芦ノ湖上空。一機のヘリがまっすぐに針路を北にとっている。
空から見る芦ノ湖は決して悪い眺めではない──が、あいにくとこの男たちにとっては景色など、どうでもいいことであった。
「佳乃議長がまた文句を言ってきたぞ。私のところに直接な。お前の退任もほのめかしていたぞ」
石橋が言うと、そのヘリに同乗している男はかすかに表情を変えた。
「使徒も倒している。アダムも順調、シナリオはほとんど遅れていないはずだ。それなのにあの小娘、何が不満だというんだ」
「肝心の人類補完計画が遅れているからだろう」
ふん、と往人は鼻をならした。
「人類補完計画などどうだっていいんだ。補完計画さえできあがってしまえばな」
「お前がそう考えていること、佳乃議長が気付いてないと思うなよ」
「切り札は全てこちらが握っている。手出しはできないさ」
珍しいことだが、この男はどうやら焦っているようであった。先日の突き上げといい、ゼーレはかなり往人を危険視するようになっているようだ。そのことが普段冷静なこの男を焦らせているのか。
「ところで、あの男はどうする?」
「今は好きにさせておく。あいつがいなければ都合も悪いしな」
「彼の目的は分かっているはずだ。お前とは相容れないぞ」
「お互い、利用しているだけだというのは分かっているだろう。かまうことはない。あいつには何もできないさ。この俺自身が、あいつにとっては切り札になる」
二人は誰を問題としていたのか。その名前を言うことはなくとも話が通じるということは、二人にとってもっとも厄介な人物ということになる。
その男は、京都にいた。
ネルフ特殊監査部に所属し、ほとんど何も仕事をしないで本部のあちこちに顔を出す男。
「……一九年前、ここでいったい何があったんだ」
加持柳也。
第拾伍話
狂いだした歯車
人類補完計画を企てるゼーレ、そして翼人補完計画を企てる往人・ネルフ。共に巨大な組織であり、柳也個人が相手にすることは不可能ともいえる。そして、彼は独自の組織を持たず、一人で行動する。唯一信頼できる、心を許せるパートナーはいるにしても、ゼーレやネルフと戦うにはあまりにも彼は無力すぎた。
ゼーレも、そして往人も、彼のことが邪魔であるということは明らかだ。それなのに彼は何故こうして始末されずに生き残っているのか。
それは、彼もまた『切り札』を手にしているからに他ならない。
それを口にしたことは彼はなかったが、間違いなくゼーレも往人もそのことに気付いている。
だから多少の危険があると分かっていても、こうして一人行動することができる。自分の切り札が自分を守る盾になると確信しているのだ。
「ここも、何もなし、か」
柳也は廃屋の中、手元の資料を見つめた。
マルドゥック機関と関係のある一〇八の組織。その中の一つ、宝企画。
と、その時、廃屋の陰から物音がした。すばやく壁に背を預け、懐の銃を握り締める柳也。
そっと扉に近づき、そのすき間から外を確認した。
「お久しぶりです、柳也様」
聞き覚えのある声がした。
「裏葉か。危険だから直接調べることはするなと言っておいただろう」
「そういう柳也様はどうなのですか?」
「俺には『切り札』があるからな」
「それを言うのでしたら、私も同じです」
だが、直接は会わない。廃屋の中と外。それぞれが侵入者が近づいてこないか、気配を探りながらの会話である。
「マルドゥック機関とつながりのある一〇八の組織のうち、一〇六までがダミーでしたわ」
「ここが一〇七つ目というわけか」
「例の場所に詳細を記録したものを置いておきます。詳しくはそれで」
「ああ。ここは多分、見張られているだろうからな」
滅多に会うことのできない、たった一人だけの仲間。
仲間であり、友人であり、恋人でもある相手。
その相手と会うこともできないというのは、柳也にとっても裏葉にとっても辛いことであった。
「マルドゥック機関。カノンゲリオンパイロットを選出するために設けられた、人類補完委員会直属の諮問機関。組織の実体は今だ不透明……」
「でも、これでだいたい分かることができました。極秘裏に入手した、この企業の役員名です」
後ろ手で、裏葉は一枚の紙を扉の中にこじ入れた。それを素早く手にする柳也。
「やっぱりな」
そこには見知った名前があった。碇往人に、石橋コウゾウ。
「気付いていたのですか?」
「何となくはな。やはり往人の奴、裏で補完計画を既に始めていると考えた方がよさそうだ」
「裏で……委員会に、ゼーレに気付かれずに?」
「往人のことだ。マルドゥック機関を全て手中に収めて委員会を騙している可能性は低くないぜ」
