「というわけなのよ」
第七使徒戦から二週間。祐一は呆れてため息をついていた。
「朝、出会うなりそうそうに『というわけ』と言われても何がなんだかさっぱり分からん」
祐一は名雪の隣に並んで歩く香里に向かって答える。名雪も分かってはいなかったが、にこにこいつものように笑っていた。
「だから、修学旅行よ、修学旅行」
「ああ、期末テストの日程が七月中旬なのをいいことに、何故だか知らないがこんなありえない時期に行われる修学旅行のことか」
「随分説明的な台詞じゃない」
「他に説明する奴がいないからな」
「ま、そんなことはどうでもいいから、あなたたちも私たちのグループに入らないって聞いてるのよ」
「うん、いいよー」
「不可」
あっさり答える名雪。あっさり答える祐一。
だが、その内容は一八〇度異なっていた。
「どうしてよ」
「残念ながら、修学旅行期間中は本部待機になっている」
「そうなの?」
「そうなの?」
「お前が聞くな、名雪」
ぽかっ、と頭を叩く。
「うー」
「仕方ないだろうが。留守中に使徒が攻めてきたらどうするんだ」
「むー」
(技が増えたな)
膨れた名雪を香里がなだめていると、ぱたぱたといつもの音がした。
「おはよう、祐一くん、名雪さん、香里さん」
「ああ、おはよう──って、随分嬉しそうだな、あゆ」
「うん。だって、もうすぐ修学旅行だし」
「お前もか、あゆ!」
すぱーん! と、いい音が通学路に響いた。
「うぐぅ、なんでスリッパなんて持ってるんだよ〜」
第拾話
マグマダイバー
五日後。ネルフ地下施設。
「ゆういちー」
「ゆういちくーん」
修学旅行に行けなかった寂しさなどどこ吹く風で、二人がプールで泳いでいた。
(ほんっと元気だよな、あいつら)
ただしあゆは浮き輪つきだ。
先に上がってきたあゆが祐一のところに駆け寄ってくる。
「疲れたー」
「お前泳いでないだろ」
ずっと浮き輪につかまって名雪と水遊びをしていただけだ。
そして今、名雪は一人でひたすら泳いでいる。
「ボク、ちゃんと泳いだよ」
「じゃあ浮き輪使わないでいってこい」
「うぐぅ〜」
最近、やっつける相手として名雪が増えた分、あゆをやっつける回数は確かに少なくなっていた。特にネルフ本部内にいる時は、名雪がけっこう傍に寄ってくるので、あゆと会話する機会からして減少していた。
「ボク、泳げないもん」
「そんなこたあ見てれば分かる」
「祐一くん、泳げるの?」
「当たり前だ。小学校で習うだろ」
「うん。そうなんだけど……」
俯くあゆ。何だか、聞いてはいけないことを聞いてしまった時の表情になってしまっていた。
(なんだかなあ)
まるで苛めているような(実際いつも苛めているのだが)気分になってしまい、テンションが下がる祐一。
「ま、泳げなかったからって生きてくのに困ることはそうないだろうけどな」
ぱっ、とあゆの顔が輝く。
「そうだよね!」
「でも泳げた方がいいに決まってるけどな」
すぐに涙目になる。
「うぐぅ、祐一くん、いじわる」
「泳ぎたかったら名雪に教わってこい。あいつ、傍から見ててもけっこう泳ぐの上手いぞ」
名雪は延々とひたすらクロールで五〇メートルプールを往復している。体力もかなりあることが見ただけで分かる。
「祐一くんは泳がないの?」
「俺は水着を持ってきてないからな」
「そんなの、借りればいいのに」
(まあ、それだけが理由じゃないからな)
祐一は、そっと左手で右肩に手を触れた。そして、分かるだろ? と語りかけるようにあゆを見つめる。
「あ……そうか、ゴメン」
あゆは神妙になって俯いた。
「肩痛かったんだね。気付かなくて、本当にゴメン」
がたがたがたがたっ。
「ど、どうしたの祐一くん」
思わずデッキチェアから転げ落ちてしまい、頭を押さえながらゆっくりと起き上がる。
