「おい、祐一」
 北川が自分の得点通知表を持ってやってくる。
「なんだ」
「お、随分不機嫌だな」
「不機嫌なんだ」
「不機嫌の理由、当ててみようか」
「殺すぞ」
「迫力あるなー、お前」
 北川は笑ってはぐらかす。
「で、どうだった?」
「過去にないくらいに点数が悪いな。屈辱的な点数だ」
「見せてみろよ」
「好きにしろ」
 返事がくるなり、祐一の得点通知表をひったくる北川。
「どれどれ……」
 その目が、点になった。
「最悪だ。見てのとおり、八教科のうち九〇点にとどかなかったものが三つ。そのうち一つは七九点だ。こんな成績では、秋子さんに申し訳ない」
 まだ固まっている北川。
「……どうした?」
「……お……」
「お?」
「お星様なんてだいっきらいだーっ!」
 泣いて教室を飛び出していく北川。
「……なんなんだ、いったい……?」
 入れ替わりに香里がやってきて、北川が投げ捨てていった得点通知表を拾う。
「どうしたの、彼?」
「さあ。俺の通知表を見た途端に泣いて出ていった」
「へえ」
 香里も好奇心から祐一の得点通知表を見る。そして、ため息をついた。
「どうした?」
「そりゃ、こんなもの見せられたら誰だって泣いて逃げたくなるわよ」
「何故?」
「まるで勉強してないあなたがこんなにいい点数を取るなんて、普段勉強してる人たちに対して失礼だとは思わないの?」
「なんだ、それは」
 祐一は苦笑した。
「正直、まさかここまでひどい点数だとは思わなかったぞ。転校前の学校では九〇点を切ったことは一度だってなかったんだ。それがまさか、こんな点数になるとは。恥もいいところだ」
「あなた、今の発言で敵を二〇人は作ったわよ」
 言われてクラスを見ると、クラスのほぼ全員がうらめしそうな目でこちらを見ていた。
「……この程度の点数で睨まれる必要はないと思うぞ」
「多分、それだけいい点数を取ってるのはクラスでも学年でもあなたの他にはあたしくらいよ」
 言ってにっこりと香里が笑った。
「香里、お前俺より総合点数良かったのか?」
「ぎりぎり、三点ばかり」
「あー」
 がっくりと肩を落とした祐一。
「首席狙ってたんだがなー。やっぱり基礎解析のあのミスが痛かった」
「それでも、それだけ点数とれてれば次席は確実でしょ」
「うーん、人の家にやっかいになっている身分としては、学校で一番いい成績を修めていないと申し訳なくてな」
「秋子さん?」
「ああ。まあ、学費くらいはネルフの給料からでも十分出せるんだが、秋子さんがどうしても自分が払うっていうから」
「へえ。祐一くんがカノンに乗ってること、気にしてるのかしら」
「多分、そんなところだとは思うんだが……」
 今いち、よく分からない人だ。
「そういえば明日から連休だけど、祐一くんは何か予定あるの?」
「多分ネルフに出頭だな」
「出頭って(汗)」
「いや、単に実験か何かするくらいだろうさ。連休だからって旅行にいけるような身分じゃないな」
「そっか。でも、一日くらいは休めないの?」
「……何を企んでる?」
「そんな、人聞きの悪い」
「笑顔で言うな、笑顔で」
「別にたいしたことじゃないわよ。転校生の歓迎パーティなんか開いてあげようかって思ってたんだけど」
「……もう二週間も前の話だろ、それは……」
 うんざりしながらも、頭の中で考える。
 休日か。
 もし、もらえるのだとしたら、自分は……。
「ま、連休中は遠慮しておくよ。連休明けたらまた誘ってくれ。それより直接家に来てくれる方がありがたいな」
「分かったわ。そういうことにしておいてあげる」
 祐一は首をひねった。
「待て。その言葉はどういう意味だ」
 香里はにっこりと笑った。
「言葉通りよ」










