「どうして、命令を無視したんですか?」
優しい秋子さんの声が、暗い部屋に響く。
祐一は疲れた体を起こして、その声に答えた。
「……逃げ切れないと思ったからです。間違いなく、カズヤエルは自分が逃げようとするのを妨害したでしょうから」
「撤退するルートは指示したはずです」
「無理ですよ。指示があったとき、既にあの距離でカズヤエルから逃げるのは至難の業でした。逃げようとしても妨害を受けて、結局は戦わなければならなくなる。そうしたら、逃げようとした時間の分だけ勝つ確率は減る。そう判断したんです」
祐一の言い訳は筋が通っている、ように聞こえた。
だが、秋子はさらに追及した。
「じゃあなぜ、通信を切ったんですか?」
一瞬、言葉に詰まった。
「……戦いに、集中するためです」
苦しい言い訳であった。
本当は、違う。戦場を自分で設定するために、命令を違反するために通信を切ったのだ。
そしてそのことに、秋子は当然気付いている。
「……分かりました」
穏やかに微笑む秋子。
「祐一さんは命令違反を犯しました」
「はい」
「罰則が適用されます」
「はい」
「……逆らわないのですか?」
「無駄なことはしない主義なんです」
二人の間に、溝ができたのをお互い感じたのはこの時であった。
「では、選んでください」
「選ぶ?」
「ジャムパン十個と、禁固一週間。どちらがいいですか?」
大きく顔をしかめた。
つまり、秋子はあのジャムパンが凶器になることを知っていて、人にすすめているのだ。
確信犯ではないか。
「禁固一週間でお願いします」
「分かりました」
第四話
痕
「あ、北川くん。おはよう」
戦いの翌日。久しぶりに時間どおり投降した北川トウジに声をかけたのは当然のことながら洞木香里であった。
「おはよう」
いまだ機嫌が悪そうにして席につく北川。それを見てやれやれと言いたげに香里が目を細めた。
あれから、二人はネルフ作戦部長の秋子、そして学校の教師とたてつづけに怒られ、結局家に帰ったのは八時を過ぎていた。
「それで、どうするの?」
香里は嬉しそうにしながら尋ねてくる。
「どうするって、何が」
「碇くんのこと」
北川は視線を宙に舞わせる。間違いなく、聞かれたくない話題であっただろう。それをあえて聞くことができるのは香里くらいのものであった。
「どうもしねえよ」
「どうもしないって?」
「あいつが真剣に戦っているのは分かった。喧嘩をふっかけるのはやめるよ」
「それだけ?」
「当たり前だ。妹を傷つけたのは結局あいつなんだからな」
北川はむくれていた。
香里は正直、あの場所で戦う祐一を見て感動すら覚えていた。苦痛に耐え、それでも戦い、勝とうとする意思。とても自分には真似できない。心から思った。
口だけの人間ではない。それを行動に移すことができる強い意思と実行力を持った人間なのだと、祐一を高く評価したのである。
同じ気持ちを、北川は抱いていないというのだろうか。
「あまのじゃく」
そう言うと、予想どおり逆鱗に触れた。
「んだとお?」
「あまのじゃく。素直に思っていることを口にすればいいのに。バカみたい」
それだけ言って、香里は自分の席へと戻った。
「うるさいっての」
北川は追いかけようとはせず、そのまま席に座っていた。
その日、祐一は学校へ来なかった。
「佐祐理さん、佐祐理さん」
通路を歩いている途中で呼び止められて佐祐理は振り返った。
「はい?」
そこにいたのは、あゆだった。
「あゆちゃん。どうしました?」
「お願いがあるんだけど」
あゆは言いづらそうにもじもじと俯く。
「どんなお願いですか?」
「あのね……祐一くんと、お話がしたいんだけど……」