「金輪際お前とは二度と話をしない」
「え、ええええっ?」
どうやら、本気で気付いていないらしい。
自分が普段からそのことを気にかけないようにしているから、おそらくはあゆもすっかり忘れてしまっているのだろう。
「ゆ、祐一くん」
「さっさと行って、名雪と水遊びしてこい」
「うぐぅ……分かったよ」
どうやら相当に祐一を怒らせてしまったということが分かったらしく、おとなしくプールへと戻っていくあゆ。
(しかし、あんな大きな傷見ておいて、よくすっかり忘れてられるよな)
しかもその後フォローもなかった。つまり、今のやりとりで全く思い出すことができなかったということだ。
(まあ、あんまり見て楽しいもんじゃないからな)
ネルフの上層部はこの傷のことは当然知っているだろうし、その原因も調べがついているだろう。だいたい、この怪我を負った時はまだ往人と暮らしていた時だ。当然理由から何から全て把握されているに違いない。
おそらくは、秋子、美汐。そしてオペレーターズにも。
(あゆにも見られちまったしな。見せるつもりはなかったんだが)
ついうっかり、というやつであった。おとなしくベッドで横になっていれば、あゆにも気付かれずにすんだのだが。
(せめて、名雪くらいには知られたくないな)
名雪のことだから、すぐに「どうしたのどうしたの」って聞いてくること疑いない。
(名雪か)
随分と、あゆと名雪には気をつかっている自分がいることに、このごろ祐一は気付いていた。
いや、気をつかっているというよりは、二人の保護者役を真剣に行っているというべきか。
あの二人と一緒にいることは、悪い気はしない。
なんとなくだが、落ち着く。
(不思議なもんだよな)
美凪を失ってから七年間、こんな気持ちを抱くことはなかったのだが。
その名雪は、あゆがプールに戻ってきたのでクロールを教えようとしていた。おそらくあゆの方からお願いしたのだろう。
ビート板を使ったバタ足から教えているようだ。
(なかなか前に進まないな)
立ち泳ぎをしている名雪よりはるかに遅い。五〇メートルに達するまで、何分、いや何十分かかるだろうか。
(スポーツの才能ないんじゃないのか、あいつ)
子供の頃から体を動かしていたらどんなスポーツにも順応できるようになるというが、それが正しいのならあゆはおそらく小・中と帰宅部だったのだろう。当然高校でも帰宅部だ。
陸上部の名雪とはとんでもない差だ。
「お暇ですかー?」
プールサイドでチェアに寝そべっていた祐一のところへやってきた水着の女性が二人。
「おやおや、美人がおそろいで。お仕事はどうしましたか」
「一段落ついたので、二時間の休憩です」
佐祐理が天使の笑顔を浮かべて祐一の隣に腰掛けた。舞もその隣に座る。
(二人ともビキニか〜。やっぱり美人が着ると違うよな〜)
つい親父的な発想に陥る祐一。それも無理もなかっただろう。こんな美人に接近されて無反応でいられる方がおかしい。
「それでプールに?」
「はい。祐一さんたちもこちらだと聞きましたから」
「おやおや、俺に会いに来てくれたのか。嬉しいねえ」
「あははーっ。舞も祐一さんに会いたがってたんですよー」
ねーっ、と言う佐祐理を舞はぽかりと叩いて、プールへと向かった。
「あははー、舞、気をつかってくれたみたいですね」
気をつかう、という言葉に祐一ははっと以前のことを思い出す。
そういえば、まだこの間の答を言っていなかった。
『祐一さんのことがきちんと分からないと、相談できません』
自分は、なんと答えればよかっただろう。
過去のことなど、誰に教えるつもりもない。このことは自分一人が墓場にまで持っていけばいいことであった。
(やっぱり、言うわけにはいかないな)