「それは分かりますけど、でも」
「チルドレンが往人の思い通りでなければならない、重大な事実が隠されているんだ。間違いなくな」
「それはいったい?」
「今のところは何ともいえないが、きっとカノンと関係があるだろうな」
「カノンと」
「カノンの実態を知っているのは、美汐か」
二人の間に、しばし沈黙が訪れる。
「どうなさるおつもりですか?」
「心配しなくても、手荒なことはしないよ」
「信頼できません。あなたはあの方のためなら、鬼にも悪魔にもなれる人ですから」
「それは、お前もな。裏葉」
「もう一度聞きます。どうなさるおつもりですか?」
「そうだな」
柳也はしばし考え込んだ。
「とりあえずカノンについては機会を待つさ」
「その言葉、信じていいですか?」
「機会がいつ来るかは分からない。それだけは覚悟しておいてくれ」
「分かりました。それで、どうしますか?」
「俺はアダムを調べてみる」
「アダム。往人司令に渡したあれですね」
「ああ。補完計画を実行させるもう一つの鍵。あれが今どうなっているのか、もう俺程度じゃどれだけ調べても分からないんでね」
「分かりました。私は何をすればいいですか?」
「往人の裏をかくには、チャンスは一回限りだ。その機会を見逃さないようにするためには、できるだけ多くの情報が必要だ」
遠回りな言い方であったが、裏葉にはそれで十分に通じた。
「ゼーレを調べろ、ということですか?」
「無理はしなくていい、分かるかぎりでかまわない。それと、先にやっておいてほしいことがある」
「なんでしょう」
「カノンの参号機と四号機だ。今はアメリカで建造中らしい」
「アメリカ」
「どうなっているのか知りたい。パイロットの件と重ねてな」
「分かりました」
ふうー、と息を吐き出す裏葉。
「しばらくお別れですね」
「ああ、でもきっと、すぐに会えるさ。神奈も一緒にな」
「おはよう、ふたりとも」
二学期、始業式当日。
ぎりぎりで教室に飛び込んでくる二人に、香里が声をかけた。当然のことながら、今日遅れそうになった原因は、名雪の寝坊である。
「おはよう、香里」
名雪が笑顔で答えた。
「久しぶりね、名雪。会いたかったわ」
「一昨日電話したばっかりだよ」
「電話じゃ会ったとはいえないわよ」
「でも、三日前に遊んだばっかりだよ」
「三日ぶりじゃ立派に久しぶりよ」
「そ、そうかな」
(そんなわけあるか)
相変わらず香里に言いくるめられている名雪を見てため息をつく祐一。
「よ、祐一。久しぶりだな」
「お前も三日前に香里と一緒に家に来ただろうが」
「三日ぶりじゃ立派に久しぶりだって」
「ヤるぞ、こら」
と、その傍ら。まだ鞄の置かれていない机を見て顔をしかめる。
「あれ、あゆはまだ来てないのか」
言われて香里も北川もその机を見た。
「そうみたいね」
「ネルフでの実験は夜からのはずなんだが」
「過保護だな。心配しすぎだぜ、祐一」
「うーん」
その、祐一を見て。
表情を曇らせていたのは名雪だった。
「どうしたの、名雪。ぼーっとして」
「え、ううん。なんでもない」
『明日、午後から時間をもらえますか?』
結局夏休み中にできなかった会話をしたいと佐祐理が言い出したのは昨日のこと。ネルフでの実験を終えて、帰る直前であった。
「もちろん、俺なら大丈夫ですよ。場所はどこにしますか?」
「できれば人の少ないところがいいです」
「人の少ないところですか」
祐一は思考を巡らせた。だが、この第三新東京市に来て半年足らず。普段出歩くことも少ないため、街のことはあまりよく分からない。
「実は、行きたいところがあるんですよ」
「なんだ、決まってたんですか」
「ええ。ですから、時間になったら学校まで迎えに行きますから」
「学校に?」
祐一は逡巡した。
「はい。それではまた明日」
「え、ああ、はい。また明日」
それがこのような事態になるとは夢にも思わなかった祐一であった。
「こんにちわー」
「……こんにちは、佐祐理さん」
頭が痛い。
この人は、本当にこちらの期待をことごとく裏切ってくれる。
「わ、佐祐理さん」
「佐祐理さん、お久しぶりです」
「こんにちわ、名雪さん、香里さん」
ホームルーム直後。帰る準備をしていた祐一の目の前に佐祐理は現れた。
無論、教室の中だ。
「帰るところですか?」
「ええ、まあ」
「ではちょうどよかったです」
「……佐祐理さん」
もちろん、佐祐理はネルフスタッフの正装だ。制服だらけの中、そのコスチュームはあまりに目立っている。本人がそんなことにはかまわないとしても、佐祐理の行動は祐一にとっては突飛すぎた。