 第七話

 人の眠りし場所












「一学期の中間テストで、次席?」
 発令所。今日もオペレーターズと秋子、美汐の五人が職務に精励していた。その時、秋子が話し掛けた言葉は全員を驚愕させた。
「はえぇー……祐一さんって、頭いいんですねー」
 佐祐理が素直に驚いている。逆に固まったまま動かなくなったのは真琴だ。
「あいつ、全然勉強してないくせになんで……」
「祐一さんは、もともと勉強家ですよ」
 秋子がフォローする。
「勉強が趣味、みたいなところはありますね。といっても学校の勉強というよりも、自分の興味のある分野にだけ精通しているというか」
「基礎学力を伸ばすための高等教育ではなく、自分の専門の分野を研究するための学問を行っている。そういうことですね」
 美汐の説明に、秋子が頷いて答える。
「でも、基礎学力もあれほど高いとは知りませんでした」
「点数はもう、分かっているのですか?」
「先ほど得点通知表をいただきました」
 秋子が取り出した成績表を美汐が受け取って点数を朗読していく。
「現代文、九八点。古典、九六点。基礎解析、七九点。代数幾何、八七点。英語、九二点。世界史、八八点。化学、九七点。物理、九八点。五教科八科目総合、七三五点。とんでもない数字ですね」
「はえぇ〜」
 佐祐理が目を回している。
「おまけに、カノンとのシンクロ率、ハーモニクスの数値もこの通り」
 美汐がディスプレイに目を向ける。
 シンクロテストに入っている祐一、あゆの数値がグラフに現れている。
「シンクロ率五三.三%。祐一さん、また上がりましたね」
「ハーモニクスも前回より五も上回っています。この分では、セカンドチルドレンを追い越すのも時間の問題ですね」
「セカンド──名雪、ですか」
「はい。名雪さんは既にシンクロ率六七.二%を記録しています。ですが、彼女でもこの数値を出すために半年かかりました。それも最初はシンクロ率三〇%でしかなかったのですが──努力の賜物、ですね」
「あの子は努力家ですから。誰もあの子が努力しているのを認めようとはしませんけど」
「その名雪さんですら、この数字──五三.三%を出すまでに一年かかったんですよ、秋子さん」
 美汐の言葉の意味は誰もが理解していた。
 現在あゆのシンクロ率は表示されているように、五六.二%。何度シンクロテストしても六〇%台に乗ることはなかった。あゆはもうファーストチルドレンとして登録されてから一年になるが、それでもこのレベルの数字しか出せないでいる。
 たった一ヶ月で、祐一はあゆに追いついてしまったのだ。
「カノンを起動させるまでにあゆさんは七ヶ月、名雪さんは三ヶ月、でも祐一さんは初めて成功し、四一%をたたき出しています。これは、尋常ではありません」
「それだけ、カノンに近い存在であるということですわね」
「そういうことになります──あまり、喜ばしいことではありませんが」
 会話が途切れる。二人に割って入ってきたのは佐祐理であった。
「それにしても、カノンに乗ってよし、勉強してよし、まさに無敵ですね」
 美汐は表情を曇らせた。
「そうですね……でも、そういう人ほど、崩れる時は脆いものなんですよ」
 思わぬ反撃を受けて沈黙する佐祐理。美汐はかまわず秋子に話し掛けた。
「そういえば、名雪さんの来日予定が早まりました」
「いつですか?」
「三日後です」
「随分、急ですわね」
「住人さんがドイツ支部に圧力をかけたようです。詳しいことは分かりませんが……」
「必要としているのは、名雪でしょうか。それとも──」
「同時に搬入されるカノン弐号機の方でしょうね」
「参号機はまだアメリカで建造中のはずですよね」
「はい。四号機も引き続きアメリカ第二支部で建造中です」
「美汐さん──何故司令がこの第三新東京市にカノンを集めようとしているのか、ご存知ですか?」
「いいえ……? 秋子さんはご存知なんですか?」
「残念ながら」
 困ったポーズで否定する秋子。
「ただ、そうしなければならないということだけは分かります。使徒は何故か、この第三新東京市に集まってくるみたいですから」
「たしかに、そうですね……」
「もっとも、他に理由があるとしても不思議ではありませんけど……」
 秋子が自分の考えに入っていく。このまま放っておくといつまでもこうして考え続ける人だ。美汐は長い付き合いからよく分かっていた。
「ところで。三日後の弐号機引継ぎの件ですけど、秋子さん、行ってもらえますね?」
「はい、もちろんです。祐一さんも連れていってかまわないですか?」
「祐一さん、ですか……」
 なるべく、初号機パイロットには第三新東京市にいてもらいたいというのが本音だ。
 だがそのことを理解していながら秋子がわざわざこう言うということは、何か理由があるのに違いない。
「分かりました。手続きを進めておきます」
「あ、それから──」
 秋子は手をぽん、と叩いた。
「私と祐一さんの他に、あと二人分、手続きをお願いします」
「はあ?」
「詳しいことは──あとでお話しますから」
 秋子はそう言ってマイクに近づいた。
「祐一さん。時間です、上がってください」





