突如目の前に広がる風景。暗い。高い。
 ここはどこだ?
 自問する。当然、答は決まっている。
 第三新東京市。
 そして、自分だけの戦場。
 目の前には敵。
 二足歩行し、手から不思議な光線を発射し、この街を破壊しようとする獣。
 否、使徒。
「……やってやろうじゃねえか」










 第弐話

 見知らぬ天井











『祐一さん、祐一さん、聞こえますか?』
 無線が入る。あくまでも目の前にいる敵に集中しながらそれに答える。
「秋子さんですか?」
『そうです──念のために聞いておきますけど、体の具合とか、何か問題はありませんか?』
 問われてから自分の手足を見る──あくまで敵を視野に入れながら。
「大丈夫みたいですけど」
『そうですか。では、とりあえず歩くことから始めてください』
「歩くんですね」
『はい、歩いてください』
 敵を目の前にしてそんな悠長なことをしていてもいいのだろうかなどと考える。だが確かに、このカノンゲリオンのことが分からないままでは攻撃することもできない。
 まずは、歩く。
 右足を、出す。

 ズシン。

 おお、歩いた。
 では左足。

 ズシン。

 なんだ、結構簡単だな。
 じゃあ、とりあえず止まってみよう。

 ぴた。

 うん、止まった。
 なるほど、自分の思ったとおりに動くというわけか。何となく動きが鈍いような気はするが、それは自分の意識がカノンゲリオンに伝わるまでにタイムラグがあるのだろう。
 では、片足立ちなんかもできるのだろうか。
 思ったら即実行。

 ひょい。

 手を水平に伸ばして、右足の太ももを上げる。うん、完璧だ。
 ……。
 何をやっているんだ、俺は。
 そんなことをしたいんじゃないだろう。
 そう、問題はこの状態からいかなる芸ができるか……。
「なんでやねん」
 カノンゲリオンの右手が空を切る。
 使徒の視線が痛かった。
「……なんでやねん」
 別に突っ込みをいれろと念じたわけではないのに、カノンゲリオンが勝手に動いてしまった。
 はっきりいって、めちゃくちゃ恥ずかしい。



「すごい……」
 美汐が呟く。秋子も困ったように左手で頬をおさえていた。
 目の前の大スクリーンで、カノンゲリオンが歩き、片足立ちをし、しかも突っ込みまで入れているところを目撃してしまったのだ。
「祐一さん、完璧にカノンを乗りこなしているみたいですわね」
「人類の英知が、あんなふうに使われるなんてショックよね」
 おそらくは誰しもが思っていたことを代弁したのは、オペレーターの日向真琴であった。
「真琴ちゃん、それは言わない約束よ」
「す、すいません秋子さん」
 何故か青ざめた顔で真琴は再びモニタに目を向ける。
「祐一さん。聞こえますか?」
 マイクに向かって、秋子が話し掛ける。
『……感度良好ですよ』
「浮かない声ですのね」
『いろいろありまして』
「見てましたよ」
『げふっ』
 微笑ましいやりとりが、指揮官とパイロットの間で繰り広げられる。
「祐一さん。ウェポンラックにプログレッシブナイフが装備されています。攻撃するときはそれを使ってください」
『ナイフ、ですか』
「はい。敵の弱点は、おそらくあの光球、人の顔らしきものが見えているところだと思われます」
『あのいやらしい気障ったらしい、人類の敵みたいな顔のことですね』
「はい。実際、人類の敵ですから」
 その場にいた者は、今の言葉の裏にいろいろなものを感じた。だが誰も何も言わない。
「というわけですので、好きなようにやっつけちゃってください」
『分かりました。五分刻みで解体してさしあげます』
「それから、もう一つ」
『なんですか?』
「気をつけてくださいね」
 一瞬の間。
『了解』
 そして、通信が途切れた。