「はい?」
天真爛漫な瞳で尋ね返してくる佐祐理。
「……いえ、何でもないです。それではいきましょうか」
「はい」
嬉しそうに頷く佐祐理。
「祐一、佐祐理さんと帰るの?」
「ああ。もしかしたら帰らないでそのままネルフに行くかもしれない」
「ふーん」
少々非難げな視線。今朝、出掛けに『帰りに久しぶりにイチゴサンデーが食べたい』と言ったのを『今日は用事があるからダメ』と一掃したのを咎めているのだろう。
(先約なんだから仕方ないだろうに)
そう思いはしたものの、何となく申し訳ない気持ちになる祐一であった。
「今日もご苦労様です、美汐さん」
作業中の彼女に声をかけたのは秋子。この時美汐はダミーシステムの最終チェック中であった。
「いえ、私にできるのはこれくらいしかありませんから」
「祐一さんのために、ですか?」
ふう、と美汐はため息をついた。
「その話は終わったものだと思っていました」
「私は美汐さんにも幸せになってほしいんです」
秋子がコーヒーを差し出した。
「私は、みんなの母親のつもりですから」
「それが秋子さんなりの罪滅ぼしというわけですか?」
「そんなところです」
二人とも一口すすったところで、秋子が疑問を口にした。
「なぜ、そのことを知っているのですか?」
「あの時南極には私の母親もいましたから」
「なるほど」
セカンドインパクト当時、まだ美汐は生まれていない。美汐がMAGIシステムの責任者となったのもつい三年前のことだ。
それまでは、彼女の姉である聖がMAGIの責任者だった。
三年前。
ファーストチルドレンの発見と保護、ゲヒルンの解体とネルフの設立、そしてMAGIシステムの責任者の世代交代。同時期にさまざまなことが起こっていた。
「私のことなら心配はいりません。私は、自分の感情を制御することができますから」
「一人は、辛いですよ」
重みのある言葉だった。
ずっと一人で生きつづけてきた秋子だからこそ言える台詞であった。
「かまいません。それに、母親としてというのであれば、名雪さんにその言葉を言ってあげてください。たとえどのような過去があったとしても、名雪さんは秋子さんのことを本当の母親だと思っているのですから」
「もう言いましたから」
秋子は苦笑して答えた。
「最初に、祐一さんと出会った日に、電話であの子と話をしたんですよ」
「最初にというのは、祐一さんが初めてここに来たときに、ですか?」
「ええ」
「面識もないのに?」
「あるんですよ」
美汐の表情が変化した。
「どういうことですか?」
「言葉通りです」
「それだけでは分かりません」
「これは、あの子たちの問題ですから」
やんわりと回答を拒絶された。こうなっては秋子は絶対に口を割らないだろう。
それにしても。
「祐一さんからはそのような素振りを見かけられませんでしたけど」
「覚えてないんです」
「覚えていない?」
「まあ、そのことと美汐さんのこととは関係ありませんから」
秋子にしては強引な話の切り替え方だった。
できるだけこの話をしたくないという様子だった。
「分かりました。今のことは聞かなかったことにしておきます」
おそらくは祐一にその事実を知らせたくないのだろう。
だが、それは何故なのか……。
「助かります」
「でも、私のことはかまわなくてけっこうですから」
困ったポーズで秋子は言った。
「残念です」
『佐祐理さんが一三歳の春に、その孤児院で最後の間引きが行われたんです。その時に殺された五人の少年少女のうちの一人がみちるさんでした』
かつてなくした彼女の妹、みちる。
はたして、佐祐理は自分にいったい何を相談するつもりなのだろう。
「つきました。ここです」
佐祐理が運転していった先。
(ここ、は)
確かに静かな場所であった。
だが、あまり何度も来たいと思う場所ではなかった。
「どういうつもりですか」
そこは、墓場であった。
以前、休日に佐祐理が車で送ってくれたところ。
何のために自分をここへ連れてきたのか。
「他意はないんです。ただ、祐一さんに会わせたい人がいるんです」
それを聞いて得心した。
(そうか、佐祐理さんの妹)
佐祐理の出身地は聞いていないが、もしこの第三新東京市だとしたら、妹のみちるがここにいてもおかしくはない。
「すみません、疑ったりして」
「いえ。佐祐理も先に説明しておくべきでしたから」
ただ、佐祐理の言うとおり、ここが祐一にとって特別な思い入れのある場所だということを知っているのだから、一言断っておくくらいの配慮はあってもよかっただろう。