 同時刻。
 スウェーデンからドイツへと向かう高速旅客機の中。
「……サンプル回収の予算、すんなり通りましたね。これでネルフもうはうはですね」
 うはうは……。
(はっ)
 往人は気を取り直すと、機嫌悪そうにして隣の男を見た。
「くおら、ショートケーキの兄ちゃん」
「きちんとした名前があるのですが」
「だから、エアキャラ出すぎだって言ってるだろうが」
「エアキャラのあなたが言っても説得力がありませんよ、往人ネルフ司令」
 男は優しげな笑みを浮かべた。
「……まあいい。とにかく委員会も自分が生き残ることを最優先に考えている。そのための金は惜しまないということだ」
「ネルフは財政難ですからね。やはり司令の甲斐性の問題ですか」
「ヤるぞ、コラ」
 往人の瞳がキラーンと光る。
「ま、まあ、使徒はもう現れないというのが彼らの論拠でしたからね。ああ、そうそうもう一つ朗報です。米国を除くすべての理事国がカノン六号機の予算を承認しました。まあ、米国も時間の問題でしょう。失業者アレルギーですしね、あの国」
「君の国は?」
「八号機から建造に参加します。第二次整備計画はまだ生きてますから。ただ、パイロットが見つかっていないという問題点がありますが──」
「問題ない。パイロットは見つかる」
 往人はニヤリと笑った。
「カノンさえ、出来上がってしまえばな」





「……ご褒美、ですか」
 シンクロテストが終わって、祐一は秋子や美汐とともに発令所にいた。
「はい。成績優秀につき、というわけでもないのですが、もし何かほしいものがありましたら」
「とはいっても。金はお給料がじきに振り込まれるし、必要なものはもう揃ってるからな」
「本当に何もないんですか?」
 美汐からも質問してくる。本人が必要ないと思っているものをわざわざ無理に与える必要もないだろうに、とも思う。
(……あ……)
 ふと、思いついたことがあった。
 だが、それは要求してもいいものなのだろうか。
「何か、ありますか?」
 自分が何か思い当たったことを、秋子さんは察知していたようだ。
「まあ、なくはないけど」
「なんでしょうか」
「休暇を一日」
「休暇?」
 反応したのは美汐の方であった。当然だろう。祐一がせっかくの三日連休ということもあって、かなり綿密なスケジュールを設定していたに違いないのだ。
「いや、ダメならかまわないさ。もともと無理な願いだってのは分かってるからね」
 祐一はそう言って立ち上がる。そして出口へ向かった。
「待ってください」
 引き止めたのは美汐であった。
「分かりました──ですが、半日、になりませんか」
 祐一は立ち止まって美汐を振り返る。
「テストの予定がぎっしり詰まってるんじゃないのか?」
「明日、一八時までにネルフに戻って来ていただけるなら」
「一八時ねえ」
 祐一はざっと頭の中で計算してみる。
 用事があるのは、第三新東京市内だ。交通機関を使っても、午後三時には十分帰って来られる場所だ。別に自分には何の問題もない。
「オーケー。そのあと夜明けまで付き合ってやるからな、美汐」
 かすかに、美汐の顔が赤らんだ。
「……大丈夫です、テストは〇時までに終わるものを用意しておきます。女の子がお好みでしたら、あゆさんを誘ってみてはいかがでしょうか」
 祐一の目が見開かれる。
 明らかに、美汐は怒っていた。
「美汐?」
「失礼します」
 美汐は別の出口からさっさと出ていってしまった。
「……俺、何か気に障ること言いました?」
 残った秋子さんに尋ねてみる。
「そうですね、もう少し気をつかってあげていただけませんか?」
「??」
「美汐ちゃんも年頃の女の子なんですから」
「はあ」
「祐一さんのことが、気にかかってるんですよ」
「はあ?」
「つまり、そういうことです」
「……俺、あの子には嫌われてるものだと思ってましたけど」
「美汐ちゃんは、気に入った人にほど素直になれないんです」
「ははあ……それだと今まで幸せな恋愛経験なんてないんでしょうねえ」
「そうなりますわね」
「はっきり言いますね、秋子さん」
「はい。だから、あまりからかったりするのはやめてあげてください」
「心得ました」
 そもそもからかったつもりからしてなかったのだが、と心の中で呟く。
 だがそれも後の祭だろう。
(ま、いいか……)
 祐一は気を取り直して出口から出ていった。