(気をつけろとは簡単に言ってくれるけどさ……)
 言われたとおり、プログレッシブナイフを取り出して、構える。それを見たクゼエルがいやらしく笑った。
「ちっ、ヤなヤローだぜ」
 こいつは殺す。
 絶対に殺す。
 何があっても殺す。
「いくぜっ」
 その瞬間、祐一は風を感じた。
 本来、感じるはずのない、外の空気。
(なんだ?)
 そして、みるみるうちにクゼエルとの距離が詰まる。
「もらったぜっ!」
 その、憎らしい顔めがけてナイフを振りおろ──
「!?」
 ──そうとしたのだが、突如現れた八角形の壁によって完全に受け止められた。
「な、んだよこれっ!」
 戸惑いは、集中力を削ぐ。
 クゼエルの伸びた左腕が、初号機の頭を掴んだ。
「しまった──」
 さらに、右手が初号機の左腕を掴む。
 強烈に。

『ぐあああああああああっ!』

 祐一の叫びは、当然のことながら司令部にも響いた。オペレーターズがいずれも苦心の表情で戦況を見つめている。
「落ち着いてください、祐一さん。掴まれたのは初号機のひだ──」
『ぐあああっ、かはっ、うがああっ!』
「……聞こえてないみたいですね」
 困りました、とでも言わんばかりに左手で頬をおさえる。いつものポーズだ。
 だが、そんな悠長なことを言っていられる場合ではない。クゼエルの右手からさらなる圧力が加わり、そして──
 いやな、音がした。

『──!』

「左腕、損症!」
 ゆっくりと、左腕が落ちていく。
 祐一は、あまりの激痛に嘔吐感を覚えた。いや、ショックのあまり気を失いかけていた。
「回路断線!」
 オペレーターから、次々と報告が入る。だが、秋子は表情をなくしたままじっと戦況を見つめているだけだ。
「ここまで、ですね」
 そして、ちらりと後ろに控えている総司令と副司令を見る。
 こと、上からの指示がない限りは戦闘における指示は全て秋子が出すことになっている。すなわち、秋子が初号機回収を命令すれば、この戦闘は終わるのだ。
 だが、その指示は一足遅かった。
 クゼエルの左手が、初号機の頭部を押さえたまま光る。そして、その手からあの光線が発射された。

 ゴガンッ!

 初号機の頭部が揺れる。そして、また。

 ゴガンッ!

 二度、そして三度と、その攻撃は続いた。
「祐一さんっ」
 そして、最後の光線が放たれた。

 ゴグゥンッ!

 光線は初号機の頭部を貫く。そして初号機は吹き飛ばされて、後ろのビルに激突した。
「頭部破損! 損害不明!」
「制御神経が次々と断線していきます!」
「シンクログラフ反転!」
「パルス、逆流!」
「パイロットの生死、不明!」
 秋子は美汐を目を合わせる。
「作戦を中止します。パイロットの保護を最優先にしてください。プラグ、強制射出をお願いします」
「だめです、完全に制御、不能です……」
 佐祐理の言葉が、重たく響く。その時はじめて、秋子の表情が曇った。
「……そんな……」
 スクリーンに、壁を背にして完全に沈黙した初号機と、そこへ近づいていく第三使徒クゼエルの姿だけが映っていた。