タイヤキを買ってほしいとねだられるのかと思っていた佐祐理は正直驚いていた。意外なお願いであった。
「それはちょっと、私の権限ではどうにもならないです」
「うぐぅ〜」
「直接、秋子さんにお願いしてみてはいかがですか?」
「それが、ダメだったんだよ」
ため息をつくあゆ。
「祐一くんとは一週間会ったらダメだって……」
さすがに秋子も軍人である。その辺りはしっかりとしている。
正直、佐祐理も祐一と会って話がしてみたかった。今まで起動実験などで簡単な受け答えをすることはあっても、一人の人間として話をしたことはない。だからゆっくりと話す時間がほしいと思っていたところだった。
「……分かりました。何とかしてみましょう」
「ホント?」
「はい。でも、秋子さんには秘密にしておいてくださいね」
「うん。約束するよ」
「では、明日また声をかけてください。それまでに何とかしておきます」
「ありがとう、佐祐理さん」
手を振って、ぱたぱたと駆け去っていくあゆ。それを見て佐祐理は微笑む。
あゆは、司令部の人気者であった。
彼女の笑顔のためには、どんなことでもしてあげたい。そう思わせる何かが彼女にはある。
「……とはいえ、どうしましょうか」
さすがに美汐や秋子の目を盗んで祐一と会うというのは難しいものがある。
舞に相談することにしよう、と佐祐理は再び通路を歩き始めた。
どうもおかしなことになった、と祐一はベッドに寝転がりながら思っていた。
命令違反を犯したことは自覚していた。多かれ少なかれ何らかの処分があることも覚悟していた。とはいえ、まさか一週間の禁固という、他に何もすることがないこの状況はどうにかしてほしい。
暇だ。
せめて起動実験だのハーモニクステストだの、そういうことに参加している方がよほど気が紛れる。
だからといって、こうなる結果を恐れてあの時退却するようなことは彼にはできなかった。
退くことはできない。
前に進まなければならない。
何があっても。
「……暇だな」
ただベッドに寝転がっているのは、あまりにも暇だった。
何を思ったのか、腹筋、背筋、腕立て伏せと、トレーニングなどしてみる。
もちろんそれには限界があるので、疲れるとまたぱたりとベッドに横になる。
「暇だ……」
行動の人、祐一にとってこの処分はあまりにも苦しかったといえる。これくらいなら、いっそのことジャムパンを食べた方がよかっただろうかなどと自暴自棄な考えまで頭に浮かぶ。
「ダメだ、人としてそれだけは」
正体の見えないジャムパン。あれを食べるのと使徒と戦うのと、どちらの方が辛いだろうかなど無意味なことを考え始めた時、
「祐一」
声がした。
扉ではない。もっと、身近なところから……。
「祐一」
頭上?
祐一は天井を見上げる。
「通風孔──って、舞!?」
そこには見知った顔があった。
オペレーターかしまし三人娘の一人、青葉舞。
三人の中でもっとも口数が少なく、それゆえに滅多に話したことのない彼女が何故ここに。
しかもドアからではなく、人目を避けるように通風孔からとは……。
「なんでそんなとこにいるんだよ、舞」
「起き上がるな。この部屋は──盗聴さえされていないが、監視カメラがついている」
「監視カメラ……」
まあそれくらいはあるだろうな、と今さらながら納得する。
だが、ということは、だ。
(……ここでの行動が逐一見られてるってことか……)
うかつなことはできない、そう心に誓った祐一であった。
「それで、どうしたんだ?」
寝ころがったまま舞を見て口を回す祐一。
「話がある」
「分かってるよ、そんなこと」
「私じゃない。あゆだ」
あゆが?