「それで、どこですか、場所」
「H区、九八列、三三二番です」
そう言って、先に歩き出す。その隣を祐一が並んで歩いた。
日差しがぽかぽか暖かい。
かすかに聞こえる虫の声。
閑かな場所であった。
(そんなに、悪くないな)
ここに来たのはこれが三回目。
だが、前二回はいずれも周りを見る余裕などなかった。ただただ立ち並ぶ柱の列。等間隔に配置された墓碑。刻まれた名前。
(美凪)
ここに来るのは、やはり辛い。
自分にとって、たった一人の大切な人を思い出してしまうから。
そして、それは。
彼女にとって、たった一人の大切な妹を思い出してしまうことでもある。
「……祐一さん。佐祐理の妹のこと、知ってるんですか?」
先に佐祐理が話し掛けてきた。おそらく祐一の態度から、佐祐理のことを知っていることが分かってしまったのだろう。
「すみません。調べたというわけではないんですけど」
「美汐さん、ですね」
「はい」
「それならいいんです。美汐さんはいつも私のことを親身になって心配してくれてますから。祐一さんにお話したのも、佐祐理のためになると思ってのことでしょうから」
佐祐理は悲しげに笑った。
「……あの子は、まだ九歳でした」
そして、佐祐理の独白は始まった。
内容自体は美汐が話したこととほとんど変わりない。美汐が佐祐理から聞いたのだから、それは当たり前のことである。
物心ついた時、佐祐理は孤児院にいた。当時から利発で可愛らしい『高価な』子供だったらしい。
誕生日は、正確なところは分からないのだそうだ。だから、自分で決めたのだという。
「分かった」
「何がですか?」
「舞と出会った日。違いますか?」
佐祐理は笑って頷いた。
舞は孤児院の院長の娘であったが、孤児院に顔を出すことはそれまでなかった。院長は何を思ったのか、佐祐理と舞を会わせることにした。そのため、舞の方を孤児院へ連れてきたのである。
当時、舞はまだ今のような能面ではなかった。若干、感情表現が不向きなところがあった。親の顔しか見て育たなかったのだろう。人と接することが極端とは言わないまでも、苦手な様子であった。分かりやすくいえば、人見知りをする少女だった。
佐祐理の天真爛漫さが、舞を明るくしてくれる。そういう願いをこめて院長は引き会わせたのだろうか。何を思ったのか、もう確かめる術はないが、佐祐理の影響で間違いなく舞も明るくなっていった。
二人が出会ったのは五歳の春。
そして、その時まだ妹は、みちるは孤児院にいなかった。
孤児たちのほとんどは佐祐理と同い年か年下であった。セカンドインパクトの年、そして地獄の二〇〇一年に生まれた子供たちの多くが捨てられたのである。つまり、佐祐理や舞の生まれた年と、祐一らの生まれた年だ。
だからその二年で捨てられた子供たちは最も多く、それ以前に生まれた子どもやそれ以降に生まれた子供で孤児となったのは比較的少ない。もちろん、比較的、である。
間引きが頻繁に行われたのも、やはり二〇〇〇年ベイビーと二〇〇一年ベイビーである。赤子のうちでは能力や容姿が分かるはずもない。真っ先に間引かれたのは身体的に障害のある子。続いて発育が遅れている子。それでも子供を間引く時は、なんとくじ引きで決められたのだという。
赤子のうちに行われた間引きのことなど、佐祐理が知るはずもない。ただ、年を経るにつれて佐祐理は不思議に思うことがあった。
ときどき、突然友達がいなくなるのだ。
院長は『お父さんが迎えにきたのだ』と言っていた。だが、それが嘘であることが佐祐理には分かった。ただ、何故嘘をつくのかが分からなかった。
舞と出会ったのはそのような時。人というものを少しずつ知り始め、視野が広がり始めていたときのことである。
人見知りする少女を佐祐理は『自分が守らなければ』と思うようになったらしい。孤児院、幼少組の中で既にリーダー格であった佐祐理は、ともすれば攻撃の対象になりかねない舞を守ろうと決心したのである。
舞が佐祐理のことをどう思っていたのか、確かめたことはないしこれからもするつもりはない。
時々、本当に時々見せてくれる柔らかな微笑を見られることが、佐祐理にとっての最大の幸せとなったからだ。
「舞って、笑うんですか?」
「笑いますよー。すっごい綺麗なんですよ」
目を輝かせて言う佐祐理に、祐一は苦笑するしかなかった。
二人が八歳になった時のことである。
この頃になると、世界も安定に向かいつつあった。地中海における戦線は収束する方向へ進んでいたし、各地の紛争も静まりつつあった。
その余波が細部にまで及ぶのは時間のかかることではあったが、それでも表向き、民間人の暮らしは少しずつ楽になっていた。