 闇の中、重苦しい表情の人間が六人、席についている。上半身だけがライトアップされて映し出されているその光景は、異様ともいえた。
「碇君」
 手前の席に座っている人間は、声をかけられても口を開かない。質問ぜめにするほど、委員会の長老たちは無能ではない。狡猾にいたぶり、精神的にリンチをかける。そうして自分を篭絡しようとしていく。その手口が分かっているからこそ、いかなる苦痛といえども耐えることはできる。
「ネルフとカノン、もう少しうまく使えんのかね」
「零号機に引き続き、君らが初陣で壊した初号機の修理代、および兵装ビルの補修、国が一つ傾くよ」
「聞けば初号機は君の息子に与えたそうじゃないかね」
「オモチャに金をつぎこむのもいいが、肝心なことを忘れちゃ困る」
「君の仕事はそれだけではないだろう?」
 そして、最後に一番奥に座る人物が口を開いた。
「そのとおりだよお〜」
 やけに明るい声だ。
 老人、のはずがない。どう聞いても少女の声だ。
「人類補完計画。この計画が、唯一の希望ともいえるんだよお〜」
「くおら、佳乃」
 懐にしまっていた軽石を投げつける。やはりこういうところは親子といえるのだろうか。
「いたっ!」
「なんでお前がキース・ローレンツの役をやってるんだ」
「キースじゃないよ、佳乃・ローレンツだよお〜」
 右手にバンダナをした少女は涙目で訴える。
「エアキャラは俺だけじゃなかったのか?」
「知らないよぉ〜」
 往人は冷や汗をかいた。この分だと他のキャラも出てきそうで怖い。
「──とにかく、スケジュールの遅延は認められないからね」
「承知しております」
 なんで自分は頭を下げているんだろう、と心から悩む往人。
「予算については一考するから、そのかわり君を人類補完計画実行者一号に任命するよお〜」
 と言った途端、残りの四人がいっせいにざわめく。
「議長、一号は私ではなかったのですか!?」
「何だと、私こそ一号と任命されたのだぞ!」
「これはいったいどういうことなのですか、議長!」
「むむうぅ〜」
 困っている。
 明らかに困っていた。
「なお、情報操作の方につきましては、既に対処済みですので」
 一言述べると、往人は退席した。
 これ以上わけの分からないごたごたに巻き込まれるのはごめんであった。



 目を覚ましたとき、見慣れない天井が目に飛び込んでくる。
 風の流れが、頬を触っていく。
 頭が重い。左腕が、何となく痛い気がする。
「……どこだよ、ここ……」
 祐一は、ぼんやりとしながら呟いた。



「サードチルドレン、意識が回復したそうです」
 佐祐理の声に、司令部がほっと一息ついた。高みから見ていた秋子にはそれが分かった。
「とりあえず、良かったですね」
 美汐の声に、秋子が微笑んで頷く。
「これで自慢のジャムパンを食べていただくことができますから」
 だが、その司令部の安堵感は一瞬にしてついえさった。
「……秋子さんのジャムを、祐一さんに食べさせるのですか?」
 美汐が嫌そうにしている。
 当然だろう。
「ええ、そのつもりですけど」
 言外に込められた意味など全く解さず、秋子は嬉しそうに頷く。
「……まだ、安静にしていた方がいいと思うのですが」
 その言い回しは、彼女にしては随分と遠まわしだったかもしれない。もちろんそのような言葉づかいで秋子が怯むことはなかった。
「あのジャムを食べれば、元気になりますから」
 どんなジャムやねん、と思わず心の中で突っ込みを入れる美汐&オペレーターズ。本当に精神汚染を引き起こすつもりだろうか、と不安になる。
「あ、あの〜」
 控えめに、佐祐理が発言する。
「なんでしたら、私がお弁当持っていってあげてもいいんですけど……」
「佐祐理、あなたはここで仕事でしょう」
 美汐の冷たい声が飛ぶ。あるいは、祐一をさっさと謎ジャム体験組に参入させてしまいたいのかもしれない。
「はえぇ〜」
「それで、どうするつもりですか、秋子さん」
「とりあえず、祐一さんをこちらに連れてきます。皆さんも自己紹介しなければなりませんし」
「それはかまいませんが、その後は」
「その後?」
「ええ」
 美汐は少し言いにくそうに、顔をしかめる。
「祐一さんは、父親との同居を求めていません」
「そうですか」
「一人暮らしを希望しているとのことです」
「あらあら、それは困りましたね」
 やっぱり全然困ってないように言う秋子。
「一人暮らしだと、栄養が偏ってしまうことが多いですから」
「……いえ、そういう問題ではなく」
 一人にしておいた時の、祐一の精神状態の方が問題なのだと言おうとしたが、それよりも先に秋子が言った。
「では、うちで引き取りましょうか」
『ええーっ!』
 オペレーターズ、合唱。
「どうかしましたか?」
「い、いえ、その……本当にそれでよろしいんですか?」
「…………」
「そうよ、危険よ。あのケダモノ、秋子さんを襲うかもしれないじゃない!」
「いえ、そこまで気を使わなくても大丈夫ですから」
 まるで気にせず言う秋子。なかなか強者だと美汐は判断した。
「本当に、いいのですか?」
「ええ、家族は多い方がにぎやかで楽しいですから」
 どこかピントがずれている気がしないでもなかったが、秋子がそう言うのであれば問題はないだろう。
「では、今日の内に用意は済ませておきます」
「ご迷惑をおかけします」
 微笑みながら言う秋子に向かって、美汐は大きくため息をついた。



