「おはようございます、秋子さん」
「おはようございます」
 朝。
 奇妙なことではあるが、二人が出会ったのは家のリビングではなく、霧に包まれた公園であった。
 何故こんなところにいるのか。それはお互いが思ったことである。
 秋子の顔には疲労がにじみ出ていた。一日徹夜したからといって、そのような表情を見せる秋子ではない。高熱に侵されても平気で笑っている人だ。よほどのことがあったに違いない。
 一方、祐一は顔に痣を作っていた。よく見ると両の拳も赤く滲んでいる。間違いない。これは喧嘩の痕だ。一晩中、祐一は帰らずに街を彷徨い歩いていたということになる。
「大丈夫ですか、秋子さん」
「その言葉はそっくりお返しします」
 秋子の瞳は真剣だった。以前からネルフ規則以外のことで叱られたことは、一つのことに限られていた。それは、暴力をふるうこと。それだけは決してしないでほしい、傷つける相手のことなどどうでもいい、祐一が危険な目にあってほしくない。その気持ちをこめて、秋子は祐一を見つめているのだ。
「すみません。また約束を守れませんでした」
「何があったんですか?」
「珍しく、他人の心配ですか?」
「私が祐一さんのことを心配してはいけませんか?」
 質問に質問を返すやりとり。それは、お互いの間にまた壁ができていたことを示していた。その壁を壊すことは祐一にはたやすいように思えた。
「そう、一つ秋子さんに聞きたいことがあったんですよ」
「なんでしょうか」
「俺と名雪のこと、知ってるでしょう?」
 秋子は表情を変えなかった。
「俺がどうして忘れてしまったのか、その理由をご存知ですか?」
「……聞いてしまったのですか」
「名雪ももう少し分かりやすく説明してくれればいいんですけどね」
 秋子は俯いた。
「教えていただけるんですか?」
「そんなに難しいことではありません。ただ、祐一さんの目には名雪が見えていなかっただけです」
「見えて?」
「はい。私もその場にいたわけではありませんから何ともいえませんが。祐一さんはその時、美凪さんをなくしたばかりで、名雪のことが見えてなかったんですよ」
「なるほど」
 祐一は納得した。
「つまり、俺と名雪が出会ったのは七年前ということですか」
「そうなりますね」
「どうして、最初にそのことを教えてくれなかったんですか?」
「その答は、祐一さんの記憶の中にあります」
 秋子は回答を拒絶した。
「祐一さんが一人できちんと思い出して、その上で名雪に応えてあげてください」
「応える?」
「七年前。二人は約束をしたそうですよ」
「約束」
「その内容までは、聞いてないのですが」










 第拾六話

 悪夢、再び












七年前。





「どうですか、祐一さんの調子は」
 秋子が尋ねる。
「それが、見てください」
 佐祐理が首を振って応えた。
「ちょっと、これ、マジ?」
 真琴が呻く。
「……信じられない」
 舞もまた、首を振った。
「でも、これが現実です」
 美汐が気をひきしめた。
 シンクロ率、八六.五%。





ある、一つの悲劇が起こった。





「たった一日で、どうしてここまで……」
 舞がそれでも納得できないというように呟く。
「佐祐理は驚きました」
 このほんの一日の間に、少年の心に何が生じたのか。
「あいつ、やればこれくらいのことはできるんじゃない」
 いち早く気を取り直した真琴が軽口を叩く。
「秋子さん、何かご存知ですか?」
 美汐が、最後に尋ねた。
「少しだけ、記憶の扉が開き始めている。そういうことではないでしょうか」
 秋子が今朝の件を思い出しながら言った。





それは、少年の心に絶望を与えた。





(……助けられなかった)
(助けたかった)
(逃がしたかった)
(せめて、彼女だけは……)
(この俺の手で)
(だから)
(だから、今度こそ)
(今度こそ、俺が守る)
(あゆ)
(名雪)
(秋子さん)
(美汐)
(佐祐理さん)
(みんな)
(俺が、みんなを守る)
 そう、少年の心が変化したのは自然な成り行きだったのか。
 それとも、何らかの作為が働いていたのか。
 この時点ではまだ、誰にも分からなかった。