従って、捨てられる子供も目に見えて少なくなっていた。孤児院には赤子は数えるほどしかいなかった。ほとんどが年少組。佐祐理や舞の同期か一つ下であった。
もらわれていく子供というのも決していないわけではない。佐祐理は特に引く手数多、と言うほどではなかったにせよ、年に数回のお声がかりがあった。美人で器量良し、溌剌として将来有望というのであれば、子供を産むことができない親は真っ先に目につくであろう。だが、佐祐理はその全てを断った。
『わたしは、この孤児院の娘です』
誰でもいい、優秀な子供をほしいというのであれば、自分でなくても『代わり』がいくらでもいる。佐祐理は『誰かの代わり』になどなりたくなかった。なりたかったのは『佐祐理』であり、もっと限定して言うならば『舞の姉』という地位だ。
舞と離れることが嫌だった。舞の傍にいたかった。
自分がいい子だからというわけではない。佐祐理だから必要としてくれる舞の傍に、どうしてもいたかったのだ。
「祐一さんと同じなんです」
「俺と同じ?」
「祐一さんも、佐祐理のことを佐祐理として見てくれましたから」
『ええ。起動実験の時とか、いつも優しく笑ってくれてるのがすごく嬉しくて』
「あの言葉がなかったら、祐一さんのこと、こんなに好きになってはいません」
これはやっぱり告白されてるんだろうか、などと不安になる祐一。
「その頃、なんです」
「その頃?」
「舞が、みちるを連れてきてくれたのは」
そのような世界情勢のため、孤児院で引き取られる子供の数は激減していた。ただ、イレギュラーはどこにでも存在する。みちるがまさにそれであった。
佐祐理たちが暮らしていた孤児院にいた子供たちは、ほとんどが赤子の頃から育て上げられたものばかりである。
だが、みちるが初めて孤児院に来た時、彼女は既に四歳だった。わがままでやんちゃ、お転婆だった。彼女と同い年かそれより年下の子供たちはみんなみちるの手下になってしまった。年上の男の子と喧嘩しては泣かせ、何度も院長に叱られた。
「手下って」
祐一は冷や汗をかいていた。
「いえ、そんな深い意味じゃないんです。佐祐理たち年少組と、みちるたち幼少組とは普段別々に生活していたんです。それで、幼少組でリーダー的な存在になってしまって」
「佐祐理さんみたいに」
「そうですね。でも佐祐理よりずっと活発で利かん気でした」
みちるが初めて舞に連れてこられた時、みちるの顔には生気がなかった。
翌日にはすっかり元気になっていたのだが、彼女の明るさの裏にはどす黒い何かがじっと横たわっているように佐祐理には思えた。
だから、また思った。
この少女を、助けたい。
さいわい、幼少組の世話をするのは年少組の役目だ。佐祐理は頻繁に幼少組に顔を出して、みちるの世話をした。
みちるはあまり心を開くことは多くなかったが、佐祐理と舞にだけは懐いた。普段勝気な少女、寝る時ですら用心してじっと目を瞑っているだけのような彼女が、佐祐理の膝枕だと安心した寝顔を浮かべるのだ。
佐祐理が自分の守護天使とでも思っていたのだろうか。
時々孤児院に顔を見せる舞。そして幼少組のみちる。
捨てられた自分に、生きる目的が二つも与えられた。
佐祐理はこの孤児院に捨てられたことを感謝した。
「ですが」
その幸せが続いたのは、たったの五年間であった。
NEON GENESIS KANONGELION
EPISODE:15 the last Secret Garden
「お帰り、帰ってきたんだ──どうしたの、それ」
玄関を上がると、名雪が待ち構えていた。
「ああ、ただいま」
「うん。お帰り。だから、どうしたの、それ」
祐一が手に持っている大きなケースを見て名雪が言う。
「何だと思う?」
「分からないから聞いてるんだよ」
「ごもっとも」
「だから、何?」
「ヒント。使うもの」
「それだけじゃ分からないよ〜」
「第二ヒント。使うもの」
「同じだよ〜」
ほら、と祐一は手渡す──といってもかなりの大きさである。突然渡されても名雪は支えるので精一杯であった。
「わっ、わっ」
「開けてみろ」
先にリビングへ入る。名雪がよたよたとついてきて、そのケースを開いた。
中から出てきたのは、弦楽器であった。
「何これ」
「お前、意外に音楽の知識ないのな」
「バイオリン?」
「こんな大きいバイオリンがあるかよ。これはチェロだ」
「ちぇろ?」
「チェロも知らないなんて言うなよ」
「知ってるよ〜」
目をきらきらと輝かせながら祐一を見つめる名雪。