そうした方向性で佐祐理に接するつもりであった。だが、この女性がどれだけ自分に対して期待しているのかを考えると、無下に断るわけにもいかない。
(どうしたものか)
さいわい、返事はいつでもいいと言われている。もう少し時間の猶予がほしいところであった。
だが、今。
(佐祐理さん)
彼女は、明らかに返事を待っていた。
さっきの言葉からもそれは明らかだった。
『今、返事をくださいませんか?』
無言でそう言っているのが分かる。
「佐祐理さん」
「はい」
二人の間に走る緊張。
「この間のことなんだけど」
「……はい」
ますます佐祐理は硬直してしまう。そして真剣な眼差しで祐一を見つめる。
「俺、自分がどうしてカノンに乗ってるのかなんて、正直なところ自分でもわからないよ」
「はい」
「過去に原因があるのかもしれない。カノンに乗って、戦う。この間も言ったけど、戦うことが好きだっていうのも、あながち嘘じゃないんだ」
「はい」
「ただ、俺は戦おうと思っている。人類の平和のためとか、そんな奇麗事を言うつもりはもちろんないよ。ただ、戦う。理由は分からないけど戦う。戦っていることで、いつか理由も見えてくるかもしれない」
「はい」
「でも、過去のことは佐祐理さんには話せない」
「どうしても、ですか」
「友達ならなんでも話し合えるっていうのは、俺は違うと思う。自分一人が分かっていればいいことだってある。誰にも知られずにすむなら、そうしておいた方がいいっていう事実もやっぱりあるんだ」
「……」
「俺は、佐祐理さんのこと、大好きだし、大切だと思うよ。でも、このことは誰にも話せない。将来、俺がたった一人の女性を見つけたとしても、言うつもりはない」
それは見つかることはきっとないのだが、と心の中で付け加える。
「誤解してほしくないのは、このことを話さないからといって佐祐理さんのことを信じてないとか、軽く見てるっていうわけじゃないってことなんだ。俺は、本当に佐祐理さんに助けられたと思ってる。ここにきてからいつもくれる笑顔もそうだし、あの日、俺のことをずっと待っていてくれたことで、どれだけ心が軽くなったか。どんなに言葉で説明しても、佐祐理さんには伝わらないと思うけど」
「いえ」
「もし今の俺に悩み事があるんだったら、真っ先に佐祐理さんに相談するよ。それくらいには、俺は佐祐理さんのことが好きなんだ。こんな返事で、よかったかな」
佐祐理は目をつむった。そして、頷く。
「はい……はい、十分です」
「そうか。良かった」
祐一は安堵の息をついた。
上手に話せたとは思わない。でも、今の自分がどれだけ佐祐理を頼りにしているか、それだけは伝えたかった。
(あゆや名雪とは、違う安心感があるんだよな)
包まれているような、暖かくて優しい感じ。うまく表現できないが、癒されていくような感じ。
(だから、傍にいてほしい)
それは正直な願いであった。たった一人の女性かどうかは別として、だが。
(欲張りだよな、俺。こんなに素敵な女性に、ただ傍にいてほしいだなんて)
もし美凪のことがなければ、佐祐理のことが好きになっていたかもしれない。
だが、自分には人を愛することはできない。
今、こうしていても自分の心が冷めているのが分かる。心が空っぽなのが分かる。
かつて失った女性への想いが行き場をなくして彷徨っているのが分かる。
「祐一さん、今度」
佐祐理は意を決したかのように言う。
「今度、佐祐理の話も聞いていただけますか?」
「もちろん。俺でよければ」
「祐一さんでなければダメです」
そう言って、笑う。あははー、といつもの声がする。
「それじゃあ、せっかくの休憩時間なんだし、佐祐理さんも泳いで来たら?」
「そうですね。それじゃあ、ちょっと行ってきます。あ、祐一さん」