「祐一、帰りにイチゴサンデー食べて帰ろ♪」
 始業式の次の日は土曜日で休み。従って、実験は昼からの三時間となっていた。
「ん? ああ」
 昨日、大粒の涙を流していた名雪はもうどこにもいなかった。いるのはいつもの、にこにこにこにこ笑っているオオボケ魔人の名雪だ。
「それじゃ──」
「うん。あゆちゃんも一緒に行こう?」
 祐一の台詞を先取りして名雪が続けた。
(名雪?)
 やはりいつもと違うのだろうか。相手の言葉を押しのけて自分が話すなど、今までの名雪には見られなかったことだ。
(名雪、か)
 思い出せない少女。
 美凪を失った時に出会った少女。
(どこで出会ったのかも思い出せないなんてな)
 確かに、あの事件直後の記憶は自分でも信じられないほど混乱しており、思い出すことができずにいた。ただ一つ覚えているのは、凶悪なゴロツキたちの下卑た笑いと『たすけて』というか細い声、そして墓の前で雨に打たれて泣き崩れる自分。それだけだ。
(そう、俺はいつあの街を出たのかすら覚えていない。どうして第三新東京市の墓に美凪が入ることになったのかも)
 そうだ。
 考えてみればおかしな話だ。
 自分たちが暮らしていたのは、ずっと北の街。セカンドインパクト以前には雪が降っていたところだ。
 それなのに、どうしてわざわざ第三新東京市で墓を建てることになったのだろうか。
 美凪の母親はその時どうしていたのだろうか。
 そして、父親は何故あの後、変わってしまったのだろうか。
(おかしい)
 根本的に、何かが違っている。
 往人はいつネルフの司令になった?
 いや、たしかその頃はまだネルフはなかったと聞いている。では、その前衛組織──ゲヒルンとかいったか。往人はいつその組織に入って、中核メンバーとなることができたんだ?
 自分の記憶の中では、出張こそ多かったものの、家にいることの方が多かったような気がする。
(ダメだ。俺はいったい、何を知りたがっているのかが分からない)
 考えれば考えるほど混乱していく。
(俺は何が知りたいんだ?)
 美凪が死んで、全てを失い、感情のままに今まで生きてきた。
 今は守るものを手に入れて、こうして和やかに暮らしている。
(俺が知りたいのは……)
 隣できょとんとこちらを見つめている名雪と目があった。
(……真実だ)
 う〜ん、と考え込んでいたあゆに祐一が声をかけた。
「悪い、あゆ。今日は遠慮してくれ」
「ふぇ?」
「祐一?」
 今、あゆの目の前で名雪との過去話をしたくはない。
「今度うまい鯛焼きを奢ってやるから」
「うぐぅ。分かったよ」
「どうしたの、祐一?」
 祐一は肩をすくめた。
「たまにはお前とデートっていうのも悪くない」
「で、でーと?」
 祐一にしてみるといつもの軽口のつもりだった。だが、考えてみると名雪に対して軽口を叩いたことは今までなかったような気がする。名雪が照れるのも無理のないことであった。
「うん、そういうことならボクは遠慮するよ」
 何故か嬉しそうなあゆ。
「悪いな。今度埋め合わせはするから」
「気にしないで」
「……ごめんね、あゆちゃん」
「うん。二人で楽しんできて」
 エレベーターが止まると、あゆは逃げるように一目散に走り去っていった。
「途中までは方向一緒だろうが」
 気をつかったのか、それとも二人の傍にいるのが辛かったのか。
 祐一に分かるはずもなかった。
「祐一、いいの?」
 心配そうな視線が注がれるが、別に祐一は気にするふうでもなかった。
「ああ。今日はお前に聞きたいことが山ほどあるからな」
「聞きたいこと?」
「そうだ。俺とお前が初めて出会った日のことだ」
 と、その時であった。

『EMERGENCY! EMERGENCY!』

 なんともタイミングの悪い緊急警報であった。
「使徒?」
「ここんとこ、しばらく出なかったのにな」
 夏休みの初日以来であるから、一ヶ月以上は使徒が来なかったことになる。確かに久しぶりといえば久しぶりであった。
「仕方ない。戻るか」
「そうだね」
 名雪は祐一の服の袖を掴んだ。
「名雪?」
 何をしようとしているのか分からない祐一。当然だろう。急がなければならないのに、名雪は引き止めるような動作をしているのだ。
「どうしても聞きたいの?」
「何がだ?」
「その、七年前のこと」
「話したくないのか?」
 名雪は答えない。だが、答えないということは話したくないということだろう。
「ごめんね、祐一」
「気にするな、嫌なら無理をする必要はないさ」
 あゆが戻ってくる。緊急警報を聞いてきたのだろう。
「うぐぅ、二人とも待っててくれたの?」
「ま、すぐ戻ってくるのは予想できたからな。早くエレベーターに乗れ」
「う、うん」
 扉が閉まり、エレベーターが下降を始めた。