「どうするの、これ?」
「どうするって、弾かない楽器に何の意味があるんだ?」
「祐一が弾くの?」
「俺が弾くのは変か?」
「うん」
あっさりと頷く名雪。
「ならお前には聞かせてやらない」
「うそうそ、冗談だよー」
「本気だった」
「うん。ちょっとだけ」
「やっぱり聞かせない」
「ごめんごめん」
何だか、とても嬉しそうだ。
「これ、買ってきたの?」
「盗んできたように見えるか?」
「ううん」
「じゃあ買ってきたんだ」
「ふーん」
そしてじっと祐一の目を見つめてきた。
「どうして?」
「さあ、どうしてかな」
「佐祐理さんとデートしたせい?」
「どうだろう。ただふらっと、立ち寄った店に置いてあったから、なんとなくかな」
荷物は必要以外のものを持たない祐一である。何か趣味があるということ自体、他人にとっては驚きだろう。しかもまさか、音楽とは。
「ねえ、聞かせて」
「そうだな」
最近、少し名雪に冷たかったからちょうどいい機会かもしれない、と考えたことは秘密だ。
「何がいい?」
「パッヘルベルのカノン」
「あれは五重奏曲だ」
「わっ、そんな目で睨まないでよ〜」
「じゃ、とりあえずバッハの無伴奏ソナタかな。久しぶりだから腕がなまってるだろうけど」
キッチンから椅子を持ってくる。浅く腰かけて、チェロを置いて身体に寄りかからせる。弓を握り、まずは調弦。
「なんだか、落ち着くね」
「そうか?……そう言われると少しは嬉しいな」
祐一も久しぶりに握った楽器の感触に、もしくは観客がいるという状態に、少し緊張していたのだろうか。
やがて、ふう、と息を吐くとゆっくりと音程を奏で出した。
(……佐祐理さん)
孤児院で間引きが行われていたという事実。
それを知った時、だが佐祐理は少しの衝撃も受けなかった。
なぜなら既に、精神が破綻していたから。
『……みちるの死が、佐祐理にショックを与えたんです』
その殺害現場。
舞と、みちると、三人の秘密の遊び場。
そこが、血に染まった。
一人の男の仕業で。
『その時のこと、どうしても思い出すことができないんです』
『思い出せない?』
『みちるの死があまりにショックだったのか、部分的に記憶を失っているんです』
覚えているのは、遊び場まで一人駆けていったこと。
そして、その場所で血まみれで立っていた男、柳也のことだけだ。
『あの男がみちるを殺したのだと、後で舞に聞きました』
そっと、佐祐理は柱に触れた。
そこには、『 伊吹 みちる 之 墓 』と刻まれていた。
『同じ姓なんですね』
『あの子が、それを望んだんです』
何が起こったのかも理解することができず、ただ放心していた。
ずっと舞が佐祐理のことを抱きしめていた。
『大丈夫だから』
ただ、その言葉を繰り返して。
『舞は十日間も、ずっとそうしてくれていたんです』
『……』
『佐祐理がようやくここに戻ってきたとき、佐祐理は舞のために一生を捧げようと思ったんです』
それは決してオーバーな表現ではない。佐祐理は舞に命を救われたのだと信じきっているのだ。確かに舞が佐祐理の心を救ったのは間違いのないことであるし、その意味では命を救ったといっても過言ではない。
『今、あの男がこのネルフ本部にいます』
『ええ』
『絶対に佐祐理は、あの男を許しません』
強い口調だった。
誰にも止めることのできない意思がそこにはあった。
『佐祐理さん』
『はい』
『佐祐理さんは俺にどうしてほしいんですか? 協力してほしいんですか? それとも復讐するのを止めてほしいんですか?』
聡明な佐祐理のことだ。
祐一が尋ねることで佐祐理の心を落ち着かせようとしていることなど、すぐに気付いたであろう。
『両方です』
『つまり、心の支えになればいいわけですね?』
『はい』
難しい要求だった。
この女性を見捨てることよりも、はるかに。
『いいでしょう。自分で役に立てるのなら』
『ありがとうございます』
(ま、悪くないよな)
佐祐理は、天使のような笑顔を見せた。
(この笑顔が見られるんなら)
ぱちぱちぱち。
弾き終わると、名雪が嬉しそうに拍手した。
「上手〜、上手〜」
「そりゃ、長いことやってるからな」
「意外、意外」
「喧嘩しか能がないとでも思ってたか?」
「だけとは言わないけど、まさか音楽とは思わないよ」
「ま、数少ない人に自慢できる特技の一つだ」
「じゃ、他には?」
「喧嘩」
「自慢できないと思う……」
「使徒戦が終わったら音大にでも行ってオーケストラに入るかな」
「うん、いいと思うよ」
「ま、そんな未来のことより目先のシンクロテストだな。そろそろ時間だろ、行こうぜ」