「祐一さん」
 翌日。出掛けに秋子から玄関で呼び止められた。
「なんでしょう」
「……その……」
 珍しく、秋子が口篭もっている。
「ジャムパンでも持って──」
「いきません」
 秋子が言い終わる前に答える祐一。少しだけ残念そうな秋子。
「秋子さん。言いたいことがあるんでしたらはっきりと言ってください。口篭もるなんて秋子さんらしくないですよ」
 秋子は真剣な表情だったが、やがて穏やかな笑みを浮かべた。
「分かりました……」
 秋子は決心したのか、いつもの『困ったポーズ』になった。
「きちんと帰ってきてくださいね」
 祐一は心臓が止まりそうになった。
(気付いている)
 自分が、この用事さえ終わらせてしまえばこの街に居続ける必要がなくなるのだということを。
「……分かりました」
 だが、祐一は決心していた。
 自分は、既に戦場に足を踏み入れている。だからこの戦いが終わるまで、戦場から逃げるつもりはないのだ、と。
「約束しますよ、秋子さんのためにもね」
 逆に、今度は秋子が驚いたように表情を変える。
(へえ)
 それは祐一にとっても新鮮な驚きだった。
(秋子さんでも驚いたりすることがあるんだな)
 祐一は少しだけ秋子を身近な存在として感じることができた。
「それじゃ、いってきます」
「いってらっしゃい、祐一さん」
 そして、祐一は玄関の戸を開けた──
「おはようございます!」
「どわっ」
 突然アップで現れた女性に驚いて家の中へ戻ってしまう。
「おはようございます、秋子さん」
「おはよう、佐祐理ちゃん、舞ちゃん」
「……おはよう」
 扉の向こうにはオペレーターの二人、佐祐理と舞が立っていた。
「……どうしたの、こんな朝から」
「あれ? 秋子さんから聞いてないんですか?」
 いったい何を、と聞こうとしたがそれより先に佐祐理がそのまま答えた。
「今日一日、祐一さんのお供をするよう申し付かったんですー。ね、舞」
 こくり、と頷く。
「……は?」
 さっぱり分からない。
「今日、祐一さんはお休みをもらってお出かけなさるんですよね」
「……それについてくるって?」
「はい」
 なるほど、と納得した。
 つまりは監視役ということだ。
「……ご迷惑ですか?」
 突然佐祐理さんが悲しそうな顔をする──と同時に舞が恐ろしい形相で睨んできた。
(やれやれ、できれば一人で行きたいんだがな……)
 とはいえ、断ることはできないだろう。佐祐理が無理についてくるということはないだろうが、その代わりに諜報部が影で尾行するに違いない。
 いや、既にされているというべきか。
「どうしても、一人で行きたいところがあるんです」
 佐祐理が泣きそうな顔になった。
「だから、途中で二時間くらい一人にさせてくれるなら、一緒でもかまいません」
 その顔がぱっと輝いた。
「じゃあ、いいんですね!?」
「素敵な女性の誘いを断ることはできないですよ」
「ありがとうございます」
 佐祐理はぺこりと頭を下げた。
「佐祐理は嬉しいです。舞も喜んでいます」
「本当かよ」
 祐一は能面な舞を見つめる。だが、全く表情が変化していない。
「……」
「佐祐理さん、ひょっとして俺、舞に嫌われてる?」
「あははー、全然そんなことないですよ。舞も祐一さんのこと大好きですから。ね、舞?」
 ぶすっとした顔で舞は振り返るとてくてく歩き出し、家の前に止まっていた車に乗り込んでいった。
「あれ、車?」
「はい。足があった方が便利かと思いまして」
「誰が運転するんですか?」
「私です」
 なんとなく、不安だった。
「……祐一さん、今、不安だって思いませんでした?」
「思ってないです、全然」
 そらっとぼける。だが佐祐理の追及は厳しかった。
「祐一さん、ひどいです。佐祐理は傷つきました」
「すいません」
 素直に白旗を上げる祐一。
「俺が悪かったので、どうか目的地まで連れていってください」
「分かりました」
 佐祐理はぱっと表情を変えて車へと駆け寄っていく。
「祐一さん、急ぎましょう!」
 その姿を見て、はーっ、とため息をついた。
「祐一さん」
 と、後ろから声がかかる。
「気をつけていってきてくださいね」
 秋子が、最後に声をかけた。
「はい、いってきます」
 改めて答え、祐一は車へと向かった。










NEON GENESIS KANONGELION

EPISODE:07   the Grave










「それで、どこへ向かえばいいですか?」
 佐祐理が車を出してから尋ねてくる。
 助手席には舞。
 後部座席には祐一が乗っている。
「そうですね、それじゃあ指示出しますから、そのとおりに進んでください──あ、左車線入って。三つ目を左です。そこから高速に入ってください」
「分かりました」
 佐祐理は言われたとおりに車を運転していく。
「ところで、目的地はどこなんですか?」
「それはちょっと。あまり人には知られたくないことなので。それより、技術課のナンバーツーが半日もいなくなって大丈夫なんですか?」
 やや強引に話を逸らす祐一。
「ええ。今日は作戦課の方がやることがあるらしくて、私たちは後でもいいって言われたんです」
「やること?」
「はい。明後日搬入される、カノン弐号機の検証です」
「弐号機?」
「はい、ドイツ支部からUN海軍の協力で運ばれてくるらしいんです。それからセカンドチルドレンも一緒に来るはずです」
 祐一の目がこわばった。
 セカンドチルドレン。あゆがファーストで自分がサードである以上、セカンドがいるのは当然のことだ。
(ドイツ……そんなところにいたのか)
「祐一さん?」
「あ、いや──そのセカンドチルドレン、名前はなんていうんだ?」
「ええっと、確か惣流──」
「惣流・名雪・ラングレー」
 佐祐理のフォローをするかのように舞が答えた。
「そうです、確か日本人とドイツ人のハーフだそうですよ」
「へえ……」