 空に浮かぶ球体。白と黒のストライプ模様。大きさはビルの幅よりもはるかに大きい。それが科学的に説明のつく物質でないことは明らかであった。
 だが、MAGIは使徒とは認知していない。というのも、パターン・オレンジ、使徒固有の波形が感じられないからだ。
 A.T.フィールドが感知されれば間違いなく使徒と断定できるのだろうが。
「新種の使徒でしょうか」
「使徒ではないということかもしれません」
(使徒じゃないはずがないだろう)
 秋子と美汐の会話をプラグ内で聞いた祐一はため息をついた。
 あれが使徒に見えないというのなら、かなり視野が狭まっている。いや、あまりに非科学的なものをいつも見ているから、常識というものが少しずれかかっているのだろう。
 機械にばかり頼っていると、そうした目に見えるものを信じられなくなってくる。
『おい、美汐』
 いきなりの呼び捨てに、彼女は気分をしかめたらしい。
「なんでしょうか」
『とにかく、あれをどうにかするのが先だ。使徒なのは目に見えて明らかだろ』
「はい」
 美汐は力なくうなだれる。
『それで、秋子さん。正体不明の使徒を相手にどうすればいいと思いますか?』
「使徒はゆっくりと本部に近づいてきています。攻撃をしかけてくる様子はありませんが。カノン三機は使徒を足止めしてください」
「足止め、ですか」
 だが祐一は不満があった。
『こちらから仕掛けるのはまずいと思いますけど』
「そうかもしれませんが、手遅れになる前に手を打たないといけませんから」
 たしかにそれも一理ある。
 だが、MAGIが判断を保留するくらいの相手だ。下手にしかけて手におえなくなる場合だってありうる。
(仕方がないな)
 シンクロ率がどれだけ上がったといっても、祐一に慢心はなかった。敵は叩く。それは以前からずっと決めていたことだ。
 ただ、勇気と無謀とは別物だと考えている。確かに自分も無理や無茶をすることは多いが、計算された無理は無謀ではない。
 何の考えもなく足止めをする方が無謀・無策ではないのだろうか?
 だが、頭を振って考えるのをやめた。とにかく作戦部長が決めたことだ。
『名雪、あゆ。俺が使徒を牽制する。状況の変化に応じて援護、頼む』
『了解だよ』
『うん、分かった』
『弐号機は使徒正面に展開、零号機は後方に待機。俺は敵右翼から牽制してみる。それでかまいませんか、秋子さん』
「はい、よろしくお願いします」
 そして、カノンが動き始めた。
 アンビリカルケーブルを途中、交換しては少しずつ使徒に近づいていく。
『あゆ、お前は万一のことを考えて少し離れていてくれ。いつでもライフルで狙える位置でな』
『分かったよ』
 祐一の指示で、他のカノンも場所を変えていく。
『名雪はビルを盾にして中距離で待っていてくれ。敵の正体がつかめた時点で、攻撃』
『了解。祐一、無茶しないでね』
『敵に言ってくれ』
 今までとは違う使徒。
 明らかに攻撃姿勢をとりつづけてきた使徒たちに対して、この使徒はまるでその存在を示すためだけにいるかのようだ。
(存在を示す?)
 何かが頭の中でひっかかる。
 まるで攻撃してくれと言わんばかりに、その存在を示している。
(──罠?)
 それ以外には考えられない。もちろん、相手が人間ならば、の話だ。
(だが、使徒の攻撃パターンも人間の攻撃パターンと酷似している)
 罠をはるほどの知恵を持っていたとしても不思議はない。
(やはり、攻撃は控えた方がいいのではないか?)
 ビルを背にして、短銃を両手で握る。
(くそ……どうする?)
「祐一さん」
 秋子が声をかけてくる。
(やむをえないな)
 初号機はビルの影から右腕をのばし、使徒に照準を合わせる。
 そして、三射。

 ガウンッ、ガウンッ、ガウンッ!