「どうにかして話したいと言っている。明日、連れてくる」
「なんでそれをわざわざ伝えに来たんだ? 明日、直に来ればいいだけのことじゃないか」
「……」
舞は沈黙した。
「……もしかして、何も考えずにここへ来たのか?」
こくり、と頷く。
意外に頭が悪いな、と思った。
「じゃあ、もう行く」
「待てよ、舞」
用事が終わっていなくなろうとした舞に声をかける。
「時間、あるのか?」
「少しだけ」
「じゃあ、ちょっとつきあえ」
「何に?」
聞きかえされて頭をひねる。
「そうだな、しりとりなんてどうだ」
「何故?」
「暇なんだ」
舞はしばらく沈黙していたが、やがてこたえた。
「いいだろう」
「よし、じゃあ『しりとり』の『り』だ。いいぞ、舞」
「りすさん」
「だぁからぁっ!」
予想どおりの展開に思わず叫ぶ祐一。
「……」
「……もういっかい」
「分かった。今度は『さん』をつけるなよ」
「分かった」
「よし、じゃあ『りんご』の『ご』」
「ごりらさ……ごりら」
どうやら分かってくれたらしい。
「らっこ」
「こあら」
もとに戻っている。
「らっぱ」
「ぱるぷんてうみうし」
ぶっ。
思わず吹き出していた。
ぱるぷんてうみうし、ぱるぷんてうみうし、ぱるぷんてうみうし……。
(どいつもこいつもセカンドインパクト以前の古いギャグしやがって、ちくしょう、ちくしょう!)
何故悔しいのかは分からなかったが、とにかく悔しかった。
「どうした、祐一」
「いや、なんでもない。俺が悪かった」
まさかとは思うが、自分の気を紛らわせてくれようとしたのだろうか。
通風孔からのぞく舞の無表情な顔を見つめる。
(そんなわけないか)
だが、気が紛れたのは確かだ。
「ありがとうな」
「なにがだ?」
「いや、気にしないでくれ。引き止めて悪かったな」
舞は納得がいかないようだった。
「じゃあ……いくぞ」
「ああ、明日また来るんだろう?」
「そのつもりだ」
そして、舞は姿を消した。
丸一日たって、昨日と全く同じ時間に舞が現れた。
「よう、舞」
「……よう、祐一」
通風孔から現れた顔は、昨日と同じように暗くて若干見えづらいが、そこにいるのは確かにオペレーターの舞であった。
「今日もかわいいな、舞」
「……」
だがその軽口にはのってくれない。少しだけ寂しかった。
「うぐぅ……」
かわりに、その奥から聞きなれた声が聞こえる。
「よう、あゆ」
「うぐぅ〜」
狭い通路で、あゆが何とか場所を入れ替えてもらって現れる。
「どうした、あゆ?」
「ひどいよ、祐一くん……」
どうやら、舞に気があるような声をかけたのをとがめているらしい。
「それはそうと、いったいどうした」
「話そらさないで」
「あのなあ、話があるっていったのはお前の方だろ」
「うん……」
あゆはかなり真剣な表情だ。いったい、何の話があるといのか。
「ねえ、聞いたら答えてくれる?」
ぶしつけだな、と思う。
「質問の内容によるが」
「う〜ん、どうしても答えてほしいんだよ……」
「まずは言ってみろ。答えられるかどうかは聞いてから決める」
「うぐぅ……」
だいたい、先に言質をとっておいてから聞こうだなど、むしが良すぎる。
「それじゃ、聞くけど……」
「ああ」
「どうして、あの時逃げなかったの?」
意表をつかれた。
何を聞いてくるのかは全く分からなかったが、まさか戦闘のことを聞かれるとは予想外であった。
「なんでって、秋子さんに聞いてないのか?」
「聞いたよ」
「じゃあ、もう分かってるじゃないか」
「そうじゃなくて、祐一くんの本音が聞きたいんだよ」
「本音ってな……」
祐一は頭をかいた。
「逃げ切れないと思ったから戦った。それじゃ満足できないのか?」
「逃げ切れたでしょ」
あゆの追究は厳しい。
「ボクには分かるよ。カノンなら、逃げ切れる」
「そうだとしてもだ。逃げて、ケーブルを再接続して、再出撃して、それまでどれだけ時間がかかると思う? その間にどれだけ被害が生じると思う? あの場で倒さなかったらどうにもならなかった。そして俺は倒した。それが全てだ」