「これが、弐号機……」
 真琴が呟く。上映されているものは弐号機と第三使徒クゼエルとの模擬戦闘であった。
「さすがに祐一さんより動きが速いですね」
「シンクロ率の差、でしょうね」
 秋子の感想に美汐がパネルを操作し、シンクロ率とハーモニクス値を表示した。
「戦闘中のシンクロ率誤差は〇.二以内。六五%でほぼ一定。努力の成果というところですね」
 弐号機の四つの目が光った。そしてA.Tフィールドを展開しつつクゼエルに迫る。
 そして、プログナイフがクゼエルのコアを貫いた時点で、映像が終了した。
「こんなところですね。弐号機の搬入は私たちにとって大幅な戦力アップになることは間違いありません。そこで──」
「私たち作戦課が使徒戦を想定した戦術を立てるということですね」
「そういうことです。現在零号機は修復中ですから、これまでの使徒、クゼエル、カズヤエル、イチゴサンデルなどから次に現れる使徒を想定し、初号機と弐号機による作戦案を考えてください。これは実際に弐号機を見てからでもかまいません」
「私たちの腕の見せ所ね、秋子さん」
 真琴はやる気十分だった。秋子はいつものように微笑むだけだが。
「そうですね。こちらもカノンが複数体いるわけですし、例えば使徒が複数体現れた時の対処も考えることができますね」
「使徒が、複数?」
「あくまで可能性です。これまでの三体には共通するところはおそらくA.Tフィールドを展開できるということだけ。だとすれば、実体を持たない使徒や、光や影そのものが使徒になる場合も考えられます」
「あうー」
 いきなりやる気を削がれている真琴。
「使徒と戦うというのは、私たちの概念で推し量ることができる問題ではないのかもしれません」
 秋子はさらに続けた。
「だからこそ、今のうちに──使徒がまだ現れていないこの期間中に、私たちはできるだけ自分たちの想像の幅を広くしておくことが大切ですわ」





「あ、ここで止めてください」
 祐一が言うと、佐祐理は左ウィンカーを上げ、路上に停車した。
「本当にここでいいんですか?」
「はい。それじゃ、また二時間後にここで会いましょう」
「はい……」
 佐祐理は寂しそうに俯く。
「二時間したら、必ず戻ってきますから。そうしたら佐祐理さんのお弁当を三人で食べましょう」
 佐祐理は不承不承頷いた。
「祐一」
 車から降りた祐一に向かって、舞が車の中から小物を放り投げる。
「おっと」
 左手で受け止めて、それを確認する。
「……なんだ、これ?」
「お守りだ。持っていけ」
 舞がよこしたものは、小さい牙のように見えた。せいぜい小指程度か、それよりも小さい。
「何の牙だ?」
「牙じゃない。お守りだ」
 よくは分からなかったが、祐一はそれをしっかりと握り締めた。
「サンキュー。ありがたくもらっておくよ」
 祐一が言うと、舞は頷いて窓を閉めた。そして佐祐理さんがゆっくりと車を発進させ、道路の向こうへと走り去っていった。
「ふう……」
 祐一は一人になってから大きく息を吐いた。そして舞から受け取ったお守りをズボンのポケットにいれる。
 それからゆっくりと歩き出した。
 この辺りまで来たということは、もう佐祐理たちには自分の行き場所が分かっているのかもしれない──いや間違いなく分かっているはずだ。
 郊外の、住宅すらまばらなこの地域にあるもの。それは一つしかない。
「……七年ぶり、だな……」
 そこに到着した祐一は、その広大な敷地を眺めた。
 見わたすかぎり立ち並ぶ柱の群れ。等間隔に並ぶ柱はその異様さにも関わらず一種の造形美をかもし出している。
 セカンドインパクト以前とは異なり、余計なものを一切排除して柱のみが並べられている。少しは植樹するなりしてもいいのではないか、と思う。
 柱は、どれくらいあったのだろうか。千や万の単位ではない。何十万、何百万という数だ。それが区域ごとに分かれ、番号づけられ、整理されている。
 ある意味失礼なことではあるのだろうが、そうしなければ目的の柱がどれなのかが全くわからなくなってしまう。それは仕方のないことであった。
 季節はずれにも関わらず、何人かの客がちらほらと見受けられる。自分と同じように、連休の初日ということで来てみたというのが理由の大半だろうか。
 入り口で桶と柄杓を手にし、ゆっくりと奥へと進んでいく。
 空には相変わらず太陽が輝いており、雲一つ存在しなかった。
「……七年前に来た時は、記録的な大雨だったっけ……」
 十分以上も歩いて、ある程度まで来ると近くの水道で水を汲み、柱の中へと分け入って行く。
 はっきりと場所を覚えていたわけではないが、だいたいこの辺りだったことは間違いない。
 一つ一つ、柱を確認していく。
「ふう……」
 F区。
 45列目。
 132番。
 そこに、その名前を見つけた。
「……やあ……」
 祐一は、かつてないような穏やかな笑みを浮かべた。
「久しぶり、だね……」
 そこに、刻まれている文字に、かつての面影を思い出す。
「……あ……」
 だが、そこには若干のタイムラグがあった。
「七年前なら、すぐに思い浮かべることができたんだけどな……」
 少しずつ、時間がたつにつれて彼女の顔を思い浮かべることに時間が必要になってきている。それは人間の記憶というものがいかにあいまいなものであるのかということを証明しているかのようでもあった。
「元気だったかい……? 一人で、寂しくなかったかい……?」
 祐一は、そっと、その文字に手を触れた。
「ごめんよ……守ってあげられなくて」