 その一発目が使徒に触れたとき、その白黒の球体が姿を消した。
「なにっ!?」
『A.T.フィールド確認!』
『どこですか!?』
『初号機の──』
 祐一の頭上に、白黒の球体が現れていた。
(まずい)
 素早く銃を構える祐一。だが、
『初号機の真下です!』
 下?
 瞬間的に下を確認する祐一。だが、遅かった。
 そこには既に、オレンジ色をした円形の影が展開した後だった。既に足を取られ、びくともしない。
(やっぱり罠だったか)
 だがまだ落ち着きを失わず、祐一はそのオレンジ色の影に向かって銃を撃つ。だが、それは全て呑み込まれてなくなる。
『くそっ!』
 初号機の機体もまた、そのオレンジの影の中に引き込まれていく。左腕でビルにしがみつこうとするが、そのビルもまた一緒に引き込まれていくので意味がない。
『名雪、あゆ! 救援頼む!』
『了解だよっ!』
 名雪がパレットガンを球体に向けて乱射する。だが、その直後、球体が消失した。
『跳べっ! 名雪っ!』
 祐一の言葉に身体が反応して、ビルの上に飛び上がる。直後、その辺り一帯のビル群が、展開されたオレンジの影の中に呑み込まれていく。
(これはダメだな)
 完全な作戦ミスだ。無事生還できたら秋子に文句を言わなければなるまい。
『二人とも、引けッ!』
『でも、祐一くん』
『いいから引けっ! これ以上俺に手を焼かせるなっ! 打開策なら美汐や秋子さんが見つけてくれるっ!』
 既に半分以上影の中に取り込まれた祐一が必死に声を振り絞る。
『秋子さんっ!』
「はい」
『生命維持モードに切り替えて待機しています──必ず助けてください』
「分かりました」
 秋子は決心したように言う。
「第一二使徒ジャムエルの攻略法、必ず見つけてみせます」
 祐一の精神にヒビが入った。
『ジャム……エル……?』
「はい。使徒の名前です」
 そして、弾けた。
『いやだっ、謎ジャムだけはいやだーっ!』
 ぷつっ、と音声が途絶えた。
「祐一さんっ!」
 佐祐理の叫び。だが、それはもう祐一には届かない。
 完全に初号機の機体が、オレンジの影に飲み込まれていた。
「名雪、あゆちゃん。後退してください」
『でも、まだ祐一くんが』
「命令です。下がりなさい」





「辛いでしょうね、秋子さん」
 佐祐理が、自分のことは棚に上げて言う。美汐も顔色が変化していたが、それでも気丈に答える。
「自分のミスから始まったことですからね」
「アンビリカルケーブルを引き上げてみると、その先は何もなかったそうです」
 美汐は目を細めた。
「祐一さんは生命維持モードに切り替えると言っていました。内臓電源だけでも、一六時間はもちます」
「その間に対策を考えないと」
「はい。非常に危険だというわけですね」



「では、あの影の部分が使徒の本体というわけですか?」
 秋子が尋ねる。説明を始めたのは美汐であった。
「そうです。直径六四〇メートル、厚さ約三ナノメートルの。その超極薄の空間を内向きのA.T.フィールドで支えています。内部はディラックの海と呼ばれる虚数空間につながっているものと思われます」
「では、あの球体は?」
「本体と虚数回路をつなぐもの、いわば、あの球体こそが使徒の影ですね」
「初号機を取り込んだ黒い影」
 説明を聞いていた名雪ががくがくと震え出した。
「祐一、祐一……」
 その肩に、優しくあゆが手を置いた。
「名雪さん、祐一くんはきっと大丈夫だから」
「どうしてそんなことがあゆちゃんにわかるのっ!」
 叫んで、後悔する。あゆの驚いた顔が目に飛び込んできた。
「ごめん……」
「ううん、だから、信じよう? 祐一くんはきっと大丈夫だから」
「ダメだよ、もう私、信じることできないよ……いつもみたいに笑えないよ……」
「祐一くんはきっと帰ってくるよ。名雪さんのために」
 涙を流して、名雪はあゆに抱きついていた。
「祐一……祐一……」



「カノンの強制サルベージ?」
 秋子と美汐が、離れたところで会話を始めた。作戦の説明をしているのは秋子ではない、美汐だ。
「現在可能と思われる唯一の方法です。現存する九九二個全てのN2爆雷を中心部に投下、同時にA.T.フィールドで千分の一秒だけ干渉し、爆発エネルギーを利用してディラックの海ごと使徒を破壊、殲滅します」
「でも、初号機は? 爆発エネルギーで内部の初号機ごと失われるのではありませんか? それでは救出作戦とはいえません」
「作戦は初号機の機体回収を最優先とします。機体は大破しても、回収することができればかまいません」
「祐一さんは──」
「この際、パイロットの生死は問いません」
 その瞬間、信じられないことが起こった。

 パシィッ!