「隠さないでよ」
「何も隠してなんかないぞ」
「だってあの時の祐一くん、戦うために戦ってるみたいだった」
言葉の意味が理解できなかった。
「なんだそりゃ」
「何かを守るとか、敵を倒すとか、そんなことじゃない。ただあそこで戦いつづけたかったから逃げなかった。そんな気がしたんだ」
「お前がそう感じたんなら、そうなんだろうさ」
「誤魔化さないでよ」
「あのな、あゆ」
少し、機嫌が悪くなっていた。それはおそらく、かなり正確なところをあゆに指摘されたからに他ならなかった。
そう、自分は逃げたくなかった。
戦いつづけたかった。
「仮にお前の言うとおりだとして、何か問題はあるのか?」
「ない……けど」
「じゃあ、問いただすだけ無意味じゃないか」
「うぐぅ……」
「俺が何を目的に戦っていようと、お前には関係のないことさ」
そう言い捨てて後悔する。
これでは、ただの八つ当たりだ。
不満をぶつけているだけだ。
この間の北川と同じだ。
自分は、矛先を向ける相手を間違えている。
「わるい、あゆ──」
「関係なくないもん!」
謝ろうとするより早く、あゆは叫んだ。
「ボク、ボク、祐一くんが助けてくれたから、ボク……」
涙まじりの言葉は、何を伝えようとしているのか祐一には分からない。
「あゆ……」
「まずい」
だが、第三者の声が二人の会話を遮った。
「見つかった」
「おいおい」
「大丈夫、今から戻れば間に合う」
「ホントかよ」
「すまない、祐一──また来るから」
「ああ、分かったよ。悪かったな、あゆ」
「うぐ……」
あゆは何かを答えようとしていたが、ずるずると舞に引きずっていかれた。
直後、ドアが開く。
「……祐一さん」
聞きなれた声だった。
「よう、美汐」
ベッドに寝そべったまま、美汐に答える。彼女は部屋に入ってくるなり、天井を見上げた。
「……二度侵入されて気がつかないほど、ネルフは甘くないつもりなんですけどね」
祐一は何も答えない。だが、ここで自分が誰かと会話をしていたことはばれているようだ。
「まあ、オペレーターズが全員で痕跡を消そうとすれば、私に気付かせない程度のことは可能でしょうが──それも一度までです」
静かに、美汐は祐一を睨んだ。
「あまり、うちのオペレーターをくどくのはやめてもらえませんか、祐一さん」
これは、かまをかけているのだろうか。
そう思って、祐一は笑った。
「なに、本命は君さ」
若干おばさんくさいが、自分より一つ下だ。年齢的には何の問題もない。その答を聞いて、美汐は楽しそうに笑った。
「そうですか、では今度デートに誘っていただけるのを楽しみにしています」
そう言い残し、美汐は部屋を後にした。
しばらくして、祐一は大きく息をはいた。
「……今のは、どこまでが本気なんだ?」
これはこれで、なかなか難しい問題であった。
一人になってから、ゆっくりとあゆとの会話を思い返してみる。
『ただあそこで戦いつづけたかったから逃げなかった。そんな気がしたんだ』
「正解」
よほどそう言ってやろうかと思った。ただ、それを口にすることはできなかった。
戦いたかった。
逃げたくなかった。
そのとおりだ。
戦場に立った以上、そこから逃げるということは死を意味する。
死にたくないのなら、戦場へ行かなければいいのだ。
だが、もはや自分は戦場に足を踏み入れてしまった。
もはや逃げることはできない。
ただ、戦闘を続け、勝ち、生き残る。
それだけだ。
それしか、もう道は残されていないのだ。
「ふう……」
祐一は起き上がると、着つづけていたシャツを脱ぎ捨てた。
その下から、服の上からでは全く分からない発達した体が現れる。十分なトレーニングをつんだ戦士の体であった。
そして、何よりもその体に相応しい『勲章』もまた、姿を見せる。
背中。右肩から左の腰にまで長く伸びた、一本の線。
それは、痕であった。
NEON GENESIS KANONGELION
EPISODE:04 I must fight to win!