「……同居、ですか」
 自分は一人暮らしを希望したはずだが、と思いながら尋ねる。
「はい。もちろん、祐一さんがどうしてもいやだというなら、かまいませんけど」
 別に断る理由はなかった。
 逆にいえば、そうしなければならない理由もなかった。
「ところで」
「はい」
「俺、まさか今後もやっぱりカノンに乗らなきゃダメなんですか」
「いいえ」
 秋子は微笑みを絶やさない。
「祐一さんが乗りたくないと言うのでしたら、第三新東京市から離れていただくことになります」
「なるほど」
 秘密を知った以上、都市部には置いておくことはできない。かといって地方で野ざらしにするつもりもないのだろう。おそらく今後、死ぬまで見張りがつくことになるのだろう。
「では、カノンのパイロットでいることにしましょう」
 とりあえず目的を果たすまでは、と心の中で呟く。
「ありがとうございます。それで、お住まいはどちらになさいますか?」
 わざわざ考えるのも面倒だった。
「お任せします」
「任されました」
 妙に嬉しそうなのは、祐一の考えすぎだっただろうか。
「こちらが、司令部になります。現在碇総司令はいらっしゃいませんが」
 別に会いたくもない父親などどうでもいい。主要人物とのとりあえずの顔見せなど、さっさと終わらせて帰ってゆっくりとしたかった。
「どうぞ」
 だが、その考えは即座に切り捨てられた。
 中で待っていたのは、自分も予想だにしなかった三人の美少女であった。
「はじめまして。伊吹佐祐理です」
 にこやかな笑顔。まさしく女神という呼び名が相応しい女性であった。
「……青葉舞」
 逆にこちらはむっつりとした顔。嫌われているのだろうかとも思うが、どうやら単に表情を外に出さないだけのようであった。
「あたしは、日向真琴、よろしくね」
「日向真琴……マコト?」
「真琴」
 まんまじゃないか、と思ったがあえて口にはしない。
「みんな、随分と若いんですね」
 秋子に向かって言う。そうですわね、と微笑みながら答えた。
「そんなことより、あんたは?」
 真琴が言って祐一は、ああそうか、と呟く。自分の名前は全員わかっているはずだが、とりあえず型どおりのことはしておかなければならないらしい。
「碇祐一、よろしく」
 少しだけポーズをつける。一応、美少女用に自己開発したポーズだ。
「あははーっ、これからよろしくお願いしますねーっ」