「うん」
シンクロテスト中、美汐がぽつりともらした。
「時間の問題ですね」
「何がですか?」
秋子が問い返すと、美汐はディスプレイを見るように指で示した。
「祐一さんのシンクロ率が、名雪さんのシンクロ率を追い越すことが、です」
祐一、七九.二%。名雪、八〇.一%。
「ハーモニクス値もほとんど変わりません。祐一さんのこの成長速度、正直驚愕ですね」
「名雪やあゆちゃんを守ろうとする意識が強まっているんだと思います」
その一方で、名雪の増減にも変化が見られた。
祐一と出会ってから、彼女もまた順調にシンクロ率をアップさせてきていたのだが、ここ数日、ちょうど八〇%を過ぎたあたりで完全に成長が途絶えたのだ。
「何か問題があるということでしょうか」
「シンクロ率が四〇%から五〇%にアップするのと、七〇%から八〇%にアップするのとでは、全然違いますよ、秋子さん」
「それは分かってますけど、多分あの子、悩んでいるんじゃないかしら」
「悩み?」
「はっきりとしたことは分かりませんけど」
もう一人。
綾波あゆ、七〇.三%。初の七〇%台突入である。
「調子、いいみたいですね」
「何かいいことでもあったのかしら」
「今日はあゆさん、学校を休んだそうですよ」
体調の変化がシンクロ率に影響することはない。問題は心理面だ。
夏休み明けの始業式を休んだからといってリフレッシュするというようなものでもないだろうが。
「ではやはり、あゆちゃん自身の内面の変化、でしょうか」
「むしろ、あゆさんの表情が気になります」
美汐は表示されているあゆの映像を見つめた。
「無理している。そんな感じです」
「あゆ、今日はどうしたんだ?」
テスト後、エレベーターの中で祐一が尋ねた。
「今日?」
「学校」
「あ、うん。ちょっと具合悪かったから、休んじゃった」
「大丈夫?」
名雪も尋ねる。あゆは笑って「うん、もう平気だよ」とこたえた。
「お前がいないと、俺も調子が出なくてな」
「え、ホント?」
きょとんとしてあゆが祐一を見上げる。
「ああ。からかう相手がいないからな」
「うぐぅ〜」
「よし、それでこそあゆだ」
「ちっともよくないよ〜」
その、二人を。
冷めた目で名雪が見つめていた。
「ねえ、祐一」
帰ってくるなり、にこにこして名雪は祐一に近づいてきた。
「どうした?」
「キスしようか」
にこにこにこにこ。
あまりにもいつも通りなので、何を言われたのか祐一はよく分からなかった。
「熱でもあるのか?」
「そんなことないよ」
「じゃあ、何を突然言い出すんだ、お前は」
「キスしようか」
「あのなあ」
今日、秋子は仕事で帰らない。以前にも何度かあったことだが、別に名雪との間で間違いが起こったことは当然ないし、気まずくなるというわけでもなかった。
(いったい、どうした?)
ある意味では危地に立たされた祐一は、必死にこの状況を打開する方策をめぐらせた。
「そんなにイチゴサンデーが食べたかったのか?」
「祐一と一緒なら、食べたかったよ」
積極的だ。
名雪らしからぬ言動だった。
「らしくないな」
「うん。そう思うよ」
「どうしたんだ、突然?」
「突然なんかじゃないもん」
すると。
名雪の態度が変わった。拗ねたような、怒ったような顔。
「ずっと、祐一のこと考えてたんだもん」
「ずっと?」
「うん。初めて会った時からずっと」
『とりあえずはじめまして。俺はサードチルドレン、碇祐一』
ぱち、と目が開いた。
『うにゅ……?』
どうやら、祐一のことが気にかかったようだ。さすがにチルドレンの名前は効果があると見える。
『……祐一……?』
『ああ。名雪、でいいんだろ?』
『うん──はじめまして、祐一』
「初めて会った時、ねえ」
「祐一は覚えてないかもしれないけど」
「覚えてるさ。寝ぼけて『おはようございます』って言っただろ」
「違うよ」
真剣だった。
名雪が、痛切に何かを訴えかけてきていた。
「……ひどいよ」
瞬間。
離れていた距離が、縮まる。
(──!)
祐一は、唇を奪われていた。
名雪の二つの掌が自分の頬を押さえている。
震える唇の温もりが伝わってくる。
閉じた瞳の端から涙があふれている。
(なゆ……き……?)
動転した。
人の気持ちを無視してこんなことはしない性格だっただけに。
「名雪、お前……」
もちろん、ここまできて名雪が本気だということはよく分かっている。
ただ、腑に落ちない。
ここまで名雪が追い詰められている、理由が。
「そんなに、あゆちゃんのことが好きなの?」
あゆ?
何故、あゆの名前がここで出てくるんだ?
