、動いた。
 祐一はそれを感じた。





「シンクロ率──うそっ」
 佐祐理は信じられず、声をあげた。
「佐祐理さん、報告をお願いします」
「は、はい……シンクロ率、四一.三%、です……誤差は、〇.三%以内です」
「初めての起動で四〇%を超えたというのか……」
 佐祐理の報告に、舞が答える。
「事実よ、受け止めなさい」
 それに注意を与えたのは、美汐である。正直、自分でも一瞬呼吸を忘れるほど驚いていた。
「……祐一さん」
 秋子がいつになく険しい顔で、大スクリーンを見つめる。
 そして、告げた。
「初号機、発進!」









次回予告


 カノンは使徒に勝つ。だがそれは、すべての始まりにすぎなかった。
 他者との関係を断ち、一人でいいと言い切る祐一を、秋子は自分が引き取ろうと決心する。
 だがそれは、祐一の健康を考慮したにすぎなかった。
 祐一はその夜、自らの心を、閉じる。

「……やっぱりカノン、暴走するんですか?」

 次回、見知らぬ天井。
 さて、この次もサービスしますね。





第弐話

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