 秋子が、美汐の頬を叩いたのだ。
 だが、美汐も黙っていなかった。その秋子の胸ぐらを掴んで引き寄せたのだ。
「私が祐一さんのことを心配してないとでも思っているんですか! 祐一さんは慎重論を提示していたのに、あなたが足止めを指示したんでしょう!」
 秋子の表情が固まる。
「もし、もし祐一さんが戻らなかったら、私は……!」
 かすれて、ほとんど聞こえないような魂の叫び。
 だが、すぐに美汐は気を取り直して、秋子に指示を出した。
「この作戦についての全ての指示、及び責任は私が取ります」
 秋子は美汐を睨みつける。
「そこまで初号機にこだわる理由はなんですか」
「存じません」
「嘘ですね。いったい、初号機は何なのですか」
「渡した資料が全てです」
 二人の間に、明確な溝があった。
 つい昨日まで和やかに離していた二人とは、とうてい思えなかった。
「国連軍との折衝は一任します。あなたも作戦部長なら、自分のミスは自分で取り返してください」
 美汐が立ち去った。秋子は肩を震わせていた。
(セカンドインパクト、初号機、アダム……私の知らない秘密……)
 握る手に、力がこもった。





そして、少年は世界を呪った。










NEON GENESIS KANONGELION

EPISODE:16   NIGHTMARE










「美凪?」
(……お久しぶりです……)
「やっぱり、美凪か」
(……いいえ……私は、美凪ではありません……)
「美凪、だろ?」
(……違います……残念賞です)
「美凪以外の何者でもないじゃないか」
(私は……美凪ではありませんから)
「お前の言っていることが分からない」
(……あなたは、祐一さんですか?)
「当たり前だろ」
(そう……それはいいことです)
「あのなあ……変わらないな、お前」
(……変わりました)
「変わっちゃったか」
(はい……変わっちゃいました)
「どう変わった? 少しは、綺麗になったか?」
(きれい……? いいえ、そうではありません)
「なんだ、違うのか」
(……残念ですか?)
「残念だな」
(……がっくし……)
「冗談だよ。お前がどうなっても、俺はお前のこと、好きだぜ」
(……そうですか……)
「もっと喜べ」
(はい……やったー、やったー)
「感情がこもってない」
(……申し訳ありません……)
「はは……何だか久しぶりだな、この会話のテンポ」
(……そんなはずはありません)
「あのな、美凪。お前みたいな話し方する奴がそんなに多いとでも思ってるのか?」
(はい……思っちゃってます)
「そうか、思っちゃってるか」
(思っちゃってます……えへん)
「ない胸をはるな」
(……くすん……)
「泣き真似もするな」
(……残念です……)
「はあ……ホント変わらないな。こうして話せて、よかったよ」
(……私もです……)
「なあ、一つ聞いてもいいか?」
(……スリーサイズは秘密です……)
「貧乳に聞いても仕方ないだろ」
(……がっくし……)
「そんなことより、聞いてもよかったか?」
(はい……お米券なら八九枚です)
「だからーっ!」
(はい……?)
「いや、いい……」
(そうですか……それで、聞きたいことというのは……)
「ああ。あの時のことだ」
(……ぽっ……)
「何故赤らむ?」
(違うんですか?)
「全然違う」
(……残念……)
「何が残念なんだ。そうじゃなくて──」
(……私が死んだときのこと、ですか……)
「正解。どうしてお前、あの時逃げなかったんだ?」
(足……すくんでたから)
「……そうか。やっぱり俺の判断ミスか、あれは」
(いいえ……祐一さんはするべきことを全部してくれましたから……)
「そう言ってくれると少しは救われるな。でも俺は、お前さえ生きてくれていたらよかったんだ……お前さえ傍にいてくれたらよかったんだ……他には何もいらなかったんだ……お前の傍で、優しくチェロを弾きながら暮らすことができればそれでよかった……」