立ち上がりつつ、佐祐理はにこやかに微笑む。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
そうして佐祐理もまたプールの中へと飛び込んでいった。
(とりあえず、これで前回からの分はひとまずクリア、と)
この三週間近く、佐祐理と顔を合わせるのが何だか気まずかった。笑顔にもいつもの天真爛漫なところが見当たらなかった。
自分が原因なのは理解していた。
(よかったんだよな、これで)
あとは佐祐理自身の問題だ。あの柳也という人物。そして妹の「みちる」という人物。
彼女が何を想い悩み、そしてどうしたいと思っているのか。
(責任、重大だな)
一人の女性の命にも関わる重大な役目である。おろそかにするつもりはもちろんないが、自分なんかで本当に適任なのだろうかという疑問もある。
(人のために。そんなこと、ここに来るまで思ったこともなかったのにな)
カノンに乗ってから。いや、あの時あゆと出会ってから、少しずつ何かが変わり始めた。
それとも、狂い始めたのか。
「ゆういちー」
気がつくと、名雪がプールから上がってこちらにやってきていた。
「おう、名雪。どうだ、あゆの調子は」
「うん、今、佐祐理さんと舞さんが見てくれてるんだけど」
何故かしょんぼりとした顔でプールを見る名雪。その視線の先で、ビート板にしがみついたままあゆがおぼれそうになっていた。
(器用な奴)
「あゆちゃん、どうも水が苦手みたい」
「苦手ねえ。それじゃあもぐるところから始めたらどうだ?」
「それはできるんだよ」
「じゃあ苦手じゃないじゃないか」
「うーん。うまく説明できない」
「説明されないから余計に分からない」
「うー」
くつくつと祐一は笑うと、ご丁寧に用意されていたクーラーボックスからジュースを取り出す。
「お前も飲むか?」
「イチゴジュース」
「どろり濃厚なやつしかないぞ?」
「うーん、じゃあアップルジュース」
冷たい缶ジュースが手渡され、ぷしゅっ、と音がする。
「おいしい」
一口飲んで、いつもの笑顔を見せる名雪。
(本当に安上がりな奴)
とりあえず美味しいものさえ与えておけば常に機嫌がいいということを、既に祐一は心得ていた。
「なあ、名雪」
「なに?」
「体を動かしてると、思い出さないか?」
「なにを?」
「あいやいやー、って」
「やめて、祐一!」
珍しく大声で怒鳴る名雪。だが、この攻撃は祐一自身にも深いダメージを与えていた。まさに諸刃の剣であった。
「うー、また頭の中でリフレイン始まったー。しばらくなかったのにー」
「俺もだ。今のは自分でも失敗したと思った」
「イチゴサンデー」
その言葉は祐一に別のもの、つまり第五使徒を思い起こさせた。
「分かった、奢ろう」
「約束だよ」
と、その時である。
『カノンゲリオンパイロット三名、および青葉舞、伊吹佐祐理、両名はすみやかに第一発令所まで戻ってきてください。繰り返します──』
「呼び出しだな」
「なんだろうね」
「緊急警報じゃないっていうことは、使徒ではないみたいだが」
「うーん。行ってみないと分からないよ」
「そうだな」
と、水から上がってくる三人。
「せっかく来たばっかりなんですけどねー」
ちょっと膨れ顔の佐祐理。舞も同感とばかりに頷く。
「あ、三人とも、教えてくれてありがとうございました」
「どういたしまして」
名雪が代表して答える。
「それじゃ、四人とも着替えてきて。俺は先に戻ってるから」
『はーい』
なんだか、手のかかる子供が二人から四人に増えたような気がした一瞬だった。
「浅間山地震研究所からの映像です」
真琴がモニターに表示すると、おおっ、というどよめきが発令所に起こる。
表示されたのは、浅間山の火口内部、すなわちマグマ内の映像である。
「MAGIの判断は?」