祐一が一週間という禁固刑を受けた結果、当然のことながら学校は休まなければならなかった。
その間、北川はずっとむくれっぱなしだったし、もともとあまり友達の多い方ではない彼はいっそうクラスで孤立していた。
クラスで孤立しているといえばあゆもそうなのだが、だからといって孤立しているもの同士が仲良くしなければならないという法はない。
時間は、意味もなく過ぎ去っていった。
「北川くん」
そして今日も、ただ一人香里だけが彼に声をかける。
「なんだよ」
「ちょっと今日、行きたいところあるんだけど、一緒につきあってくれないかな」
おおっ、中学一年の時からずっと一緒のクラスだった香里がついに俺に声をかけてくれたか……と思ったのも束の間、続きを聞いて一気に萎えた。
「碇くんの家に行くから」
「やだ」
返事は早かった。
漫画的に言うなら、一コマの余地もなかった。
「なによ、せっかく女の子から誘ってあげてるのに」
「誘う方はともかく、行く場所に大きな問題があるからやだ」
北川の不機嫌の理由は、言うまでもなく転校生にあった。
転校生。カノンゲリオンのパイロット。
北川にとって祐一は、命をかけて使徒と戦う正義の味方であり、自分の妹に一生ものの怪我を負わせた極悪人でもあった。当然、さまざまなものが心の中を駆け巡っているに違いない。
そのことは傍で見ている香里にはよく分かった。大人になりきれず、現実を割り切って見ることができていないのだ。要するに子供だ。そう、香里の目には映る。
だから会話する機会を作ってあげようとしたのに、この男は二つ返事で断るという。
少し頭にきた。
「これは委員長命令です」
「なんでやねん」
「たまってるプリントもあるし、届けに行かなければならないもの。で、一人で行くのもなんだから、付き合ってって言ってるの」
「他の誰か──綾波でも連れていけばいいじゃないか」
祐一は転校してくるなり、少しでも可愛いと思われる女の子にはかたっぱしから声をかけていた。男子生徒の間では『プレイボーイ現る』とかなり危険視されていた。
だが逆に、人あたりがよく、顔も割といい方で、話しやすい祐一は、プレイボーイと分かっていながらも女子生徒の間から人気があった。二人きりになったところで口説かれたものが一人もいない、というのが逆に安心する材料だったのかもしれない。
結果、転校して四日で祐一ともっとも仲がよかったのは誰一人としていないことになる。
再登校の初日に二人きりで屋上で話しこんでいた綾波あゆを除いては。
「残念ながら、今日は彼女、欠席」
「例の、カノンゲリオンの実験かなんかか?」
「知らないわよ、理由なんて」
当然だ。長期間の欠席をしていた北川の理由すら担任は教えてくれなかったのだ。たかが一日休んだくらいのことで、その理由をクラスメイトにわざわざ伝えるとは思えない。
「ということで、あなたが適任というわけ」
「何が、というわけ、だ。何の理由にもなってないぞ」
「だって、喧嘩するほど仲がいいっていうじゃない」
「しまいには怒るぞ」
「あーのーねーえー」
怒っているのは香里の方であった。
「いい加減に、素直になったらどう? あなただって、碇くんと話をしてみたいって思ってるんでしょう?」
「俺は……」
「それとも、碇くんと話すのが怖いの?」
女が男をその気にさせるには二パターンあるという。
徹底的にすがるか、挑発するか。
「なんだと?」
「だってそういうことでしょう、あなたの不機嫌の理由は。碇くんのことが気になるけど、あんなことをしてしまった以上自分から訪ねるわけにもいかない。ああどうしよう」
「香里、怒るぞ」
「せっかく私がお膳立てしてあげようって言ってるんだから、素直に聞けばいいじゃない」
北川は目を閉じて顔をひきつらせた。
面白い顔だ、と香里は思った。
「分かったよ、行けばいいんだろ」
「そうこなくちゃ」
彼は挑発にのった。
面白いほど簡単だった。
久しぶりに吸った娑婆の空気は美味かった──などと考えるようでは自分もあまりまっとうな生き方をしていないな、と祐一は内心で一人突っ込む。