NEON GENESIS KANONGELION

EPISODE:02   the BEAST−TAMER










 ネルフから支給されたというハイブリッドカーに乗って、秋子と祐一は自宅へと向かった。
 秋子の自宅は高級マンション街の一角にあるという。だが、そのような場所で一軒屋を持つということがどれほど大変かということは祐一にも分かった。
(金持ってるんだな、秋子さん……)
 と、あからさまに呟くようなことはしなかったが。
 とりあえず今日は『十分な』準備もできていないということだったので、ジャムパンパーティにすると秋子が決めた。
「何のパーティなんですか?」
 そう問い掛けると、秋子はさも嬉しそうに答えた。
「ぎせい──こほん、同居人の歓迎パーティです」
 ぎせい……?
 なにやらものすごく嫌な予感がしたのだが、まさかこれだけ人の良さそうな秋子さんが悪巧みをするとは思えない。ここはあえて聞かないことにした。
 やがて車が止まり、一軒の高級住宅の前で止まった。回りはマンションだらけなので、やけに目をひくのは仕方のないことだった。
「いい家ですね」
 掛け値なしにそう思った。敷地もしっかりとしているし、外装もかなり手がこんでいる。華美になっていないが、どことなく目が惹かれる。
「どうぞ、入ってください。少しちらかってますけど」
「じゃあ、遠慮なく」
 そう言って入ろうとしたのだが、玄関のドアに秋子さんが立ちふさがってしまったので、入るに入れない。
「……あのー……」
 いったい、これをどう解釈すればいいのだろうか。
「祐一さん、忘れていることがありますよ」
 忘れていること?
 ただいまのキスか?
 そんなことを秋子が期待しているはずがないのは分かりきっている。じゃあ、何だというのか。
(あ、そうか……)
 久しく、それこそ七年以上も誰かがいる家に『帰って』きたことなどないからすっかり忘れていた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
 そう言うと、秋子は中へようやく通してくれた。



 中は驚くほど綺麗に片付けられていた。
(これが──ちらかってる、だって?)
 これでも秋子にとってはちらかっている方なのだろうか。
(これをちらかってるって言うんだったら、世の中にちらかってない家はないだろうさ)
 新築の家だってもう少し埃がかぶっていてもよさそうなものだ。
 秋子は毎日ネルフの仕事で忙しいだろうに、いったいいつこれほど掃除しているのだろうか。
 聞いてみたかったが、何となく返ってくる答が怖かったのでやめることにした。
『寝ないでやってます』
(……んなこと、ないよな……)
 秋子だから何でもありなような気もする。だがまあ、あえて尋ねることでもないだろう。
「祐一さん、パーティの準備をしておきますから、先に着替えてきてくださいな」
「はい──って、着替え?」
「はい。今日のうちに祐一さんにとって必要になりそうなものは、全部ネルフ側で用意しておきました。もしまだ足りないものがあったら遠慮なく言ってくださいね」
「はあ」
 頭を悩ませる。
「それで、どこに荷物があるんですか?」
「二階の一番奥の部屋です」
「分かりました」
 ふう、とため息をついて二階に登る。
 木製の階段だが、祐一が踏んでも少しもきしむ音はしなかった。頑丈な作りだ。
「新築に近いよな……」
 いったいいつごろ建てられた家なのか、少しだけ気になった。
 そして、言われたとおり自分の部屋に入ってみる。
 青色のカーペット。それと同じ色のカーテン。窓は東と南に向かって、二つ。ベッドに勉強机、それから椅子。小さめの丸テーブル。衣装棚。
 そして、ダンボールに詰め込まれた荷物。
「……ま、荷物の整理は明日でもいいか」
 とりあえず着替えを探す。サイズはあっているのだろうかと思ったが、着てみるとどれもこれも自分にぴったりだった。
「……どうやって調べたんだろうな……」
 個人情報が筒抜けじゃないかと思うが、まあ気にはしていない。
 国家という巨大な組織の前に、個人のプライバシーなどあってなきがごとしだ。
「とりあえず、これにするか」
 黒地に白の文字が書かれているシャツ、それに暗い色のジーンズを履く。ずっと制服を着つづけていたから、随分と肩が凝った。
「ふう」
 下におりる前に、一度ベッドに体を預けた。
 少し、眠い。
 だが下では秋子がジャムパンを並べて待っているのだろう。
「……行くか」