「保留しています。可能性はフィフティ・フィフティです」
美汐が答える。
「ふむ、より正確なデータがほしいところだな」
石橋が言うと、秋子は続けて指示を出した。
「もう五〇、下げてみてください」
「これ以上やったら壊れるかも」
「その時はネルフで弁償いたします」
所詮懐が痛むのはネルフであって、秋子ではない。強気の発言であった。また往人が滝の涙を流すことだろう。
「映像、出ます」
改めて真琴が映像をモニターに表示する。今度こそ、はっきりと映った。
人の顔が。
「パターン、青です」
石橋が重く頷いた。
「間違いありませんね。使徒です」
「名前は、なんていうんですか?」
真琴の素朴な質問に、秋子はにっこりと笑った。
「第八使徒、セバスチャンよ」
NEON GENESIS KANONGELION
EPISODE:10 MAGMADIVER
「失敗は許さないよ〜」
明るい声。いい加減、この娘の相手をするのも疲れる。
「佳乃」
「呼び捨てにしちゃだめ〜」
「生きた使徒を回収することは補完計画にも大きなプラスとなることは間違いない」
「むう〜」
「いいからさっさと使徒回収を許可しろ」
「うう〜、し、仕方ないよ〜」
やれやれ、と往人はため息をついて立ち上がった。
(ったく、この佳乃=ローレンツっていう設定だけはどうにかならんもんかね)
本気で思う往人であった。
「第八使徒、セバスチャンねえ」
発令所に戻ってきた祐一は、人の顔の形をした映像を見る。
顔といっても正確に分かるのではなく、せいぜい影が見える程度のものにすぎない。
「ヤジマはまだともかくとして、セバスチャンはまずくないですか?」
「問題ありません」
秋子が笑いながら言う。
「それで、こいつをどうすればいいんですか?」
「弐号機がD型装備で火口に潜入、使徒キャッチャーで捕獲してください」
「私?」
「もちろん。名雪は弐号機専属パイロットでしょう?」
さも当然のように言う秋子。
「俺じゃないのか」
素直に不満を口にする祐一。
「成功の確率を少しでもあげるために、シンクロ率が高い名雪がやることになったんです」
この時、名雪のシンクロ率はついに大台の七〇%に突入していた。そして祐一もそれを追いかけるように六六%まで上がっている。ちなみにあゆはようやく六〇%に達したところであった。
「名雪のオオボケが発揮されないことを願う」
「うー」
「それから」
口論になりかけた祐一と名雪の間に美汐が割って入る。
「耐熱用のプラグスーツはもう着てますね」
名雪が頷く。
「うん。あまり普通のプラグスーツと変わらないね」
「右のスイッチを押してください」
「右。えい」
ぽち、と音がすると同時に、プラグスーツがダルマのようにぷっくりと丸く膨らんだ。
さすがに祐一もあゆも目を丸くした。
「わっ、わっ」
「横幅だけで通常の三倍はありそうだな」
「うまくバランス取れないよ〜」
「それから、弐号機の用意もできています」
映像が映し出される。まるで巨大な潜水服に弐号機が包まれているようだった。顔の部分だけが透明で中を見ることができた。
「ぬいぐるみみたい」
あゆの率直な感想は全員の納得を生んだ。
「それでは、作戦を説明しますね」
秋子がようやくといった感じで始める。
「初号機、及び弐号機は輸送機で浅間山火口へ。弐号機は火口からクレーンで有線降下、使徒を回収してください」
「はーい」
「初号機は?」
「もしもの時のために、火口付近で待機。もし使徒との戦闘に入ったらサポートしてください」
「初号機もD型装備してるんですか?」
さすがにこの格好悪い装備は勘弁だ、と祐一は切に願う。
「いえ。ですから、使徒が火口から出てきた時だけでかまいません」
(それって、名雪がミスったらってことか?)