ネルフを出て、することもなくぶらぶらと街を歩いていた。途中、ゲーセンに寄ったり、裏通りを歩いてみたりする。
どこを歩いていても、感じるものは同じだった。
(随分と治安のいい街なんだな……)
自分が生まれたところはこうではなかった。
治安のいい場所は田舎だけ。そこそこの都市になってくると犯罪と麻薬が横行している。女子供は夜に出歩くこともできない。それどころか白昼堂々人さらいが起こったことだってある。
(警察力が弱いからな……セカンドインパクト以前はそうじゃなかったって聞いてるけど)
警察という機構は以前も今も地方公共団体ごとで管轄している。セカンドインパクト後、地方へ回すお金が少なくなったということで、真っ先に削られたのが公共事業費と人件費であった。中でも警察官は、セカンドインパクトで人口が半分以下になったということをそのまま受けて、警察官職も半分以下にしたのだ。これはどこの地方公共団体も変わりなかったが、あまりにも短慮といえただろう。
どれだけ人口が減ったとしても、街の数が減るわけではない。従って警察の影響力は日本全土にわたっていなければならない。その結果、もともと警察官の少ない田舎はほとんど以前と変わりなかったが、都市からは警察官が大量にいなくなったのである。
警察官が少なくなれば、当然のことながら一人あたりの仕事の量は増え、手が回らない事件も次第に増加する。再び警察官職を増やそうとしても思ったように人は集まらず、逆にあまりの激務に辞めていく者、病気や怪我で退職せざるをえなくなった者が増えた。一度手放してしまった人員は、世界再建のためにすぐに再就職してしまい、再び呼び戻そうとしても首を縦に振ることはなかったのだ。
こうなるともう泥沼である。警察という職は誰もやりたがらず、それが警察力の低下に輪をかけることとなった。犯罪が日常茶飯事となっても、それに歯止めをかけることもできなかった。
自分の身は自分で守れ。それが祐一があの街から学んだ教訓であった。
(これくらい治安がいいと、そのうち勘違いする奴が増えるんだろうなあ)
安全は与えられるもの。そういう勘違いだ。そして自分で自分の身を守ろうともせず、ただ不平不満を並べ立てるようになる。
(最悪……)
ここは、そういう街なのだ。
「おい、そこの」
裏通りを歩いていると、ふと誰かに呼び止められる。
柄の悪い、図体の大きな男が三人。
「昼間っから、なにやってんだよこんなところで」
祐一は、相手に気付かれないように俯いて、笑った。
ちょうどよかった。
一週間閉じ込められて気が立っていたのだ。家に帰る前にうさばらしをしたかった。
好都合だった。
「何とかいえよ──」
真ん中の男が手を振り上げるのと同時に、祐一は間合いを詰めた。
肘を振り回して、相手の顔面をしたたかに打つ。
「なっ……」
左右の男たちが狼狽して、祐一を睨みつける。だがそれより早く祐一は動いていた。
楽しかった。
二年ぶりに、体を動かしていた。
「ここね──随分いい家なのね」
香里が先に入っていく。遅れて、北川も中に入っていった。
チャイムを一回鳴らす。
『はい』
「あ、すいません。碇くんのクラスメートのものですけど」
『少々お待ちください』
十秒で扉が開く。そこから現れたのは、以前にも会ったことのある人物だった。葛城秋子。祐一の直属の上司だ。
「あ、私──」
「この間は、すいませんでした」
香里が何か言うより先に、北川が頭を下げた。
「はい?」
秋子が微笑みながら、二人をじっと見つめる。
「お二人は、たしか──」
「はい。この間、無許可でカノンに乗った碇くんの同級生です。僕は北川トウジ。こいつはクラス委員の洞木香里です」
「洞木です」
なによ、と心の中で呟く。せっかくお膳立てしようと思ったのに、全部自分で話をすすめてるんじゃない。
「そうですか。祐一さんのお友達なんですね」
「はい」
北川は素直に頷いた。
「それで、碇くんに話があって──というか、もう一週間も休んでいるからプリントを渡すのと、あとどうしたのかと思って」