 遠野 美凪 之 墓 

 柱には、そう刻まれていた。





「……いいのか?」
 第三新東京市をドライブする佐祐理に、舞は小さく声をかけた。
「うん。祐一さんがあそこに一人で行きたいっていうんだったら……」
 佐祐理は赤信号で止まると、左手で舞の手を取った。
「邪魔しちゃ、いけないよね」
「私は、祐一を一人にするべきじゃないと思う」
 だが、舞ははっきりと否定の意思を示した。これは滅多にないことである。
「祐一の目的は、墓場に行くことだった。それを果たしたなら、もう帰ってこないかもしれない」
「でも、祐一さんがもうカノンになんか乗りたくないって言うんだったら……」
 佐祐理は涙を流していた。
「私たちがどんなに望んでも、それは祐一さんが決めることだからっ」
「佐祐理……」
「ごめんね、舞。でも、佐祐理、祐一さんの邪魔はしたくないの」
 突然、自分の目の中に飛び込んできた光景。
 自分の見知った顔が──祐一が、三人の男をいいようにいたぶっていた。その光景を見て佐祐理は恐怖した。
 祐一は笑っていた。
 そして、笑いながら泣いていた。
 やり場のない怒りを、悲しみを、苦しみを、ただ吐き出している。
 佐祐理にはそう見えた。
 だから怖かったけど、逃げなかった。
 この人を見捨ててはいけない。
 この人を拒絶してはいけない。
 誰かが、この人の傍にいてあげなければならない……。
 少しでも、その苦しみが癒されるように……。
「だから、祐一さんが帰ってきてくれることを信じる。帰ってきてくれるなら、佐祐理が──みんなが、祐一さんの苦しみを少しでも肩代わりしてあげることが、できるかもしれないから」
「佐祐理……」
「祐一さんが、昔と対面するのに、他の人は邪魔だと思うから……」
 佐祐理は泣きながら、車を発進させた。
 二時間という時間が、とてつもなく長く感じられた。





 祐一は墓を洗い終わると、その前に座って美凪の墓を見つめていた。
「……何か食べ物でも買って来るんだったかな……」
 だが、祐一はそうしたくなかった。
 墓参りをするということは、その人の死を認めるという行為だと祐一は考えていた。逆にいえば、墓参りをしないということは、その人物のことを無視しているのだということだ。
 全くその人物に興味がないから無視しているのかもしれない。もしくは、その人物の死を認めたくないから墓という現実に向き合いたくないということもありうる。
 祐一は後者であった。今まで、何度か第三新東京市に来る機会がなかったわけではない。第三新東京市に入ってからこの一ヶ月、ここに来る機会がなかったわけではない。
 自分は、ここに来ることを避けていたのだ。
 彼女の死が現実のものだと感じたくなかったから。
「美凪、か……」
 思えば、変わった少女だった。
 目を閉じれば、彼女との思い出もいくつか頭の中に浮かぶ。