さらっとした顔で怖いことを言う人だ、と祐一は秋子の認識を改めた。
「それから、もしもの時に備えてUN空軍が空中待機することになっています」
「なんのためだ?」
祐一の声は厳しかった。
まさか、あの何の役にも立たないUN軍が自分たちの援護をするということは、よもやあるまい。
だとしたら、答は一つだ。
「使徒捕獲に失敗した時、N2爆雷を一斉投下して使徒を殲滅するためです」
応えたのは美汐であった。
一瞬、祐一の鋭い視線が美汐を貫くが、美汐に動じた様子はない。
「なるほど、どうせあの陰険司令が許可したんだろ」
「それが使徒捕獲の最低条件だと強く言われたようです」
「使徒ねえ」
その使徒を倒すことがはたしてUN軍にできるのか、できたとするなら、それは使徒以上の脅威ではないのか。
(まさに、人間こそ使徒だな)
侮蔑をこめて、祐一は誰にも聞こえないように吐き捨てた。
浅間山、ロープウェー。
一組の男女がその中にいる。それは、どこにでもある日常的な光景であった。
「やれやれ、こんなところで待ち合わせとはな。随分大胆になったんじゃないか?」
「柳也様ほどではありませんわ」
問題は、その女性の服装であった。明らかに山登りという感じではない。
なぜなら、和服だ。
おそらく普段着として和服を着る女性はそう多くないだろう。
「やれやれ、お前も相変わらずだな、裏葉」
女性は、品のある笑みを返した。
「柳也様もお変わりなく」
「ま、ドイツも楽しかったけどな。やっぱり日本が性にあう」
「なにしろ、あの方のいらっしゃった土地ですから」
「まあ、それもあるがな」
「『それ』が、大事なのでしょう」
意地の悪い笑みを浮かべる裏葉。
「それで『彼女』の様子はどうですか」
「今のところ、何の変化もなし」
笑顔は絶やさないまま、口調だけが突然厳しくなる二人。
「まあ、接触してまだせいぜい二ヶ月、それよりも短いんだから仕方ないといえば仕方ない」
「ですが、もうあまり時間がありません。あの方を補完するためには」
「そうだな。もう時間は残されていない」
柳也は呟く。
「真の翼人補完計画のためには往人の計画は潰さなければならないな」
「ですが」
「最終的には、あいつが救われれば問題ない」
「あの方がそれを喜ぶとは思えません」
「最後には幸せな記憶を、か。確かにそうだろうな。だが、第一使徒の力は翼人のくびきをも解き放つ力があると俺は信じている」
「それは、間違いないことですか?」
「まだ、分からない。だから、それを見極めなければならない」
柳也は一枚のディスクを放った。裏葉がそれを空中で受け止める。
「マルドゥック機関とつながりのある一〇八の組織だ。至急、調べてくれ」
「分かりました。やはり、往人司令とは──」
「それは、この先次第だな。あのカノンが、どれだけの力を見せてくれるか。全てはそれ次第だ」
「名雪、準備はどう?」
『いつでもいいよ〜』
「では、発進」
秋子の号令で、クレーンからD型装備の弐号機が下降を始める。
(大丈夫か、あいつ)
祐一は初号機に映し出される映像で、弐号機の様子を確認していた。
『ねえねえ、祐一。見て』
突然、その弐号機から通信が入る。
『後方屈伸三回ちゅうがえ──』
『壊れるだろバカモノ!』
『うー』
渋々普通にマグマの中へと消えていくD型装備の弐号機。
(何を考えてるんだ、いったい)
最初からあまりに不安なスタートとなった。
『視界はゼロ。何も見えないよ』
名雪からマグマ内の様子が火口付近の仮設基地に送られる。
「CTモニターにきりかえます」
佐祐理が素早く表示を切り替える。
『うん、ばっちりだよ』
そして、そのまま降下を続けていく。
深度、五〇〇。
七〇〇。
八〇〇。
九〇〇。
一〇〇〇。
「名雪、どう?」
『熱いよ〜』
『終わったら麓でイチゴサンデー奢ってやる』
素早く祐一が援護射撃を送ると、名雪は急に顔がひきしまった。
『がんばるよ〜』
秋子が初号機にだけ聞こえるように「ありがとうございます」と言った。
深度、一五〇〇。
ビシッ。
「弐号機、耐熱服に亀裂が走りました」
「損傷は?」
「現在深度ではこれ以上拡大することはないようです」
「名雪?」
『うん、まだ大丈夫だよ』
モニターに映る名雪は既に汗びっしょりであった。
「では、続けてください」
「秋子さん」
真琴が口を挟んだ。
「これ以上は……今度は名雪が乗ってるんですよ」
「この作戦の責任者は私ですから」
秋子は怯まなかった。
「続けてください」
(すごい精神力だな、二人とも)
祐一は、操縦桿を握る手が汗ばんでいることに気付いた。
深度、一六五〇。
「予定深度ですが」
「名雪、何か見える?」
『何も。まっくら』
「では、続けてください」
(本気か?)