「学校の方には連絡したのですけど、伝わってなかったんですね」
「はい。碇くんは今、こちらにいらっしゃるんですか?」
あまりにも丁寧な北川の言葉遣いに、香里の方が驚いていた。ここまで自分を偽ることができるのは立派な才能だと。
「いえ、今はいないんです」
「本部の方ですか」
「ええ。もう少ししたら帰ってくるはずです。よろしかったら、あがっていかれますか?」
「いいんですか?」
「ええ。人数が多い方がにぎやかで楽しいですから」
秋子は左手で頬をおさえた。いつものポーズだ。
「それじゃ、上がらせていただきます」
「ちょっと、北川くん」
さすがに話の進行が早すぎるので、香里が引き止める。
「どうした?」
「どうしたじゃなくて、その──相手の都合も考えないと」
「かまいませんよ。どうぞ上がっていってください」
「いえ、でも、突然でご迷惑ですし」
「祐一さんも、きっと喜ぶと思います」
天使の微笑みに、香里も抵抗することができなかった。
「では──申し訳ありませんけど」
「はい、どうぞゆっくりしていってくださいね」
男たちの呻き声がまだしていたが、かまわずに祐一は歩き出した。
怪我は一つもしていなかった。相手が弱すぎた。おそらく満足な喧嘩相手もいないので喧嘩の仕方も知らなかったのだろう。
と、視線を感じて振り返る。
見たことのある顔がそこにはあった。
「佐祐理さん」
見られた、と一瞬後悔する。
喧嘩をしているところなど、あまり見られたくはなかった。特にネルフの人には。
「……」
佐祐理は少し戸惑った様子で、近づこうか逃げようか考えているようだった。その佐祐理に向かって、祐一は肩をすくめて微笑む。
「買い出し?」
だが、平然とした祐一の態度が佐祐理を安心させたのか、頷いて「はい」と答える。佐祐理の両手はともにスーパーの袋で埋まっていた。
「どこまで? 持つよ」
佐祐理にゆっくりと近づく。逃げないのを確認して、両方の袋を取り上げた。
「ありがとうございます」
「いいから。行こうか」
男たちのことは全く無視して、佐祐理が指示する方へと歩き出した。
「……あの」
「秋子さんには秘密にしておいてください」
佐祐理が何か言うより早く、祐一は先手をうった。
「あまり心配かけさせたくないので」
「はい」
佐祐理は素直に頷いて、質問を続けた。
「強いんですね、佐祐理は驚きました」
「自慢にはなりませんけどね」
人を痛めつける能力が『一般的に』自慢にはならないことを祐一はわきまえていた。
「……何故、喧嘩になったのですか?」
「理由もなくからまれたので。正当防衛というところですね」
「あまり、危ないことをしないでください」
「自分一人の体ではないから、ですか?」
佐祐理が悲しそうな笑顔を見せる。どんなときでも笑おうと努力する姿を見て、祐一は激しく反省した。
「すいません。ちょっと、気がたかぶってて」
「いえ」
「佐祐理さんが心配してくれているのは分かるんです。正直、助かってるんですよ」
「助かって──?」
「ええ。起動実験の時とか、いつも優しく笑ってくれてるのがすごく嬉しくて」
「そうなんですか?」
「信じられないですか?」
「佐祐理は、別に感謝されるようなことをしてるわけじゃないですから」
そう言って、にっこりと笑う。
女神の笑顔だ。
「佐祐理は自分勝手な都合でネルフにいるんです。そのせいで舞や、他の人に迷惑をかけてるんです」
何か、裏のある物言いだった。
だがそれは尋ねてもいいことではないことを、祐一はよく知っていた。
(ここにいる人は、みんな……)
心に、深い傷を負った人たちなのだということを、祐一は思い知らされていた。
(自分だけが辛い、なんて思うもんじゃないよな)
生きている以上、誰もが苦しんで、もがいて、それでも生きつづけている。
死なないために。
「あ、ここでいいですよ」
佐祐理がそういうので、袋を返す。
「今日は舞にご馳走を作ってあげる約束だったんです」
「へえ」