『……お米券……進呈……ぱちぱちぱち……』


「ちがうだろーっ!」
 いきなり思い出すことがそれか、と肩を落とす祐一。だが、それは美凪という人物をよく描写していることと同義であった。
 お米を食べることが大好きな少女であった。おかずが何もなくても米さえあれば幸せになれる少女であった。
 九歳の子供のくせに、いったい何十枚お米券を持っているのか分からなかった。


『……多分……三八枚……』


「んなこともあったな」
 思わず苦笑いがこぼれる。
 思い出というやつは、本当に不思議だ。普段は全く思い出すことができないのに、何かのきっかけでふと鮮明に甦ってくる。
 米や食べ物の話は日常的なものだった。だから印象深い思い出ではないが、思い出の量としては一番多いはずだ。
 あるいは、星の話。
 夜毎に誘われては、夜空を見上げていた。治安の悪い街だったというのに。


『天文クラブ入部を許可します……』


「うちの小学校には天文クラブはないっつーの」
 どこまでも呆けている少女だった。


『残念……』


「この話の流れはまずい」
 強引に星の思い出を中断する。もしかしたら目の前で美凪の霊魂がうらめしそうにこちらを見ているかもしれない。
(こわっ……)
 あえてそれについては考えないこととして、他の思い出を掘り返した。
 あるいは、妹の話。
 本当は生まれるはずだった妹がいたのだと、無表情で泣いていた。


『……一緒に、シャボン玉をして、仲良く遊んで……そんな夢を、今でも見ています……』


 思えば小学生ながら口調があまりにも礼儀正しい少女だった。
 そんなことも、今の今まではすっかり記憶の底に封印して忘れてしまっていたのだが……。
 そして、あの日。
 この場所で、雨に打たれ、気を失うまで泣いた。


『うう、あ、あ、あ、あ、あ……』


 あの泣き声は、自分か。
 若かったものだ、と自嘲する。あの日まで、自分は幸せに暮らしていた。厳しいが優しい父親と、隣の家に暮らしている母娘。
 それが、たった一日で全てなくなってしまった。
 何の理由もなく。
 何の必然性もなく。
 自分の目の前で、全てが壊れていった。
「なあ、美凪……」
 墓に向かって、小声で話し掛ける。
「俺、今、ネルフってところで人類を救うために戦ってるんだぜ」
 笑いがこみあげてきた。
 久しぶりに、自分が壊れていく感じを思い出していた。
「馬鹿げてるよな。この世界なんか、人間なんかどうでもいい、滅びてしまえばいいなんて考えてた、いや今でもそう考えてるこの俺が、人助け? 人類の救世主? おかしいよな。いや、冗談もここまでくれば笑えないか」
 笑いはいつしか嗚咽に変わっていた。
「そうだよ……こんな世界なんて……こんな世界なんて滅びてしまえばいい! お前のいないこの世界は、俺には広すぎる……」
 広大な墓場に、一人少年の嗚咽と風の音だけが流れていた。
「広すぎるんだよ……美凪……」
 ゆっくりと墓に近づき、その柱を両手で抱く。
「……どうして、あの時……」



 赤い血。

 青い瞳。

 黒い影。

 白い月。

 壊れた心。

 絶望。

 恐怖。

 覚醒。

 殺戮。

 死。

 死。

 死。

 骸。



「みなぎぃっ!!」










『……でも、祐一くんは生きているから……』



「美凪?」
 墓を見つめる。
 確かに聞こえた。
 いや、幻聴だろうか。
 美凪の声。懐かしい、聞き覚えのある声。
 よく慣れ親しんだ、優しい声。
「生きているから……」
 祐一は、その言葉を繰り返す。
「生きているから……」
 だから。
 だから、せめて生きているものには幸せを。
「そんなことを言ってくれるのか、美凪……お前なら、そう言うかもしれない……」
 だが。
「でもな……お前のいないこの世界で、幸せは見えないんだよ、美凪……」
 空が明るいのに暗い。
 風が暖かいのに冷たい。
 傷の痛みが心地よく、健康な時こそ吐き気がする。
 胸はいつも張り裂けそうなのに、あまりにも空虚で。
 血管を流れているものは血ではなく汚物のような気がして。
 自分で自分を殺すより、永遠に自分に苦痛を与え続けることの方を強く望んでいる。
「こんな俺が、幸せになれるのだとしたら、それは……」
 たった一人の少女が、自分のところに帰ってきてくれるのなら。
 それだけが、望み。
 それだけが、救い。
 それだけが。