祐一はさすがに気が気ではなくなってきた。
深度、一七〇〇。
一七五〇。
一七六〇。
一七七〇。
一七八〇。
『──いた』
名雪の声が届いて、弐号機の降下が止まる。
「映像、出ます」
「クレーン、移動」
「目標地点まで、五、四、三、二、一」
弐号機が、使徒キャッチャーを被せる。
『CAPTURE』
「目標、捕獲しました」
はあーっ、と安堵の息をつく仮設基地の一同。そしてそれは事態の推移を見守っていた祐一やあゆにしても同じであった。
「お疲れ様、名雪」
『まだまだ大丈夫だよ。でも、熱い……』
「弐号機、浮上します」
そしてそのままの体勢でゆっくりと上昇する弐号機。
「よくやったな、名雪」
『あ、祐一。約束だよ、イチゴサンデー』
「分かってる。あゆと三人で行こうな」
『うん』
嬉しそうに笑う名雪。
だが。
『EMERGENCY! EMERGENCY!』
『な、何これっ!』
名雪の声がスピーカーから流れる。そして映像の中で、使徒が休息に巨大化を始めたのだ。
「まさか、覚醒!?」
顔のような形をしたモノが、徐々に輪郭線を明確にしていく。
そして、現れたのは、気難しそうな初老の男性の顔であった(しかも眼鏡つき)。
「そんな、計算よりも早すぎる」
美汐が悔やむように言う。使徒キャッチャーの電磁柵によって囲まれたことが急速な覚醒を促したのか、それとも使徒の成長速度がMAGIの予測の範囲を上回ったのか。真実は現段階で分かるはずもなかった。
「作戦を変更します。使徒殲滅を最優先に。弐号機は撤収作業をしつつ、戦闘準備に入ってください」
『了解だよ』
弐号機はプログナイフを引き抜いた。
そして、既に電磁柵から逃れ、戦闘準備に入る弐号機めがけて、セバスチャンが襲いかかる。
『喝!』
マグマの中だというのに、その声は確かに聞こえた。使徒ボイスによる衝撃派が弐号機を襲い、そのためにバランスを崩してプログナイフを滑らせてしまう。
『あっ』
もちろん、その映像は仮設基地でも、そして初号機の祐一も確認していた。
「まさかこの状況で口を開くなんて」
美汐が信じられないというように目を丸くしている。だが秋子、そして祐一は驚くよりも先にしなければならないことがあった。
「プログナイフを投下します。名雪、受け取ってください」
命令されるより早く、祐一は当然のようにプログナイフをマグマの中へと全力で放り込む。
「プログナイフ、到達まであと四〇!」
「その前に、体当たりされてしまいますね」
困りました、と秋子は冷静に呟く。だが困ってばかりではいられないのは、弐号機の名雪である。
迫るセバスチャン、受け止めようと両手を広げるカノン弐号機。そして、接触。
『くううううううっ!』
マグマの中でスパークが起こる。その衝撃で、弐号機の命綱であるパイプが一本、切れた。
『カノン操縦者は……』
弐号機が、落ちてきたプログナイフを手にする。
『魔女なんだよっ!』
セバスチャンの頭部に向かってつきたてる。だがA.T.フィールドに阻まれて貫くことはできない。
「名雪、目だ、目を狙え!」
祐一からの指示を実行する名雪。プログナイフが、使徒の眼鏡を破壊し、その破片が使徒の眼球に突き刺さる。眼鏡はあくまで使徒本体ではなく、単なる付属品だったようだ。