「──そういえば、気になってたことがあるんですけど」
 ゆっくりと料理をテーブルに並べていく秋子に、遠慮がちに尋ねる。
「なんでしょう」
「あの、怪我した女の子──」
「あゆちゃん、ね」
 あゆ。
 そういう名前なのか。
「彼女も、パイロット……?」
「そういうことになりますね」
「あの怪我は、使徒との戦いで……?」
「いいえ、実験中の事故だということです」
 最後の料理をテーブルに置いて、秋子は笑った。
「じゃあ、始めましょうか」
 今のは、聞かれたくないことだったのだろうか。
「そうですね」
 祐一は席についた。それを見て秋子も座る。
「それでは、新たな同居人を歓迎して、かんぱい」
「かんぱい」
 ジュース同士で、かちんとグラスをぶつける。
 なんだか、変な感じだ。
「どうぞ、遠慮なく食べてくださいね」
「ええ、じゃあ遠慮なく」
 ジャムパンパーティなどと秋子は言っていたが、それは単にメインの問題だったようだ。テーブルに並べられたさまざまな料理。いつの間に作ったのか、作り置きしておいたものなのか。いずれにせよ、それが美味しそうな匂いを醸し出している。
「じゃあ、このスープから」
 一口スプーンで飲む。美味い。
「おいしいですね」
 自然と口にしていた。続けてもう一口含む。
「お口にあうかどうか、少し悩んだのですけど」
「これくらい濃い味の方が好きですね、俺は」
 冗談抜きにおいしかった。普段、一人でコンビニ弁当だの握り飯だのばかり食べていただけに、こうした家庭の料理というものがいっそう美味しく感じられた。
「じゃあ、このから揚げ──」
「祐一さん」
 箸を伸ばそうとした俺に向かって、にっこりと微笑む秋子。
「この、ジャムパンを食べてみてください」
 どこか、逆らえない雰囲気があった。
「はあ、まあ、いいですけど」
 そういえば、随分ジャムパンにこだわりがあるようだ。よほど自信作なのだろうか。
 これだけ美味しいものを作ることができる秋子だから、まさかとんでもないものが出てくることはないだろうが……。
 一口食べる。





























「……これ、何ですか?」
「ジャムパンです」
「何のジャムですか?」
「秘密です」
 にこにこしながら言う秋子。
「……どうです?」
 どうやら、何か返事を期待しているらしい。
「……独創的な味ですね」
 独創的、とは褒める時に使う言葉だっただろうか。
「よかった」
 何がよかったのかは聞かないことにする。
「たくさんありますから、どんどん食べてくださいね」
(勘弁してください)
 その一言が言えたらどれだけ楽になれるだろう。
(逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ……)
「すいません、何か、まだ具合が悪いみたいです。少し食べただけなのに、なんだか気分が悪くて」
(逃げてしまった)
 罪悪感を覚える祐一。だがこれは一種の緊急避難ともいうべき処置であり、法的には全く問題ないだろうと無理に自分に言い聞かせる。
「そうですか」
 だが疑うことを知らない秋子は少しだけ残念そうな表情を浮かべるだけだ。
「では、お風呂に入ってきてはいかがですか?」
「お風呂?」
「ええ」
 いつもの微笑みで、秋子が言った。
「お風呂は、命の洗濯といいますから」
(聞いたことないぞ)
 とは言わない。
「じゃあ、スープだけいただいてから、お風呂に入らせてもらいます」
 お腹がかなりすいていたので、目の前のご馳走が食べられないのは残念だった。せめてこのスープだけでも、と何口かすすった。