 暗い家。
 二人だけの聖夜。
 キャンドルと、ツリー。事件後の都市でそれを手に入れることは難しかったが、美凪の母親が実家から取り寄せた。
 美凪のために。そして祐一のために。
 二人だけの聖夜。
 祐一の父親も、美凪の母親も、この日だけはいない。
 再興を始めた街も、光に包まれている。
 二人の間には、たった三本のキャンドルだけ。
 小さな子供。まだ一〇に満たない二人の子供。
 だが、少年は少女を愛していたし、少女も少年を愛していた。
 この世界で、お互い以上に大切なものなど存在していなかった。
「……」
「……」
 お互いの名前を呼び合う行為は、二人の間で何度交わされただろうか。
 もちろん、まだ思春期にも満たない二人だ。好きだからといって何をするわけでもない、ただ傍にいられればいい。
 物心ついた時から続けているチェロを手に取る。
 そして、少女のために優しく奏でる。
 それが少年にとって一番の幸せだった。
 J.S.バッハ。無伴奏チェロ組曲第一番ト長調、前奏曲。
 彼女が一番好きな曲だ──もっとも、チェロだけで聞かせられる曲はそう多くないが。
 聖夜に流れる、静かで落ち着きのある曲。
 その最後の音が流れた時。

 幸せは、消失した。





「うぐぅ……祐一くん?」
 あゆか?
 何故、お前がここにいるんだ?
「うぐぅ……ここは、祐一くんの心の中だから」
 なるほど。つまり、誰がいてもおかしくないのか。
「うぐぅ……うん……」
 お前は? お前は俺が思っている綾波あゆなのか? 現実にいる綾波あゆではないのか?
「うぐぅ……違うけど、同じだよ。現実のボク、ボクの中にいるボク、祐一くんの中にいるボク。みんな違うけど、どれも本当のボク。祐一くんの傍にいることが大好きで、でも祐一くんの傍にいてはいけないボク」
 どういう意味だ?
「うぐぅ……たいしたことじゃないよ。祐一くんは名雪さんのことが好きで、ボクのことは何とも思ってない。ボクが祐一くんの傍にいると、名雪さんが悲しむから」
 あのなあ。どいつもこいつも、人の感情を勝手に解釈しやがって。俺が好きなのは美凪、たった一人だけだ。
「うぐぅ……でもその人はいないよ」
 いるさ、心の中にはな。そして、俺にはそれで十分だ。
「うぐぅ……そういう意味じゃないんだよ」
 どういう意味だってかまわないさ。俺が好きなのは美凪。それだけはっきりしていれば十分なんだ。
「うぐぅ……その気持ちを抱えてこれから生きていくの?」
 ああ。忘れることなんてできはしないからな。
「うぐぅ……人の記憶に正しいものなんかないんだよ。事実を認識した時、その事実はもう祐一くんの頭の中で作り変えられているんだよ。祐一くんは失った子供の本当の姿を覚えていないんだよ」
 覚えているさ。こうして、今も、あいつの姿が目に浮かぶ。
「うぐぅ……あいつって、誰?」
 美凪さ。俺にとって一番大切な人だ。
「うぐぅ……だから、違うんだよ〜。それは美凪じゃない。美凪はいないんだよ」
 それは美凪じゃない?





 雨。
 雨が降っている。
 この時期、この地方では珍しい大雨だ。
 空いっぱいに広がる漆黒の雲。
 立ち並ぶ無数の柱。
「……そうだ。俺はここで、自分の無力さを嘆いた。そして、自分の大切なものを守れる力がほしいと願った……」
 目の前にいるのは、七年前の自分。
 柱にすがりつき、声を押し殺して、雨で涙を覆い隠し、じっとその苦しみに耐えている。
「間違いのない、俺だけの記憶」





「祐一。それは違う……」
 舞?
 何でお前がここに?
「そんなことはどうでもいい……」
 お前らしいな。
「祐一。お前は自分の背中を見たことがあるか?」
 ないな。
「祐一。お前はこの墓場を上空から見たことがあるか?」
 ないな。
「人間の記憶というのは、そうして自分を客観的に置き換えることで整理されていく。自分が見たもの、自分が感じたものを、言葉と映像とで処理していく。それが記憶だ」
 でも、美凪を失ったことは真実だ。
 自分が苦しんだことも真実だ。
 そしてその証拠に。
 ここに、あいつの墓がある。





「どうして第三新東京市にあるのですか?」
 佐祐理さん?
 あなたも、俺の中の佐祐理さんですか?
「あははー、そうなりますね。祐一さん、北の地で亡くなった美凪さんのお墓が、どうして第三に建てられたのだと思いますか?」
 分からない……ずっと疑問だった。
「ずっと? いつからですか?」
 もう覚えていないよ。ずっと前からだ。
「違います。今日からですよ」
 ……そうかもしれない。
「人間の記憶っていうのはいい加減で、ほんの少し前のことを随分昔のことのように思えたり、ずっと昔のことをつい最近のことのように思えたりするものなんですよー」
 だから、何だっていうんですか?
「そのことを疑問にすら思わなかった……不思議だとは思いませんか?」
 思うさ。
 でも俺は、ずっと……。
「ずっと?」
 この街で、美凪の墓の前で泣いたことを覚えていた。
 それは七年前から、間違いなくその時からずっとだ。