「祐一さんも──あ、今日はダメですね。秋子さんと久しぶりの食事でしょうし」
「そうですね」
苦笑した。考えてみれば、あの家に戻るのも一週間ぶりなのだ。
「今度また来てください、ご馳走作りますから。舞も喜びます」
「遠慮なく」
「では、失礼いたします」
祐一が家に戻ってきたのは結局六時を回っていた。
ふう、と一息ついて扉を開ける。もう少し早く帰ってくることができたのは、釈放時間を知っている秋子さんなら分かっているはずだ。
少しだけ気分が重かった。
意を決し、その扉を開ける。
「ただい──」
目に飛び込んできたのは、普段より多い靴の数であった。
男物と女物。
誰か客が来ているのだろうか、とリビングへと向かう。
「ただいま──?」
そこには、見慣れた顔があった。
「お帰りなさい、祐一さん」
秋子が返事をくれる。だが、もう二人が問題だった。
北川と、香里。
何故ここにいるのか。
「お帰りなさい」
香里は平然としたものだ。
だが、北川は一度視線を合わせると、すぐにそっぽを向いた。
「それじゃあ、晩御飯の支度をしますから」
秋子はそう言うとキッチンへと向かった。気を使ったつもりなのだろうか。
「……で?」
先に尋ねる。
「何でお前らがここにいるんだ?」
「私はプリントを届けにきたの。ほら、クラス委員だし」
「ああ、わざわざ悪いな。で?」
何でこんな時間までいるんだ、と聞き返したつもりであった。そして香里はその意図を正確に理解していた。
「秋子さんがご飯を食べていきなさいっていうから、ご馳走されることになって」
「なるほど」
「あら、あっさり頷いたのね」
「大方、にぎやかな方が楽しいから、とか言ったんだろ?」
「ビンゴ」
香里は綺麗に笑った。
「やっぱりな。俺の時も同じこと言ったんだ」
「碇くんの時──?」
「祐一、でいいぜ。俺がここに引き取られることになった時も、家族が多い方がにぎやかで楽しいって言ったんだと。俺が直接聞いたわけじゃないけど」
「ふうん、大物ね、秋子さん」
「まったくそう思う。あの人にだけは逆らえないな」
正直なところを述べる。どれだけ多くの秘密や謎を持っていたとしても、結局秋子さんには逆らえない。そう感じさせるだけの何かを持っている人物なのだ。
「んじゃ、とりあえず着替えてくるから──」
「碇」
その時、ようやく今までずっと黙っていた北川が発言し、立ち上がった。
「なんだ?」
だが、祐一はまったく動じる様子がない。いたって普通だ。
まるで、一週間前のことがなかったかのように、平然としている。
(大物なのは、祐一くんも一緒ね)
香里は心の中で呟いた。
(それで、どうするつもり?)
もちろん、口を挟むつもりはない。これは北川の問題なのだから。
「──すまなかった」
頭を下げる。
「分かった」
受け答えて、部屋を出ようとする祐一。
「って、ちょっと待てい!」
「何だよ」
足を止めて振り返る。
「この間のことで謝ってるんだろう。だから、分かったって」
「だからって俺に何も言わせない気かよ」
「この間言ったことは間違っていた、もしくはカノンを操縦しているところを見て気が変わった。そんなところだろう」
「お、お、お前なあ……」
身も蓋もないわね、と内心呟く香里。
「いいじゃねえか」
だが、助け舟をだしたのは当の本人、祐一であった。
「は?」
「妹のために体はれる兄。かっこいいぜ」
意外にも、他人のことなど全く考えてもいないようなこの男が、他人を褒めている。
出会ったばかりではあったが、北川にも香里にも信じられない光景であった。
「ま、喧嘩は相手を見て売った方がいいっていうのは忠告しておいてやるけどな」
ニヤリ、と父親譲りの笑みを見せる。
こういうオチか、と香里はため息をついた。
「お前、本当に根性ひねくれてるな!」
「もともとこういう性格だからな。諦めてくれ」
「やっぱり一発殴らせろ」
「この間殴っただろうが」
それをジト目で見ていた香里が一言。
「喧嘩するほど仲がいいっていうのは、本当なのね」
『誰がだ!』
見事なユニゾンであった。