 ちゃぷん……
 体を洗い終えて、湯船につかる。そういえば、風呂に入るのも久しぶりのような気がする。今まで暮らしていたところにはシャワーしかなかった。
 はあう……
 全身の疲れが取れていくような感じ。悪くない。
「……葛城、秋子さんか……」
 悪い人じゃない。
 あのジャムパンを除けば。
 ただ、何となく感じる。
「他人に、自分の内面を知られたくない。そんなことを考えているのが分かる」
 あの人はきっと誰にも心を開かない。
 だが、だからこそ生じる関係もある。
「……お互い、干渉しあわない関係、か……」
 その方がいい。
 その方が、慣れているから。



 再び、ベッドの上。
「……知らない、天井だ……」
 闇の中。
 血の匂い。
 衝撃。
 そして。
「……どうして……」














『グオオオオオオオオオオオッ!』

「初号機……再起動!」
 佐祐理の声が響くと同時に、初号機が立ち上がった。
「そんな、バカな。シンクログラフはマイナスのままなのに……動けるはずありません」
 美汐が自分の目を疑っている。
「まさか、暴走!?」
 秋子は、スクリーンに映し出される初号機の様子を、ただじっと見つめている。
「勝ったな」
 石橋が、傍らの総司令に語りかけた。
「ああ」
 往人が答える。表情に変化はない。
 初号機がクゼエルに向かって走り出した。
 だが、その突進は先ほどと同じように、八角形の壁によって防がれる。
「あれは、A.T.フィールド」
「やはり、使徒も使えたのね」
 舞と佐祐理が八角形の壁について確認する。
「……あれでは、攻撃はおろか近づくことも──」
 そう美汐が言いかけたときである。
「──さ、左腕復元!」
 真琴の悲鳴のような声が響く。
「すごい」
「まさか、一瞬にして!?」
 スクリーンを凝視する。そこには、確かに人の腕とおぼしき左腕が生えてきていた。
 そして、その壁を破ろうと両手を中央からこじいれていく。
「初号機もA.T.フィールドを展開、位相空間を中和しています」
「違うわ、侵食しているんです」
 舞と美汐の落ち着いた声ようなも、ここにいる者たちを冷静にすることはできなかった。
 ただ、三人。往人、石橋、秋子を除いては。

 無理にクゼエルのA.T.フィールドを侵食していった初号機は、ついにその壁をやぶってその左腕を振るった。それはクゼエルの右肩に直撃して後方へと吹き飛ばす。
 そして、初号機が飛んだ。
 倒れたクゼエルの腹部めがけて、その足が突き刺さる。
 使徒が、激しく痙攣した。
 そしてその上に初号機が馬乗りになった。
『ウオオオオオオオオオッ』
 何をしようとしているのかは、見ている者には明らかだった。
 両腕を組んで振り上げ、力いっぱい光球めがけて打ち下ろす。
 ひたすら、その繰り返しであった。
 クゼエルは抵抗しなかった。いや、できなかった。もはや、生命活動は停止しかかっていたのだ。
 わずか、数撃で。
 そして、最後に右腕を振り下ろした時、亀裂が走った。
 クゼエルの顔が、ひしゃげた。
 今までにないほどの閃光があたりを支配する。
 そして、爆発した。
 光の十字架が、使徒の上に発現した。







「──!」
 闇の中。
 見知らぬ、天井。
 激しい動悸。
 大量の発汗。
(……)
 少しずつ、呼吸を整える。
 その際、おぼろげに見える記憶の風景を、ゆっくりとたどった。
(あれ、は……)
 第三使徒。
 カノンゲリオン。
(現実の、戦い……)
 吐き気がした。









次回予告



 カノンの訓練、学校、同居と新たな生活を、自分の目的のために受け入れる祐一に友達が生まれるはずもなかった。
 だが一人の少女との会話を通じて、初めて他者というものの存在を感じる。
 戸惑う祐一。
 そして、その彼を冷たく見つめる男の子がいた。

「……まさか、殴られるってことは、ないですよね?」

 次回、七年後。
 さて、この次もサービスいたします。



第参話

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