「……戻る、か……」
 いつまでそうしていたのだろう。
 気付けば夕暮れ。佐祐理との約束の時間は六時間以上も過ぎ去っていた。
「やっぱ、一日必要だったか」
 吹っ切れたように笑う。
 胸のつかえが取れた、というわけではない。ただ、こうして墓と向き合うことで、少しだけ現実に近づいたような気はする。
「また、来るよ……それまで、元気でな」
 そして願わくば、幻聴でもかまわないからまた言葉をかけてくれることを。
 それだけが、たった一つの幸せに近づくことに他ならないのだから。
 祐一は柱に接吻した。
 もし、今でも生きていたらやはり同じことをしていただろう。
 こんなにも、愛している。
 たった一人の少女を。
「それじゃ」
 祐一はその場を後にした。
 名残を惜しむかのようにゆっくりと歩き、離れていく。
 だが、一度も振り返ることはなかった。





 桶と柄杓を返し、墓場から出る。
 この時間帯は、空の様子が変化するのが早い。先ほどまではまだ赤々としていた空が、すっかり群青色に変わってしまっていた。
「さて、と……」
 どうやって帰るか、と思いながら道を歩き出した。
 その時である。
「祐一さんっ」
 自分を呼ぶ声。振り返ると同時に飛び込んでくる、少女の身体。
「佐祐理……さん……?」
「よかった……よかった、もう、会えないんじゃないかと……っ」
 どうやら、自分が墓参りをしたあと、そのまま第三新東京市を出ていったのではないかと不安になっていたようだ。
(信用されてないな……いや、されているのか?)
 約束の時間をこれほどオーバーして、なおこの場所に留まって待っていてくれたというのは、自分を信じてくれていたからに他ならないだろう。
「申し訳ありません。ちょっと、旧友に会って時間をオーバーしてしまいました。約束の時間には戻れませんでしたけど、よければこれから佐祐理さんのお弁当を食べさせてはもらえませんか?」
 激しく首を振る佐祐理。それを見ると、祐一も思う。
 戻ってきてよかった、と。
 少なからずこういう人がいるから、この世界もまだ捨てたものではない。
「祐一、遅い」
「悪い、舞」
 傍らに立ってこちらを睨んでいる舞に、手を合わせて許しを請う。
「……佐祐理を心配させた罪は重い」
「懲役一年ですかい」
「……でも、戻ってきたから情状酌量を認める」
「ありがたい仰せ」
 へへー、と冗談めかして頭を下げる。
「さて、それじゃどこかでゆっくりとお弁当──」
「却下」
 舞が即断する。
「……何故」
「もう六時になる」
「あ」
 祐一が間抜けな声を上げた。
「そうか、一八時までに戻れって言われたんだっけ」
「だから、車の中で食べていけ」
「了解」
「佐祐理、いつまでもそうしてないで、早く」
「うん、分かった」
 ようやく離れる佐祐理。その顔は夕陽のせいではなく、少し赤らんでいた。
「ふう……」
 祐一は一息つく。
(幸せになることは、できないよ美凪……)
 心の中で語りかける。
(でも……今より少しはマシになる程度のことなら、できると思う……)
「祐一」
 思いに耽っている余裕もなく、舞に強引に車に放り込まれる。
「ほんっと、強引だなお前」
「祐一、少し表情が変わった」
「はあ?」
「今朝よりずっといい顔をしている」
「そうですね、佐祐理もそう思います」
 運転席に乗り込んだ佐祐理も舞に同調した。
「はあ、そうですか」
 祐一としては頷くしか他にない。
(七年前に比べて、少しはマシになってるのかな、美凪……)
 だが、今日からならもう少しはマシになれるはずだ、と思う。
 まずは、できることから始めよう。
 そして、いつかは。





「シンクロ率──うそっ!」
 佐祐理の声が響く。そして画面に表示されると、全員が感嘆の声を上げた。
「シンクロ率、六二.〇%です……」
「たった一日で、一〇%近くも上昇したというの……」
 さすがに美汐が信じられないという表情を浮かべる。だが、その数値を見て秋子が穏やかに微笑む。
「胸のつかえが取れたようですわね、祐一さん」
「つかえ?」
「自分がカノンに乗っていてもいいのか、という迷い。それがシンクロ率の上昇を阻んでいたんです」
「阻んで──? だって、彼はたった一ヶ月で五〇%台に乗せた──」
「私たちの常識を、祐一さんにあてはめることはできないということです」
 秋子は自信たっぷりに微笑んだ。









次回予告



 ドイツのベルヘルムスハーフェンを出港し、一路日本へと向かうカノン弐号機とそのパイロット。
 やたらと呆けているその少女に、またも祐一は保護者役をかってでる。
 そして、突然の使徒襲来は起動した弐号機に初の水中戦闘を強いる。
 しっちゃかめっちゃかなエントリープラグで、秋子は使徒に勝てるのか。

「……名雪の出番、遅すぎませんか?」

 次回、名雪、来日。
 お楽しみにしてください。



第八話

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