「本当に七年前なの?」
 真琴?
「それが七年前だって、どうして分かるの?」
 それ以前のことと、それ以後のことを覚えている。
「そうかな。七年が十年でも、七年が一年でも、代わりはないと思わない?」
 ……何が言いたい?
「あの事件がいつ起こったかなんて、祐一は覚えてないのよ」
 ……覚えているさ。
「今までずっと七年前だって思い込んでただけじゃないの?」
 違う。あのクリスマスの夜、俺は確かに──
「どうしてクリスマスの夜だなんて分かるのよ」
 ツリーが飾ってあった。それに、キャンドルだって──
「それが本当にクリスマスの当日だったの? 日にちがずれていたりとかしないの?」
 ……クリスマスに決まっているじゃないか!
「どうして怒るの? 自信がないからじゃないの?」
 そんな一日や一年の違いに何の意味があるんだよっ!
「つまり、それだけ記憶っていうのは不確かなものだっていうことよ」
 でも俺は間違いなく美凪を愛していたんだ!





「その美凪が生きていたという事実はどうして分かるというのか?」
「お前の記憶か?」
「記憶とはそれほど確かなものなのか?」
「美凪は本当にお前のすぐ傍にいたのか?」
「それすらも、お前の都合のいい夢ではないのか?」





 なんでそんなことで俺を苦しめるんだよっ!





「お前が、記憶に自信が持てなくなっているからだ」





『私のことも忘れるくらい、あゆちゃんのことでいっぱいだったの!?』





 名雪?
 俺は名雪と会っていたのか?
 いつ?
 七年前に?
 七年前に何があったんだ?
 俺は……どこで名雪とあったんだ?





 窓ガラスの割れる音。
 そこから飛びかかってくる男たち。
 身動きを封じられた自分。
 裸に剥かれ、男に陵辱された少女。





「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」





「祐一?」
 名雪……。
「祐一……泣いてるの?」
 ……思い出したくなかったんだ。
 ……美凪のこと、あいつが苦しんでいたこと……。
 忘れていたかった……。
「でも、祐一はその日のこと、全部思い出せてない」





 彷徨い続けた街。
 犯罪と暴力と麻薬が横行するこの街で、自分はただひたすら彷徨い続けた。
 失われた少女を、取り戻すために。
 もう、何日食事をとっていないだろう。
 もう、何日泣きつづけただろう。
 ……彼女と初めて会ったのは、少年が力尽きて倒れた時のことだった。
「大丈夫?」
(……もうだめかもしれない)
「……うーん、うちまで運べるかな……」
(……かまわないでくれ……放っておいてくれ……)
「んしょ、んしょ」
 自分と同じくらいの大きさの少年を背中に負う少女。そして、ふらつく足どりで家に戻っていった。そう、あれが出会い。もう一つの大切な出会い。
 最愛のものを失った直後のことだ。
「ねえ、名前は?」
「ねえ、いくつ?」
「ねえ、どうして倒れてたの?」
「ねえ?」
「ねえ?」
「ねえ?」





 うるさい! 俺に話しかけるな! 俺を……俺を一人にしておいてくれ!





『……今度会った時は、一緒に……』





 一緒に?
 そうだ、約束をした……。
 俺は、あの少女と約束をしたんだ。
 一緒に……。
 一緒に……。





「思い出せる?」
 ……難しいな。それだけがどうしても思い出せない。
 どうして、なんだろうな。
「思い出すと、辛くなるからだよ」
 そんなに辛い約束だったのか?
「違うよ。その約束を思い出すことで、七年前の記憶が蘇ってしまうから」
 ……どういう意味だ?
「記憶はリンクしてるの。一つの記憶が、別の記憶を目覚めさせる。だから、どうしても思い出したくない記憶につながる記憶は、思い出すことができないの。無意識のうちに思い出せないようにしてるの」
 名雪……思い出すことができない俺は、嫌いか?
「そんなことないよ。祐一は祐一だもん」
 ……思い出すことができなくても、お前の傍にいていいのか?
「もちろんだよ」
 ……そうか。それなら、いい。
「思い出したい?」
 思い出したくないと無意識が思っているんだったら、思い出さない方がいいんだろうな。
「じゃあ、やめとく?」
 いや。
 俺はこのもやもやした感じがすごく嫌いなんだ。
 はっきりさせられることは、はっきりさせてしまいたい。
 それが自分の記憶だというのならなおさらだ。
 自分の記憶を信じることができないなら、それこそ美凪の記憶も信じることができなくなってしまう。
 俺は、あいつのことだけはしっかりと覚えていてやりたいんだ。
 失われた、あいつのために。
「……辛いよ?」
「ああ、分かっている」