「私のことも忘れるくらい、あゆちゃんのことでいっぱいだったの!?」
ぼろぼろと、涙を零して。
名雪は叫んだ。
「ばかっ!」
自分の部屋へと逃げる名雪。
祐一は、追う気にならなかった。
(……あゆ……? 名雪のことを、忘れた……? 何のことだ……?)
大事な約束でもあっただろうか。
いや、そういう最近のことじゃない。
『祐一は覚えてないかもしれないけど』
初めて会った時のこと?
弐号機を初めて起動させた時のことじゃ、ないのか?
(……ったく、説明することは全部説明しろよな……)
祐一は苛々を募らせていた。
どうにもならない、昂ぶった気持ち。
「くそっ」
祐一は、家を飛び出していた。
「ふう……」
ネルフ、第一発令所。
美汐は今日のデータを全て点検すると、ディスプレイの表示を切った。
既に真琴も舞も佐祐理も帰って、発令所には美汐一人しか残っていない。
いつものことだった。
いつものことなのに。
今日は何故か、寂しかった。
「祐一さん」
思わず口をついていた言葉は、何より美汐自身を驚愕させた。
(……)
そこまで。
そこまで、自分は。
(……祐一さん……)
この寂しさを埋めてくれるのは。
彼しかいないのだろうか。
(……報われないというのは、分かりきっているのに……ばかみたいですね)
自嘲した。
同、セントラルドグマ深々度、ターミナルドグマ。
柳也は手にカードを持って、誰はばかることなく悠々と歩いている。
ようやく手に入れたこのカード。
ついに、禁断の扉が開かれる時が来たのだ。
「こんばんは、柳也さん」
心臓が凍りつくような衝撃を覚えた。
ここには一般職員は入れないはずなのに。そして、この声は間違いなく彼のよく見知っている人物のものであった。
「秋子さん。驚かせないでください」
「すみません。普通に声をかけたつもりだったんですけど」
本人はそのつもりだろう。そして、周りに注意を払ってなかった柳也の方がより問題があるといえる。ここは決して、安全な場所ではないのだから。
「マルドゥック機関の正体はつかめましたか?」
「忠告に従って、もう追いかけるのはやめにしましたよ」
「それは今朝のことでしょう?」
本当に、どこまでも自分のことをマークしているということか。やはりあの場所で会うのは危険だった。裏葉は無事でいるだろうか。
「俺をどうするつもりですか?」
背中にいる秋子がピストルを構えているのは察しがついていた。だから、逆らうつもりはない。
「どうしましょうか」
「往人司令の命令ですか」
「いいえ。私の独断です」
「秋子さんも、真実が知りたい人の一人ですか?」
「そうですわね」
決して自分の心情を吐露しないのが秋子の戦術である。いや、本人は無意識のうちにやっているのだろう。だからこそこの女性にはかなわない。
「では、取り引きしませんか」
「取り引き?」
「ええ。この中にあるもの、見たいのではないですか?」
ターミナルドグマ。往人司令と石橋副司令しか入ることができない禁断の部屋。
「柳也さんは何を知っていらっしゃいますか?」
「俺の知っていることはあまり多くありませんよ。せいぜい、補完計画のことくらいです」
「その情報と交換です」
「仕方ありませんね」
柳也は、カードキーを扉に差し込んだ。
ゆっくりと、音もなく扉は横に開いていく。
「ここまで復元していたのか」
柳也が先に入っていく。秋子もその後に続いた。
その先にあるもの。
それは、巨人だった。
どこまでも白い体と、紫色の仮面。
十字架に張り付けられ、その胸に突き刺さるは聖なる槍ロンギヌス。
「カノン? 違う、これは」
さしもの秋子も顔色を変化させていた。
「セカンドインパクトからその全ての要であり、始まりでもある──アダムですよ」
アダム。
あのアダムが。
「やっぱり、セカンドインパクトの原因は、アダムの覚醒が原因だったのですか?」
「あの時アダムを覚醒しようとしたのは、惣流・晴子・ツェッペリン女史でしたね。秋子さんの友人の」
「正確には、ゼーレが」
「そう。ゼーレがセカンドインパクトを引き起こしたのは間違いないんです。ただ、それがいかなる方法によるものなのかは、まだ分かっていませんよ」
「アダムの覚醒が原因ではない?」
「違う、と俺は思っています」
「ではいったい何が原因で」
「それを今調べていたんですよ」
同時刻。
「ああ……ぐうっ、ぐうううううっ!」
押し殺した悲鳴。
震える体。
月明かりに照らし出された、白い体。
そして、うっすらと見える、
翼。
「うぐぅ……」
あゆは、泣いていた。
苦しくて。
辛くて。
そして──切なくて。
「ゆ……いちくん……」
「始まったな」
「ああ。全てはこれからだ」