『ぐおおおおおおっ!』
「今だっ!」
『了解だよっ!』
A.T.フィールドを全開にして、名雪はプログナイフを使徒の巨大な口の中にねじりこむ。
その先にあるコアを、一撃で貫く。
そして、使徒の動きが止まった。
驚愕の表情で、セバスチャンはマグマの底へと、落ちていった。
『やっ……た……』
名雪が呟いた、その瞬間。
ぐらり、と弐号機のバランスが崩れた。
『な、なに?』
弐号機の命綱であるパイプが四本まで切れていた。
残りの一本も、既にちぎれかかっていた。
『……ここまで、なの……』
そしてパイプが切れ、弐号機はゆっくりとマグマの底へと落ちていった。
『祐一と一緒に、イチゴサンデー、食べたかったな』
(……祐一……)
だが、その降下はすぐに止まった。驚いて、名雪は上を見る。
『祐一っ!』
そこには、初号機がいた。
耐熱装備もしていない、紫色の鋼鉄の腕が弐号機をつなぐパイプをしっかりと掴んでいた。
その二つの目が、凛と輝く。
『無理、しちゃって』
名雪は笑顔を浮かべた。
『真のヒーロー、登場だぜ』
祐一は、弐号機の名雪に照れたような笑いを見せた。
浅間山の麓。上品な喫茶店に、パイロット三人は集まっていた。
『いただきまーす』
満面の笑みでイチゴサンデーを食べる名雪、そしてあゆ。
(ほんと、保護者だよな、俺)
最近、頓にその意識が強まっている祐一。だが、悪い気はしなかった。
この二人を守ることが、今の自分にできる精一杯の償いのような気がしてならなかったから。
「祐一は食べないの?」
「そんな甘ったるいものが食えるか」
「好きじゃなかったの?」
「そんなもの、一度も食べたことはない」
「ふーん」
ぱくり、と一口食べて幸せに頬がたれる名雪。
(お子様め)
祐一は苦笑を隠すために、頼んだコーヒーを一口すする。
「名雪さんはどうしてそんなにイチゴサンデーが好きなの?」
当然のような疑問を提したのはあゆ。祐一も少し気になって、名雪の方を見つめた。
「うーん」
少し困ったような表情を浮かべる名雪。
「思い出、だからかな」
「思い出?」
「うん。大好きな人と一緒に食べたものだから」
へえ、と心の中で呟く。
「そんな奴がいたとはな。物好きな奴もいたもんだ」
「私の片思い」
「ああ、やっぱり」
「うー」
かなりきつい視線を受ける祐一。だが気にせずコーヒーを飲む。
「どんな奴だったんだ?」
「どんな?」
「その男がさ」
あゆが興味津々という目で名雪に迫る。どうやらこういう過去話にいたく興味があるようだ。
「うーん、祐一にだけは教えてあげない」
「なんだよ、それ」
「さあ、なんだろうね?」
名雪は美味しそうにイチゴサンデーを食べた。
次回予告
往人司令の敵は使徒だけではなかった。
ネルフを快く思わない人々が第三新東京市全ての電源を止める。
閉鎖され、近代設備が何も動かないネルフ本部に使徒が迫る。
ひたすら地下を彷徨い続ける三人の少年少女は、はたして使徒迎撃に間に合うのか。
「……『ぬるいな』ってやってくださいね?」
次回、静止した闇の中で。
さて、この次もサービスサービス。
第拾壱話
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