「記憶が目覚めるにはタイムラグがあるの」
「すぐに思い出すことはできないの」
「だから、またいつか……」
「ここで、会おうね」





『……母さん……?』










「カノン二機、作戦位置」
「A.T.フィールド発生準備、よし」
「作戦開始まで、あと、六〇」
 オレンジ色の影のぎりぎり手前にかがみこむカノン二機。
 そして、空中には無数のUN空軍の爆撃機。
(祐一、祐一、祐一、祐一、祐一、祐一、祐一……)
(無事でいて、祐一くん……)
 その、時であった。

 ゴッガッガガガガガガガガガガガッ!

 オレンジ色の地面が裂けていく。亀裂などという生易しいものではない。内側から破壊されているのだ。
「な、何、これっ!?」
 とりあえず身の安全をはかるため後退するカノン両機。
「何が起こったの?」
「分かりません! 全てのメーターは振り切られています」
「まだ何もしていないのに?」
 秋子は球体に目を向けた。
「まさか、祐一さんが」
「ありえません。初号機の電源は、もうゼロなんですよ!?」
 だが、それ以外に要因はないというのは美汐も同じ考えであった。ただ、理論上はあるはずがないのだ。
 球体に、変化が生まれた。
 白と黒のストライプ模様だったのが、徐々に色が失われて黒一色に変化する。
 そして、表面に小波が起こった。
 ぼこり、と表面の一部が突き出る。そして、破れた。
 破れた場所から、おびただしい量の赤い水──血と、そして血に濡れた黒い腕が生えてきた。
「初号機!?」
 間違いない。
 それは、カノン初号機……鋼鉄の救世主。
 破れたところをさらに押し開き、球体を完全に引き裂く。

『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!』

 初号機が、叫んだ。
 大量の血が、大地へと還っていく。血に濡れた初号機が、大地に降り立つ。
 その光景は、まさに悪夢を見ているかのようであった。
「し、使徒……完全に沈黙……A.T.フィールド、消失しています……」
 佐祐理が震える声で伝える。だが、それを聞くものは誰もいない。
「……何て……これが、これが本当のカノン……?」
 美汐がうわごとのように言う。

『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!』

 初号機の叫びは止まらない。
 球体から吹き出る血が、初号機にシャワーのように降りかかっていた。





「祐一! 祐一!」
「祐一くん……祐一くん!」
「祐一さん、目を開けてください、祐一さん!」
「祐一さん!」
「祐一!」
「祐一!」
「祐一さん!」





「……ここは……?」
 目を覚ますと、そこは病室。見慣れた──おかしなことだが──天井が映った。
 同時に、二人の少女の泣き顔も。
「祐一っ!」
「祐一くんっ!」
 右と左から、同時に抱きつかれる。
「おいおい。泣くほどのことか」
「だって、だって」
「祐一がもう帰ってこないんじゃないかって、私も、みんなも凄く心配して」
「ああ、心配かけて悪かったな。もう大丈夫だ」
 祐一は二人の頭を撫でた。そして、身体を起こす。
「わっ、まだ駄目だよ祐一」
「心配ない。どれだけ寝たのかは分からないけど、随分と身体が軽いんだ」
「無理しないで」
「分かってるって。それに、ここのベッドは嫌なんだ。硬くてな。とりあえず帰る」
「祐一……」
「ああ、そうだ」
 祐一は着替えを手にとって、二人を見つめた。
「帰りに、イチゴサンデーでも食べて帰ろう」









次回予告



 アメリカ、ネバダ州で建造中だったカノン四号機が、起動実験中にネルフ第二支部ごと消滅する。
 予期せぬ事件に対し、沈黙を守る住人司令。自らシナリオを修正するゼーレの長、佳乃。
 そして、フォースチルドレンが選出された。
 とらえどころのない、不安と苛立ちを人々に与えながら。

「……香里、北川に弁当作るんですか?」

 次回、四人目の適格者。
 さて、この次もサービスサービス。



第拾七話

もどる